これは仕える彼の物語
朝の冷たい空気に触れた彼は、冷たい廊下で目を覚ます。
――今日のご飯は何がええやろ――
主人に人生の全てを捧げた男は、日が昇るより先に活動を始めた。
ヤミの一日は洗濯から始まる。
洗濯量が増した事は彼の最新の悩みであったが、彼はそんな状況下でも、主人へ尽くす事に喜びを感じていた。
ヤミが最初に見たのは、黒色のローブ。
今でこそ記号が毎日使用しているが、以前はグレンが好んで着ていた代物だ。
自身の魔力を遮断する特別製の魔道具は、グレンが兄弟から譲り受けた衣類であった。
研究に精を出す彼が、今頃何処でどんな研究をしているのかは知る由もない。
ヤミは「彼ならどんな状況でも問題なく生活して居るだろう」と勝手に納得しながら、ローブを洗濯槽に収めた。
次に手に取ったのは、白色のシャツ。
最近増えた厄介な青年の私物だ。
愛する主人に近づく不届者の世話まで焼かないといけない現状に、沸々と腑が煮え繰り返った。
口の悪い彼は、主人に対しても容赦なく発言をする。
だからこそ、主人を妄信するヤミにとっては、許し難い存在であった。
出会って数ヶ月程の関係性だが、ヤミは白猫が心底嫌いだった。
最後に、洗濯カゴを無視して床に転がる衣服を持ち上げる。
グレンは基本的に、フードのついた服を好んで着用していた。
いや、「好んで」という表現は語弊があるだろうか。
彼女はショートヘアだが、顔の横に位置する髪だけ、不自然に胸元まで伸びている。
その為、フードを被れば、短髪から長髪へと印象が早変わりするのだ。
これは彼女が人々に追われながら生活していた頃の名残だった。
ヤミは彼女の暗い過去を振り返りながら、主人が幸せに過ごせる事を切に願った。
「せや、今日会合の日やったか」
窓の外の景色が、その輪郭を作り始める。
時間の経過を感じたヤミは、急いで洗濯を回し終える。
そして、就寝中の同居人に気取られぬ様、音を立てない配慮をしながら玄関を目指した。
朝日が足元を温める感覚に気付いたシロは、配線と鉄に囲まれた空間で目を覚ます。
彼は起き上がると、座り込んだまま体を左右に揺らした。
朝を迎えた事を自分に言い聞かせて、残る睡魔と格闘しているシロ。
暫く後、意識がはっきりした彼はようやく目を開いた。
彼の周りは、不揃いなガラクタで埋め尽くされている。
13番目の世界には、他の世界には無い、変わった物ばかりが混在した。
特に今、シロの心を躍らせているのは機械の数々だ。
エンジン機構すら無い世界からやってきた彼にとって、パソコンは有り得ない未知の代物だった。
「その性能を、魔法陣に応用できるはずだ」と意気込んで、シロはここ数日部屋に引き籠っていた。
しかしながら、1人で考えを巡らせても限度がある。
新たな発見や思考を得るためには、外へ出て刺激を得ることも大切だろう。
記号の世話係を命じられている事もあるし「今日は彼女と外出してもいいだろう」とシロは考えていた。
「ごめんね!今からグレグレとお出掛けするの!」
シロは彼女から断られる事を、予想していなかった。
手を合わせて謝る記号の後ろで嫌な顔をしているのは、この家の主人であるグレンだ。
シロは「珍しくスカートを身につけてどういう風の吹き回しだろうか」と彼女を覗き込んだ。
そんなシロの思考を読んでか、苦虫を嚙み潰したようグレンが発言する。
「ヤミがいい加減日の光を浴びろと。私が逃げられないよう記号を使いやがって」
耳を澄ませれば、歯軋りの音でも聞こえただろうか。
彼女は元より活動的な人物ではない。
シロが籠っていた期間と同じくらい、彼女も自室から出る事をしなかった。
「ってなわけで!記号さん達は冒険の旅へ出掛けるのだ!いざ行かん、新天地へ!」
シロは「塩対応の自分と行動するより幾分か楽しめるだろう」と二人の外出を止めることなく見送った。
今にも溶けてしまいそうな体躯の主人。
だらけた態度を取るグレンの背を押しながら、記号は元気一杯に走り去って行った。
今日の予定を失ったシロは、口角を上げながら自室へと踵を返す。
結局のところ魔法が大好きな彼は、研究に勤しむのが性に合っているのだ。
一人静かに今日という日を楽しむべく浮き足立っていると、一番顔を合わせたくない男と目が合った。
「なんや白猫。元気そうやな」
「……ッチ」
シロは彼との付き合いが短いにも関わらず、無意識に舌打ちが出る程には嫌悪感を抱いていた。
ヤミもそれを承知の上で、シロを睨みつける。
共通の主人が居なければ、二人は敵であっただろう。
彼と同じ空間に居る事で不機嫌になったシロは、足早にリビングから立ち去ろうとした。
帰宅したばかりのヤミは、シロの行動に一切の関心を示さずに、郵便物の仕分けを始める。
背中を向けたヤミを見遣ったシロは「今なら彼を仕留められるだろうか」と不穏な思考を回す。
そんな彼だが、ヤミの肩越しに見えた一通の手紙に関心を移し始めていた。
明るい色合いの便箋は、差出人が女性であることを彷彿とさせた。
それを無造作に開くヤミは、その手紙の受取人なのだろう。
ヤミが主人一筋であることは、少しでも彼と会話をすれば明らかだ。
シロはそんな男に対して手紙を差し出すなど、馬鹿げた娘が居たものだと呆れたが、それと同時に「どんな内容の文章なのか」と興味が湧いてしまった。
ヤミがいる空間で内容を盗み見るのは不可能だろうと思ったシロは、後ろ髪引かれながら予定通り自室を目指した。
部屋に戻り、扉を閉ざしたシロは、入り口を背にして立ったまま目を瞑った。
「さーてどんな反応を示すかな」
シロの視界に広がるのは、白と灰色で作られた世界。
彼は意識を魔力自体に移す事で、実態を無くす事に成功した。
シロはその空間を幽霊のように移動して、ヤミが留まっている部屋を目指す。
今のシロは魔力そのものであり、もし仮にヤミがグレンの様に魔力を纏っていれば接触で気付かれるであろう。
しかしながら、シロは未だ嘗て彼が魔力を使う場面に遭遇していない。
シロは対策の足りていない馬鹿な男に対して鼻で笑った。
「はっ随分とザルだね」
ここは魔力がモノを言う、魔法に溢れた世界。
魔力を感知できない様では、大した人間ではないだろうとシロは愉悦に浸った。
忌々しい男の弱点を見つけたシロは、上機嫌に彼の様子を覗き込む。
ヤミは手紙の二枚目を読み進めている最中だった。
シロはいつもグレンに纏わり付くこの男が、どんな心情で手紙を読むのかが気になっていたので、角度を変えて表情を読み解く事にした。
しかしながら、シロの下世話な考えとは裏腹に、その男の表情は感情に乏しい代物だった。
喜怒哀楽を廃した彼は、郵便物を纏めて所定の位置へと移した。
その後、彼は残された家事を終わらせるべく、足早に通常業務へと戻った。
そんな男の行動に満足できないシロは、不透明な体のまま、手紙の仕舞われた引き出しを風魔法で開いた。
あの男は主人に見つからない様に、件の手紙を下へと追いやっていた。
だが、捜索意思を持ったシロは、それらを簡単に探り当てることができた。
思念体の状態では、文字の僅かな凹凸に触れなければ読み解けない。
第三者がここに居合わせたならば、手紙が宙を浮く不思議な場面であっただろう。
しかし、現状静まり返った部屋には、邪魔をする者はない。
手紙を読み終えたシロは「主人に対しては忠実だと思っていた彼に、このような秘密があったとは驚きだ」と酷く軽蔑した。
書かれた内容を要約すると、それは逢引きに関する大人の事情を語った文言だった。
ヤミに添い遂げる決意をした差出人が、複数の浮気を言及する文章は見るに堪えない。
「あの男、何がしたいんだろう……」
シロがグレンと会話をしているだけで、浮気だ何だと叫んでいる彼こそが、その常習犯だとは呆れたものだ。
シロは顔を上げて、引き出しを再び漁り始める。
他にも浮気関連の証拠があるはずだと踏んだ彼は、そこに仕舞われていた女性の筆跡が残る手紙を、片っ端から読み始めた。
「最低だ。これでよくグレンは彼を泳がせてるね」
シロはそう発言しながら「いや、もしかして知った上でグレンは、彼の奇癖を泳がせているのか」と一人で納得していた。
シロが考えれば考えるほど、面倒臭がりなグレンの放置しそうな問題だと思った。
最低な男ではあるが、同性のシロに関係の無い案件だ。
その為に、彼は漁った手紙を無造作に仕舞おう動き出した。
そこでシロはふと、最悪の事態に気が付いてしまう。
「彼と共に暮らしている女性はグレンだけではない」と察したシロは、自分の友である記号に魔の手が及ぶ事を危惧した。
そこからの彼の行動は、素早いものだった。
閉じていた瞼を開けて、すぐに玄関へと向かう。
「サヤという人物に話を聞いてみようか」
彼宛ての手紙のに書かれていた興味深い話を調査すべく、シロは市街地へと歩みを進めた。
レンガ調の建物を抜けると、急に日が差し込む。
坂に合わせてカーブを描いた階段は、入り組んだ町を象徴していた。
「君。ヤミのことを知ってるね」
シロは井戸から水を汲み上げる赤毛の女性に、声を掛けた。
女性は三つ編みの髪を揺らしながら、シロの立つ方へと振り返る。
シロは雀斑の似合う親しみやすい容姿の彼女に、当人が書いた手紙を差し出した。
「あら、これは私がヤミ様に届けた手紙だわ」
シロは忌み嫌う男を様付けで呼ぶ女性を睨みつけながら、次の言葉を待つ。
内情を察した女性は、照れくさそうに頬を掻きながら、小さく笑った。
「もう無かった話になったのよ。時が全部解決してくれたわ」
柔らかく微笑んだ女性を前に、言葉を失ったシロは前傾姿勢で掴み掛かった。
彼女は驚いた表情を見せたがそれも束の間、平静を取り戻し話を続ける。
「だってヤミ様はお仕事に忙しい方だから、私が重荷になってはならないの」
「そんなはずないだろ!君は利用されただけだ!」
シロが彼女に差し出した手紙。
それはヤミとの関係を持ったことで、縁談が無くなったことを語っていた。
親に勘当されて行き場のなくなった彼女が、ヤミに助けを求める手紙。
「この様子だと彼は返事すら返していないのだろう」とシロの怒りはさらに加速する。
「君以外にも彼には恋愛関係の人がいる。君はその理不尽さに立ち向かうべきだ」
シロの主張に女性は横に首を振り、片手で肘を撫でながら自分より幼い青年を見る。
「当事者ではない貴方にはわからないことよ」
サヤは頬を赤らめ愛おしげな表情をする。
恋は盲目とよく言ったものだ。
彼女に何を言っても理解が得られないだろうと悟ったシロは、怯んだ。
ヤミを陥れる事に余念のないシロは、ヤミが彼女を洗脳している可能性を考慮して、魔術の影響下に置かれているかどうかを確かめた。
だが、彼女からは一切の魔術を検知できなかった。
「もう用事は終わったのでしょう」と赤毛の人は、足元に置かれた桶を担ぎ上げて会釈をした。
シロの怒りは冷めることを知らずに、ふつふつと燃え滾っていた。
女性の去った場所にいつまでも留まる必要はないと、シロは目的もなく町を徘徊し始めた。
建物の傍で談笑する彼女等も、ヤミの関係者だろうか。
疑心暗鬼になったシロは、女性達を避けながらそう思う。
ハウサトレスは千人程度の規模の町であり、大都市と比べると小さなものだった。
その中で若い女性にターゲットを絞れば、数えるほどであろう。
シロはヤミへの嫌悪感から、女性とすれ違うたびに避けて町を歩いた。
そうして暫く進んだ彼は、普段訪れない影の多い通路に辿り着く。
道端に座り込み、煙草を吸う男性が、ちらほら目に入った。
そんな彼等の様子から、付近に住む住人の質が伺えた。
だが、そんな廃れた通りは、女性と相見えたくないシロからすると、心落ち着く空間だった。
特徴の無い建物が続く中、シロの目に小さな飲み屋の看板が映った。
「アルスエン」の文字を意味も分からず読みながら、シロは徐にその店の扉を開く。
「あら、ごめんなさいね。奴隷のお客さんは入れないのよ」
シロが低い声に驚き彼女を見ると、声の主である店主は、困った表情でシロを見ていた。
「そんなの僕には関係ないよ」
彼女の制止する声に構うことなく、正面のカウンター席に座り込んだ。
シロの次に驚いた表情を作ったのは、その行動を見守っていた店主だ。
「その首輪って本物でしょう?」
不思議そうに問いかける店主の言葉に、シロは自分の立場を思い出す。
放任主義の主人に飼われていた為に忘れていたが、奴隷用の首輪には単独で店を利用できない規約も含まれていたはずだ。
首輪を取り付ける前にグレンが施した細工は、行動規制を緩くする契約を組み込むものだったのだろう。
「主人が適当だからね」
棚に並べられた酒瓶を指差しつつ返事をするシロ。
その表情は入店時と打って変わって嬉しそうだ。
「あらだめよ。お子様には出せないわ」
店主は豪快に笑いながら、シロに果汁を差し出した。
自分が未成年として扱われるのは、これが初めてではない為、シロは諦めの態度を取った。
成人女性程度の背丈を持つシロは、幼い印象が強く、大人には見えないだろう。
そんなことはどうでも良いのだと割り切った青年は、話題を探すべく店主の姿を見た。
「見れば見るほど変わった女性だ」とシロは彼女を観察した。そして、こんな質問は失礼だと承知した上で、彼は問いかける。
「君って男だよね」
肩幅の広さと喉仏から判断した情報を口にすると、彼女は「そうね」と答えた。
シロは「自分の様な人間は苦手だろう」と気を遣って距離を置いた店主に笑いかける。
「自分を偽らない人は好きだよ」
シロの心からの発言に、彼女は意外そうに感嘆の息を漏らした。
生まれながらに奴隷である事、獣人として好奇の目に晒される事が嫌で堪らないシロは、人の目を気にせず自我を前面に出せる人物を尊敬していた。
彼女の何物にも縛られない生き様は、シロにとって光であった。
店主はシロの態度に気を良くしたのか、次の話題を切り出した。
「何か悩み事があるんじゃないかしら」
人の話を聞く職業に就いた彼女は、一目でシロが悩みを抱えていると見抜いた。
一度目線を店主から外したシロは、秘める事でも無いだろうと事の顛末を話し始める。
魔女関連には触れない様に、言葉を暈しながら怒り交じりに話すシロ。
その口調は、次第に加速していく。
店主は強い語尾で語られる話を、最後まで相槌を打ちながら聞いていた。
「ほんっと自分勝手な人って大っ嫌いだよ」
やけ酒宛らに果汁を勢いよく喉に流したシロを、彼女は宥める。
「ヤミ様は昔っから好色家だからねぇ」
店主は机に突っ伏したシロの肩に触れながら、彼女の視点から見たヤミを語る。
ヤミは彼女が幼い頃から、当たり前の様に複数の女性と馴れ合い関係にあった様だ。
口喧嘩はあれど、大きな騒ぎに発展した事は一度も無いらしい。
そして驚くべき事に「この町の大半は、奔放な彼を尊敬している」と彼女の口から語られた。
「皆はヤミ様に感謝してるのよ。彼は百年という長い間、魔女を管理しているんだから」
彼女が発した最後の言葉がシロの心に刺さる。
世の悪と言われるグレンは、世間が言う程残忍な人間ではないとシロは知っている。
シロの視点から見たグレンは、だらしない性格ではあれど、進んで誰かを傷つけるような人間ではない。しかしながら、彼女が何年も前に起こした事件に関わりの無いシロは、その不確かな事実を否定できない。
「魔女が君たちに危害を加えた事があるの?」
「東の魔女を見た者は居ないよ。百年前から彼女は隔離されているらしいからね」
シロは「いや普通に今日外出してるんだけど」と思えど口には出さなかった。
彼は顎に手を当てて考える。
なるほど視点を変えれば、グレンとヤミは敵対関係に映るのか。
ヤミがグレンに執着している事を知らない住民目線では、ヤミは世界を救う英雄に成り得た。
下手な思考を回したシロは、少しばかり空腹を感じた為「何か食べる物はないか」と店主に頼み込んだ。
「おや、ハウサトレスの呪いを知らないのかい」
「呪い?何それ今関係あるの?」
シロは切り替わった話題に不信感を覚えた。
店主は呆れたような表情を浮かべ、シロに対して本当にこの町に住んでいるのかと切り出す。
「ここには幽閉された魔女の魔力が、僅かならに漂っているのよ。そしてその魔力は人から食事の能力を全て奪ってしまうの」
心霊現象を語るかの様に声を絞り出し雰囲気を作る店主。
そんな彼女の演技に「少しは付き合ってやろう」とシロは肩に力を入れる。
「鍋に食料を入れて火にかける。そんな簡単な動作さえ、この町に居ては出来なくなるの。料理を想像できてもそれを実行する事が、不思議と出来ないのよ」
この地に生まれて一度も町の外へ出た事の無い彼女は、調理が出来なくても困らないと続ける。
「食事の全てはヤミ様が管理しているわ。この町で唯一調理が出来る人だから」
そうなるとヤミはこの町の住民全員の食事を管理している事になるだろう。
「そんな馬鹿げた話は無い」とシロが反論すると、店主はさも当たり前といった様子で事実を語る。
「ヤミ様の指示に従っての調理であれば可能なのよ。彼の監視下で行えば私達でも食事の準備が出来るわ」
「理屈が分からないね」
シロは筋道が通る様に一から思考を整理し始めた。
自分はグレンの魔力は何度も目にしている。彼女が自身と同じ様に、魔力を体の周りに漂わせている事は揺るぎ無い事実だ。しかしながら、その魔力範囲は精々数メートル程度。それは日頃から傍に居る自分が確実に証言できる。だとするならば、前提である魔女の呪いが間違っている事になるだろう。
「つまり最初からあの男の思惑の上なのか……?」
グレンが呪いと呼ばれる現象の犯人ではないとしたら、実行可能な人物は特定できる。
呪いが永続的に続いている前提を考慮するならば、彼女と同じく寿命を度外視したヤミが容疑者に上がる。
先程の核心に迫るシロの言葉は、店主に届いていなかった様だ。
彼女は次の発言があるだろうと、シロからの行動を待っていた。
しかし会話の続きなど、シロにとっては不必要なもの。彼はすぐさま席を離れて扉に手を掛けた。
「代金は置いたよ。僕、彼と喧嘩してくるね」
シロの言葉通り、カウンター席には銀貨が一枚置かれていた。
店主がそのことを確認して顔を上げる。
その視線の先には、大きく開いた扉だけが取り残されており、彼の姿は欠片も残っていなかった。
風を切る音を聞いたヤミは、手元に置かれた刀を素早く抜刀した。
その流れを殺さぬまま、彼は刀身が放った甲高い音を頼りに、対象物を横に薙ぎ払った。
床に転がった黒い石が床に刺さっている。
ヤミはその攻撃を自分に仕掛けた青年を見た。
「何や、やっとやる気になったんか」
目つきの悪さに定評のあるヤミの目が、いつも以上に細められる。
右手を前に掲げて彼と対峙するシロは、自身の魔法の影響で髪を揺らしていた。
「我慢の限界が来ただけだよ」
ここで口角を上げていれば冗談だと分かったものだが、此度のシロが作り出した表情は硬い。
その真剣さに充てられたヤミも、自然と体に力が入る。
静寂に包まれた庭は、彼等の戦いを見守っている様だった。
先制攻撃を仕掛けたシロが次に打つ手は、意外にも防御に徹する事だった。
ヤミはシロと出会ってから一度も魔力を練る行動を取らなかった。
それ故、シロは彼の得意とする魔法を知り得ない。
ヤミはシロという新たな部外者に、手の内を明かさないつもりだったのだろう。
その効果は覿面で、正面戦闘になった今、シロから仕掛けることは難しかった。
だからと言って簡単に臆するシロではない。
全ての魔法を跳ね返すつもりで、彼は堂々と構えていた。
一方ヤミはと言えば、石を薙ぎ棄てた体勢から一歩も動く様子はない。
シロの顔を冷たい目で捉える彼の思考は、一切読み取れなかった。
ヤミの瞳が揺れて、シロの手元へと視線が移る。
攻撃が始まると身構えたシロ。その目前へヤミの向けた刃先が迫っていた。
「ぐっ……」
あまりの速さに、シロから力んだ声が漏れる。
身体強化と結論付けたシロは、ヤミの足元に植物の蔦を生成して足を絡ませた。
しかし、その蔦が切り裂かれ、再びシロへと刃先が向くまでには僅かな時間も無かった。
シロは焦りを感じていた。
無口頭で魔法を使っているにも関わらず、ヤミの速さに追い付けない。
シロにとって、これ程脅威を感じる存在は稀であった。
だかといって、ヤミが圧倒的に押している訳でもない。
魔法使いには魔法使いなりの戦い方があると、シロは宙に浮かび上がった。
いくら身体強化に長けていても、屋根より高く飛んだシロには触れる事すら敵わないだろう。
「これでヤミの手の内が分かったんだ」とシロは呼吸を整えた。
後はヤミの不得意な状況に追い込み、痛み付けるだけだと考えたシロは、額に触れる汗を手で拭った。
シロがその動作で一瞬ヤミを視界から外しただけで、彼の姿はシロの前から消えていた。
何処に移動したんだと考えるより先に、シロの腹部に痛みが走る。
彼は軋む音を立てる腹を抱えながら、攻撃を受けた方向に複数の氷柱を突き立てた。
ようやくシロの視界に映ったヤミは、氷柱に微塵の関心も向けず、一心に刀を振り下ろす最中であった。
瞬間、死の恐怖がシロの全身を駆け巡った。
シロはヤミの光が灯っていない瞳に、強い恐怖感を抱く。
「ヤミ」
鶴の一声が、静寂を切り裂いた。
名前を呼ばれた当人は、すぐに満面の笑みを浮かべて声のする方へと顔を向ける。
ドスンと地面を揺らす音が、ヤミの落下したものだと気付いたシロは、自分が助かったのだと理解した。
家の壁には黒い跡が残っていた。
その情報から、彼が建物を伝ってここまで跳び上がったとシロは分析する。
土埃の中から、血だらけのヤミが顔を見せた。
その正面には彼の愛する主人が、腕を組んで立ち塞がっている。
「ぷんぷんのおこだぞー!」
グレンがそんな軽い言葉を話す訳がない。
彼女の背後から顔を覗かせた記号は、いつもの剽軽な態度ではなく、本当に怒っている様子だった。
感情を前面に出した記号と温度を分け合う様に、冷め切った表情のグレンがヤミを見下ろしている。
「何してるの」
叱る様な口調では無かったが、無関心でもない事が伺えた。
悪い行動をした自覚があるヤミは、そんな主人の態度に委縮して正座する。
彼女に逆らえないのが彼の性分なのだ。
「ちょーっと遊んだだけやで。なあ白猫」
お前も同罪だと言わんばかりに、ヤミはシロに罪を擦り付けたが、当然シロはそれに応える義理が無い。
「ねぇグレンこれ見てよ」
シロの作られた笑顔に、そこへ居合わせた全員がギョっとした。
グレンは「皮肉屋のシロが爽やかな笑顔を周りに向けるはずがない」と狼狽する。
シロは一歩引いたグレンに構うことなく、大量の手紙を彼女の前に差し出す。
それを見るヤミの血の気の引いた様子は、鈍感な記号すら気付く程酷いものだった。
「ああーちゃうんや、これはふかーい事情があってやな」
何も言わずに手紙を読むグレンに対して、聞いてもない言い訳を探し始めるヤミ。
その様子を見たシロは、ようやく普段通りの不敵な笑みを浮かべ始めた。
「グレンがこの始末をどうつけるのだろうか」と男性二人が固唾を飲んで待っていると、彼女は徐に空へと拳を付き出す。
「焚火だ!芋を焼く!」
「やったああ!」
おやつの登場に喜んだ記号は、グレンの真似をして拳を空に上げて楽しんでいた。
そこでふと、シロは今日の出来事を思い出した。
それは、この町で調理が出来るのはヤミだけであるという話。
俯いて涙を流す彼の肩に足を押し当てたグレンは、すぐに調理を開始せよと命令する。
彼女の行動は思い付きの様であったが、ヤミを罰する意味合いも含まれているのだろうとシロは気付いた。
懇切丁寧に仕舞われていた手紙の数々を自分で廃棄する苦行は、少なからず彼の今後の行動を律するはずだ。
「…………?」
三人の賑やかな様子を背景に、シロは意外な事実に驚愕した。
そして、その焦りが他に気付かれない様、静かに唇を震わせる。
今し方シロは「次にヤミと対峙する場面になったらどう戦おうか」と考えていた。そう思考を回しながら彼ら三人を見ていたのだ。
魔力遮断のフードを身に纏っても、絶えず少量の魔力を垂れ流している記号。
自身の周辺に魔力を漂わせているグレン。
ヤミを見たシロは「そんな人間が居るはずも無い」と頭で否定するも、目の前には事実として彼がそこに居た。
戦闘を終えたばかりであるはずのヤミに一切の魔力残留が無い。
――ヤミは魔力を持たない人間だ――
迂愚な記号が、炎に触れて手を火傷した。
グレンが慌てて氷を生成した後に、回復魔法が得意なシロを呼ぶ。
記号が涙目でシロを伺っているその背後に、口元へ指を添えたヤミがシロを脅す様に、静かに立っていた。
これは仕える彼の物語。最悪と名高い魔女に仕える彼は、多くの秘密を抱えている。