第三章:塔の記憶
第三章:塔の記憶
「うわっ!」
思いきり踏み込んだ足が、木の根に引っかかった。
体勢を崩す暇もなく、俺の身体は宙を舞い、派手に前のめりで倒れ込んだ。
ドサァッ!
「いってぇ……!」
土と枯れ葉の匂いが鼻をつき、膝は擦りむき、手のひらには小石が食い込んでいる。なかなか痛かったが、転がる寸前、咄嗟に手を放していたおかげで――
「おにいさんっ!」
後ろから駆け寄ってくるサクラが、無傷でいたのが分かった。少し息を切らしているが、元気そうだ。
「大丈夫? 血……出てるよ」
サクラがポケットから小さなハンカチを取り出して、俺の手をそっと拭こうとする。
「いや、平気。膝はちょっとやったけど、走れる」
俺は立ち上がり、息を整える。逃げてきた方を振り返ったが――
「……いない、か?」
森の奥は静まり返っている。あの異形の“何か”の姿は、どこにも見えなかった。
「うまく巻けたな……」
ふたりとも、しばらくその場でしゃがみ込んだまま呼吸を整える。
「灰色の塔、目指そう。何か……あそこに手がかりがあるかもしれない」
「うん」
サクラはこくりと頷く。俺の傷を気にしつつも、前を向いて歩き出す。
* * *
森を抜けると、急に視界が開けた。
そこには、広場のような場所があった。雑草が伸び放題に茂り、その真ん中に灰色の石の塔が、静かに立っていた。朽ちかけた古塔。蔦に覆われ、窓は壊れ、壁もところどころ崩れている。
だが、その存在感は圧倒的だった。
「……でかいな」
「おじさん、ここに来るって言ってた」
「やっぱり、あの人はこの世界のことを知ってたのか?」
「うん。……私、小さいころからずっと、ここに来る夢を見てたの。森も、この塔も、何度も……」
「夢……?」
「その話をしたら、おじさんが調べてくれて。“夢じゃないかもしれない”って言ったの。だから、私を連れてこようと……」
「じゃあ……ここは、ほんとにおまえの……」
「……わからない。でも、おじさんは、私が“こっちの世界の子”かもしれないって言ってた」
意味がわからない。けれど、今目の前に“異世界の塔”がある以上、信じないわけにもいかなかった。
塔の入り口は、崩れたアーチの奥にあった。古びた扉は錆びついていたが、押すとギィ……と不気味な音を立てて開く。
「中、暗いな……」
スマホのライトを点けてみたが、画面がチカチカと点滅する。バッテリーはあるのに、まるで電波の乱れのように、不安定な光が揺れた。
「気をつけろよ、サクラ」
「うん」
塔の中は冷たく、ひんやりと湿った空気が流れていた。
朽ちた絵画や破れた布、崩れた床。螺旋階段が、ずっと上まで続いている。
登るたび、胸の奥がざわついた。まるで何かが目覚めるのを待っているような――そんな気配。
「おにいさん……」
「ん?」
「……ちょっとだけ、怖い」
「大丈夫。……俺が一緒にいる」
サクラの小さな手が、俺の袖をそっと握る。俺はその手に軽く触れて、歩き出した。
やがて、階段の終わりが見えた。
最上階は、天井がなく、空がむき出しになっていた。星も太陽も見えない、不思議な灰色の空の下――その中央に、それはあった。
鏡。
祠にあったものより大きく、重厚で、楕円形。漆黒の石のような表面が、ぴくりとも揺れずに静止している。
「これ……もしかして、“あの鏡”と同じ……?」
「たぶん。でも、今はただの石みたいだな」
俺が手を伸ばすと、冷たいだけで、波立つ気配はない。
しかし、鏡の縁に刻まれた模様が目に留まった。
「……これ、見たことある」
「おじさんのノートにも描いてあった。……たしか、順番に触れると、反応するはず……」
「やってみるか?」
サクラは迷わず、手を鏡の模様に沿って動かした。
次の瞬間――
ごぉぉぉ……
塔全体が低く唸るような音を立てた。
鏡の表面がゆっくりと波打ち、そして、映像が浮かび上がる。
そこには――
「……おじさん!」
鏡の中に、サクラの“おじさん”がいた。ボロボロの姿で、壁に寄りかかっている。目を閉じ、微かに動いているが、意識があるかはわからない。
「閉じ込められてる……!」
サクラが、鏡の縁に手を置いて叫ぶ。しかし声は届かず、男の反応もない。
「これ……どうすれば……」
「覚えてる。夢で見た。ここには……もうひとつの鏡があるの。これとつながってる“対”の鏡……」
「じゃあ、そっちを探せば……!」
「ううん。きっとここで“開ける”ことができる」
サクラが目を閉じて、何かを唱えるように呟き始めた。
まるで、塔と一体になっていくように。
「サクラ……!」
その瞬間、鏡が真紅に染まった。
塔が、低くうねりながら、目を覚ますように震えた。
――ここから、何かが始まる。
その確信だけが、胸の奥に静かに根を張った。