政治が神である時代に、文学は「被害者」であるしかないのか
この文章で言いたい事は、タイトルの通りだ。出オチみたいになるが、タイトル以上の事がいいたいわけではない。
とはいえ、説明は必要だろう。最近、アメリカの大統領トランプがイランにいきなり爆撃を加えて戦争を始めた。
どうもイランの政権はある時期から独裁的な政治をしていたようだが、しかしかといっていきなり爆撃して指導者を殺していいのかは疑問が残る。だがトランプは、イスラエルに唆されたのか、いきなり戦争を始めた。
戦争に関するニュースで私が気になったのが、イランの女子小学校が爆撃されたというものだ。生徒と教師合わせて175人が亡くなったらしい。
こういう報道はあまりにも現実離れしているし、とても我が身の事とは考えられない。だが実際に起こった事のようだ。
女子小学校が何故爆撃されたかというと、今調べた限りでは、古い地図データを用いた事による誤射のようだ。かつてあった軍事基地を爆撃するつもりでミサイルを射ってしまったのだろう。
こうした事実を現代の人間としてはどう捉えらればいいだろうか。仮に自分の子供が、あるいは自分自身が単なる古いデータの誤用で吹き飛んで死んでしまったのだとしたら、それはどういう意味があるのだろうか。今回は一発のミサイルで175人死んでいる。
こうした事は、近代以前では「神の怒り」であり、人間が何らかの過ちを起こした事に対する戒め、と捉えられたのだろう。もちろん、こうした考えにも限界はあるが、人はそのように考え、自他を慰める他なかった。
また、宗教が生きていた時代には死んだ175人は天国に行ったのだ、と考え、心安らぐ事もできた。実際に心が本当に安らいだかはともかく、そのように考える事で納得しようという考えが支配的だった。
しかし現代は宗教の時代ではない。政治の時代だ。誰も彼もが政治に言及する、政治のみが重要事項として扱われる。科学は政治のための道具であり、哲学や文学は政治の為のイデオロギー散布として使われるか、そうでなければ趣味的なものとして社会の中心から排除される。
何故、現代では政治が神なのか。それは一人の男が気まぐれに戦争を起こし、一発のトマホークミサイルで、罪があるわけではない175人を一瞬で殺害できるからだ。
アメリカは世界一の強国であるが、それはアメリカ人と呼ばれる人々の投票によって、一人の大統領に権力が委譲される。私もここまでアメリカの大統領は好き勝手できるのだと思わなかったが、トランプは実際にそれをしてみせている。
力があるのはトランプ本人ではない。そうではなく、トランプを指示する人々がトランプという一人の人間に力を与えている。これは神という外的な力ではなく、人間の持つ力であり、本来はコントロール可能なものだ。
人間が主体である世界において、人間の集合体、その組織が最も力がある。一人の個人は無力であり、多くの人間の力の寄せ集めが最も強力なものとなる。そしてこの力はかつて「神」と呼ばれた、外的な自然の力に拮抗するものとなっている。
過去に、巨大な自然災害で脆弱な人間が一斉になぎ倒されたのと同じように、人間は一発のミサイルや爆弾で多くの人間を殺害する事ができる。神の力は人間の手に移りつつある。しかし、それはかつてヘーゲルが言ったような、人間が自らの理性によって世界を作り替えていく、そうした美しい時代であると本当に言えるだろうか。
※
神もいなければ、あの世も存在しないとすれば、ほんのちょっとした「手違い」で死んだ175人の子供達の死はどう受け入れればいいだろうか。ただほんのちょっと、地図のデータが古かっただけだ。AIの分析システムにちょっぴり誤差程度の間違った情報が入っていただけだ。
「なあんだ、それならしょうがない。ちょっとした手違いね。じゃあ、しょうがないよ、許そうよ。誰にでもある間違いだよ」と許す事は難しそうだ。しかし現実にはほんのちょっとした手違いで175人が死んだ。
このように人間の力が神の如く君臨する世界において、政治が神とされ、絶対視されるのは当然といえる。また、弱い個人が多くの人々から評価され、タレント(偶像)として「人・神」のような扱いを受けたいのも当然と言える。だがこの問題意識の中には「個人」は存在しない。個人は弱い存在でしかない。大切なのは大勢の人々の力を寄せ集め、神の如き力を振るう事だ。
文学は元々、個人に寄り添うものとして存在してきた。個人は弱い存在であるから、文学は主に神が定めた運命に翻弄される存在としての人間を描いてきた。
しかし神の位置は変わった。神は今は人間である。そうなると、文学の場所はどこになるのか。
最近、ノーベル文学賞を取った韓国の作家ハン・ガンを読んでいたが、ハン・ガンは「被害者の文学」だなと私は感じた。
最近の文学の傾向というのは一つには「被害者の文学」が主流だという事だ。
これはジョージ・オーウェルやカフカのあたりから顕著だと私は思う。これは社会構造の変化に伴って現れた文学の形式の変化だと私は理解している。
「被害者の文学」というのはもはや神の如き巨大な力を持った人間社会の被害者となる一個人を描くのが文学の主流になったという事だ。私はこの傾向を明白に感じている。
「被害者の文学」は、強くなった人間社会に対するものとして現れたものだが、これは過去の文学と比較すると、受け身的であり、主体的でないという事に特徴がある。
かつての文学は、貴族的な人物が主体の欲望を肯定し、それによって現れる悲劇が主だった。しかし現代では貴族的な人物は存在し得ない。全ては「大衆」という大きなものに飲み込まれてしまっている。
大衆は政治システムを形作るものだが、個人としての側面もある。社会そのものが巨大な力を振るう時、爆撃された小学生の一人一人がそうであるように、被害者となった個人の位置に寄り添うのが、現代の文学の立ち位置となっている。
しかしここでは、人間の主体的な運動は欠けている。主体的な運動は今や、集団だけが可能であり、個人とは無力でしかない。この無力感や敗北を描く事がこのような時代に辛うじて文学を成り立たせるーー個人を描くという事の意味となっている。
これは消極的な事ではあるが、文学の仕方ない変遷ではあるだろう。またこのような形で被害者の立場に寄り添い、個人の解体、個人の消失、そしてその後の「マス」の勝利を皮肉的に描くのが、文学というものの保てる比較的真っ当な立場なのだろう。
※
私自身は、このように現代の状況を理解している。だから、こうした「被害者の文学」がノーベル文学賞を取りやすいというのも、わからないではない。それは政治的にも穏当であり、妥当だからだ。
もっとも、個人の主体性、個人の本質的な悲劇は現代社会には本当に全く存在しないのか、それは現代において探求すべき事であると思っている。
例えば、仮に私がトランプを主人公の小説を書こうとしたら、コメディにしかならないだろう。それは、陰惨でグロテスクなコメディとなるだろう。トランプという存在は一個の人間ではなく、巨大な社会の権力を移譲された仮面でしかないから、個人の喜劇も悲劇も現れ得ない。それは何でもない。それは政治でしかない。文学のテーマとはなり得ない。
それでは、社会に沈潜する個人を描こうとすればどうなるだろうか。かつてのような、力を持った貴族層などは社会のどこにも存在しないから、いるのはどうあがこうと大衆の一人であるという事になる。これを誠実に描こうとするとやはり、大衆全体の力によって虐げられる大衆の一人を描くしかない。つまり、「被害者の文学」しか書くべき事はない。
私はこうした「被害者の文学」に対して仕方ないと思いつつ、若干の不満を持っている。なぜなら、それは主体性を欠いている為、主体の欲望、罪について言及する事がないからだ。こうした点に欺瞞的な部分があるように感じられるのだが、とはいえ、私自身もこれに対する解決策を持っているわけではない。
ただ、私自身は「被害者の文学」に安住し、それこそが文学の本質だとは思わないように、気をつけてはいる。その先の事は私には未知のままで、道筋は見えていない。
※ イラン戦争は宗教戦争の様相を呈している。これはこの文章と矛盾しているように思われるが、ここで言っているのは人間の限界を越えた力、超越性としての宗教が今は政治に宿っているというほどの意味になる。




