第五章:選ばれた扉
第五章:選ばれた扉
塔の小部屋に、沈黙が降りていた。
おじさんの言葉が、空気をひときわ重くする。
>「帰るには、“ひとつだけ”選ばなきゃいけない。
>サクラの記憶か、それとも――現実の生活か」
選ばなければならない。鏡の世界に囚われたままではいられない。
だが、サクラは――俺たちは、もう“帰る”ということがどういうことかを知ってしまっている。
「記憶って……どういう意味ですか」
俺が問うと、おじさんは目を閉じて、まるで胸の奥を撫でるような声で語り始めた。
「この塔は、“記憶の保管所”なんだ。人の記憶の深層に接続して、“夢”として存在する場所……ここは、もとは人間が作ったものじゃない。はるか昔、“世界の綻び”のようなものから生まれた」
「……綻び?」
「人の想念が、余ったまま沈んでいく場所。記憶にもならない、想いにもなれない断片が集まって……“こちら側”ができた」
俺にはすぐには理解できなかった。ただ、確かにこの塔、この空気、サクラが持つ記憶の奇妙さが、それを裏付けている気がした。
「サクラは……その断片のなかに、“生まれた”。たぶん、記憶の寄せ集めなんだ」
俺は息を呑んだ。
「……それって、サクラは本当は、人じゃないってことですか?」
「違うよ」
おじさんが即座に首を振る。
「ちゃんと、人として生きている。心も、体も。けれど彼女の存在は、常にこの世界とつながっていた。だから、夢を見る。だから、呼ばれる。そして……塔に触れれば、記憶を“戻す”ことができる」
サクラが、ゆっくり立ち上がった。
「私が、この世界に生まれたなら……戻るのも、当然なんでしょう?」
「それは、そうかもしれない」
おじさんはうなずく。
「けれど、一度記憶を“選べば”、もう現実の世界では生きられなくなる。君がこれまで育ってきた日々、名前、学校、食べたごはん、笑ったこと、悲しかったこと――全部、消えてしまう」
「……そんな……」
俺が言葉を失う中で、サクラは目を伏せて、小さく呟いた。
「……こわいな」
俺は無意識にサクラの手を取っていた。
「サクラ……」
「私ね、知ってたの。なんとなく。夢の中で、ここに来るたび、誰かとさよならする気がしてた。……でも、それが誰なのか、ずっとわからなかった」
彼女はまっすぐ俺を見る。
「それが、“おにいさん”だったんだね」
不意に、涙が滲んだ。こらえようとしても、喉の奥が熱くなる。
「おまえ……本当に、それでいいのかよ。全部、捨てるってことだぞ……?」
「うん」
サクラは、静かに微笑んだ。
「だって、今こうして一緒にいる記憶は……消えないから」
「でも、忘れるんだろ?」
「私が忘れても、“おにいさん”が覚えててくれたら、それでいいの」
言葉にならなかった。
俺は、どうしようもなく、サクラを抱きしめた。
小さな身体。震えていない。けれど、俺の心がぐらぐらと崩れていく。
「ずるいよ、おまえ……」
「うん。ずるいよね。……でも、ありがとう」
その時だった。
鏡が、再び波打ち始めた。
赤から青へ、そして透明に。まるでサクラの心が、何かに決着をつけたかのように。
おじさんが言う。
「サクラが決めたなら、この塔は応える。今、鏡が開く。選んだ記憶を、向こうへ還す扉ができた」
「……さようなら、現実のおにいさん」
サクラが、ふっと微笑んだ。
俺はそれに答えるように、苦笑して言った。
「……じゃあ、今度は夢の中で会おうか」
「うん。そしたら、“こんにちは”って言うね」
そしてサクラは、鏡の中へと、一歩、また一歩と踏み込んでいった。
波打つ境界に、彼女の姿が吸い込まれ、そして――
消えた。
* * *
気がつくと、俺はアパートの部屋に倒れていた。
鏡は、元の場所に戻っていた。冷たい、ただのガラス。手を当てても、何も起きない。
夢だったのかもしれない。だが、床に落ちていた小さなハンカチを見つけて、確信した。
あれは、現実だった。
サクラは、本当に存在していた。
だが、どこを探しても――彼女の名前も、記録も、影すら残っていなかった。
まるで、最初からいなかったかのように。
けれど、俺の胸には、彼女が確かに言った言葉が、焼きついている。
>「私が忘れても、“おにいさん”が覚えててくれたら、それでいいの」
だから俺は、今日もこの部屋に住んでいる。
古びたアパートの隣の部屋には、誰もいない。けれど、たまに――ふっと、甘い風のような香りが流れる気がする。
俺は今日も、鏡の前で呟く。
「……こんにちは、サクラ」