第7.5話:「※それぞれの、“気づかない気づき”」
文化祭から数日が経った。
いつもの階段の踊り場。けれど、空気が少しだけ違う。
「……あたし、あの日、ちゃんと見れてなかった」
涼子がつぶやいても、返事はない。
けど、自分の中でだけは響く言葉だった。
ハムレットの舞台――
あの瞬間、蓮が言った一言。
「なぜ、神は、我らを選び給うた」
それは、台本にもない、即興のセリフ。
でも、それ以上に“彼そのもの”だった。
ずるいよ、あんなの。
自分は舞台の上で演じた。
蓮を支えたいと思ってた。
なのに、どこかで“自分の舞台”だと錯覚してた。
(……でも、本当は)
彼の言葉が、
あの空気が、
全部を変えてしまった。
(あたしが“あの時”――別の選択をしてたらって)
後悔というには、少し遅すぎた。
――
その夜。
結衣はベッドの上で、スマホをいじっていた。
画面に映るのは、実行委員として撮影・管理している文化祭の1年生の集合写真。
玲央はいないが、涼子と拓真が笑っている。
その少し奥――野中蓮の姿があった。
(あれ……)
一瞬、画面を引き寄せる。
「……このタイミングで、そんな顔する?」
別に、興味があるわけじゃない。
ただ――ほんの一瞬だけ、ひっかかった。
いつもの“冴えないオタク”とは、違って見えた。
舞台の上で放った、即興のセリフ。
あの声色、あの目。
演技にしては、妙にリアルだった。
(あれって……)
思考が伸びる前に、スマホを伏せた。
「……どうでもいい、けどね」
つぶやいて、毛布を引き上げる。
けれどその夜。
眠りにつくまで、なぜかその声だけが、
耳の奥に残り続けていた。
彼女はまだ、それが「関心」だとは思っていなかった。
けれど、ほんのわずかに、何かが動いた――
それだけは確かだった。
――
あれから数日が経った、ある昼休み。
クラスの隅で、何気ない会話が交わされていた。
「最近、空気ちがくね?」
「なにが?」
「いや、なんとなく……オタク側、目立ち始めてる感じ?」
「え、それ地位協定ヤバくない?」
「リーダーたち、動いてんのかな……」
何気ない会話。
けれど、確かにそこにはあった。
空気の微細な“変化”。
――
風が吹く。
制服の裾が揺れた。
文化祭以降、蓮とは一緒に帰らなくなった。
たぶん、まだ何も変わっていない。
だけど、ほんの少しだけ、空気の色が違って見えた。
(……私、あのとき、ちゃんと「支えられてた」んだよね)
自分の言葉じゃなかった。
台本を読んでいたんじゃなかった。
あの瞬間だけは、ちゃんと「野中 蓮」と向き合っていた。
(でも……それだけじゃ、ダメなんだ)
風が止む。
そして、ふっと微笑んだ。
誰も気づいていなかった。
この日を境に、世界が静かに回り始めていたことを。
涼子も、結衣も。
そして、周囲の誰も――
まだ、その“始まり”に気づいていなかった。
けれど、その風は、確かに吹き始めていた。