第二章:鏡のむこう
第二章:鏡のむこう
ガツン!
「うおっ!」
足元の縁に引っかかり、俺は鏡の縁に肩からぶつかった。手を放しそうになるも、サクラちゃんの細い指をしっかり握っていたので、なんとか踏みとどまる。
「いってて……おいおい、大丈夫か? 割れてないよな……」
鏡を見ると、かろうじてヒビもない。だが微かに、鏡の角が床に当たった衝撃で、斜めにずれて傾いていた。
俺はそっと手を鏡に近づけてみる。
ぐにゃ……。
ガラスのはずの表面が、水のように波打った。
――間違いない。これは“通れる”。
「……行くぞ、サクラちゃん」
「うん」
彼女の小さな手が、俺の手をきゅっと握り返す。
深呼吸一つして、俺たちはその不思議な水面のような鏡へ、一歩、そしてもう一歩と踏み出した――。
* * *
目の前が白く霞む。音が遠ざかる。足元に、ふわりとした感触。
そして、ぬるりと膜をくぐったような感覚のあと、突然――
ドサッ。
「……いってぇ……」
背中から倒れ込み、俺は鼻に土の匂いを感じた。薄暗い。天井は低く、木の梁が見える。何か……神社のような古い祠みたいな場所だった。
隣で、サクラちゃんも手をついたまま、不安そうに辺りを見渡している。
「……ここ、どこ?」
「さあな。でも、たぶん鏡の向こうの世界だろ」
声がしたと思った。男の声――鏡に吸い込まれる前、確かに聞こえたはずだ。でも、この小さな建物には、俺たち二人しかいない。荒れた木の壁と、埃のたまった石畳。奥には古い祠壇のようなものがあり、中央に鏡に似た丸い石板が嵌め込まれていた。
「……ちょっと待って」
その石板を覗き込む。さっきの鏡とよく似ているが、表面はぴくりとも動かない。
「戻れねぇ……ってことか?」
鏡が“扉”なら、こっちは“出口”ってわけじゃないのか。
「サクラちゃん、無理に触るなよ」
「うん」
その時だった。
カラン……カラン……。
外から、風鈴のような音がした。
二人で顔を見合わせ、俺はそっと扉に手をかける。ぎぃ、と音を立てて開いた先には――
森。
うっそうとした森が広がっていた。木々は高く、幹は太く、葉は黒ずんだ緑色。あたりには人の気配がまるでない。
けれど、どこかで何かが見ているような、ぞわりとした感覚があった。
「気をつけろ。ここ、普通の森じゃない」
「……うん」
足元に注意しながら、俺たちは祠を出た。風は冷たく、ひんやりとした空気が肌を刺す。まるで山の中の早朝のような気候だ。
「おじさん……ここにいるの?」
「かもしれない。あの声、こっちからしたもんな」
森を進むうちに、奇妙なことに気がつく。
木の幹に、なぜか文字のような模様が刻まれているのだ。まるで古代文字のような、けれどどこか見覚えがあるような、奇妙な模様たち。
「これ、見たことある……」
サクラちゃんが木に手を触れた。
「おじさんのノートに、書いてあった」
「ノート?」
「うん……いつも夜中に見てた……“こっちの地図”って言ってた」
ますます意味が分からないが、つまり男はこの世界について何か知っていた?
サクラちゃんが先に立って歩く。まるで導かれるように、迷いなく。
「こっち。おじさん、たぶんあの塔の方へ――」
森の奥、木々の隙間に灰色の塔が見えた。崩れかけた遺跡のようなそれは、異様な存在感を放っていた。
そして、その瞬間――
ギィィィィ……。
鈍い音とともに、周囲の木が揺れた。
何かが近づいてくる。重い足音。太い枝を押しのけるような、ずしん、ずしんという振動。
「……隠れろ!」
とっさにサクラちゃんを抱き寄せ、近くの倒木の陰に伏せた。
やがて、姿を現したのは――
**人ではない“何か”**だった。
背は大人ほどだが、腕が四本、目が顔の横に並んでいて、全身が木の根のようなもので覆われている。何かを嗅ぐように、くんくんと鼻を鳴らしながら、俺たちの近くを通っていく。
息をひそめる。俺の手を、サクラちゃんの小さな指がぎゅっと握る。
通り過ぎた――そう思った瞬間、その“何か”がピタリと足を止めた。
「……いる……」
くぐもった声が、確かにそう呟いた。
次の瞬間、やつの目がこちらを向いた。
「逃げるぞ!!」
叫ぶと同時に、俺はサクラちゃんの手を引いて走り出した。
塔を目指して。
俺たちは、鏡のむこうの“異世界”を、全速力で駆け抜けた――。




