あなたに、逢いたい...
三ヶ月に一度ある席替えで、見事『気になる人』の隣を引き当てたのは最後から二つ目の席替えのこと。と言っても、引き当てるほど大掛かりなクジでは無くて、ただのあみだくじなのだけれど、それでも私にとってみれば夏休みとクリスマスが同時に来るより嬉しい。
私はズルズルと机を引きずって窓際の、後ろから二列目に座った。後から机を押してきた彼を見上げると、彼は
「先生、戸田君目悪いらしいんで、席かわります」
と言って机を後ろに持って行ってしまった。
そして隣には、これまた物静かそうな戸田君。
「せめて一言くらい話したかったなぁ…」
そう小さく言葉を漏らした時、後ろから肩をトントンと叩かれた。振り返ると、そこにはその彼がいて、私は嬉しくて嬉しくて今まで以上に緊張してしまった。
「前後の方が話しやすくない?」
その時、急に窓からバッと風が入って来て彼の香水のいい香りがした。私は余計に硬直してしまってウンウンと首を縦に振る事で精一杯だった。
彼はクラスでも人気のある方で、時々違うクラスの子からも告白されていると聞いたことがある。でも、二年になってからはパタリと付き合ったとか別れたなどの噂はなくなって、今は私の大好きなバスケットボールを部活ではなく、どこらかのサークルでやっているらしい。
身長は155センチの私よりも遥か高くて178センチある。髪は黒で、パーマをかけたような寝グセが可愛いらしい、良い香りの香水をつけている人。
「篤郎でいいよ、三好さん」
椎名篤郎、だから篤郎。私は二人の中が急に縮まった感じがして、ここは三好さんのままじゃいけないと思い、自己紹介をした。
「私、三好沙知だから、沙知って呼んで下さいッ」
緊張と嬉しさのあまり、何故か敬語になってしまった。恥ずかしくなって下を向いていると
「知ってるよ、沙知」
と頭をワサワサと撫でられ笑われた。
凄く凄く、もの凄く嬉しかった。もう少しで
「好きです」
と打ち明けてしまいそうになる程嬉しかった。
でもそれと同じくらい、新しい地に足を踏み入れたような不安もあった。
その日から私は、ノートもまともにとれない程の緊張と、先生の話が頭に入らないくらいのお喋りに時間を潰した。それもこれも篤郎が面白いせい。
話ていることは全く馬鹿な話で、嫌いな先生の愚痴や、お互いの似顔絵製作。昨日見たテレビ番組の話や、恥ずかしかった体験談とか。まるで、ずっと昔から仲良しだった友達みたいに気が合って、仲良くなって、休み時間さえもずっと喋っていた。
そのうちに一緒に遊んだりもするようになって、ますます仲良くなって来た頃、要約色んなクラスで、付き合っているんじゃないかという噂がたつようになった。私の方も、気付けば篤郎が『気になる人』から『好きな人』になっていて、噂は内心嬉しかったのだけれど、篤郎にしてみればこういう事は反対にうとましい事なのかもしれないと思った…。
きっと今の私は、誰より篤郎の傍にいる。誰よりもお互いを支えあっている。なのにソコに恋愛というモノは生まれなくて、きっとまれに見ない男女間の真の友情とやらモノを築き上げてしまったのかもしれない。距離が近くなったために、やり方を間違えたことにも気付かずに進み過ぎてしまったのだろう。
それでも私は篤郎の傍にいたい。篤郎が好きだよ。
だから、やっぱり少しの期待もしてしまう。この噂のまま、二人が流されて付き合っちゃえばいいのに、なんて……。
学校が冬休みに入って、噂は噂として薄れていった。
私と篤郎はというと相変わらず仲良くやっている。
この冬休みは、受験勉強に追われて篤郎とは遊べないけれど、メールは毎日欠かさずやっている。と、これだけ聞けば、いい感じの恋人のように聞こえるけど、受信されてくるメールといえば、やっぱり馬鹿な話ばかり。そりゃ送信するメールも馬鹿な話ばかりだけれど、これが何も飾っていない素の私で篤郎だと思うから、それでいい。
だって、綺麗に飾りたてた人なんてきっと本心では付き合えないから…。
クリスマス・イヴも寂しく過ぎ去って、受験生生活の私には大きなストレスだけがたまっていた。そんな中、ふと篤郎の事を考えていたその時、連絡もなく誰に場所を聞いたのか、急に篤郎が家まで来た。
サンタクロースの恰好で。 「メリークリスマス!!」
「篤…郎…?!」
「結構この恰好恥ずかしかったんだぞ、ほらプレゼント…ってほどのもんじゃないけど…」
差し出されたものを受け取ると、それは雪だるまだった。決して可愛いといえる顔ではないけれど、篤郎の温かみが伝わった。 「ありがとう。雪降ってたんだね、知らなかった」
「…ホワイトクリスマスだ」
「ほんと、綺麗…」
久しぶりに篤郎の顔を目の前にして、初めて話した日のような緊張が背筋を走った。あぁ、このまま時間が止まればいいのに…
「沙知は南高受けるんだっけ?」
篤郎に比べれば私は本当にバカで、普通の女の子なら恥ずかしそうに『うん』と答えるのだろうけれど、私は
「ウン」
と声高らかに答えた。
そう、私達はそういう関係だ。
「そっか、そっか、じゃ俺もソコにしよ」
私はギョっとした。
「でも篤郎は南高よりずっとレベルの高い学校に行けるじゃん」
篤郎は無言でクルッと180度まわると歩き出した。
「篤郎……?」
「俺さ、今すっげぇ楽しいんだ。」
篤郎は顔だけをこちらに向けて言った。
「俺、また沙知と同じクラスになりたいから」
それだけ言うと手を振って、また歩いて行ってしまった。
「篤郎…」
その後ろ姿は、今すぐ走って行って抱きしめたくなるほど愛おしかった。
雪だるまは、使わなくなった冷蔵庫に電気をとおして冷凍庫に大切に保管した。
1月1日、年もかわり新年を迎えた私は、早朝から玄関先で篤郎の迎えを待っていた。冬休み前から約束していた『初詣』だ。
「あんた新年早々オシャレねぇ。着物は着てかないの?」
「あ、お母さん。おはよう、着物は着ていかないよ」
「そう。気をつけていってらっしゃい」
「はい、お母さん」
「あ、あの…」
ふと見ると篤郎が玄関に立っていた。
「あら、いらっしゃい」
「あ、明けましておめでとうございます」
篤郎は母を目の前にして、緊張しているのか声がうわづっていた。 「あけおめ篤郎。じゃお母さん行ってくるね」
「いってらっしゃい」
玄関を出ると篤郎は私の手を自分のポケットに入れてくれた。そこはとても温かくて、手袋をしている本人がどういう理由でポケットに手を入れていたのだろうと思ったけれど、それが私のためだと気付いた時には、そのさりげない優しさが凄く身に染みた。
神社に着けばクラスの子や知った子が沢山来ていてひやかされた。私は笑って交わした。篤郎も笑っていた。
私達は、賽銭箱に賽銭を入れると鐘を鳴らし、手を合わせて目をつむった。お互いに何を願ったのかは聞かなかった。ただ私は…ずっと篤郎の傍にいたい…と願った。
その後、私達はおみくじを引いて、篤郎は中吉で、私は大吉。
お守りも買って、篤郎は健康祈願。私は恋愛成就。
「沙知、好きな人いるの?」
「え?うん、まぁね…」
「…そっか」
篤郎は少し寂しそうな顔をした。
「篤郎?」
「あっカステラ!!」
篤郎は顔色をパッとかえて、私の手をとると、出店に走りだした。
「おっちゃん、カステラ大きいやつで」
「はいよ、千円になります。可愛い彼女連れてー」
「あはは、彼女じゃないっスよ」
分かってはいたけど、彼女ではないことは分かっていたけれど、少し悲しくなって、少し泣きそうになった。
「はい、コレ持って帰れよ」
「あ、ありがとう」
私は笑ったけれど、上手く笑えてるかな、どうしてもさっきの言葉が頭に残って上手く笑えない…苦しい…
「沙知、帰ろっか」
…えっ? 「でも……」
「カステラ冷めちゃうもんね」
「…うん。…そうだね」
そうして私は、本当にカステラが冷める前に家に着いた。
「早かったのね、夕方あたりになるのかと思ってたからお祖母ちゃんに沙知はデートだから今日は行きませんよって言っちゃった」
デートか……。
「いいよ、今日は家にいる」
「そう?なら夕方には戻るからね」
「うん。いってらっしゃい」
短い冬休みは、寒さだけを残して過ぎ去り、寒気が絶えぬ中、とうとう卒業式が訪れた。
いつもはジャージ姿の先生達も、ピシッとしたスーツに身を包んで、慣れないネクタイに苦しそうだった。
「中村咲」
「はい」
「成瀬美穂子」
「はい」
一人一人名前を呼ばれてゆく。
中にはもう泣いている先生もいて、生徒は、まだ校歌も唄わぬうちから泣きだしていた。
私はまだ泣くまいと思っていたが、皆につられてやはり泣いてしまった。小学校からの親友や、周りの友達の中には、進学する高校が違って離れてしまう子もいる。『離れても、また遊ぼうね』と約束はしているけど、中にはもう二度と会えなくなるかもしれない子だっていると思う。そう思えば涙が溢れてきて、式中にもかかわらず、皆わんわん泣いた。
卒業式も無事終わり、担任の先生から、卒業証書の入った筒を貰って皆各自の家へ帰る頃、まだ涙のおさまらない私の傍に篤郎がやってきた。
「泣くなって、同じ校区に住んでるんだからいつでも逢えるって」
そう言って篤郎は、私の頭を自分の肩に寄せてくれた。急に優しくされて、余計に涙が出てきた。 卒業するにあたって、友達は
「椎名君に告白すればいいのに」
と言ってくれたけれど、高校生になっても一緒だしという余裕が私にはあったから
「いいよ、まだ」
と断った。でもこの決断が、私にとって人生最大の後悔となる事をこの時の私はまだ知らなかった。
タンポポが鮮やかな黄色に色づいた頃、見事二人して南高に受かった私達は、残念ながらクラスまでは一緒とはいかなかった。
それでも登下校は一緒で、しばらくのうちは自転車に二人乗りして帰っていた。けれど、
「俺バスケ部に入るよ」
篤郎は、仲のいい先輩に誘われたか何かで部活動に入ってしまった。それからは、高校の席が近くて仲良くなった真那と家の方向が同じなので、一緒に帰るようになった。
真那は美人で、それなのに馬鹿なことを平気で言って人を笑わせる子だからクラスでも人気者だった。サラサラの長い髪が似合っていて、身長も私より高い。
まるで本当に私のお姉ちゃんみたいな存在で、真那も私を妹のように可愛いがってくれた。
一方、篤郎は二年の先輩達を抜いて試合の選手に抜擢されるなど、入部して間もないのにもかかわらず好成績をおさめ、部には無くてはならない存在となっていた。
それからは、ちょくちょく篤郎に試合を見に来いと誘われて、真那を連れて何度か見に行った。バスケをする篤郎はいつもに増してかっこよくて、つい見とれてしまう。そして、周りを見れば知らない学校の女子生徒までもが篤郎を応援している。私はそれが凄く不服で、『同じクラスになることが出来たら告白しよう』と決意した。
それからも普通に篤郎と喋って、普通に篤郎と遊んだりした。
廊下ですれ違い様にピースするのも習慣になって、中学の時からだから、もうすぐ二年になる。
篤郎は昔と変わらない同じ笑顔で私に笑いかける。
昔と変わらない同じ手で髪を撫でる。なのに、昔に比べて知らない篤郎が増えた気がする。やっぱり私、篤郎と同じクラスがいいよ。私の知らない篤郎がいるのが凄く不安。
二年生になって、クラス替えの紙が廊下に大きく張り出された。
「沙知何組?」
真那は真剣な顔で私を見た。
「私2組だよ、真那は?」
「一緒だぁ、よかった。離れたらどうしようかと思ったぁ」
私達はその場で抱きあってはしゃいだ。
「沙知2組かぁ、俺も2組!」
そう言って篤郎は顔の前に大きくピースを作った。
やったぁ、また前みたいに楽しくなれる。そして、ちゃんと告白する。私の決意はかたかった。
「やったじゃん、篤郎」
私と篤郎は手のひらを合わせてパチンッと叩いた。
その後の席替えで、私は篤郎と真那から少し遠い所になって、篤郎は窓側で真那の後ろの席になった。
夏休みを二週間前に控えた日の晩、私は5時間迷った末、一番シンプルかつ素直なラブレターを書き終えた。
『篤郎が、好きです』
明日の昼休みになったら中庭に呼び出して渡そう…
次の日、私は朝から緊張の連続で、絶え間無く波打つ心臓の高鳴りに、授業中の先生の声は全く耳に入らなかった。そして、4時限目終了のチャイムが鳴って、お昼の時間になった。
私の緊張はもう頂点に達していて、ラブレターを持つ手は汗ばんで力が入っていた。私はゆっくり踏み出した。
「……篤」
その時、真那が私を呼び止めた。
「沙知ってさぁ、椎名君と幼なじみ?」
真那はいつになく不安そうな顔だった。
私は篤郎の名前が出たことに動揺した。
「違うよ、中学の時に同じクラスだっただけ」
「そっかぁ、よかったぁ。あのねコレ沙知にしか言わないから誰にも言っちゃダメだよ」
私は嫌な予感がした。今両手で耳を塞げば聞かなくて済む。けれどもう遅かった。
「椎名君のこと好きなんだ。沙知、椎名君と仲いいじゃん、相談のってよ」
まるで少女漫画のストーリーのようだ。
私は、自分の後ろ手に持っていたラブレターをくしゃっと丸めた。
真那の話はそれからも続いた。
でも、私は真那がその後何を話したのか全く覚えていない。運がどうとか言うのは好きじゃないけど、この時ばかりは運の悪さを認めざるおえなかった。
それから一週間、私は真那と何を話したか知らない。でも、篤郎の話には変わりなくて、唯一覚えているのは『椎名君凄くいい香りするんだよ、風が吹いたときに後ろから凄く匂うの』
『待ってよ』って思った。それは私の場所だって言いたかった。
でも、篤郎は私のモノじゃないから私がとやかく言える立場じゃない。篤郎が真那と付き合っても私は何とも言えない。ただ去ることしか出来ない。
それから間もなくして真那の中での決心はついたみたいだった。私は心にもないきれいごとを並べて応援したのだろう。
真那は告白した。
私は情けなくて、一人裏庭で泣いた。
真那の告白の結果は聞いたか聞かなかったか覚えていない。ただ、真那が篤郎のことを『篤郎君』と呼ぶようになったから、きっと篤郎はOKを出して二人は付き合い出したんだろうなって思った。どうしても直接篤郎の口から聞くのが怖くて私は篤郎から離れた。
二人は、一学期の終業式の日まで前後の席で仲良く喋っていた。
「最近喋ってないな…」
独り言が出た。
こんなことなら同じクラスじゃない方がよかった。違うクラスなら、見たくないモノも見ないで済む。聞きたくないコトも聞かなくて済む。辛くなくて済む。
苦しくなくて済む。泣かなくて済む。
でもやっぱり私は、アナタが好きです。どうすればいいのかわからないけれど、どうしても篤郎が忘れられない。
それでも夏休みは容赦なく訪れた。また私の知らない篤郎が増えていく。想いはこのまま消えちゃうのかな……
そんな時近所のコンビニで、同じクラスで篤郎と同じバスケ部の潤に会った。 「…三好さん?」
「あっ、中原潤!!」
潤とは小学校から一緒で、今までお互い全然興味なかったのに、この日は変に意気投合して、半ば初対面の彼に恋の相談までのってもらった。次の日も、教えて貰ったアドレスにメールを送って相談して、その度に潤は真剣に長い返事を返してくれた。
『好きだって思う気持ちはどうしても変えられないからさ、好きなら好きのままでいいと思うよ。友達だからって自分の気持ち殺すのって絶対後悔するから自分の気持ちに素直でいたらいいよ』
夏休みも終わりにさしかかった頃、突然真那から電話がかかってきた。
「沙知、ごめんね。沙知ずっと篤郎君のこと好きだったんだよね」
「えっ?」
「見てたらわかるよ。私、篤郎君とは付き合ってないよ。沙知は何だか勘違いしてたみたいだけど、私フラれたもん。だからさ、沙知頑張って」
私は電話を切ってから急いで篤郎の家に向かった。雨がパラパラと降りだしていたけれど、そのまま走っていった。
言わなきゃいけない。ちゃんと伝えなきゃいけない。正直、少し諦めてた。でも私言うよ。今度は手紙なんかじゃなくて、ちゃんとこの口で言う。
篤郎の家の前に着いた時には、雨は大雨になっていた。その時、ずぶ濡れになった服のポケットに入っていたケータイにメールが来た。
『椎名がスリップした車にひかれた。桜谷中央病院に運ばれたから早く来て』
潤からだった。私は急に足がガクガクして力が入らなくなって歩けなくなっていた。
「早くって何?早く行かないと間に合わないってこと?」
私は腰が抜けてその場に座ってしまった。
オドオドして嫌な想像までして、ただただどうしようもなく、その後自力でタクシーを呼び、病院まで急いでもらった。
病院の玄関では潤が待っていて、篤郎がいる部屋まで案内してくれた。部屋に入ると篤郎が部屋の真ん中にあるベッドで顔に白い布をのせて寝ていた。
傍には部員の人が何人かいて、皆俯いていた。
「あ、篤郎、私心配したよ。どうしようかと思った。篤郎は本当に危なっかしいんだから。でもね篤郎、私篤郎が好きだよ。本当は席が前後になる前から好きだった。ねぇ篤郎、寝てないで何か言ってよ。ねぇ、篤郎ってば!」
「…やめろよ、そういうの。皆悲しいんだから!!」
潤が怒鳴った。
知ってるよ、わかってる。わかってるけど信じられない。信じたくない。
だって私まだ何も伝えてないもの。何も言えてないもの。
「死んでるんだよ、篤郎は。打ち所が悪かったんだよ…それでも最初はまだ少し息してたよ。必死に生きようとしてた。けど、病院に搬送される途中の救急車の中で……」
「嘘よ、篤郎は生きてる。今だって私を驚かそうとしてるんでしょ?笑って『騙されてやんの』とか言うんでしょ?」
「言わないよ…」
潤は首を横に振った。
病室は篤郎の香水の香りでいっぱいだった。
「だって篤郎の手はこんなにも温かいじゃない」
私は篤郎の手を取った。少し重かった。
「唇だって紫じゃないよ」
篤郎の顔は寝ているように綺麗だった。
「これからなるよ…」
潤は怒ったような強い口調を抑えた。
「…廊下に出よう、沙知」
潤は私を支えて部屋を出た。その時、すれ違いに篤郎の両親と思われる二人が部屋に入り、部屋からは二人の嘆く声が聞こえた。
私はヒステリックになっていた。潤は暴れる私の手を押さえて必死に私を静まらせようとした。
「…落ちつけよ、ここ病院だから声おさえて」
「離してっ!離してよ!!触らないでっ。もう嫌ぁー!!何も知らないくせに。離せよ!私死ぬのーッ!!!あ゛ぁぁ」
“パンッ!”
潤のビンタが私の頬にじんと響いた。
まるで、高い崖から突き落とされた気分だった。
「そんな…」
それ以上言葉に出来なくて、どう現していいのかわからない悲しみが込み上げてきて、長イスの横に倒れ込んだ。
「篤郎は生きてるよ」
そう言わなければ自分自身が消えちゃいそうで、私は狂ったように一週間程そう言い続けた。
“ねぇ篤郎、私はやっぱりどこかで道を間違えていたかな?引き返すにはもうすでに遅すぎたんだね”
篤郎が病院のベッドから消えてちょうど一ヶ月がすぎた。私は夏休みが終わってもまだ立ち直れず家にいた。
中学三年生の時に篤郎がくれた雪だるまは、篤郎が死んだ日冷凍庫の中で溶けて水になっていた。一年以上も保っていたのに、まるでそれが篤郎だったかのように溶けて跡形もなくなっていた。
「ねぇ篤郎、雪はまた来年も降るんだよ。その時篤郎はどこにいるの?
ねぇ篤郎、雪は溶けても、水になっても、また雪になるんだよ。篤郎の雪だるま溶けちゃったよ。私には篤郎の雪だるまは作れない。篤郎がいなきゃ意味無いよ。篤郎、ねぇ戻ってきて…」
私は冷凍庫の前で溶けた雪だるまを何度も手ですくった。一滴一滴が篤郎に見えて仕方がなかったから。
10月1日。この日は篤郎と初めて喋った日。そう、あの中学の席替えの日。
そして今日は、それから2年後の10月1日。
私は、あれから徐々に落ち着きを取り戻し、篤郎の家へ行くことにした。お通夜もお葬式も行けなかったから、篤郎に逢いたくて。
篤郎の家の前まできて少し息が苦しくなった。二ヶ月前、私はこの場所で信じられない報告を聞いた。
私は目を閉じて『もう大丈夫、もう大丈夫』と何度も心の中で思った。
それでも、今インターフォンを鳴らせば、玄関から元気いっぱいの篤郎が笑顔で出てきそうな、そんな気になった。
でも、出てきたのは当たり前のごとく篤郎のお母さんだ。
「はじめまして、三好沙知です。急にすみません」
篤郎のお母さんは名前を聞いただけで入れてくれた。
「あなたが三好沙知さんなのね、篤郎からよく聞いてました」
そういうと仏間に通してくれた。私は仏壇の前で手を合わせた。けれど、何も心に言葉は浮かばなくて、ただひたすら目をつむって涙をこらえた。
今私が泣いたら、お母さんまで涙ぶりかえしちゃうから、泣いたらいけない。
「沙知ちゃん、まだ篤郎の部屋そのままにしてあるの。よかったらどうぞ」
お母さんは案内してくれた。階段をあがって右にある、陽の光が差し込む綺麗な部屋。
使って途中になったままのモノや、閉め忘れたペンの蓋が、まだ篤郎がいるのではないかと思わせる。
篤郎はいない。
私の想いも届かなかった。伝えたかったのに、伝えられなかった。
今更後悔しても遅いよね。篤郎はまた一人知らない所へ行ってしまった。
ねぇ逢いたいよ、篤郎。
その時、フワッと一枚の白い封筒が上の棚から落ちてきた。まるで、読んでほしいかのように。
私は封筒を拾いあげて、封の開いている所から一枚の便箋を取り出した。
それには、私宛の手紙が書かれていた。
「三好沙知さんへ
本当は俺、中学二年の時から沙知を知ってたよ。
一目惚れだったんだ。それからずっと沙知の事が好きでした
。沙知がバスケしてる子がタイプっていうの聞いたから急いでサークルに入ったくらい。俺って単純だろ?(笑)でも俺本気だよ?沙知には他に好きな人がいるみたいだけど、やっぱりこれだけは言いたいからさ。俺は、沙知が大好きです。
椎名篤郎より」
私の心は焼けそうなほど熱くなった。そして、今まで我慢していた涙が堪えきれなくなって溢れ出した。それは両手では抑えきれない程沢山で抑えきれない程苦しくて、私はお母さんに一礼だけして家を飛び出した。
近くの公園まで走って、走って、走って、泣き崩れて、地面を叩いた。
もう周りなんて見えない、見たくない。ただ今はどこへ行っても、その場所には篤郎との思い出だけしか残っていなくて、なのに篤郎はいなくて、もう二度と二人で思い出は増やせなくて、目を閉じても浮かぶのは篤郎の顔で、寂しくて、伝えたくて、伝わらなくて、心が痛い。悔しくて、悔しくて、やりきれない。
学校の教室も、帰り道も、いつものゲーセンも、初詣に行った神社も、海も空もこの街も二人で見てきたモノ全てに篤郎との思い出が詰まっている。溢れるくらい沢山…。
篤郎がいない世界なんてモノクロの写真と一緒。寂しすぎる……。
「篤郎は私よりずっとずっと長い間私を見ていてくれてたんだね。まだ篤郎と出会っていなかった私を、篤郎の事を知らなかった私を、ずっと知っていてくれてたんだね。何もかもが私のためで、最後まで私のために頑張っていてくれてた。こんなに近くにいたのに。こんなにも想い合っていたのに、近すぎて、時間がありすぎて、すれ違いすぎてたね。もう戻れないけど……誤解まではさせたくなかった…恋愛成就のお守りは篤郎のことなのに……」
お互い温め続けた想いは、とても深いもので、もったいぶったために私達はいつか出会うはずだった運命のレールを踏み外してしまっていた。
小さな過ちは、本人の知らぬうちに大きく膨らみ、大きな余裕は跡形もなく消えていた。
“もっと早く言えばよかった。『好き』というたった二文字の言葉だけなのに。そしたらもっと何かが大きく変わっていて、また違う結末を迎えられていたかもしれない…二人で…”
篤郎の席は今も尚私達の教室にある。皆篤郎の話はしないけれど、それぞれの胸の中には今も笑っている篤郎がいる。
今の私の席は、ちょうど中学三年の秋の時と同じ窓側の篤郎の前。そして篤郎は今も私の後ろの席にいてくれる。だって、窓を開ければ入ってくる風はいつもあの時の香水の香りだから。
篤郎がいなくなって今日で二年がたとうとしている。あの頃制服を着ていた私ももう19歳になった。
今年も雪は降る。
それは篤郎が私の傍にいてくれている証拠。そう思うようにしている。
あの時流した溢れんばかりの涙を篤郎は綺麗な雪へと変えてくれる。
『さよなら篤郎
ありがとう大好きだよ
ずっとずっと……』
―――――――END――
最後まで読んで下さりありがとうございます。感想をいただけると嬉しいです。