最低の男
主人公:山畑つくし
私は大津君がいなくなった後、誰もいない会室でまたタバコを一本吸った。タバコを吸っている間は全てを忘れることができる。
大津君と話しているときからずっと携帯が鳴っていた。誰からかかってきたかがわかるから出たくもなかった。電話の相手は一ヶ月前に別れた恋人。誰だって出るのをためらう相手だ。しかも、彼の言う言葉はいつも決まっていた。
「俺達、もう一度やり直さないか。もう二度と浮気なんかしないから…頼むよ。もう、つくしにつらい思いはさせないよ」
何でそんな都合のいいことが言えるのかわからない。昔から直樹はそうだった。大学に入ってから付き合いだしたから、もう付き合いだしてから二年を過ぎた。昔はとても楽しかった。
いつからだろうか、彼は私の知らない女性と浮気をするようになった。最初は嘘だと思った。でも、女性とホテルに入っていくところを見てしまったら、それを認めるしかなかった。私は訳がわからなくなり、泣きながら、直樹に問いただした。すると、彼の隣にいた女は突然、彼にビンタしてこう言った。
「私だけだって言っていたのに、二股をかけていたのね。しかも、こんな女なんて…最低ね」
それは私のセリフよと言おうと思ったら、彼女は突然走り出して、どっかへ行ってしまった。すると、彼は私に対してヌケヌケとこんな発言をして、私をさらに怒らせた。
「俺にはつくししかいないんだよ」
気付いたら、グーで直樹の顔を殴りつけていた。突然の出来事に彼は身構えることができずに倒れこんでいた。ふん、いい気味だ。
「私以外の女を平気で抱いてしまうような奴のいうことなんか信じられん。このバカが、もう二度と私の前に顔を見せるな!」
それから直樹とは一度も会っていない。その後、浮気相手とは一年も前から付き合っていたことがわかった。最低だ。人間のクズだ。もう、二度と会いたくない。でも、電話が毎日かかってくる。声も聞きたくないのに…。携帯番号を変えないといけないな。でも、いきなり家に来られるのはもっと嫌だったから、たまには電話に出てみた。すると、彼の口から出てくるのは自己弁護の言葉ばかりで、私は電話に出たことを心の底から後悔した。
そして、今、また彼から電話がかかってきた。もう、これで本日一五回目。このままではいけないと思い、電話に出る。
「もう、いい加減にしてくれない? 電話をかけてくるなと言ったでしょう。直樹のやっていることはストーカーと同じよ。これ以上、電話をかけてくるなら、冗談抜きで警察に連絡しますからね」
「つくしはどうして、そんなにひねくれているんだ。本当は俺とよりを戻したいんだろう」
私は背筋がぞくっとするのを感じた。こんなことで負けてはダメだ。もっと強気に出なくては……相手は一年間も二股をかけていた奴だ。
「だって、私、新しく付き合いだした人がいるから、あんたから電話がかかってくると迷惑なのよ」
私ははったりをかまして、電話を切った。さらにとてもむかついてきたので、携帯の電源も切った。これでいいのだ。気分を落ち着けるために、またタバコに火をつけた。それでも気分が落ち着かないので、私は会室の戸締りをきちんとしてから家に帰った。
土曜日になった。この日は方言研究会の新歓コンパが毎年恒例のお店「赤奈来」であった。この店は大学前の駅から三つ先にある横浜駅前であるため、千葉や埼玉から通っている人も終電ギリギリまで飲める隠れた名店であった。安い割には味もよく、新関東大学の学生であれば、この店を知らないものはいないと言われるほどであった。
コンパには顧問の唐津先生もいらっしゃっていた。唐津先生は方言学の新進気鋭とされており、方言研究会の設立にも大きく関わった人物である。最近は大学法人化のあおりを受けて忙しいらしく、なかなか顔を見せてくれない。それでも新歓コンパ、夏合宿、追い出しコンパには必ず来てくれた。
このとき、先生は新入生一人一人に対して出身地を聞いて回る。そして、九州・東北出身者がいるとすごく喜ぶ。彼女の専門分野は言語地理学であり、熱心な周圏論者である。周圏論と言うのは、かつて日本の中心が京都であったとき、京都で生まれた言葉は長い年月をかけて、日本の端へと広がっていく。その頃には京都でまた新たな言葉が生まれ、またそれが日本中に広がっていく……を繰り返していくという学説である。だから、九州・東北出身者は彼女にとって貴重なサンプルとなるのである。
逆に東京周辺や大阪周辺の人間に対しては顔には出さないが、かなりそっけない。彼女に言わせると、彼らは地域固有の言葉を持っていないかわいそうな人達になるらしい。また、方言と共通語を使い分ける概念のない彼らはたいてい新しい方言を覚えるのが遅い。先生にはそれもとても歯がゆいらしい。
ちなみに唐津先生は広島出身で広島弁とカープの話だけで一晩語り続けたこともあったと代々語り継がれていた。今日も新入生に対して、広島弁とカープの話をしながら、新入生の話に耳に傾けていた。
「つくし、唐津先生が新入生と絡んでいる姿を見ると二年前を思い出すよね。懐かしいね…」
竹山亜紀が話をかけてきた。亜紀は私と同じ三年生で学部・学科も同じ農学部森林学科なので学科でも研究会でも割と一緒に行動することが多い。その上、性格も似ていたので、私達はすごく仲がいい。
「そうだね。亜紀が先生から『二五〇円と言ってごらん』と言われて、普通に二五〇円と言ったから先生びっくりしていたよね」
「そうそう、今時『にひゃくごじゅうえん』のことを『にひゃくごんずえん』なんていう人はじいちゃん・ばあちゃんぐらいよ。それなのにあの先生ときたら…」
「まあ、それが唐津先生らしくていいじゃない。私には『あとぜき』ってドアに張り紙をしてあるのは熊本以外では会室だけじゃけん、他のドアに『あとぜき』の張り紙がなくてもびっくりしちゃいけんよって言うのよ。笑いをこらえるのに必死だった…」
私達はこんな話をずっとしながらも先生が今何をやっているのか、絶えず注目していた。今、先生は大津君と駒場さんの所にいた。二人の出身地はそれぞれ埼玉と大阪だから、先生はすぐに他の所に行くと思われた。ところが先生はなかなか動けなかった。私はトイレに行く際、わざと三人の目の前を通って様子を見た。
すると、駒場さんがどうして大阪弁を第二共通語として扱うのかわからないし、何より無機質な東京の言葉と一緒にされるのが嫌だと言っていた。それで先生は下手に動くことができずにいた。
しかし、まだ鹿児島出身の山咲君と高地出身の前橋さんのところに行ってなかったので、先生は駒場さんが落ち着いたすきに次の所に行ってしまった。その後、コンパが終わるまで先生は山咲君と前橋さんの前にいた。私は大津君の前が開いていたので、そこに亜紀と一緒に移動した。そして、二人で高校時代に何をやっていたのか、どうして方言研究会に入ったのかなどのたわいのない話をしていた。そうして、一次会は終わった。
先生は一次会で帰ってしまったので、二次会は学生だけでカラオケに行くことになった。四年生が五人、三年生が三人、二年生が五人、一年生が六人の計一九人の全員がそのまま赤奈来からサウンドマイクに入っていった。カラオケではロック系の激しい歌をみんなで歌うので、他の人も踊りながら盛り上がっていた。のどが渇いたら水代わりに日本酒や焼酎の水割りを飲んでいた。
一一時半を過ぎるとそろそろ終電の時間だ。ここで半数以上が帰らないといけないので二次会でお開きになった。電車組はそれぞれ、京急や東急、地下鉄、JRに乗り込んでいった。また、電車に乗らない人も自転車やバスで帰っていった。残されたのは私と亜紀と埼京線が来るまでまだ一五分ほど時間があった大津君だけになった。
「おっ、つくしじゃないか。こんな所で会うなんて思わなかったよ」
私は声を聞いて、体がこわばった。振り向くと、そこに直樹がいた。こんなときに一番会いたくない奴と会うなんて…。せっかくの酔いが一気に冷めてしまった。奴はそんなことはお構いなく、とんでもないことを聞いてきた。
「そいつがお前の新しい男なのか? 嘘だろう…こんなチビでださい格好をしたガキよりも俺の方が絶対いいって」
私は大津君が心配だった。直樹に飛びかかったりしないか…。しかし、彼は何がなんだかよくわからないようだった。亜紀にそっと目配せして、大津君に事情を説明してもらうことにした。亜紀とは何でも相談しあえる間柄だった。
「痛っ、何すんだよ」
怒りのあまり、直樹に往復ビンタをかました。本当はパンチで殴りたかったのだが、場所が場所だけにそれは控えた。
「私に対して何か言うのはかまわないけど、彼は何も関係なかでしょう。それにもう近づかないで言ったでしょ。それでもつきまとうならストーカーの現行犯として突き出すけんね」
私は駅構内にある交番を指差した。彼もこれにはびっくりしたのか、何も言わずに私達の前から姿を消した。すると、私のところに亜紀が駆け寄ってきて優しく声をかけてくれた。私は彼女の優しさに何度救われたことだろうか…。
「つくし、このあとどっかで呑み直さない?」
「うん、そうだね。そうしよう。あれっ、大津君…まさか、終電に乗り遅れたの?」
私達は電車に乗ったはずの大津君が戻ってきたのを見て、かなりびっくりした。彼の話によれば、私を心配するあまりにうっかり終電を乗り過ごしてしまったとのことだった。私は自分を責めた。もし、ここで直樹に出会わなければ、二人に不愉快な思いをさせることもなかったのに…。二人に迷惑をかけることもなかったのに…。
この後、亜紀と大津君と私の三人は駅前のジョイフルで始発まで時間をつぶすことにした。最初、大津君がコンビニで一人時間をつぶしておくから心配しなくていいと言った。しかし、こんなことになったのは私のせいである。なので、大津君をなんとか説得して、三人でジョイフルに行くことにしたのである。
ジョイフルに着いてからしばらくは三人で話をしていたが、大津君は疲れていたのか、すぐに寝てしまった。その後、亜紀と二人で亜紀の新しい恋人の話をずっとしていた。