これは無関心な彼の物語
用箋挟片手に、鉛筆の柄で額を掻く白衣の男。
7つの項目が書かれた紙へ3度目のバツ印を付けた彼は、顔を上げて外の景色を眺める。
「フフッ、そろそろ頃合いかなぁ」
そう呟いた男は意識を手放す。
次の瞬間、薄く開いた瞳は真っ赤に染まっていた。
「僕の体でもあるんだから、ちゃんと清潔にしてよねー。全く」
一瞬で人格を変えた彼は、だらしなく垂れ下がったネクタイを外し、汚れた白衣を脱いで浴室を目指した。
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リアスが王都に滞在して、2ヶ月程が過ぎた。
長年国王の圧政に悩まされいた民衆は、少女の介入により、手の平を返して国王を支持する様になった。
気難しい国王相手でも、博愛の巫女を通せば二つ返事で許可が下りる。
抑制されていた軍事や制限されていた交易が盛んになり、何十年か振りに人々は笑顔を取り戻した。
「巫女姫様、工務の打ち合わせ後にお時間ありますでしょうか。ユグレナ地区への産業支援に、名乗り出る者が居りまして」
固いパンを口に含んで歩いていたリアスは、「ふぁい」と答えてから恥ずかしそうに顔を背けた。
そして、1人の近衛兵が少女を隠す為に、2人の間に立ち塞がる。
彼に押し退けられた大臣は不機嫌そうに、リアスへ向かって1つ咳をした。
それを合図に、少女は「下がりなさい、ヴァシル」と強い口調で言う。
リアス専属の近衛兵――ヴァシルは隈の目立つ眼で大臣を警戒するも、彼女の命令に従った。
「打ち合わせが終われば、すぐに向かいます。半時程お待ちください」
「ふむ、ではそれまで私が客人の相手をしましょう。早めに頼みますよ」
大臣は最低限の会話で切り上げると、すぐにその場を立ち去った。
そんな彼へ訝し気な顔を向けるヴァシルに、「彼も忙しいのです」とリアスがフォローを入れる。
「無愛想ですが、愚直に執務をして下さる善い方ですよ」
「以前の評判は悪かったのですが……ああ、なるほど。あの方もきっと、巫女姫様に浄化されたのでしょう」
身を正し、リアスへ拝む為に跪いた近衛兵。
リアスは周りの目を気にして、「立ちなさい」と小声で叫んだ。
彼はリアスを護る大きな武力であったが、それ以上に執着心が厄介だった。
罪に対する罰を求めた男は、リアスの傍で断罪の時を待っている。
リアスは妄信的な彼の様子を見て、親しみ深い知人を思い出した。
主を支持し、彼女の命令に決して逆らわない長髪の剣士。
彼を脳裏に思い出したリアスは、その当事者が目の前の椅子に浅く腰かけている光景に、「アッ」と驚きの声を上げた。
ここは、リアスが打ち合わせに指定したガーデンテーブル。
少女は顔も知らぬ会議相手がヤミであった事に、驚きが隠せなかった。
ガーデンチェアの背凭れに背中を預けて、空を「ボーッ」と眺めるヤミには、いつもの冷酷さも覇気も感じられない。
心にぽっかりと穴が開いた様子の彼は、リアスと近衛兵の足音を聞いて、ようやく彼女等に目を向けた。
「おー、待っとったで」
軽く手を振ってリアスを招いた彼は、だらしない恰好で大きく溜め息を付いた。
「何か言葉を掛けるべきか」と悩んだリアスは、助けを求める様にヴァシルへ目線を合わせた。
彼は「ニコリ」と笑って頷く。
「城下の復興に必要な木材の発注をお願いします。必要数はこちらの資料にある通りです」
「えっ、彼の態度は無視なのですね……」
淡々と進行するヴァシルへ思わずツッコミを入れたリアスは、どうしたものかとヴァシルとヤミを交互に見た。
そして、少女はヴァシルと同じ営業スマイルを携えて、ヤミの変化に目を瞑ることにした。
あらゆる執務で忙殺状態にある彼女は、これ以上の厄介事は持てないと判断したのだ。
「まあ、早よ座れや」
だが、それを察したヤミは、少女の小さな腕を掴んで、無理矢理イスへ深く腰掛けさせた。
リアスの用意した資料に目を通して、全てのチェックを入れたヤミは、ヴァシルの胸へ書類を押し付けて「どっか行け」と言った。
リアスは、時間を掛けて作成した書類を雑に扱われた事に、腹を立てて頬を膨らませる。
だが、ヤミはそれを無視して人払いを急いだ。
「ヴァシル、彼は私の知人です。話がしたいので、声の聞こえぬ所まで移動してください」
ヤミへ食って掛かろうとしていた近衛兵は、リアスの発言で言葉を飲み込む。
そして、ヴァシルの姿が小さくなった頃、ヤミはテーブルに突っ伏して「ううっ」と項垂れた。
「主さんが……俺置いて12番目の世界に行ってしもうて。11番目の世界ん時も留守番やったし。そら事情があるんは知っとるけど、俺が居らんでも平気なんは嫌や」
男の下がった口角と困り眉を目の当たりにしたリアスは、「それがどうした」と心の中で呟いた。
「一緒に居られないと困る」と、駄々を捏ねる男を冷めた目で見下ろす少女。
「何があかんのやろ。記号が来た時は、主さんが元気んなって良かった。白猫は邪魔やけど、あれは主さんの奴隷やから最悪どうにでもなる。お前も光魔法使えんからただの子供やし――」
目の前に居る事は変わらないのに、離れた心の距離がテーブルを隔てて2人を完全に分断する。
彼は一体何を言っているのか。
自己本位なヤミの言葉に心を搔き乱されたリアスは、深呼吸をして自分を落ち着かせた。
「――そや、あの子供に会ったんが間違いやったんや。お前の連れが来てから主さんが変わった。マゼンタが居らんくなれば……ああ、もう居らんのやったわ」
――パシン!――
ヤミの頬から、静寂を切り裂く破裂音が響く。
首を傾げて冷酷に自分を睨むヤミに、彼の頬を叩いた当人は感情のままに掴み掛った。
「貴方は何故そうも変われないのです!母様が亡くなった時、貴方だけが手を合わせなかった!ストックで私がピンチに陥った時、一度も私の心配をしなかった!いつも、いつだってグレン様の事ばかり……貴方には人の心が無いのですか!?」
襟元を掴む少女のか細い腕を容赦なく握ったヤミは、「ミシミシ」と音を立てるそれを上へ持ち上げた。
当然の如く、リアスの力では到底ヤミに敵わない。
一方、死角からヤミへ剣を向けていたヴァシルは、動かぬ前腕に驚いた。
ヴァシルは軽々と両腕を抑えられた事で、ヤミが世界の英雄だと瞬時に察してその身を引いた。
「……英雄殿。巫女姫様を解放してください」
武力で敵わぬ相手に両手を広げて無抵抗を表した近衛兵は、首を垂れてヤミへ懇願した。
それを一瞥したヤミは、リアスから手を放して立ち上がる。
「言葉を交わす事から逃げるのですか!?」
背を向けたヤミを「キッ」と睨みつけたリアスは、腕の痛みなど無視して両手を広げた。
「ヤミ様が理解を軽んじているから、信用されないのです!心無い男に背中を預ける馬鹿が何処に居ますか!」
捲し立てた少女は、「はぁ」と肺に残った空気を吐き出して、ようやく落ち着きを取り戻す。
「……どうか、マゼンタの死を弔ってください。貴方を慕っていた弟子に哀悼の意を。そうすれば、グレン様の気持ちも理解出来るはずです」
「主さんの気持ち……」
ヤミは顎に手を当てて考え込む。
これはきっと彼にとっては理解し難い感情なのだろう。
「うーん」と唸りながら首を捻り、腕を組んだヤミは、感情の無い瞳でリアスを見る。
「俺はあいつが死んで良かったと思っとる。主さんに反抗的やったし……あれを壊す可能性も有ったやろ?」
「まあ、でも」と言葉を区切った彼は、空を見上げて退屈そうに目を細めた。
「手元に置いたんは主さんの判断やし、まだ利用するつもりやったんかなー」
「ブチッ」と血管の切れる音を聞いたヴァシルは、慌ててリアスを抑え込んだ。
両肩に腕を回された少女は、両足を「ジタバタ」と動かして地団太を踏む。
「貴方はほんっっとうに人の話を聞かない!自分の都合の良いように解釈して……。女神と同様……いえ、女神以上に貴方は悪質です!もう!貴女の事は知りません!」
「グレン様に嫌われれば良いのです」と、そっぽを向いたリアスを気にも留めず、ヤミは大股でその場を立ち去る。
ヴァシルは彼を見送った後、感情を剥き出しにしたリアスの肩を、おずおずと離した。
そして、振り返った少女のリスの様に膨らんだ頬に、思わず肩を震わせて笑う。
「真面目なのですよ、私は」
「はい、失礼しました」
年相応の態度を愛おしく眺めた近衛兵は、気の立った彼女を連れて大臣と客の待つ部屋へと向かった。
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「こっちも違うし、あっちも繋がってない……この線なら繋がってるかしら?」
人の干渉を拒む土地――天上では、2人の神が魂の攪拌場で時間を浪費していた。
先程から、ページの光る本を「パラパラ」と捲る男神の背後で、忙しない女神が右往左往している。
女神を横目で見た男神は、本を捲る手を止めずに彼女へ声を掛けた。
「落ち着きなよ、アテナ。今更魂を取り出せはしない。大人しく地上へ戻るか、ここで親孝行でもしたらどうだい?」
余裕の笑みで女神を窘めた彼は、目の離せぬ物語の展開に心躍らせている。
「余計な事言わないでよ」と女神は腹を立て、魂を男神へと投げた。
「ポンッ」と男神の頭を打った拳サイズの魂は、彼の頭へ引っ付き、暫くすると体内へ吸収された。
「僕達が長時間魂に触れると、自分の一部にしてしまうんだから、無闇に投げないの。最近は魂の流転が減って問題になってるんだし、無駄な魂の消費は控えようねー。そして、間違ってもそれに飛び込んじゃダメ」
男神が指差した先では、一戸建て程の巨大な魂が、風に吹かれてゼリーの様に揺れていた。
静かに揺れるゼリーの周りを、小さな魂がグルグルと飛び回る。
自由に遠くへと飛び出そうとした小粒の魂は、ゼリーから伸びた棒状の両手が掴んで押し留めた。
それは、不規則な存在でありながら、この場から魂を逃さぬ構えだった。
「飛び込む程、無謀じゃないわ。こんなに大きな塊じゃあ、ミシェルも消えちゃうかもでしょ?でも、あの子の魂を探さないと、ミシェルに怒られちゃう」
女神はクルリと回りながら、飛び回る小さな魂へと声を掛けた。
「ねぇ皆。マゼンタの魂が何処にあるのか教えて。彼から伸びた魔力線は、地上との境界線で消えちゃったの」
「お願い助けて」と目を潤ませる女神の周りに、数多くの魂が寄り添った。
『純愛の女神』と称される彼女は、無意識に魂を支配して優しく微笑んだ。
「全く、君は困った娘だな」
溜め息を付く男神だったが、彼女の行動を抑圧しようとは動かない。
胡坐を崩して雲へと寄り掛かった彼は、他人事の様に彼女の行動の結末を追っていた。
「ええ!?もう飲み込んじゃったの?あーどうしよう……」
「キュルキュル」と鳴く魂の言葉を読み取った女神は、驚きで目を丸くした。
マゼンタの魂が天上へ昇ってから随分と時間が経過した。
もう既に、彼の魂は大いなる流れの中で、循環してしまっている。
女神は悩まし気に少しずつゼリー状の魂へ近付き、魂を飲み込んでしまう一歩手前で男神へと振り返った。
当然、彼は女神に厳しい目を向けている。
「本当に、どうしたものかしら……」
成す術が無いと俯いた彼女は、足元へ広がる数多くの線を目でなぞる。
天上へ昇ったばかりの魂は、地上と繋がる線を残像の様に残す。
巨大な塊へと続く波線は、直近に亡くなった者ばかりだった。
「……!これだわ!あの子との繋がり!」
目を凝らした彼女は、他とは違う線を発見して大袈裟に喜んだ。
マゼンタの肉体から続く線は他の物とは違い、魔力線であるが故に鮮明な線だった。
しかし、線の先は案の定、巨大な塊へと繋がっている。
「これでは結局彼を救えない」と、女神が唇を噛んだ時、「ポンッ」と小さな魂がゼリーの体表から躍り出た。
またしても「キュルキュル」と理解不能な言語で話す魂に、女神は「うんうん」と頷いて答えた。
そして、細い棒の腕をニョキッと生やした魂は、自分よりも小さな粒を女神へと差し出す。
「……ありがとうオーブリー。残念だけど、仕方が無いわね」
消しゴムサイズの小さな塊は、マゼンタの魂が攪拌された残骸だった。
「これを持ち帰っても意味が無い」と、女神は横に首を振って受け取りを拒否する。
その時――
「ヒュン」と何処からともなく現れた太っちょの魂が、マゼンタの魂へと入り込んだ。
欠片を飲み込んだ太っちょ魂は、自身の重さに耐え兼ねて「ふよふよ」と、波打ちながら女神の足元まで下がる。
「アッハハ!へぇ、面白ーい!僅かに残っていた『集約』で、少年を復元したんだね」
「……?」
腹の底から展開を笑う男神は、首を傾げる女神へ説明を加えた。
「君だって『集約』の力は知ってるよね?他者の魔力を受け継ぐ『固有魔法』。その実、魔力だけでなく相手の感情や記憶をも継承する。うん、流石は勇者の固有魔法だね。皆が重宝する気持ちも分かるよ」
男神の言葉が難し過ぎて思考を放棄した女神は、「プシュー」と煙の上がる頭の熱で「うう」と唸った。
そんな彼女の様子に気付いた男神は、女神にも分かる様な簡単な言葉で呟いた。
「地上へ転がしなさい。そうすればマゼンタは目を覚ますよ」
「ホント?嬉しいわ。ありがとう皆」
跳び上がって翼を広げた女神は、神々しい輝きに包まれながら、光る盾を持ち出した。
その盾を御盆変わりにして重たい魂を掬った彼女は、「えい!」と地上へと魂を落下させる。
「あーあー、それ一応神器なんだけどなー」
男神の呆れた声は、魂と共に地上へ舞い降りた女神には届かなかった。
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これは無関心な彼の物語。
魂を取り戻したマゼンタは、ゆっくりと目を開いた。
次回更新は2025/11/03を予定しています




