兄の影を追って(後編)
翌朝、ユウナは学校を早退して桜ヶ丘商事のビルに向かった。田中雅人の普段の行動を把握するため、まずは彼の勤務先を観察してみることにした。
桜ヶ丘商事は駅から徒歩10分の場所にある、8階建ての中規模ビルだった。1階にはカフェが入っており、そこから建物の出入りを観察するのに都合が良い。
ユウナはカフェで飲み物を注文し、窓際の席に座った。兄のメモによると、田中雅人は営業部の課長で、普段は午前9時に出社、午後6時に退社する。
午後6時ちょうど、スーツ姿の中年男性がビルから出てきた。写真で確認すると、田中雅人に間違いない。
ユウナは慎重に後をつけた。田中は真っ直ぐ駅に向かい、いつものように帰宅した。平日の行動は至って普通のサラリーマンのようだった。
しかし、翌日の夕方、田中の行動に変化があった。
午後5時頃、田中は会社から出てきたが、駅とは反対方向に向かった。ユウナは距離を保ちながら後をつけた。
田中は商店街の公衆電話に入り、誰かと話し始めた。携帯電話があるのに、なぜ公衆電話を使うのだろうか?
電話を終えた田中は、再び会社に戻っていった。明らかに不審な行動だった。
その夜、ユウナは田中恵子さんに電話をかけた。
「恵子さん、ご主人の様子で気になることはありませんか?」
「そうですね……最近、家でも落ち着かない様子で。昨日は夜中に起きて、書類のようなものを見ていました」
「書類?」
「仕事の資料だと思うんですが、随分と神経質になって見ていました。普段はそんなことないんです」
ユウナは考え込んだ。田中雅人は何かに追い詰められているようだった。
金曜日の夜、ユウナは田中家の近くで待機していた。兄のファイルによると、田中は毎週この日の夜に秘密の外出をしている。
午後7時ちょうど、田中雅人が家から出てきた。「残業」と言って出かけるはずだった。
ユウナは慎重に後をつけた。田中は駅に向かい、電車に乗った。ユウナも同じ車両に乗り、気づかれないよう注意深く観察した。
しかし、田中が降りたのは隣町の駅ではなく、途中の小さな駅だった。兄のメモにはない場所だった。
「行き先が変わった……?」
田中は駅から歩いて5分ほどの場所にある、小さなビルに入っていった。看板を見ると「桜ヶ丘法律事務所」と書かれている。
法律事務所——なぜ田中は弁護士に会いに行くのだろうか?
ユウナは建物の外から様子を窺った。1階が法律事務所で、2階は別の事務所になっている。田中は1階に入ったようだった。
30分ほど待っていると、田中が事務所から出てきた。しかし、表情は暗く、明らかに困ったような様子だった。
田中はそのまま駅に向かい、帰宅していった。
翌日、ユウナは桜ヶ丘法律事務所について調べてみることにした。インターネットで検索すると、この事務所は企業法務を専門としており、特に不正行為の内部告発に関する相談を多く扱っているということが分かった。
「内部告発……?」
ユウナは新たな可能性を考えた。田中雅人は浮気をしているのではなく、会社の不正を告発しようとしているのかもしれない。
その仮説を確かめるため、ユウナは再び桜ヶ丘商事の周辺を調査した。そして、田中の同僚らしき人物に話を聞いてみることにした。
「すみません、田中課長のことでお聞きしたいことがあるんですが……」
昼休み中の若い男性社員に声をかけた。
「田中課長?どんなことですか?」
「最近、お忙しそうにされているようですが……」
男性社員は辺りを見回してから、小声で話した。
「実は……田中課長、最近すごく悩んでるみたいなんです」
「どんなことで?」
「詳しくは分からないんですが、営業部で問題があるらしくて……上司ともよく口論してるし」
「問題って?」
「契約の件で何かトラブルがあるって聞きました。でも、詳しいことは……」
男性社員は不安そうに口を閉じた。
その夜、ユウナは事務所で情報を整理した。
田中雅人は会社で何らかの問題を抱えており、法律事務所に相談に行っている。それは浮気ではなく、おそらく会社の不正に関することだった。
しかし、それならなぜ兄は「事件は複雑」と言ったのだろうか?
ユウナは兄のファイルを再び見返した。そして、見落としていた重要な情報を発見した。
『田中雅人 所属:営業部第二課 担当:海外取引』
海外取引——それは大きな金額が動く部署だった。もし不正があれば、相当な規模になる可能性がある。
翌週の金曜日、ユウナは再び田中を尾行した。今度は法律事務所ではなく、別の場所に向かった。
小さな喫茶店に入った田中は、既に待っていた60代くらいの男性と向かい合って座った。二人は深刻な表情で話し合っている。
ユウナは店の外から様子を窺ったが、会話の内容までは聞き取れなかった。しかし、田中は何かの書類を男性に渡しているのが見えた。
30分ほどで会合は終わり、田中は一人で店を出てきた。その表情は、安堵と同時に疲労を浮かべていた。
翌日、ユウナは恵子さんに電話をかけた。
「恵子さん、ご主人の様子はいかがですか?」
「それが……昨夜から急に明るくなったんです。久しぶりに笑顔を見ました」
「そうですか……」
「それで、ユウナさん。調査の結果はいかがでしたでしょうか?主人は……」
ユウナは慎重に言葉を選んだ。
「恵子さん、お会いして詳しくお話ししたいと思います。今日の夕方、事務所にいらしていただけますか?」
その日の夕方、恵子さんは不安そうな表情で事務所を訪れた。
「ユウナさん、やはり主人は……浮気を?」
「いえ」ユウナは微笑んだ。「田中さんは浮気なんてしていませんでした」
「え?」
「ご主人は、会社の不正と闘っていらっしゃったんです」
ユウナは調査で分かったことを説明した。田中雅人は営業部で不正な取引を発見し、それを内部告発するために法律事務所に相談していた。秘密の外出は、弁護士との打ち合わせや、同じく不正を問題視している同僚との会合だったのだ。
「そんな……主人が、そんな大変なことを一人で……」
恵子さんの目に涙が溢れた。
「田中さんは正義感の強い方なんですね。家族に心配をかけまいと、一人で抱え込んでいらっしゃった」
「でも、どうして私に相談してくれなかったんでしょう……」
「きっと、恵子さんを巻き込みたくなかったんだと思います。企業の不正告発は、時として危険を伴いますから」
ユウナは続けた。
「でも、昨夜明るくなったということは、問題が解決に向かっているのかもしれませんね」
その時、事務所のドアが開いた。田中雅人が立っている。
「恵子……どうしてここに?」
恵子さんは驚いて立ち上がった。
「あなた……」
田中は妻を見て、そして事務所の様子を見回した。
「もしかして……探偵を雇ったのか?」
「ごめんなさい……あなたが浮気をしてるんじゃないかと思って……」
田中は深いため息をついた。
「そうか……やっぱり疑われてたんだな」
「田中さん」ユウナが口を開いた。「奥様は、田中さんのことを心配されていただけです」
田中はユウナを見つめた。
「君が探偵の……随分若いんだな」
「皆瀬探偵事務所の皆瀬ユウナです。お兄ちゃんから調査を引き継ぎました」
「皆瀬……もしかして、皆瀬京介さんの?」
「はい」
田中は驚いた表情を見せた。
「皆瀬さんには、とてもお世話になったんだ」
「え?」
「実は……僕が会社の不正について最初に相談したのは、皆瀬さんだったんだ」
ユウナは息を呑んだ。
「お兄ちゃんに?」
「ああ。君のお兄さんは、僕の相談を聞いて『正しいことをするべきだ』と背中を押してくれた。そして、信頼できる弁護士も紹介してくれた」
田中は続けた。
「だから、恵子が皆瀬探偵事務所に相談したと聞いて、驚いたんだ。不思議な縁だね」
ユウナは兄のファイルに田中雅人の浮気調査があったことを思い出した。兄は最初、恵子さんから浮気調査を依頼され、調査の過程で田中の真の悩みを知ったのかもしれない。
「お兄ちゃんは……最後に何か言っていませんでしたか?」
田中は考え込んだ。
「そうだな……『真実は必ず明らかになる』と言ってくれた。そして『家族を大切にしろ』とも」
田中は妻の方を向いた。
「恵子、すまなかった。君に心配をかけて……でも、これ以上嘘をつきたくなかった」
「あなた……」
「会社の不正を告発することにしたんだ。明日、正式に当局に報告する」
恵子さんは夫の手を握った。
「一人で抱え込まないで。私たちは夫婦でしょう?」
田中の目に涙が浮かんだ。
「ありがとう……君がいてくれて、本当に良かった」
二人が抱き合うのを見て、ユウナは胸が熱くなった。
一週間後、田中雅人は会社の不正を内部告発し、問題は適切に処理された。田中は一時的に大変な状況に置かれたが、最終的には正義が守られ、彼の行動は評価された。
恵子さんは再び事務所を訪れ、お礼を言いに来た。
「ユウナさんのおかげです。主人との関係も、前より良くなりました」
「真実が分かって良かったです」
「お兄様も、きっと喜んでくださると思います」
恵子さんが帰った後、ユウナは一人で事務所に残った。クロベエが膝の上に飛び乗り、甘えるように鳴いた。
「クロベエ、私、やったよ。初めての事件、解決できた」
ユウナは兄の椅子に座り、今回の事件をファイルにまとめた。
『田中恵子様 浮気調査事件 解決』
『真相:夫は会社の不正告発に取り組んでいた』
『結果:夫婦の信頼関係がより深まった』
「お兄ちゃん、私、探偵を続けてみる。困ってる人を助けられるって分かったから」
ユウナは立ち上がって、兄の机の引き出しから名刺入れを取り出した。中には『皆瀬探偵事務所』と印刷された名刺が入っている。一枚取り出し、ペンで兄の名前の下に自分の名前を書き加えた。
『皆瀬探偵事務所 皆瀬京介・皆瀬ユウナ』
「お兄ちゃんが帰ってくるまで、私が事務所を守る。そして、探偵を続けていれば、きっとお兄ちゃんの手がかりも見つかる」
ユウナは兄のファイルを見返した。田中雅人の件で、兄が「事件は複雑」と言った理由も分かった。単純な浮気調査だと思ったら、企業の不正告発という大きな問題が隠れていたのだ。
「お兄ちゃんは、いつも人の心を理解していたんだね」
窓の外では、桜ヶ丘市の夕日が商店街を橙色に染めていた。
ユウナの探偵としての第一歩は、確実に踏み出されていた。困っている人を助ける喜び、真実を見つける達成感、そして兄への想い——それらが、ユウナの心に新しい決意を生んでいた。
その時、事務所のドアをノックする音が聞こえた。
「いらっしゃいませ。皆瀬探偵事務所です」
ユウナは初めて、探偵として堂々と名乗った。新しい依頼者を迎える準備は、もうできていた。
皆瀬ユウナの物語は、今始まったばかりだった。