終章:夢のなかで、こんにちは
終章:夢のなかで、こんにちは
あれから、季節が二つ巡った。
古いアパートの一室で、俺は相変わらず一人暮らしをしている。壁のシミの形も、隣の空き部屋も、何も変わっていない。ただ――そこに「サクラ」という存在がいたことだけが、俺の中で色濃く残っている。
毎晩、同じような夢を見る。
森の奥。塔の下に広がる石畳の道。風の音、鳥の声、そしてどこかで水のせせらぎが聞こえる。
その夢の中で、俺はいつも、彼女を探していた。
何度も夢の中で手を伸ばしても、彼女の姿には届かない。
だけどある夜、それはほんとうに突然、訪れた。
* * *
その日は、蒸し暑くてよく眠れなかった。夜中に何度も目が覚めては、時計を見てまた目を閉じた。
気がついたときには、俺は“あの場所”にいた。
深い森ではない。塔の中でもない。
そこは、丘の上だった。
草が風に揺れて、淡い光が漂っている。空には太陽も月もなく、代わりにたくさんの星が瞬いていた。夢の中にしては、ずいぶんと“やわらかい”場所だった。
そして、その丘の先に、小さな背中が見えた。
少女が、一人で座っていた。
長い髪が風にそよぎ、小さな足を揃えて、手のひらを膝の上に乗せている。
「……サクラ?」
俺が呼ぶと、その背中がぴくりと動いた。
そして、ゆっくりとこちらを振り向く。
「……おにいさん」
その声を聞いた瞬間、何かが一気に胸の奥でほどけた。
そこにいたのは、まぎれもなく“あの時の”サクラだった。
けれど――どこか、違う気もした。
背は少しだけ伸び、服も見慣れない白いワンピース。表情はやさしく、でもどこか静かで、大人びた雰囲気さえあった。
俺は一歩、彼女の方へ近づいた。
「……久しぶりだな」
「うん。ほんとに、ひさしぶり」
「来てくれるって、信じてたのか?」
サクラは微笑んだ。
「ううん。信じてたというより、“知ってた”の。おにいさんは、きっと来るって。夢のなかで、きっとここに来てくれるって」
「夢って、そんなに都合よく――」
「でも今、こうして会えてる」
そう言って、サクラは立ち上がった。
そして、そっと俺の手を取った。
手は、小さくて温かかった。
「……ここは、“記憶の端っこ”なんだって。ほんとうの場所じゃないけど、夢でもない。でも、おにいさんの中に、私のことが残ってるから……こうしてつながってるの」
「記憶の……端っこ?」
「うん。まるで、置き忘れられた鍵みたいな場所。ここでなら、ほんの少しだけ、昔のことを思い出せるの」
俺は、彼女の目を見つめる。
そこには、どこか懐かしい――だけど確かな意思が宿っていた。
「サクラ、お前は……あっちで幸せか?」
「うん。とっても」
「寂しくないのか?」
「それは……ちょっとだけ。……でも、こうして会えたから、もうだいじょうぶ」
彼女の微笑みは、あの塔の前で別れたときとまったく同じだった。
「私は、もう忘れてることが多いの。あのアパートの廊下の音も、引っ越してきた日の緊張した気持ちも……ちゃんとは覚えてない。でも、ね」
サクラは俺の目を見つめながら、やわらかく笑った。
「おにいさんが声をかけてくれたときの安心した気持ちだけは、なんとなく覚えてるの」
「……それでいいのか?」
「うん。だって、それが“生きてる”ってことだから」
彼女は少しだけ涙ぐんだ。けれど、その顔は幸せそうだった。
「だからね、お願いがあるの」
「なんだ?」
「おにいさんが、誰かを大切に思ったら――その気持ち、どうか忘れないでいて。私みたいに、記憶の中に消えてしまわないように、ちゃんと現実の中で、大切にしてあげて」
「……そんなの、当たり前だろ」
俺は思わず、苦笑いしてしまった。
「そっか。やっぱり、おにいさんは変わってないね」
サクラがふわりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、風が強く吹き抜けた。
周りの景色が、ゆっくりと淡くなっていく。
「時間、来ちゃったみたい」
サクラの声が、どこか遠くなっていく。
「まってくれ、まだ――」
俺が手を伸ばそうとすると、彼女は首を振った。
「また会えるよ。次も、夢の中で……“こんにちは”、って言うから」
そして、サクラは風の中に溶けていった。
まるで、夜明けに消える星のように。
* * *
目が覚めると、部屋には朝の光が差し込んでいた。
窓の外では、鳥の声がしている。
夢だった――けれど、それはまるで現実のように鮮明だった。
テーブルの上に、あの日からずっと置きっぱなしにしている、小さなハンカチがある。
それを手に取り、俺は静かに、微笑んだ。
「……おはよう、サクラ。今日も、ちゃんと覚えてるよ」