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兄の影を追って(前編)

桜ヶ丘市立図書館の窓から差し込む午後の光が、返却期限を過ぎた推理小説の背表紙を照らしていた。


皆瀬ユウナは本のページをめくりながら、無意識に隣の空いた席へと視線を向ける。いつもなら兄の京介がそこに座って、ユウナとは正反対の厚い法律書や心理学の専門書を読んでいるはずだった。


「……もう半年も」


小さくつぶやいた声は、図書館の静寂に吸い込まれて消えた。


京介が姿を消してから、もう半年が過ぎている。警察は「家出」として処理し、母の沙月は表向きは平静を装っているが、ユウナには分かっていた。誰もが、京介が自分の意志で消えたのだと思っている。


でも、違う。


ユウナは本を閉じ、カバンから一枚の紙切れを取り出した。京介の探偵事務所の鍵と一緒に見つかった、走り書きのメモ。


『ユウナへ もし何かあったら、事務所の金庫を見て 暗証番号は君の誕生日 — K』


「お兄ちゃん……」


ユウナは紙を握りしめた。兄が残したこのメッセージが、彼の失踪が計画的なものではないことを物語っている。何か危険なことに巻き込まれたのだ。そして、ユウナに何かを託そうとしている。


図書館の時計が午後4時を指した。放課後の時間。いつもなら友達と帰るか、部活動に参加するかする時間だが、ユウナにはどちらもない。人見知りの激しい彼女に親しい友人はおらず、部活動にも所属していなかった。


「今日こそ……」


ユウナは立ち上がった。半年間、躊躇し続けていた場所へ向かう決心を固めて。


中央商店街の一角にある古い雑居ビル。その3階に『皆瀬探偵事務所』の看板がかかっている。


ユウナは階段を上りながら、心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。半年前まで、ここは兄の仕事場であり、時々ユウナが宿題をしに来る場所でもあった。でも今は——。


「にゃあ」


ドアの前で、黒い毛玉がユウナを見上げていた。


「クロベエ?」


京介が拾った黒猫のクロベエが、なぜかここにいる。ユウナは慌ててポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。


「どうしてここに……まさか、ずっとここにいたの?」


クロベエはユウナの足元にすり寄り、甘えるような声で鳴いた。事務所の中は、半年前のまま時が止まったような状態だった。京介のデスク、本棚、そして奥にある小さな金庫。


ユウナは金庫の前にしゃがみ込み、震える指で暗証番号を入力した。自分の誕生日——10月15日。


カチッという小さな音と共に、金庫の扉が開いた。


中には現金と、分厚いファイルが入っていた。ファイルを開くと、京介が扱っていた様々な事件の記録が綴られている。浮気調査、行方不明者の捜索、企業の内部調査、近隣トラブルの解決……


ユウナは兄の丁寧な字で書かれた報告書を眺めた。どれも最後まで解決されている事件ばかりだった。京介は困っている人を助けるために、一つ一つの事件に真剣に向き合っていたのだ。


そして、最後のページに未完成の報告書があった。


『依頼者:田中恵子(42歳・主婦)』

『依頼内容:夫・田中雅人(45歳・会社員)の浮気調査』

『調査開始日:3月10日』

『進捗:対象者の行動パターン調査中、毎週金曜日の外出に注目』


日付を見ると、京介が失踪したのは3月12日。この調査を始めて2日後に、兄は姿を消していた。


「この人の調査、途中で終わってる……」


ユウナは報告書を読み進めた。田中雅人は毎週金曜日の夜、「残業」と言って帰宅が遅くなるが、実際は会社にいない。妻の恵子さんは夫の浮気を疑って、京介に調査を依頼していたのだ。


「あの、すみません」


突然の声に、ユウナは飛び上がった。振り返ると、事務所の入口に中年の女性が立っている。40代前半で、上品な服装をしているが、疲れたような表情をしていた。


「皆瀬さんは……いらっしゃいますか?」


女性の声は不安そうに震えていた。


「あ、あの……兄は今、いなくて……」


ユウナは慌ててファイルを閉じながら答えた。


「そうですか……」女性は失望したような表情を見せたが、すぐにユウナを見つめ直した。「あなたは、皆瀬さんの……?」


「妹です。皆瀬ユウナといいます」


「田中恵子です」


ユウナは息を呑んだ。まさに、兄のファイルにあった依頼者だった。


「田中……恵子さん?」


「はい。皆瀬さんに調査をお願いしていたんですが、急に連絡が取れなくなって……」


恵子さんの目に涙が浮かんだ。


「主人のことで相談していたんです。でも、途中で連絡が途絶えて……どうしたらいいのか」


ユウナは椅子を勧めた。


「お兄ちゃんの……調査の件ですよね?」


恵子さんは驚いて頷いた。


「ご存知なんですか?」


「ファイルを見つけたんです。ご主人の件で……」


「そうです」恵子さんは身を乗り出した。「皆瀬さんが『もう少しで真相が分かる』って言ってくださったのに……」


ユウナは兄の椅子に座り、メモ帳を取り出した。


「詳しく教えてください。お兄ちゃんがどこまで調べていたのか」


恵子さんは安堵したような表情を見せた。


「ありがとうございます……実は、主人の浮気を疑っているんです」


「どうしてそう思われたんですか?」


「半年ほど前から、主人の帰りが遅くなることが多くなって……『残業が増えた』って言うんですが、給料は変わらないし、疲れた様子もないんです」


恵子さんは続けた。


「それに、携帯電話を肌身離さず持つようになって、お風呂にも持って入るんです。明らかに隠したいことがあるって……」


ユウナは丁寧にメモを取った。兄のファイルを見ていて学んだことだが、依頼者の話をしっかり聞くことが調査の第一歩だった。


「お兄ちゃんは、どんな調査をしていたんですか?」


「ご主人の行動を調べてくださっていました。特に毎週金曜日の夜……『残業』と言って出かけるんですが、実は会社にいないことが判明したって」


ユウナは兄のファイルを確認した。確かに、田中雅人は金曜日の夜、会社以外の場所にいることが記録されていた。


「最後に皆瀬さんと連絡を取ったのはいつですか?」


「3月12日の夕方です。『今度の金曜日に決定的な証拠を掴む』って電話をくださったんですが……それきり」


3月12日——それは兄が失踪した日だった。兄は何か重要な発見をして、それを恵子さんに報告しようとしていたのかもしれない。


「恵子さん、お兄ちゃんは他に何か言っていませんでしたか?気になることでも……」


「そうですね……『事件は思った以上に複雑かもしれない』って言っていました。ただの浮気調査じゃない、って」


ユウナは眉をひそめた。ただの浮気調査が、なぜ複雑になるのだろうか?


「他に変わったことはありませんでしたか?ご主人の行動で……」


「最近、主人が妙にそわそわしているんです。普段は穏やかな人なのに、ちょっとしたことで怒りっぽくなって……」


恵子さんは不安そうに続けた。


「それに、知らない人から電話がかかってくることが増えました。主人が慌てて電話に出て、別の部屋で話すんです」


ユウナは兄のメモを見返した。田中雅人の行動には、単純な浮気以外の要素が絡んでいるのかもしれない。


「恵子さん、ご主人の会社はどちらですか?」


「桜ヶ丘商事という商社です。営業部に勤めています」


「お仕事の内容は?」


「取引先との契約や交渉が主な仕事です。でも、詳しいことは……あまり家では話さないんです」


ユウナは考え込んだ。田中雅人の秘密の外出、会社での立場、最近の異常な行動……これらには何か繋がりがあるのだろうか?


「恵子さん、私がお兄ちゃんの調査を引き継がせてください」


「え?でも……あなたはまだ……」


「私は探偵じゃないけど、お兄ちゃんのやり方を見て学んだことがあります。それに……」


ユウナは決意を込めて言った。


「困ってる人を放っておけません」


恵子さんは涙ぐんだ。


「本当に……お願いしても?」


「はい。真実を確かめましょう」


「でも、危険じゃないでしょうか?皆瀬さんも……」


恵子さんの言葉で、ユウナは改めて兄の失踪のことを思った。もし田中雅人の件が兄の失踪と関係があるとしたら……


「大丈夫です。慎重に調べます」


その夜、ユウナは事務所で一人、兄のファイルを詳しく読み返した。田中雅人の行動パターン、怪しい点、そして兄が気づいた「複雑な要素」とは何だろうか?


クロベエが机の上に飛び乗り、心配そうにユウナを見つめた。


「クロベエ、お兄ちゃんは何を発見したんだろう?」


ユウナは兄のメモを再び確認した。最後のページに、走り書きがあった。


『田中雅人 要注意 単純な浮気ではない可能性 金曜日の行き先確認要』


やはり、この事件には浮気調査以上の何かが隠されているようだった。


「明日から本格的に調査を始めよう」


ユウナは兄の調査道具を確認した。カメラ、双眼鏡、録音機……そして、兄が作った「尾行の心得」というメモ。


『尾行の基本:相手に気づかれないこと、安全を最優先にすること、証拠は確実に押さえること』


「お兄ちゃん、教えてくれてありがとう」


ユウナは明日の計画を立てた。まずは田中雅人の勤務先である桜ヶ丘商事の周辺を調べ、彼の普段の行動パターンを把握しよう。そして金曜日の夜、彼がどこに向かうのかを確認する。


窓の外では、桜ヶ丘市の夜景が静かに広がっていた。


ユウナの初めての本格的な調査が、明日から始まる。そして、その調査が兄の失踪の謎にも繋がっているかもしれないということを、彼女はまだ知らなかった。


「お兄ちゃん、私、頑張るから。きっと真実を見つけてみせる」


皆瀬ユウナの探偵としての第一歩が、いよいよ踏み出されようとしていた。

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