猫が運んだ手紙
雨上がりの午後、皆瀬探偵事務所に差し込む陽光が、窓辺で毛繕いをするクロベエの黒い毛を美しく照らしていた。
「クロベエ、今日も元気だね」
ユウナは図書館から借りてきた推理小説を読みながら、愛猫に声をかけた。兄の京介が失踪してから8ヶ月。今では、この事務所とクロベエはユウナの大切な日常の一部になっていた。
「にゃあ」
クロベエが短く鳴いて、突然窓の外を見つめた。何かを見つけたような鋭い視線だった。
「どうしたの?」
ユウナも窓の外を覗いてみたが、特に変わった様子はない。商店街の人々がいつものように行き交い、平和な午後の光景が広がっている。
しかし、クロベエは何かに強く反応していた。そして次の瞬間、驚くべきことが起こった。
「にゃー!」
クロベエが大きく鳴きながら窓から飛び出していく。慌ててユウナが後を追うと、クロベエは商店街の路地に向かって走っていた。
「クロベエ、待って!」
ユウナは必死に後を追った。こんなに激しくクロベエが反応することは、これまでになかった。
路地の奥で、クロベエは立ち止まった。そして、ゴミ箱の陰に隠れている一匹の茶色い猫に近づいていく。
茶色い猫は警戒しながらも、クロベエに何かを手渡した。よく見ると、それは小さな紙切れだった。
「まさか……」
ユウナは息を呑んだ。猫が手紙を運ぶなんて、まるで映画のような話だった。
クロベエは紙切れを咥えて、ユウナの元に戻ってきた。そして、まるで宝物を渡すかのように、その紙をユウナの足元に置いた。
「これ……何?」
ユウナは震える手で紙を拾い上げた。それは小さく折りたたまれたメモ紙で、見覚えのある文字で何かが書かれている。
『ユウナへ 無事でいる 心配するな 信頼できる人を見つけたら、桜の木の下を調べて — K』
「お兄ちゃん……」
ユウナの目に涙が浮かんだ。間違いない、これは京介の字だった。兄は生きている。そして、何らかの方法でユウナに連絡を取ろうとしている。
しかし、疑問も多かった。なぜ猫を使って手紙を?なぜ直接連絡してこないのか?そして「桜の木の下」とは一体どこのことなのか?
ユウナは茶色い猫を見たが、すでに姿を消していた。まるで任務を終えた使者のように。
「クロベエ、あの猫を知ってるの?」
クロベエは何も答えない。ただ、いつもより誇らしげな表情をしているように見えた。
事務所に戻ったユウナは、手紙を何度も読み返した。京介が無事だということは最高の知らせだったが、同時に新たな謎が生まれていた。
「『信頼できる人を見つけたら』……」
ユウナはこれまでの探偵活動を振り返った。田中夫妻、商店街の人々、美術部の仲間たち、図書館の林田さん……多くの人と出会い、信頼関係を築いてきた。
でも、兄が言う「信頼できる人」とは、具体的に誰のことなのだろうか?
「桜の木の下……」
桜ヶ丘市内には桜の木が多数ある。公園、学校、商店街、住宅地……どこの桜の木を指しているのか、手がかりが必要だった。
その時、事務所のドアがノックされた。
「いらっしゃいませ」
ユウナが扉を開けると、そこに立っていたのは黒崎刑事だった。40代前半の男性で、兄の京介とは仕事上の付き合いがあった警察官だった。
「皆瀬さん、お疲れ様です」
黒崎刑事は穏やかな笑顔を見せたが、その目は真剣だった。
「黒崎さん、どうされたんですか?」
「実は……京介さんのことで、少し気になることがあって」
ユウナの心臓が高鳴った。
「お兄ちゃんのこと?」
「はい。詳しくはお話しできませんが……京介さんが関わっていた事件に、新しい展開があったんです」
黒崎刑事は周囲を見回してから続けた。
「もしかすると、京介さんから何らかの連絡があるかもしれません。そんな時は、必ず私に知らせてください」
ユウナは迷った。今まさに京介からの手紙を受け取ったところだったが、これが兄の言う「信頼できる人」なのだろうか?
「黒崎さん……お兄ちゃんは、危険な目に遭っているんですか?」
「詳しくはお話しできませんが……彼は正義のために行動していました。そして、それ故に狙われることになった」
黒崎刑事の表情が曇った。
「皆瀬さんも気をつけてください。京介さんの妹だということで、危険が及ぶ可能性もあります」
「危険って……」
「具体的なことは言えませんが、もし怪しい人物を見かけたり、変わったことがあったら、すぐに連絡してください」
黒崎刑事は名刺を置いて立ち上がった。
「それから……京介さんはとても妹思いでした。きっと、何らかの方法で安否を知らせてくると思います」
まるで京介からの連絡があることを知っているかのような口ぶりだった。
黒崎刑事が帰った後、ユウナは深く考え込んだ。黒崎刑事は信頼できそうだが、兄の手紙について話すべきかどうか迷った。
「もう少し、様子を見よう」
ユウナは手紙を大切にしまい込んだ。
翌日、ユウナは桜ヶ丘市内の桜の木を調べて回ることにした。手がかりを見つけるため、主要な桜のスポットを一つずつ確認していく。
最初に向かったのは、市立公園の大きな桜の木だった。春には美しい花を咲かせる立派な木で、多くの市民に愛されている。
木の根元を注意深く調べてみたが、特に変わったものは見つからなかった。
次に学校の桜並木を調べた。ここも何も発見できない。
商店街の小さな桜の木、住宅地の公園の桜……一日中歩き回ったが、手がかりは見つからなかった。
「手がかりが足りないのかな……」
ユウナは疲れ果てて事務所に戻った。
その夜、クロベエが再び窓の外を見つめ始めた。
「また何か見えるの?」
ユウナがクロベエを見ると、今度は茶色い猫ではなく、人影が路地に立っているのが見えた。
「誰だろう?」
ユウナは慎重に窓から覗いた。薄暗い路地に、コートを着た男性が立っている。顔はよく見えないが、何かを探しているようだった。
男性はしばらく辺りを見回していたが、やがて立ち去っていった。
「怪しい人……黒崎さんが言っていた危険な人物?」
ユウナは不安になった。もしかすると、兄を狙っている人物が、ユウナのことも監視しているのかもしれない。
翌朝、ユウナは山田花音さんの喫茶店「花音」を訪れた。商店街の顔役である花音さんなら、何か情報を持っているかもしれない。
「ユウナちゃん、いらっしゃい」
花音さんは温かく迎えてくれた。
「花音さん、ちょっと相談があるんです」
「何でも聞くわよ」
ユウナは慎重に言葉を選んだ。
「最近、商店街で見慣れない人を見かけることはありませんか?」
「見慣れない人?」
花音さんは考え込んだ。
「そういえば、昨日の夜、変な男の人がウロウロしてたって、隣の店の人が言ってたわ」
「どんな人でしたか?」
「コートを着た中年の男性で、何かを探してるような様子だったって」
やはり、昨夜ユウナが見た人物と同じようだった。
「他に変わったことは?」
「そうね……あ、そういえば」
花音さんは思い出したように言った。
「一週間ほど前から、野良猫が増えたのよ。特に茶色い猫が、よく商店街をウロウロしてる」
「茶色い猫?」
「ええ。でも、どこかで見たことがあるような気がするのよね……」
ユウナは興味深く聞いた。
「どこで見たことがあるような?」
「うーん……思い出せないけど、きっと誰かの飼い猫だと思うの。人慣れしてるし」
茶色い猫についてもっと調べる必要がありそうだった。
その日の午後、ユウナは再び商店街を歩いていると、桜井金蔵さんに声をかけられた。
「ユウナちゃん、お疲れ様」
桜屋の店主である金蔵さんは、いつも温和な笑顔を見せてくれる。
「金蔵さん、お疲れ様です」
「最近、よく商店街を歩いてるみたいだけど、何か調べ物?」
「ちょっと……気になることがあって」
「そうかい。実は、うちの店の裏にも変わったことがあってね」
「変わったこと?」
「桜の木の根元に、誰かが何かを埋めたような跡があるんだよ」
ユウナは驚いた。
「桜の木?」
「ああ、店の裏にある古い桜の木さ。小さいけど、昔からある立派な木でね」
「見せていただけますか?」
金蔵さんに案内されて桜屋の裏に回ると、確かに小さな桜の木があった。そして、その根元には最近掘り返されたような跡があった。
「これ、いつ頃からですか?」
「一週間ほど前かな。朝来てみたら、こんな風になってて」
ユウナは興奮した。これこそ、兄の手紙にあった「桜の木の下」かもしれない。
「金蔵さん、この木を調べてもいいですか?」
「もちろん。でも、何があるのかね?」
ユウナは慎重に土を掘り返した。そして、深さ30センチほどのところで、ビニール袋に包まれた小さな箱を発見した。
「あった……」
箱を開けると、中には手紙と小さな鍵が入っていた。
手紙には、こう書かれていた。
『ユウナ 君が見つけてくれることを信じていた この鍵は駅のコインロッカー27番の物だ 中には重要な証拠が入っている でも、一人では危険だ 信頼できる大人と一緒に行くこと 君を愛している — 京介』
「お兄ちゃん……」
ユウナの目に涙が浮かんだ。兄は彼女のことを信頼し、重要な任務を託してくれたのだ。
「ユウナちゃん、大丈夫かい?」
金蔵さんが心配そうに声をかけた。
「はい……ありがとうございます」
ユウナは箱を大切に抱えて事務所に戻った。兄からのメッセージは明確だった。コインロッカーに重要な証拠があり、それを取りに行く必要がある。しかし、一人では危険だと警告している。
「信頼できる大人……」
ユウナは黒崎刑事のことを思った。彼なら、兄の状況も理解しているし、警察官として頼りになる。でも、まだ完全に信頼していいのか迷いがあった。
その時、事務所のドアがノックされた。
「どちら様ですか?」
「黒崎です。少しお話があって……」
ユウナは迷ったが、扉を開けた。
「黒崎さん、どうされたんですか?」
「実は、京介さんから連絡があったかもしれないと思って……」
黒崎刑事の言葉に、ユウナは驚いた。
「どうして分かったんですか?」
「京介さんは、緊急時に備えて特別な連絡方法を準備していたんです。猫を使った伝言システムもその一つでした」
「猫を使った……?」
「はい。茶色い猫のチャコは、実は京介さんが訓練した特別な猫だったんです」
すべてが繋がった。茶色い猫チャコは、兄が用意した緊急連絡手段だったのだ。
「黒崎さん、実は……」
ユウナは決心して、これまでのことを全て話した。手紙のこと、桜の木のこと、そしてコインロッカーの鍵のことを。
黒崎刑事は真剣に聞いていた。
「やはり、京介さんは重要な証拠を隠していたんですね」
「お兄ちゃんは、何の事件を追っていたんですか?」
「大きな組織犯罪です。詳しくはお話しできませんが、京介さんは正義のために危険を冒して調査していました」
黒崎刑事は続けた。
「そして、証拠を掴んだために狙われることになった。だから身を隠しているんです」
「それで、一人では危険だと……」
「はい。一緒にコインロッカーを確認しましょう。ただし、十分に注意して」
翌朝、ユウナは黒崎刑事と一緒に駅に向かった。コインロッカー27番は、駅の奥まった場所にあった。
鍵を差し込むと、ロッカーが開いた。中には分厚いファイルと、録音機、そして写真が入っていた。
「これは……」
黒崎刑事がファイルを確認すると、表情が変わった。
「重要な証拠ですね。これがあれば、事件を解決できるかもしれません」
「お兄ちゃんに会えるんですか?」
「時間はかかるかもしれませんが、きっと会えます」
黒崎刑事は優しく言った。
「京介さんは、君のことをとても誇りに思っているはずです。立派な探偵になりましたね」
その夜、ユウナは事務所でクロベエと一緒に過ごした。
「クロベエ、お兄ちゃんからの手紙を運んでくれてありがとう」
クロベエは満足そうに鳴いた。まるで重要な任務を果たした喜びを表現しているかのように。
「きっと、お兄ちゃんもすぐに帰ってくるよね」
窓の外では、桜ヶ丘市の夜景が静かに広がっていた。兄の京介はまだ姿を現さないが、確実に生きていて、ユウナのことを見守っている。
そして、兄の意志を継いで探偵を続けるユウナの前に、きっと新たな依頼者が現れることだろう。
猫が運んだ手紙は、新たな希望の始まりだった。