これは抗う彼の物語
彼は柵の中で外の光を見た。
――運命なんてクソ喰らえ――
鉄格子と小石が擦れる音に、慌ただしい足音の反響。
その中に彼の決意を止めるものは、存在し得なかった。
グレンの怠惰は、物事を覚える事にも適応される。
自分が百年もの間住み続けている場所に、ハウサトレスという名称が付いていることを知ったのも、つい最近の事だ。
数百年生き永らえている魔女に、地名を覚えろと言うのも無理な話だと諦める他ない。
「ストックの町へようこそ!」
レンガ調のアーチを潜ると、町娘が元気に挨拶をする。
活気のある町を象徴する様に、ここに住む人々はエネルギーに溢れていた。
建物群に足を踏み入れてすぐに目を、いや鼻孔をくすぐったのは出店の数々だ。
ハウサトレスには、飯屋がない。
これは魔女の呪いに起因するものであったが、今語る事でもないだろう。
グレンは視界に溢れんばかりに映る食事に、胸を躍らせていた。
近場の串焼きを数本購入し、町を探索する。
建物が混在した場所だと過去の記憶が言っているが、その時以上に入り組んでいる様子だ。
人々の建築力が上がったのか、急な斜面にも住宅が散見された。
「狭い入り江によくもまあこんなに人が集まるものだ」と感心しながら冒険者を探す。
これだけ発展しているのだから、何処かにギルドの活動拠点があるに違いない。
「やっぱ回復職は欲しいよな」
自身とヤミが前線の戦闘スタイルを取る為に、毎度不足するのは持久力だった。
自分より弱い敵ならそれでも十分動けるのだか、憤怒の悪魔に過去一度でも勝ったことの無いグレンは、今回の戦闘で『引き分け』を目指すために、持久することは欠かせなかった。
ふと視線を上に移すと、町外れに灯台が見えた。
「あの上から眺めれば町全体の構造を把握できるだろう」とそこを目指して歩みを進めた。
風化したレンガに日が差す中、哀愁が漂っている裏道をひたすらに歩く。
十字路へ差し掛かった時に、脇道へと進む複数の冒険者とすれ違った。
彼らの進行方向を見ると、木々に囲まれたドーム状の建物がそこにあった。
道すがらあれ程大きな建物は他になかった為、グレンはそれが『冒険者ギルド』だと一目見て理解した。
石造の扉を、自分一人が通れる程度に開くと同時に、中から活気のある空気を感じ取った。
外観の幻想的な雰囲気とは打って変わり、橙色の照明が大人びた空間を作り出している。
手前は酒場を兼用している様で、テーブルの殆どが埋まっていた。
壁一面に貼り出された依頼書は、風魔法により常に上下へ忙しなく動いている。
新顔が一人混ざろうとも、それを誰も気に留めない。
そんな大規模なギルドの様子に、グレンは幾分か安心した。
彼女は冒険者になりたい訳ではない。
寧ろ変化の乏しい静かな生活を好んでいるので、面倒事を避けられる現状はこの上ない幸運だった。
「発泡酒下さい」
欲に逆らわないのが彼女のスタイルであり、酒を受け取ったグレンは空いた席へ静かに座った。
「今頃ヤミは家事に追われているのだろうな」と苦労の多い仕人を想像しながら、一息つく。
マイペースな彼女だが、最低限果たすべき事は頭に入っている。
体がそちらに向かない様、視線の動きのみで魔法使いらしき人物を一人ずつ吟味していく。
背丈と同じ高さの杖を持つ初老の女性は、おっとりとした様子で、激しい戦闘には付いてこれないだろう。
手に収まるほどの小さな杖を携えた男性の目の前には、包帯を巻いた剣士が座っている為、彼が回復を得意としない、もしくは専門外である事が伺えた。
他にも候補が幾らか居たが、どれもグレンが求める理想的な人物には、程遠かった。
倒すべき悪が百年も活動を放棄すれば、人々は次第にその脅威を忘れ去る。
「自分が求める基準の魔法使いは既にこの世界には居ないのかもしれない」と溜息をついた。
行き詰った時は一からやり直すのが吉だと、グレンが席を立ったタイミングで、奥から妙に賑やかな歓声が聞こえた。
何か催し物でもやっているのだろうか。
グレンは受付より奥にあるカーテンの中に興味が沸いので、「勝手に入って良いのか」と受付嬢に聞くと、数字の書かれたカードを差し出された。
曰くそれは競りを行う時の識別番号。
質量のあるカーテンをくぐり抜けると、一層外の光が遮断されて完全なる闇に包まれる。
手探りで声のする方を探ると、もう一枚の布に手が当たった。
彼女がそれを手繰り寄せると、新たな空間が姿を露わにする。
座席がステージを囲い、中央部では鎖に繋がれた生物が競りにかけられていた。
「なんだ、奴隷商じゃないんだ」
グレンは面白いものが見られると期待していた故、残念そうに口を歪める。
探しているのは人であり、ペットではない。
そもそも、グレンが求めるような魔法に長けた人物が競りに出されると思う方が、お門違いなのだろう。
彼女が「騒がしい声の正体を知れただけで十分だ」と背中を向けた途端に、歓声と悲鳴が混ざり合った。
「さあ、僕を買うに値する人は居るの?」
司会者のマイクを自信満々に奪い取ったのは、アルビノの青年だった。
片方の手に握られているのは、獣人族を縛る為の首輪。
あろうことか彼は、自分を競りの対象に晒上げたのだ。
獣人族は別名『奴隷族』とも呼ばれる、長年差別の対象とされてきた一族だった。
しかしながら、時の流れに沿って、彼らは人権を得たはずだ。
グレンは未だに差別思考が残っている事に驚きつつ、彼から目を離せなくなっていた。
彼が主人を欲するのは恐らく、商業用の奴隷契約をしているからだろう。
購入前の奴隷が逃げ出さない様に設定された規約は、個人所有のそれらより厳しいものだ。
主人と同伴であれば一般的な店を利用できるが、今の彼にはそれが出来ないはず。
無断の侵入を可能にしたこの競りは、合法性の無い陳腐な催し物なのだろうとグレンは呆れる。
経営側の事情に興味の無い他の客達は、獣人奴隷が珍しいのか、口早に数字を叫び始めた。
マイクを奪われた司会は取り戻そうと手を伸ばすが、硝子状の防壁に遮られている様で、主導権はアルビノの彼に移ったままだ。
「たったそれだけしか出せないの?君達馬鹿でしょ。僕の価値も解らないでよく競り落とそうと思ったね」
嫌に毒舌な商品だ。
本当に買われることを望んでいるのかと、疑問に思えてくる。
青年は先に競りの対象となっていた珍妙な生物を足蹴にしつつ、偉そうに踏ん反り返っていた。
尚も数字を叫ぶ声は止まないが、彼の眼にかなう金額は提示されない。
本当は身売りする気が無いのだろうと、客の声が怒号に移り変わったが、彼の態度は一向に変化しない。
「それもそのはず」とグレンは周りを観察して思った。
誰一人として、彼の魔法に気が付いていないのだ。
「得る為に戦う者を求む」
グレンが天幕の文字を口に出して読む際、アルビノの青年と目が合ってしまった。
失念に気付いたグレンが、一目散にその建物を離れたのは、長年の勘が彼女の全身を駆け巡ったからだ。
面倒事に巻き込まれるのは、目立った行動をした時。
魔法に対する擬態は完璧のはずだが、態度に出てしまっては隠し様がない。
もしあの青年が自分を追っているなら、このまま直線的に町を離れるのは悪手だ。
海岸沿いの町であるストックには、徒歩で出入りする場所は一か所しかない。
グレンは急がば回れを念頭に置いて、先に目を付けていた灯台の方へと足を運ぶことにした。
灯台の壁に塩の結晶が付いていることから、この建物の古さが伺えた。
木製の扉は開くと、隙間から砂が落ちてきた。
長い間誰もこの建物に立ち入っていないのだろうと、安心する。
あの青年は無理に会場を利用していた様子から、「そのうちお縄に付くだろう」とグレンは思考を回した。
日が落ちるまでまだ時間はある。
窓の無い通気口からは潮風が舞い込み、ウミネコが岩場で談笑している。
この落ち着いた空間で、時間を潰そうと思い立ったグレンは、石段を1つ飛ばしで軽快に駆け上がった。
「何で……」
そのあとに続く言葉は、先回りしてることに関しての質問であっただろうか。
どこから持ち出し方も分からない木箱の中に、太々しい彼はすっぽり収まっていた。
箱の手前には懇切丁寧に「拾ってください」の文字。
「遅かったね。階段なんて使うから効率が悪いんだよ。仮にも悪名高い魔女なんだから魔法使いらしく振舞って欲しいよね」
グレンは、箱に肘を掛けて呆れた様子を演出する青年に対して、困惑を示した。
ハウサトレスを離れる際、ヤミから耳に胼胝が出来るほど言われたのは、個人の特定の回避についてだ。
長い月日が魔女の認知度を下げたとはいえ、警戒はすべきだと仕人は真剣に話していた。
自身に落ち度はない。
この猫耳の青年が異質なのだ。
自身の力を過信せずに、記号へ渡した目隠しを一時的に身に付けてくれば良かったなと、後悔しても遅い。
「それで、僕を飼う気になってくれたかい」
彼はさも当然の様に、胸を張りながら赤い首輪をグレンの目の高さまで浮遊させた。
品定めをする青味を帯びた瞳と、清潔感のあるマッシュヘアに猫耳を携えた彼は、不敵な笑みを浮かべる。
グレンは「こういう時は、はぐらかさずに真摯に向き合うべきだ」と彼の目を真っ直ぐ捉えながら答える。
「タダより怖いものは無いって知り合いから聞いた事があるからさ、他を当たってくれないかな。あとその箱に収まるスタイル止めてくれない」
語尾を強めたグレンの言うことを理解したのか、肩を竦めて上目遣いをする青年。
絵に描いたような愛らしさを前に、少しだけ可愛らしいと思ってしまったグレンは、既に彼の思惑に嵌まっているのだろう。
「以前本で読んだんだよ。悪い人は箱に入った動物を飼う傾向にあるって」
「その作者適当な事しか書かねぇよ」
グレンはその書物を認識している。
作者不明のジャンルを問わない書物に、嫌な相手を思い出していた。
忌々しい彼の貼り付いた笑顔を想像しつつ、虫を祓う様に手を振ったグレン。
そんな彼女を前に、青年は目を輝かせる。
「彼のことを知ってるのかい?」
グレンは、興味深いといった様子で前傾姿勢を取った青年を前に、たじろいた。
「どう説明したものか」とグレンが思案している最中、らしくない態度を取ってしまったと気付いた青年は、コホンと1つ咳をした。
「まあ、君が僕を飼う事は前提として話を進めるよ」
「会話の舵を取るのが何故お前なのだ」とグレンは睨み付けたが、効果は無い様だ。
自由な猫は、尻尾を左右に機嫌よく振りながら、箱に寄り掛かった。
「僕さ、壊したい国があるんだよね」
グレンは不穏な会話の切り出し方に、不信感を覚えた。
気ままな青年は口こそ悪いが、所作を見る限り育ちは良さそうだった。
富裕層の娯楽の延長でグレンを揶揄っているのかとも思われたが、彼女に向けた瞳は真剣そのものだった。
「ご存知の通り僕は奴隷族。幸か不幸か幼少期から体が弱くて特定の誰かの奴隷になる事は無かった。薄暗い牢屋に閉じ込められてさ、自分の境遇が劣っていることも知らない馬鹿な子供だったよ」
彼の話を聞く中で、グレンは踝に水が触れる感覚を思い出していた。
部屋の隅に置かれた錆びた鉄の匂いが、思い出を現実と錯覚させる。
「僕のほかにも沢山獣人が奴隷として売買されていて……その中には勿論家族も含まれていた」
青年は言葉を区切り、吐き出すように言葉を紡ぐ。
自身の胸倉を掴んだ手に一層力が入り、心の傷が皴になって浮かび上がった。
「あいつが……国王が姉さんを奪ったんだ。僕は姉さんが居ればそれで十分だったのにそれすらもあいつが奪って行ったんだ。……国を壊すのは簡単だろう。君がそうしたように国王を殺してしまえば全て上手くいく」
復讐に燃える彼は、グレンの過去を嘲る様に続ける。
「僕に国の滅ぼし方を教えてよ。幾度となく国王を殺した最悪の魔女……君に飼われたなら僕は初めて奴隷に生まれて良かったと思えるだろうから」
「過大評価も甚だしい」と突き放すのが一番簡単だろうか、ここで見捨てても彼が必ず復讐を果たす事は、火を見るより明らかだった。
ならいっそ目の届く範囲で管理するのが、安全に違いない。
「条件が」
グレンは、口に出しかけた言葉を咄嗟に飲み込む。
一時的な判断と感情で、事を決めてしまっても良いのだろうか。
目を瞑れば、あの姦しい男が捲し立てる様子が浮かび上がった。
「主さんはそうやってすぐ面倒事に首突っ込むから痛い目に遭うとるんやで。自分資本!自己中心に物事決めなあかんやろ」
人にするアドバイスとしてはおおよそ適切ではないだろう言葉に、ヤミらしさを感じつつ、グレンは今の状況を頭の中で整理する。
そもそも自分がこの町へ来たのは、優秀な回復魔導士を仲間にするためだ。
「因みに猫君は回復魔法を使える?」
「僕の固有魔法は全属性。上位も下位も平等に使えるよ」
「採用」と口を衝いて出るのを思い留まった自分を褒めて欲しい。
グレンは心の中で自身の頭を撫でながら、一呼吸置く。
多少面倒な生い立ちと、かなり面倒な野望を除けば、これ以上の優良は見つからないだろう。
いや前者が重たすぎるのかもしれない。
グレンが頭を抱えて悩んでいると、「早くしろ」と青年が脛を蹴り上げてきた。
その乱れた服の隙間から、五桁の刻印が垣間見える。
端から疑うつもりも無かったが、その奴隷印を皮切りに、彼の境遇は本当の出来事なのだろうと思った。
青年は腹部へ注がれる視線を気にしてか、それとなく身なりを整えるとグレンに向き直った。
この場に居続けては余計な事を口走るのは、目に見えている。
そう考えたグレンが、関係を打ち切ろうと外へ目を向けると、視界に黒い影が映った。
腰の高さで座り込んでいる青年は、魔女の変化を敏感に感じ取って、周囲に探索用の魔力を放出する。
「海の上に生体反応だね」
恐ろしい程有能な魔法使いだ。
グレンは「先回りを可能としたのは、この技術力があってこそだろう」と驚きつつ、窓枠から身を乗り出した青年を、横目で観察した。
希薄された魔力は、能力をそのままに、全身を包み込みながら漂っている。
洗練された技術を持ち合わせている為に、グレンが普段纏っている魔力を探し当てることが、容易だったのだろう。
「黒い靄だ……あれで生き物のつもりなのかな」
彼は海上の生物を初めて見る様子だったが、グレンは視界に映ったそれをよく知っている。
あの淀んだ化け物は、彼女がこの世界に幽閉されるきっかけとなった『異形』だからだ。
「怨霊だよ。この世界にのみ存在する負の思念体」
そして、彼女はこう付け加えた。
「私が生み出したとされる殺戮兵器だ……」
平和を模していた町は、すぐに戦禍へ晒された。
魔法使いの青年は、縦横無尽に空を駆け巡り、救助活動に勤しみ始めた。
目に付いた子供達を灯台の最上部へと避難させる彼が、国を滅ぼしたいと願う人物と同一だとは思えなかった。
「この生き物魔法が効かないね」
優先していた救助に一段落つけた彼は、怨霊に向かって雷魔法を放つ。
しかし、敵はビクともしない。
全属性魔法が使えて無尽蔵に魔力を持つ彼にとって、それは『天敵』と呼べる存在だった。
迫り来る怨霊は、凍らせて足止めをするしか手立てが無いのに加えて、それすらも数秒足らずで無力化してくる。
「なに呑気に黄昏てるの。君も動いて欲しいんだけど」
青年は素知らぬ顔で海を眺めるグレンに腹を立てたが、当の本人は救助活動が無駄だと分かり切っている為に、怠惰な態度を崩さなかった。
「すぐに巫女が倒すだろうし放っておけば」
「巫女?」
青年の生まれた世界には、巫女が居なかったのだろうか。
彼の敵である国王がグレンでない以上、少なくとも青年はこの世界の住民ではない。
「四聖巫女の内の1人が私を封印し続ける為に、この世界へ留まっているはずだよ。町に居なくとも、巫女なら遠隔で倒せるしなんで……」
なんで巫女は、町に怨霊がたどり着く前に消さなかったんだ?
小さな疑問が浮かび上がったグレンは、素早く町の方へと振り返った。
人々は逃げ惑い、建物は瘴気によって爛れ始めている。
こんな状況になっても巫女が救いの手を差し伸べないのは、明らかに異常であった。
「少年少女!巫女は何処に居る!」
グレンは近くの子供へと、手当たり次第に質問を投げかけた。
多くの子は泣きじゃくるばかりで会話にならなかったが、冷静な数人がお互いの目を合わせてからグレンへと視線を移した。
「巫女様は修行をしているから何十年も姿を見てないって」
「お母さんも見たこと無いって言ってた」
巫女にそれ程長い期間の修行が必要だろうか。
宇宙の創造以前から生きる女神に、成長の余地がないとグレンは認識している。
「修業が必要だとしても、器を活かすための成長だけだろう」とグレンは思った。
自分をこの世界に留める感覚は絶えず続いている為に、13番目の世界に巫女が存在することは確かだ。
不可解な状態に不信感を募らせた魔女は、歯軋りをする。
「巫女だかなんだか知らないけど君なら止められるでしょ」
青年は確信したように、グレンへと投げかける。
彼は自分をどれだけ把握しているのだろうかと思いながら、怨霊を倒す手段を持ち合わせているグレンは舌打ちをした。
「なんで今日来ちゃうかな」
グレンは雨雲が近づく気配を感じつつ、自分の不運を恨むしかなかった。
腹の底から湧き上がる、どす黒い魔力で身体中を満たしたグレンを、青年は目を見開いて凝視していた。
『早く満たして。酷くお腹が空いたんだ……』
幼い少女の言葉を耳にしたグレンは、それに構わず自分の体の変化を見る。
指の先が黒く染まり、靄が全身を包んだその姿は、人の形こそ保っているが目の前の敵である怨霊と同じ様相であった。
魔女から溢れる異質な空気に触れた近くの子供達は、目を回して倒れ込む。
グレンは靄が小さな群生を成したのをきっかけに、その力を抑え込んだ。
肌に貼り付いた黒色が全身を包み込まないように、出力を調節しながら痛みに耐えていると、馴染みのある文言が彼女の耳に届く。
「悪魔だ……」
町人はグレンが急に現れた敵だと認識し、不安げに空を見上げる。
彼女は灯台より上に駆け上がって、町を一望する。
怨霊は海と正面入り口の二方向から、町に攻め入っていた。
衛兵達が、門付近の敵へと魔法を放つ。
当然、怨霊を止めるには至らず、彼等は次々と匙を投げていた。
「うわあ!腕が!」
魔法がダメならば物理で挑もうと、切っ先を怨霊に充てた兵士が、叫び声をあげる。
手にした剣が呑まれるのを見た彼はすぐさま腕を退いたが時すでに遅し。
兵士は靄に包まれて溶け出した肘から先を、失意の表情で見ていた。
グレンはその腕を容赦なく切り落として兵士を救い出したが、意図を知らない彼は怨霊と似通った彼女を見て転げる。
グレンは短剣を怨霊に向け、その靄ごと切り捨てた。
兵士の血液と怨霊の靄を吸った短剣が、赤黒く澱んでいる。
彼女と目が合った兵士は、恐怖の色へと形相を変えて一目散に逃げ出した。
グレンはその背中をただただ眺めていたが、背後から爆発音が聞こえると、すぐさまそちら側に意識を割いた。
魔女の動きを観察していたアルビノの青年が、上空から叫び声を上げて彼女を囃し立てる。
「斬れるなら全部倒してよ。中央に集めるから処理して!」
全く持って判断の速い男だ。
街全体に石壁を築き上げ、2ヶ所から湧き上がる怨霊を町の中心部へと誘導し始めた青年。
グレンは噴水のある中央区を目指しながら、未だに巫女が動かない事に苛立ちを覚えつつ、大股で歩いた。
彼女が移動を終える頃には、一点に集められた怨霊がコポコポと音を立てながら、更に大きく成長していた。
これの厄介さは、人の使う魔法が通用しない事以上に、この成長速度にある。
怨霊は同族を殺すと、相乗して強くなる。
意思の薄い化け物に協力をする知性はないので、大方移動中にうっかり同族を倒してしまったのだろう。
「まあ、それでも私の敵じゃないよ」
グレンが短剣を地面へ落として拳を握ると、その手の平から黒い魔力が立ち込めた。
大雑把な図体の敵を倒すのはこれが1番だと、肩に入った力を緩ませてそれの正面に立つ。
破裂した音を聞いたのは、自身の瞳が赤色に移り変わっていると感じた後だった。
力任せの一撃に、青年の創り出した壁が崩れ落ちた。
心配そうに中の様子を伺っていた住民たちは、グレンを視界に映した瞬間、再び顔を歪め始めた。
「東の魔女だ」
腕が黒く染まり、赤い瞳で空を見ている女性を誰もが知っていた。
そして彼等の知識は、此度の首謀者を確定させるものだった。
住民のうちの1人が、彼女に向かって石を投げる。
そんな動きは周りに伝播していき、無抵抗のグレンへ手当たり次第に物を投げ込んだ。
「お前の所為だ!消えろこの悪魔め!」
心のない言葉が、グレンの心に突き刺さる。
「そりゃあそう思うよな」と寂しそうに住民を見下ろしていたグレン。
その目前に青年が立ち塞がった。
腕を広げて仁王立ちする青年に掛ける言葉が無いのか、住民達の行動は鳴りを潜めた。
「違うでしょ。魔女は偶々居合わせただけだよ。どうして事実を確認せずに彼女へ暴力を振るうの?」
グレンは彼が何故自分の肩を持つのか理解出来なかったが、心救われる気分だった。
正面に防壁魔法を展開した青年を置き去りにして、グレンは町を離れる為に踵を返す。
そうしないと「彼が自分の味方と写ってしまう」と思ったからだ。
腕を包んでいた黒色は次第に引いて行き、辺りを包んだ靄が晴れる。
グレンの姿が元に戻ると、町の人々はその容姿に驚きの声を上げた。
横の髪を後ろに払いながら、背景に構わず進むグレンを止める者は無い。
「ちょっと、君の援護してるのに逃げるの?」
「なーんで付いて来るの」
グレンは自分の背後を小走りに追いかけて来る青年を、横目でチラと見た。
溜息混じりに首を捻るグレンに、当然だろうと鼻を鳴らした彼は横を歩き始める。
「僕は君を利用するって決めたからね。はい首輪」
目の前に浮遊したそれは『赤色の首輪』。
有無を言わさず差し出された魔道具を受け取ったグレンは、今までの迷いなど無かったかの様に自然と青年の首にそれを掛けた。
革製の首輪には複雑な魔法式を有していたが、グレンはそれの一部を消しながらロックをかけた。
首の周りが淡く発光する事で、契約の成立を見届けた彼は、満足そうに悪戯心に満ちた笑顔を咲かせた。
「よろしくねー国家転覆」
グレンは戯けた彼に呆れつつも、利害の一致した仲間へ、最初に問うべき質問を投げかける。
「んで、名前は」
彼女は彼を知ろうと、少しばかり心を開いた。
青年はふわっと浮き上がり、空中で胡坐を掻く。
風魔法の力を受けた彼の衣服が波打つと、先述した刻印が再びその姿を現した。
「54046。末尾を取ってシロ。仲間は僕をそう呼んでいたから」
上機嫌なシロを見上げながら彼女も丁寧に自己紹介をする。
「私はグレン。世界の……はみだし者だよ」
「はいはーい!私は記号さん!よろしくーシロシロ!」
ハウサトレスへと辿り着いたシロは、異質な陽気さに洗礼を受けて青ざめる。
「何だこれは」と指差しながらグレンに助けを求めるのは、記号が身につけたエプロンが返り血……ではなくトマトの色に染まり、所々にその固形物が残っていたからだ。
「記号は目を離したらすぐに姿を消すから探知に長けたシロが来てくれて助かったよ」
「えそれって僕に全部投げるってことだよね?」
「猫耳だああっそれ本物!?動いてる!」
「僕の役目は回復職なんでしょ」と耳を立てるシロを見て、興味深そうに目を輝かせるのは可愛らしい彼女であった。
「にゃんにゃんだああ!」
耳に触れようとする記号を、透明な鎖で縛りつつ部屋の隅へと逃げ出すシロ。
縛られた当人は、それすらも珍しそうに笑顔で受け入れる。
グレンが「随分と賑やかになったなぁ」と頷いていると更にうるさい男が1人増えた。
「浮気やっ!主さん浮気しとってん!」
論点が180度ズレた男は膝から崩れ落ちると、ハンカチを取り出して悲壮感を演出しながら、口惜しそうにそれを噛んでいた。
グレンは戦闘力を得るべく彼を勧誘したのだが、それを知らないヤミには、自分を裏切ったように映ったのだろう。
必死に何かしらを訴える彼を見下ろした魔女は、顎に手の甲を宛がって小さく息を吐く。
「お前には関係ないだろ」
バッサリと切り捨てた主人を、潤んだ目で見上げている仕人。
その後ろでは、擦り傷を増やしながらシロを追いかける記号の姿があった。
これは抗う彼の物語。復讐を果たすその日まで彼は魔女の元で爪を研ぐ。




