第四章:目を覚ますもの
第四章:目を覚ますもの
ぐぉぉぉぉん……
塔全体が低く唸るような音を立てる。足元が小さく震え、天井のない空に、奇妙な渦が浮かび始めた。
「サクラ! おい、だいじょうぶか!?」
俺が声をかけると、サクラは鏡の前に立ったまま、静かに目を閉じていた。額には汗。小さな唇が、何かを必死に呟いている。聞いたこともない言葉だった。けれど、意味はなぜか伝わってくる。
――“開け、記憶の扉よ”。
鏡が赤く染まり、内部に映る世界が鮮明になっていく。瓦礫、石の壁、閉ざされた空間。そしてその中央で、もたれかかるように座っていたおじさんが、微かに目を開いた。
「……サクラ?」
確かに、口がそう動いた。
「……おにいさん、今!」
サクラが振り返り、叫ぶ。
「力がつながった! 今なら鏡を通して――!」
迷わず俺は、おじさんの映る鏡に手を伸ばした。もう、何も考えなかった。ただ、サクラの目が、本気だったから。
ぬるり。
表面が波打ち、手が通り抜ける。つかんだのは、冷たくて重たい、けれど確かに人の手だった。
「ぐっ……引っ張るぞ!」
「うん!」
二人がかりで腕を引くと、鏡の表面がぐにゃぐにゃと大きく揺れ、ついに――
ドサッ!
おじさんが、塔の床へと倒れ込んだ。
「……おじさんっ!!」
サクラが駆け寄って、その手を握る。
「……無事で、よかった……」
おじさんはうっすら目を開き、弱々しく笑った。
「……無茶をしたな、サクラ……連れてきてしまったか……あの塔まで」
「違う。私が、来たかったの」
そのやりとりを聞きながら、俺は鏡の方を振り返る。表面はもう波立たず、ただの黒い石に戻っていた。
「……これって、やっぱり“出入口”だったんだな」
「塔の鏡は……双方向。だけど、力がいるの。呼応する“記憶”が、鍵なんだって」
サクラが、静かに言った。
「記憶……?」
「……私の記憶。この場所のこと、この塔のこと……ずっと夢で見てたの。それ、ただの空想じゃなかった」
「じゃあ……サクラ、おまえは……」
サクラは俯き、少しだけ唇を噛んだ。
「……おじさんが言ってた。私は、向こうの世界から来た子かもしれないって。……この世界の、もっと古いところから」
俺には、それが何を意味するのか分からなかった。けど、それ以上に、彼女の目が“迷っていない”のが不思議だった。
「この塔は、“つなぐ塔”。夢と現実、記憶と忘却、人の世と……それ以外を」
「それ以外、って……なんだよ」
俺の問いには、誰も答えなかった。
* * *
おじさんはしばらく眠っていた。俺とサクラで手当てをし、塔の一室――半ば崩れかけた小部屋に寝かせた。
その間も、塔の中には不思議な空気が流れていた。静かなのに、どこか鼓動のような、見えない力が脈打っているような。
「ねえ、おにいさん」
火を灯したランプの明かりの中、サクラがぽつりと話しかけてきた。
「ほんとは、ちょっとだけ不安だったの。……ここに来るのも、おじさんを助けられるかも。でも……それだけじゃなくて」
「……うん」
「私が、ここに来たことで――なにか、戻らないものもある気がして。夢の中で、いつもこの塔の最上階に立ってたの。真っ暗な鏡の前で、一人で。……でも今は、おにいさんが隣にいてくれて、うれしい」
サクラの声は、どこか遠くを見ているようだった。
俺は、言葉に詰まりながらも、正直に言った。
「……俺も、最初はただの興味だった。奇妙なアパート、変な鏡、そしておまえのこと。でも今は――放っておけないと思った。たとえ夢でも、嘘でも、こっちの世界でも」
「……ありがとう」
その言葉を最後に、二人はしばらく黙ったまま、揺れる火を見つめていた。
* * *
夜が明ける気配はなかった。空はずっと灰色のまま。
けれど、塔の気配は少しだけ柔らかくなった気がする。
おじさんが目を覚ましたのは、それからまもなくのことだった。
「……サクラ……? お前……ここに……」
「うん。迎えにきたの」
「……ありがとう。でも、そろそろ帰る準備をしないとな……」
「……帰れるの?」
「たぶんね。サクラのおかげで、“扉”が開いた。おまえの記憶と、この塔の力が、揃ったから」
俺はその言葉に、ほっとしたような、名残惜しいような気持ちになる。
「じゃあ……もう、帰れるんだな」
「でもね」
おじさんが言った。
「帰るには、“ひとつだけ”選ばなきゃいけない。サクラの記憶か、それとも――現実の生活か」
サクラが、じっと俺を見る。
その瞳に、何か決意のような光が宿っていた。