雨の日の告白
梅雨入りした桜ヶ丘市に、今日も細かい雨が降り続いていた。桜ヶ丘高校の廊下には、濡れた傘を持つ生徒たちの足音が響いている。
「今日も雨かぁ……」
ユウナは教室の窓から外を眺めながら、小さくため息をついた。雨の日は図書室で過ごすことが多いが、今日は何となく気分が沈んでいた。
昨日の夜、兄からの手紙と証拠品を黒崎刑事に渡してから、ユウナの心は複雑だった。兄が生きていることが分かって安心した反面、危険な事件に巻き込まれているという現実に不安も感じている。
「皆瀬さん」
振り返ると、クラスメイトの田中リョウが立っていた。同じクラスの男子生徒で、ITに詳しく、いつも一人でパソコンをいじっている内向的な性格だった。
「田中くん、どうしたの?」
「あの……ちょっと相談があるんです」
リョウは周囲を見回してから、小声で続けた。
「皆瀬さんって、探偵をされてるって聞いたんですが……」
「まあ、少しだけ」
「実は……困ったことがあって」
リョウの表情は暗く、何かに悩んでいるようだった。
「どんなこと?」
「放課後、詳しくお話しできませんか?人がいないところで……」
「分かった。雨が止んだら、中庭で話そう」
しかし、雨は一向に止む気配がなかった。放課後になっても、空からは絶え間なく雨粒が落ちている。
「田中くん、雨が止まないね」
「そうですね……でも、今日中にお話ししたくて」
リョウは焦ったような表情を見せた。
「それなら、探偵事務所に来る?お兄ちゃんの事務所なんだけど……」
「本当ですか?ありがとうございます」
二人は相合い傘で商店街に向かった。リョウは緊張しているようで、ほとんど口を利かない。
「田中くん、ITが得意なんだよね」
「はい……パソコンとかプログラミングとか」
「すごいなぁ。私、そういうの全然分からない」
「そんなことないですよ。皆瀬さんは推理が得意じゃないですか」
リョウは少し笑顔を見せた。
「でも、最近はその技術が問題になってるんです……」
探偵事務所に着くと、クロベエが二人を迎えてくれた。
「可愛い猫ですね」
「クロベエっていうの。お兄ちゃんが拾った猫なんだ」
ユウナはリョウに椅子を勧めて、お茶を淀れた。
「それで、相談って?」
リョウは深呼吸してから話し始めた。
「実は……僕、誰かに脅迫されてるんです」
「脅迫?」
「はい。僕のパソコンスキルを悪用しろって……」
ユウナは真剣に聞いた。
「詳しく教えて」
「一週間前から、匿名のメールが届くようになったんです。『お前のハッキング技術を使って、学校のサーバーに侵入しろ』って……」
「学校のサーバーに?」
「はい。成績データを改ざんしろと言われています。もし拒否したら、僕が以前やった『いたずら』を学校に通報するって……」
リョウの声が震えていた。
「いたずらって?」
「中学の時、友達のゲームのデータを勝手に改造したことがあるんです。悪気はなかったんですが……それがバレたら、停学になるかもしれません」
ユウナは状況を整理した。
「つまり、過去のことを材料に脅迫されて、違法行為を強要されてるってこと?」
「そうです……でも、学校のサーバーに侵入なんて、絶対にやりたくない。それに、僕にはそんな高度な技術もないし……」
「断ったらどうなるの?」
「『お前の過去を全校生徒にバラす』って言われました」
リョウは涙ぐんでいた。
「どうしたらいいか分からなくて……でも、皆瀬さんなら何かアドバイスをくれるかもしれないと思って」
ユウナは考え込んだ。これは単純ないじめ以上の問題だった。
「その脅迫メール、見せてもらえる?」
「はい」
リョウはスマートフォンを取り出して、メールを見せた。差出人は匿名アカウントで、内容は確かに脅迫的だった。
「田中くん、この『いたずら』について、もう少し詳しく教えて」
「中学2年の時、友達がゲームで苦戦してたんです。それで、彼を助けようと思って、勝手にデータを改造しちゃって……」
「それで?」
「最初は喜んでくれたんですが、後から『ズルをした』って罪悪感を感じるようになって……結局、その友達とは疎遠になってしまいました」
リョウは自分を責めるように続けた。
「僕は人を助けたかっただけなのに、結果的に迷惑をかけてしまって……」
ユウナはリョウの純粋な気持ちを理解した。
「田中くん、悪意があってやったわけじゃないよね」
「はい……でも、やったことは事実だし」
「でも、それを材料に脅迫するのは絶対に許せない」
ユウナは立ち上がった。
「一緒に犯人を見つけよう」
「え?でも、どうやって……」
「メールの送信者を特定できるかもしれない。田中くんのITスキルがあれば」
「でも、匿名アカウントですよ?」
「それでも、手がかりはあるはず。一緒に調べてみよう」
ユウナの前向きな姿勢に、リョウの表情が少し明るくなった。
「本当に……一緒にやってくれるんですか?」
「もちろん。困ってる人を放っておけないから」
二人は脅迫メールの分析を始めた。リョウの技術的な知識とユウナの推理力を組み合わせて、犯人の手がかりを探した。
「このメールアドレス、よく見ると……」
リョウがパソコンで詳細を調べていると、ある発見があった。
「送信時刻が、いつも同じ時間帯なんです。午後4時から5時の間」
「学校が終わった直後の時間だね」
「それに、文章の特徴を見ると……」
ユウナは文面を注意深く読んだ。
「この言い回し、どこかで見たことがあるような……」
「どこでですか?」
「学校の掲示板とか、クラスの連絡事項とか……」
ユウナは記憶を辿った。
「もしかして、犯人は同じ学校の人かもしれない」
「同じ学校の?」
「だって、田中くんの過去のことを知ってるし、学校のサーバーのことも詳しい」
リョウは驚いた顔をした。
「でも、僕の中学時代のことを知ってる人なんて……」
「中学から一緒の同級生はいる?」
「何人かいますが……まさか」
翌日、雨は少し弱くなっていた。ユウナとリョウは学校で情報収集を始めた。
「田中くん、中学から一緒の同級生をリストアップしてみて」
「はい……えーと、佐藤くん、山田さん、鈴木くん……」
ユウナはその中で、特に怪しい人物がいないか考えた。
「この中で、ITに詳しい人は?」
「鈴木くんは、コンピュータ部に入ってます」
「鈴木くんって、どんな人?」
「真面目だけど、少しプライドが高いというか……成績も良くて、生徒会にも入ってるし」
ユウナは興味を持った。
「もう少し詳しく教えて」
「中学の時は、僕と鈴木くんは友達だったんです。でも、高校に入ってから疎遠になって……」
「どうして疎遠に?」
リョウは思い出すように話した。
「高校の入学試験の結果発表の時、鈴木くんが落ち込んでたんです。『田中は推薦で楽に入れていいな』って言われて……」
「推薦?」
「僕、プログラミングのコンテストで賞を取ったことがあって、それで推薦入学だったんです」
「それで鈴木くんが嫉妬を?」
「多分……それ以来、挨拶しても素っ気ない態度で」
ユウナは仮説を立てた。鈴木という人物が、リョウへの嫉妬から脅迫を行っている可能性がある。
「鈴木くんがどこにいるか、調べてみよう」
昼休み、ユウナはコンピュータ部の部室を訪れた。リョウは怖がって一緒に来たがらなかったが、ユウナが説得した。
「すみません、鈴木くんはいらっしゃいますか?」
「鈴木なら、今日は休みです」
部員の一人が答えた。
「そうですか……実は、パソコンのことで相談があって」
「どんなことですか?」
ユウナは慎重に質問した。
「最近、変なメールが来るんです。匿名のアカウントから……」
部員たちが顔を見合わせた。
「それ、もしかして鈴木が……」
「どういうことですか?」
「実は、鈴木が最近、匿名アカウントの作り方を調べてたんです。『研究のため』って言ってたけど……」
ユウナとリョウは顔を見合わせた。
その日の放課後、ユウナは鈴木に直接会ってみることにした。リョウと一緒に、鈴木の教室に向かった。
「鈴木くん」
呼びかけると、鈴木は振り返った。17歳の真面目そうな男子生徒で、眼鏡をかけている。
「田中……それに、皆瀬さん?」
「ちょっとお話があるんです」
鈴木の表情が変わった。
「何の話ですか?」
「田中くんへの脅迫メールについて」
鈴木の顔が青ざめた。
「脅迫メールって……何のことですか?」
「とぼけても無駄です」ユウナは毅然として言った。「証拠はあります」
実際には確定的な証拠はなかったが、鈴木の反応を見るためだった。
「僕は何も……」
「鈴木くん」リョウが前に出た。「どうして僕を恨むんですか?」
鈴木は長い間沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……君はいいよな、田中は」
「え?」
「推薦で楽に高校に入って、みんなから『天才』って呼ばれて……」
鈴木の声には嫉妬が込められていた。
「僕は必死に勉強して、やっと入学できたのに……君は何の努力もしないで、才能だけで全てを手に入れる」
「そんなことない!」リョウが反論した。「僕だって、毎日夜遅くまでプログラミングの練習をして……」
「それは遊びでしょ?僕みたいに、受験勉強で苦しんだことなんてないくせに」
鈴木の感情が爆発した。
「それで、中学時代の『いたずら』を材料に脅迫を?」ユウナが問いただした。
「……ばれちゃった」
鈴木は観念したように頭を下げた。
「でも、本当に学校のサーバーに侵入させるつもりはなかったんです。ただ、田中を困らせたかっただけで……」
「困らせるって……」リョウが悲しそうに言った。「僕たち、昔は友達だったのに」
「友達?」鈴木は笑った。「君は僕のことを友達だと思ってたかもしれないけど、僕はいつも君に劣等感を感じてた」
ユウナは二人の間に入った。
「鈴木くん、嫉妬の気持ちは分からなくもないけど、脅迫は犯罪です」
「分かってます……でも、どうしても我慢できなくて」
鈴木の目に涙が浮かんだ。
「僕は田中みたいに器用じゃないんです。何をやっても中途半端で……」
「そんなことない」リョウが言った。「鈴木くんは、いつも真面目で努力家だった。僕の方こそ、君を見習いたいと思ってたよ」
「え?」
「鈴木くんは、どんなに難しい問題でも、最後まで諦めずに取り組んでた。僕には、その粘り強さがない」
リョウは続けた。
「プログラミングは得意だけど、それ以外のことは全然ダメなんだ。特に、人とのコミュニケーションとか……」
鈴木は驚いたような顔をした。
「田中が、そんな風に思ってたなんて……」
「お互い、相手を羨ましく思ってたんだね」ユウナが言った。「でも、それぞれに良いところがある」
鈴木はしばらく考えてから、深く頭を下げた。
「田中、本当にごめん。脅迫なんて、最低なことをして……」
「鈴木くん……」
「もう、変なメールは送らない。それから、君の過去のことも誰にも言わない」
リョウも頭を下げた。
「僕こそ、君の気持ちに気づかなくて、ごめん」
雨はいつの間にか止んでいた。三人は校庭のベンチに座って、話を続けた。
「鈴木くん、これからはもっと素直に話そうよ」リョウが言った。
「そうですね……実は、僕もプログラミングに興味があるんです。田中に教えてもらえませんか?」
「もちろん!僕も、鈴木くんの勉強方法を教えてもらいたい」
二人の関係が修復されていく様子を見て、ユウナは心が温かくなった。
「良かった。仲直りできて」
「皆瀬さんのおかげです」鈴木が言った。「もし一人だったら、きっと間違いを続けていました」
「私は何もしてないよ。二人が素直になっただけ」
リョウが振り返った。
「皆瀬さん、本当にありがとうございました。僕、一人で悩んでいた時は、どうしたらいいか分からなくて……」
「でも、勇気を出して相談してくれたから解決できたんだよ」
ユウナは微笑んだ。
「困った時は、一人で抱え込まないで。誰かに話すだけで、道が開けることもあるから」
その夜、ユウナは探偵事務所で今日のことを振り返っていた。
「クロベエ、今日は良い一日だったね」
クロベエは膝の上で丸くなりながら、満足そうに鳴いた。
今回の事件は、技術的なトリックや複雑な謎解きはなかった。でも、人の心の問題を解決できたことで、ユウナは探偵としての新たな喜びを感じていた。
「お兄ちゃん、私、人の気持ちを理解するのが、少し上手になったかも」
雨上がりの夜空に、星がきらめいていた。
翌日、学校でリョウと鈴木が一緒にいる姿を見かけた。二人は楽しそうにプログラミングの話をしている。
「皆瀬さん」
リョウが駆け寄ってきた。
「鈴木くんと、一緒にプログラミング同好会を作ることにしました」
「素敵だね」
「それに、皆瀬さんの探偵業のお手伝いもしたいんです。ITスキルで何かお役に立てることがあれば……」
ユウナは嬉しくなった。
「ありがとう。心強いよ」
新たな仲間を得たユウナの前に、きっとまた新しい事件が舞い込んでくることだろう。そして、その時は一人ではなく、信頼できる仲間と一緒に真実を見つけ出すのだ。
雨上がりの桜ヶ丘市に、希望の光が差し込んでいた。