婚約破棄された地味目OL、深夜のコインランドリーで謎の美青年美容師に拾われる
「ごめん、美織。俺たち、婚約はなかったことにしてほしい」
その言葉が投げつけられたのは、結婚式場の下見を翌週末に控えた、金曜日の夜のことだった。
テーブルを挟んで向かい側に座る圭介は、どこか気まずそうに視線を逸らしながらも、はっきりと別れを告げてきた。
「……え? なかったことにって、どういう……?」
「実は、好きな子ができたんだ。同じ部署の、里奈ちゃん。美織も知ってるだろ?」
里奈。入社二年目の、明るくて華やかな後輩だ。いつも最新のトレンドの服を着て、ゆるく巻かれた明るい茶髪から良い匂いをさせている、私とは正反対の女の子。
「俺さ、美織と一緒にいると落ち着くとは思ってたんだ。でも、なんというか……母親と一緒にいるみたいで、ドキドキしなくなっちゃったんだよ。美織っていつもすっぴんみたいなメイクだし、服も地味だし、休日は家でゴロゴロしてるか家事してるかだし……。里奈ちゃんはいつもキラキラしてて、一緒にいると俺まで若返った気分になるんだ。本当にごめん。慰謝料はちゃんと払うから」
怒涛のように言い訳を並べ立てる圭介の言葉は、私の心をナイフで滅多刺しにするには十分すぎる破壊力を持っていた。
地味。母親みたい。ドキドキしない。
それは、彼のために毎日手作りのお弁当を作り、彼の好みに合わせて目立たない服装を心がけ、結婚資金を貯めるために美容院代や化粧品代を節約してきた私に対する、あまりにも残酷な裏切りだった。
「……わかった。今までありがとう」
私は泣き喚くことも、彼を責め立てることもできなかった。
ただ、胸の奥がぽっかりと空洞になったような虚無感を抱えたまま、逃げるようにそのカフェを後にした。
*****
それから数日が経った、平日の深夜。
私の不幸は連鎖するらしい。長年使い続けていた一人暮らし用のアパートの洗濯機が、突如として異音を立てて完全に沈黙してしまったのだ。
明日着ていくブラウスや下着すらない状態だった私は、大きなランドリーバッグを引きずり、深夜二時のコインランドリーへと足を運んでいた。
「はぁ……」
蛍光灯が容赦なく照らす無機質な空間で、洗濯機が回る単調な音だけが響いている。
プラスチックのベンチにぽつんと座り、私は乾燥機の中でグルグルと回る衣類をぼんやりと見つめていた。
ガラスに映る自分の顔を見る。
仕事の疲労で目の下にはくっきりと隈ができ、手入れを怠った髪はパサパサで、毛先が傷んで広がっている。安物の黒いフレームの眼鏡の奥の目は、死んだ魚のように生気がない。
『美織っていつもすっぴんみたいなメイクだし、服も地味だし……』
圭介の言葉が、再び頭の中でリフレインする。
別れてから今日まで、会社では平気な顔をして業務をこなしてきた。里奈が左手の薬指に新しい指輪を輝かせて出社してきても、気づかないふりをしてキーボードを叩き続けた。
誰も、私が婚約破棄されたことなど知らない。私はいつでも、職場で目立たない「都合のいい裏方」だったから。
「……っ」
ポツリ、と。
膝の上で組んでいた手に、温かい水滴が落ちた。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
「うぅ……ひっ……ぐすっ……」
誰もいない深夜のコインランドリー。
私は両手で顔を覆い、声を殺して泣きじゃくった。
悔しい。悲しい。虚しい。
私の二十六年の人生は、いったい何だったのだろう。真面目に、誠実に、誰かを支えるために生きてきたはずなのに。残ったのは、ボロボロになった心と、パサパサの髪と、誰からも必要とされない惨めな自分だけだ。
「……あのさ」
不意に、頭上から声が降ってきた。
ビクッとして顔を上げると、いつの間にか私の目の前に、一人の青年が立っていた。
「あ……えっと……」
涙で霞む視界を瞬きで晴らすと、そこには息を呑むほど美しい顔立ちの男性がいた。
年齢は私と同じか、少し下くらいだろうか。色素の薄いサラサラのアッシュグレーの髪が、蛍光灯の光を受けて天使の輪を作っている。切れ長の涼しげな瞳、スッと通った鼻筋、そして流行りのオーバーサイズの服をスタイリッシュに着こなす高身長。
まるで深夜のコインランドリーに迷い込んだ、異世界の王子様のような存在感だった。
彼は片手に持っていた温かい缶のミルクティーを、私の頬にそっと押し当てた。
「ひゃっ」
「冷えてるよ。顔色、真っ青だし。それ、あげる」
「あ、ありがとうございます……」
私が戸惑いながら缶を受け取ると、彼は私の隣のベンチにどっかと腰を下ろした。彼からは、ふわりと、とても清潔で甘い、高級なシャンプーのような香りがした。
「失恋? それとも仕事で大失敗?」
「え……」
「こんな深夜に、女の人が一人で肩震わせて泣いてたら、さすがに声かけるでしょ。俺、そこの乾燥機回してるんだけど、君の泣き声が悲痛すぎて気になっちゃってさ」
彼が指差した先では、大型の乾燥機が大量のタオルを飲み込んで回っていた。
「すみません、お見苦しいところを……。ただの、失恋です。……婚約してた人に、捨てられたんです」
見ず知らずの他人に、なぜこんなに素直に話してしまったのか分からない。
彼の纏う空気がひどく柔らかくて、警戒心を抱かせなかったせいかもしれない。
「婚約破棄? マジで? それは泣くわ。相手、どんな男?」
「……同じ会社の同期です。私より若くて、キラキラした可愛い後輩に心変わりしちゃったみたいで。私、地味だから、母親みたいでドキドキしないって言われました」
自虐的に笑いながら言うと、青年は「はあ!?」と露骨に顔をしかめた。
「何そのクソ男。目ぇ腐ってんじゃないの?」
「いえ、事実ですから……。私、本当に地味で、取り柄もなくて。彼の言う通りなんです」
「……ふーん」
青年は私の顔をじっと覗き込んだ後、不意に手を伸ばし、私のパサパサに乾燥した毛先を指でそっとすくい上げた。
「あっ……」
「確かに、髪はかなりダメージ受けてるね。せっかく綺麗な髪質してるのに、これじゃもったいない。……それに、肌のトーンも明るいのに、血色の悪いリップのせいで顔全体が暗く見えてる」
「え……?」
彼の指先が、今度は私の頬に軽く触れる。
その手つきは驚くほど優しく、そして何かを「査定」するような、プロフェッショナルな鋭さがあった。
「あの、あなたは……?」
「俺? 申し遅れました。俺は一ノ瀬 理久。しがない美容師やってます。そこの角曲がったとこにあるサロンの店長」
理久と名乗った美青年は、ふっと悪戯っぽく微笑んだ。
「ねえ、お姉さん。お姉さんのそのボロボロになった心と髪、俺に預けてみない?」
「え……?」
「俺、職業柄さ、原石見つけると磨かずにはいられない性分なんだよね。あんなクソ男に地味だなんて言わせておくの、同じ男としてムカつくし。……俺が、お姉さんをとびっきり綺麗にしてあげる」
彼からの突然の提案に、私は目を丸くした。
深夜のコインランドリーで出会ったばかりの謎の美容師。普通なら警戒して断る場面だろう。
けれど、彼の真っ直ぐな瞳と、優しく髪を撫でる手の温もりが、冷え切っていた私の心をひどく甘く溶かしていった。
「……お金、あんまり持ってないですけど……」
私が躊躇いがちにそう言うと、理久は「あははっ」と声を上げて笑った。
「今日は特別。深夜の特別メニューだから、俺の自己満足に付き合ってくれるだけでいいよ。ほら、乾燥終わったみたいだし、行こっか」
彼は立ち上がり、私のランドリーバッグを軽々と持ち上げてくれた。
こうして私は、導かれるようにして、彼のサロンへと足を踏み入れることになったのだ。
夜の静寂に包まれた街を、理久の少し後ろを歩きながらついていく。
深夜二時過ぎという時間帯もあり、すれ違う人は誰もいない。彼が手に提げてくれている私のランドリーバッグだけが、ガサガサと微かな音を立てていた。
「着いたよ。ここ」
徒歩数分で辿り着いたのは、通りに面したガラス張りの路面店だった。アンティーク調の木製のドアには『Lien』というお洒落なロゴが刻まれている。
理久が鍵を開け、店内のスイッチを入れると、暖色系の優しい間接照明がパッと点灯し、洗練された空間が浮かび上がった。
「さ、入って。適当に座ってていいよ。俺、タオルとか準備してくるから」
「あ、はい……お邪魔します」
促されるままに店内に入ると、アロマの心地よい香りがふわりと鼻をかすめた。
綺麗に磨かれた大きな鏡、座り心地の良さそうなレザーのカットチェア。普段、千円カットや激安のチェーン店で済ませていた私にとって、このような高級感あふれるサロンは敷居が高すぎて、酷く場違いなところに来てしまったという緊張感で体が強張った。
「そんなガチガチにならないでよ。ほら、こっち来て」
バックヤードから戻ってきた理久は、私を奥のシャンプースペースへと案内した。
フルフラットになるという最新式のシャンプー台に横たわると、体がすっぽりと包み込まれ、思わず力が抜ける。
「まずは、そのパサパサになっちゃった髪と、いらない未練を全部洗い流そうか」
理久の手が、私の髪にそっと触れた。
適温のお湯が髪全体を濡らしていく。耳元で聞こえるシャワーの音は、不思議と心を落ち着かせてくれた。
「お湯の温度、熱くない? 気持ち悪いところあったら遠慮なく言ってね」
「はい……ちょうどいいです」
きめ細かいシャンプーの泡が髪を包み込み、理久の長くしなやかな指先が私の頭皮に触れる。
その瞬間、ゾクッとするような心地よさが全身を駆け巡った。
「あっ……」
「ん? 痛かった?」
「いえ……すごく、気持ちよくて……」
彼の指の腹が、凝り固まった頭皮を絶妙な力加減で揉みほぐしていく。
ただ洗うだけではない、まるで魔法のようなマッサージ。あまりの心地よさに、私はゆっくりと目を閉じた。
「美織さん、だっけ。仕事、デスクワーク?」
「はい。一日中パソコンに向かってて……」
「やっぱり。頭皮がすごく硬くなってる。ずっと気を張って、無理して頑張ってきた証拠だね」
理久の声は、耳元で囁かれるとひどく甘く、体温を持って響いてくる。
「婚約者さんのために、自分を犠牲にしてきたんでしょ。節約して、お洒落も我慢して。……美織さんは全然ダメなんかじゃない。ただ、優しすぎて、自分を大切にするのを忘れてただけだよ」
彼の優しい言葉遣いと、労わるような指先の感触が、私の心の奥底にある傷跡にじんわりと染み込んでいく。
「……彼、言ってました。私と一緒にいても、母親みたいでドキドキしないって」
「あのさぁ。それって男の最大の甘えだから。自分のために尽くしてくれるのを当たり前だと思って、あぐらをかいてただけ。そういうクソ男は、こっちから願い下げで正解。美織さんが自分を責める必要なんて一ミリもないよ」
理久はきっぱりと言い切り、たっぷりのトリートメントを私の髪に馴染ませてくれた。
温かい蒸しタオルで首筋を温められると、張り詰めていた緊張が完全に解け、涙と一緒に心の淀みが少しずつ洗い流されていくような気がした。
*****
シャンプーが終わり、カットチェアに案内される。
鏡の前に座った私は、濡れた髪のままで、やはりどこか自信のなさそうな顔をしていた。
「さてと。美織さんの髪、元々のクセは少ないし、毛量もちょうどいい。ただ、長期間放置してたせいで毛先が傷んで広がっちゃってるのと、前髪が重すぎて顔の表情を隠しちゃってるんだよね」
理久は私の髪を櫛で梳かしながら、真剣な美容師の顔つきになって鏡越しの私を見つめた。
「傷んだところは思い切って切っちゃおう。鎖骨くらいのミディアムボブにして、前髪は少し軽さを出して横に流す。カラーは、美織さんの透き通るような白い肌に合わせて、少し赤みを抑えたアッシュグレージュ。透明感が出て、絶対似合うから。……任せてくれる?」
「……はい。お願いします」
私が頷くと、理久は「よし」と短く笑い、ハサミを手にした。
チョキ、チョキ、という小気味良いハサミの音が店内に響く。
鏡の中で、重たかった私の髪が魔法のように軽やかに変わっていく。理久のハサミさばきは無駄がなく、見惚れてしまうほどに滑らかだった。
カラーリングの最中、彼が淹れてくれたハーブティーを飲みながら、私たちは色々な話をした。
彼が二十四歳で若くして独立したこと。私が会社でどんな仕事をしているか。
不思議なことに、初対面のはずの彼とは、ずっと昔から知っている友人のように自然に言葉を交わすことができた。
カラーの放置時間が終わり、再びシャンプーをしてブローに入る。
ドライヤーの風に揺れる私の髪は、先ほどのバサバサだった状態が嘘のように、天使の輪が輝くほどのツヤを取り戻していた。
「すごい……指が、引っかからない……」
「でしょ? 俺の特製トリートメント、めちゃくちゃ効くから。はい、次はメイクね」
理久は私の椅子をくるりと回し、彼と向かい合う形にした。
そして、ワゴンから大量の化粧品を取り出し、私の顔をじっと見つめた。
「えっ、メイクまで……!?」
「当たり前でしょ。髪だけ変えてもトータルバランスが崩れちゃう。美織さん、ベースの肌がすごく綺麗だから、ファンデーションは薄付きでツヤを出すだけで十分。眉毛の形を少し整えて……そう、目はアイラインでキツくするより、ブラウン系のアイシャドウで柔らかさを引き立てる」
彼の顔が間近に迫り、パフやブラシが優しく私の肌に触れる。
真剣な眼差しで私を見つめる彼の美しい顔立ちに、思わず心臓がドキリと跳ねた。
息がかかりそうなほどの距離。彼の長いまつ毛が瞬くたびに、私の中に眠っていた「女性」としての意識が、無理やり叩き起こされるような感覚に陥った。
「……リップは、少し青みのあるピンクが似合う。これで、血色感も完璧」
理久が最後にリップブラシで私の唇に色を乗せ、「よし」と満足げに頷いた。
「終わったよ。鏡、見てみて」
椅子が再び鏡の方へと向けられる。
私は、恐る恐る目を開け、鏡に映る自分と対面した。
「え……っ」
思わず、息を呑んだ。
そこにいたのは、毎日鏡で見ていた地味で冴えない「お母さん」のような私ではなかった。
鎖骨のラインでふんわりと内巻きにされた、透明感のあるアッシュグレージュの髪。
整えられた眉と、柔らかく色づいた目元。
そして、顔全体の印象をパッと明るく見せる、艶やかなピンクの唇。
派手ではない。けれど、どこか大人の色気と、洗練された上品さを纏った女性が、そこにはいたのだ。
「これ……本当に、私……?」
「そうだよ。これが、美織さんが本来持ってた魅力。ずっと分厚い殻の中に隠してたんだね」
理久は私の肩にそっと手を置き、鏡越しに優しく微笑みかけた。
「めっちゃ綺麗だよ、美織さん」
そのストレートな褒め言葉に、私の視界は再び歪んだ。
今度は悲しみの涙ではない。自分でも気づかなかった自分に出会えた感動と、誰かに「綺麗だ」と言ってもらえたことへの、抑えきれない喜びの涙だった。
「ああっ、ごめん! 泣いたらメイク落ちちゃう!」
「ふふっ……ごめんなさい、嬉しくて……。私、自分のこと、ずっと嫌いだったから……」
私が必死に涙をこらえながら笑うと、理久はティッシュでそっと私の目尻を押さえてくれた。
「明日、その顔で会社に行きなよ。絶対に、あのクソ男を後悔させてやれるから」
「……はいっ」
私は、力強く頷いた。
理久の手によってかけられた魔法は、ただ外見を変えただけではない。ボロボロに砕け散っていた私の自尊心を、見事に蘇らせてくれたのだ。
*****
週明けの月曜日。
私は、いつもの野暮ったい黒のパンツスーツではなく、休日に新調した、少し体のラインが出るペールブルーのブラウスと、白のタイトスカートという装いで会社のオフィスへと足を踏み入れた。
靴も、歩きやすいだけのローファーから、少しだけヒールのあるパンプスに変えている。
「おはようございます」
私が部署に入り、挨拶をした瞬間。
オフィス内の時が、ピタリと止まった。
「え……?」
「誰……? あれ、七瀬さん……!?」
給湯室でお茶を入れていた女性社員が、持っていたカップを落としそうになりながら目を丸くしている。
パソコンに向かっていた男性社員たちも、一斉にこちらを振り返り、口をポカンと開けていた。
「うそ、七瀬さん!? 髪切ったの!? めちゃくちゃ似合ってる!!」
「えっ、メイクも変えた!? なんかすごく……綺麗になってない!?」
次々と駆け寄ってくる同僚たちの反応に、私は少し照れくさくなりながらも「ありがとうございます。ちょっと心機一転したくて」と微笑み返した。
理久に教えてもらった通りの、自信を持った笑顔で。
そして、その騒ぎを聞きつけて、フロアの奥から二人の人物がやってきた。
元婚約者の圭介と、彼が新しく選んだ後輩の里奈だ。
「何騒いでるんだ、朝から……って」
圭介の言葉は、私を見た瞬間に途切れた。
彼は幽霊でも見たかのように目を見開き、私を上から下まで食い入るように見つめている。その顔には、明らかな驚愕と、そして隠しきれない「動揺」が浮かんでいた。
「み、美織……? お前、どうしたんだよ、その格好……」
「おはよう、圭介君。ちょっとイメチェンしてみたの」
私が何事もなかったかのように涼しい顔で答えると、圭介の隣にいた里奈の顔が、みるみるうちに引きつっていった。
「な、七瀬先輩……? すごく、派手になりましたね。なんかあったんですかぁ?」
里奈は作り笑いを浮かべながら、探るように尋ねてきた。彼女の目には、私のような地味な女がいきなり垢抜けたことに対する、明確な焦りと嫉妬が混じっていた。
「別に何もないわよ。ただ、無駄な荷物を下ろして、自分磨きに時間を使おうと思っただけ」
私は圭介を一瞥し、ふっと冷ややかに微笑んだ。
「……身軽になったから、これからは自分のためだけに生きようと思って」
「っ……!」
圭介が息を呑む音が聞こえた。
『母親みたいでドキドキしない』と言い放った女が、別れた直後に信じられないほど美しくなって目の前に現れたのだ。彼のプライドと後悔を刺激するには、十分すぎる効果があっただろう。
私は二人に背を向け、自分のデスクへと向かった。
キーボードを叩く指先が、不思議なほど軽く感じる。
もう、彼の好みに合わせた地味な女を演じる必要はない。私は私のために、堂々と生きていけばいいのだから。
*****
それから数日後。
残業を終えてオフィスを出ようとした私を、非常階段の踊り場で圭介が待ち伏せしていた。
「美織! ちょっと待ってくれ!」
「……何か用? 仕事の話なら明日にしてほしいんだけど」
私が冷たくあしらうと、圭介はすがるような目で私に歩み寄ってきた。
「ごめん。俺が間違ってた。お前のこと、何も分かってなかった。里奈ちゃんとは……なんか、ただのノリっていうか、気の迷いだったんだ。やっぱり俺には、美織しかいないって気づいたんだよ!」
「……は?」
「もう一度、やり直してくれないか!? 俺、お前がこんなに綺麗だったなんて……っ」
あまりの身勝手さに、私は呆れて声も出なかった。
自分が捨てた女が綺麗になった途端に復縁を迫る。なんという薄っぺらい男なのだろう。私がどれだけ泣いて、どれだけ苦しんだか、彼は一生理解できないだろう。
「……圭介君」
私は一歩下がり、彼を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの目は、本当に節穴ね」
「えっ……」
「私が地味だったのは、あなたとの結婚資金を貯めるために、自分の全てを犠牲にしてきたからよ。あなたが私を捨ててくれたおかげで、私はやっと、自分を大切にする方法を思い出したの」
圭介の顔面から、サァッと血の気が引いていく。
「二度と私に話しかけないで。今度つきまとったら、セクハラとストーカーで会社に報告するから」
私は冷たく言い放ち、踵を返した。
背後から「美織! 待ってくれ美織!」と情けない声が聞こえたが、私は一度も振り返ることなく、軽やかな足取りで非常階段を下りていった。
心の中に残っていた小さな未練の欠片すらも、綺麗に消え去った瞬間だった。
*****
週末の夜。
私は、手作りの焼き菓子を入れた小さな紙袋を手に、再びあの美容室『Lien』の前に立っていた。
あの日、無料でお世話になったお礼と、正式に今後の予約を取るためにやってきたのだ。
ガラス張りの店内を覗くと、ちょうど最後のお客さんを見送ったばかりの理久が、フロアの掃除をしているところだった。
私がドアを開けると、ドアベルの音に気づいた彼が顔を上げた。
「いらっしゃいま……あ!」
理久は私を見るなり、ほうきを置いてパァッと顔を輝かせた。
「美織さん! 来てくれたんだ!」
「こんばんは、理久さん。この前は本当にありがとうございました。これ、ほんの気持ちなんですけど……お礼に、クッキー焼いてきたので」
私が紙袋を差し出すと、理久は「マジで!? すっげー嬉しい!」と子供のように喜んで受け取ってくれた。
「髪、すごく扱いやすくて、会社でもみんなに褒められました。……それに」
私は少し照れくさくなりながらも、彼に報告した。
「あの元婚約者、私を見るなりすごく後悔した顔をしてて……復縁を迫ってきたんですけど、きっちり振ってやりました」
「おっ! やったね! さすが美織さん!」
理久は自分のことのように喜び、満面の笑みを浮かべた。
その無邪気な笑顔を見ていると、私の胸の奥がキュンと甘く締め付けられるのを感じた。
「それで……今日は、正式に次回からの予約をお願いしたくて来ました。これからは、理久さんにずっと私の髪を任せたいです」
私がそう言うと、理久は目を丸くした後、ふっと真剣な、少し大人びた表情へと変わった。
「……ほんとに? ずっと俺に任せてくれるの?」
「はい。理久さんのおかげで、私、変われたから」
理久は一歩私に近づき、私の髪にそっと触れた。
あの日、コインランドリーで触れられた時と同じ、優しくて温かい手。
「嬉しいな。俺もね、美織さんのこと、ずっと待ってた」
「え……」
「あの日から、俺、美織さんの顔が頭から離れなくてさ。もっと綺麗にしたい、もっと俺の魔法をかけたいって……ずっと考えてた」
彼の熱を帯びた瞳が、私を真っ直ぐに射抜く。
美容師としてのお客様に対する言葉というよりは、もっと深く、独占欲を孕んだ響きだった。
「予約、もちろん大歓迎だよ。でも……」
理久は少しだけ顔を近づけ、私の耳元で甘く囁いた。
「俺、結構独占欲強いから。美織さんの髪も、心も……これからは俺が全部、一番綺麗にしてあげる。覚悟しててね?」
その甘すぎる宣言に、私は顔がカッと熱くなるのを感じた。
婚約破棄されて、人生のどん底だと思っていた深夜のコインランドリー。
あの日、全てを失って泣いていた地味な私を拾ってくれたのは、私の人生を劇的に変える、魔法使いのような年下の美容師だった。
「……はい。よろしくお願いします」
私がはにかみながら答えると、理久はこれまでで一番の、とびきり甘く優しい笑顔を見せてくれた。
ボロボロに傷ついていた私の心は、彼の極上のテクニックと甘い言葉によって、もうすっかり、綺麗に溶かされてしまっていたのだ。




