これは安堵する彼女の物語
廊下の手摺へ掴まろうと体重を掛けた兄さんは、その先に手摺が無い事にハッとした。
崩れたバランスのまま受け身も取れずに、生い茂る枝へ体を強打する。
――男は静かに粒子となって舞い上がった――
「今後は僕に頼る事。あの男より先に僕を頼る事」
「は、はい。すみませんでした」
グレンを正座させたシロは、偉そうに高みから彼女を見下ろす。
上下関係がひっくり返った2人の隣で、楽しそうに笑うのは記号だ。
「アッハハ!仲直り出来て良かったねー」
状況を知らない記号は悪魔を宿すグレンを恐れることも無く、その体に飛びついた。
記号の体温を感じたグレンは、気恥ずかし気に鼻を鳴らす。
「一件落着。ってか、ババアが素直に謝ってりゃシロさんがこんな怪我する事無かっただろうに」
瓦礫を退かしながら悪態を付く少年を睨んだグレンは、ヒョイと動かした指先で氷を生成し、飛礫で彼を小突いた。
「いってぇな!」
「ふーん、四十肩で何の役にも立たなかったガキが。偉そうな口聞いてんなよ」
「四十肩じゃねぇよ!」
あの日の戦闘で、シロに次いで苦渋を飲まされたのはマゼンタだろう。
ぐうの音も出ない少年であったが、それを彼女に指摘される所以は無いと嚙みついた。
「ところでマゼンタは僕に用があったんでしょ?」
すっかり傷の治ったシロは、服を修復させながら少年に問う。
グレンの襟を掴んでいたマゼンタは、その体制のまま頬を抓られた口を動かす。
「ひゃい。ひゃみひゃんがしほひゃんのしんふゃくほらよいにしひょって」
「普通に話してくれるかい?」
ゴゴゴとシロの背面が淀んで見えるのは気のせいだろうか。
マズイと悟ったグレンは、抓る指をマゼンタから離した。
「町の混乱を抑えるために、シロさんの人脈が必要なんです。流通に詳しい人材を知ってますか?」
「知らないけど……そうだね、ユグレナ出身の友人を当たってみるよ」
悩んでいたユグレナへの手掛かりを得た少年は、キラキラとした瞳をシロへと向けた。
白猫は眩しそうに嫌な顔をする。
そして、シロは少年の光を避けた流れでグレンを見る。
「本来は君の仕事でしょ?君の言葉で国民は動かないの?」
「……?ババアにそんな権力ないですよね」
2人の男からの視線に面倒そうな息を吐いたグレンは、腕を組んで胡座を掻き直した。
「私が国王なのは神が決めた理だろう。形だけだし、ヤミの発言じゃなきゃ誰も動かないぞ」
皮肉めいて言う彼女はヤミの名を口にすると、思い出したかのように刀を握って沈む。
その態度に嫉妬した白猫は、風魔法でヤミの刀をグレンから奪い去った。
「返して」とピョンピョン跳ねる主人を子供のように扱かうシロは、口角を上げて満足そうだった。
「楽しそうだね。僕も混ぜた欲しいなー」
明るいその声にゾッとした一同は、すぐ様に警戒体制をとった。
白衣の下部を真っ赤に染めた兄さんがニマニマと笑いながら、廊下の先から顔を覗かせていた。
戦う決意を前面に押し出したシロは、先刻魔力を消費し尽くしたにも関わらず、辺り一面に水流を創り出す。
フラフラと歩く兄さんは彼等に寄ろうとして、瓦礫の一部に足を掛けた。
そして転けたかと思うと、強打した頭部からドロドロとした血を流す。
――彼は動かない。
打ち所が悪かったのか、彼はそのまま死んでしまった。
「クソ雑魚が」
彼の固有魔法を知るグレンは、動かない彼の頭部をこれでもかと蹴った。
ぐしゃぐしゃと歪んだ頭が白い頭蓋骨を見せた頃、兄さんの体がほのかに発光する。
キラキラと肉体が粒子となって空へと還っていくのを、片手で庇を作って見送るグレン。
彼女はその粒子が僅かに北上するのを確認して、舌打ちをした。
「え?え?お兄さん死んじゃった!」
我先に驚きの声をあげた記号は、グレンと同じように空を見上げた。
「あの男は『不幸』の持ち主だからね。サタンが出て来なければ最弱の生き物だよ」
「割と簡単に死ぬ」と説明する彼女の言葉を信じられないマゼンタは、木刀を持った震える手をグレンへと向けた。
「ちゃんと説明しろよ!あいつがこの世界に居ちゃ気が気じゃねぇよ!」
マゼンタの発言も尤もだと、グレンは頷いた。
「巻き込んですまない。詳説するから、リアスも呼んできてくれ」
伏せがちな瞳を全員に向けたグレンは、彼等に釈明すべく決意を新たにした。
「僕ってまるで不良に囲まれた優等生みたいだね」
意味の分からない例えで方々に笑いかける彼は、世界に復活して間もない兄さんだった。
ケタケタと笑うその首元には、シロの生成した鎖が繋がれている。
そして、研いでも意味のない木刀を手入れするマゼンタは、隙のない視線を彼に送っていた。
用心深い男達とは対照的に、グレンは兄さんの横に気だるげに座っている。
その膝下で彼女の手を握って遊んでいるのは、黒いローブを左右に振る記号だ。
そしてもう1人。
机を挟んだ先で応接用のソファの上に正座する少女は、ふわふわとした愉悦に近い微笑みで悪魔2人と対峙している。
「んじゃま、1から説明しようか」
徐にスケッチブックを取り出したグレンは、マジックの蓋を歯で嚙み開ける。
「ガリッ」という破壊音聞いたマゼンタが「食うんじゃねぇぞ」と訝し気な視線を彼女に送った。
が、そんな視線を気に留めない彼女は難しい顔をしながら描画を続け、完成の喜びに口角を上げながら自慢げに紙をひっくり返した。
「世界創造は神が行ったのは常識として、そこに付け込んだのが『悪魔』と私達が呼ぶ存在だ。敵対する天上と地獄が直接的に争えなかったのは、単に同じ時空へ存在して居なかったから」
グレンは太いマジックで描かれた三角の勢力図を指でなぞる。
空間概念が希薄で実態の知れない天上。
グレン達の生きている13の地上世界。
黒色の炎が一面を覆う荒廃した煉獄。
波打つ線画はその力関係の歪さを表しているのか、はたまた彼女の絵心の為せる業なのか。
「だが、この地上は器を媒介すれば神も悪魔も共存し得る。ならばその動線を辿って天上を支配しようと言うのが悪魔の狙いだ」
「ええー僕達は争おうなんて思ってないよ。戦争を起こしたいのはそっちでしょ」
次の描画を描く妹の肩を抱きながら、兄さんはケラケラと笑う。
彼が指示した『そっち』はリアス――もとい博愛の女神に向けられた指で判断が付いた。
少女の薄く開かれた金色の瞳が、彼女を女神たらしめる。
敵と対峙しているにも関わらず、悠然とした態度で彼女は不敵に笑った。
『然りとて、そちらの思惑も分からないわ』
「フフフッ、サタンほど分かりやすい悪魔。他に居ないけどなぁ」
婦人が世間話をする様な平和な空気を醸し出す2人は、その実腹を探り合って綺麗に笑う。
彼等を四角い口でキョロキョロと見ている記号は「仲いいね」とシロに耳打ちをするが「どこが」と返されている。
目を離した隙に顔へマジックの擦り跡を付けたグレンは、またもや自慢げにそれを掲げた。
「前も言ったと思うが、私とこのクソ雑魚はリアスが女神を身に宿しているのと同じ様に悪魔と共存しているんだ。悪食の悪魔ベルゼブブが私の中に、憤怒の悪魔サタンはこの男の中に」
「えー僕の事ちゃんと『お兄ちゃん』って呼んでよー」
「うるせぇクズ。触んな」
頬に口付けをしようと寄って来る兄さんから必死に逃げようとするグレンだが、その腕に捕まれて動けずにいる。
その口が彼女の肌へ触れる瞬間に、兄さんへ付けた鎖を引いたシロは、自分の考えを整理しながら次の質問を投げた。
「仮に固有魔法が悪魔にも存在するなら、現状が説明できるね。周りに影響を及ぼす念魔法ならグレンの周りで空腹が起きる理由も納得だ。……僕の抑えきれなかった怒りもサタンの影響だったのか?」
「へー賢いねぇ。猫君の言う通り、『悪食』や『憤怒』なんて飾りの言葉は、悪魔の固有を分かりやすくする記号に過ぎない」
「ハッ!記号さんの話してる?」
名前を呼ばれて手を上げた記号を嗜めたシロは、氷の器を生成して水を際限なく注いだ。
無限に流れる液体は器の許容量を超えると、溢れて床を濡らす。
「今現在サタンの魔力は器から溢れ出して外を濡らしている。そして、その零れた魔力に影響されて、僕は感情の制御を失っていた。つまり、君の中では未だ魔力が満ちた状態なんだね」
「逆に言えば、ブブの魔力は空っぽになって誰にも影響してない。そりゃまあ、回復魔法使わずに怪我治してたら消費も早いよねー」
物分かりの良い白猫に感心しながら、妹の胸元が全員へ見える様に服を引っ張る兄さん。
傷口すらない真っ白な肌を露出したグレンは、嫌そうに溜め息を付いているがその行動を咎めない。
「んじゃつまり、お前はまだ俺等と戦う気があんのか……!?」
シロとは対照的に、真っすぐな言葉でしか判別が出来ない少年は、結論を急いで捲し立てる。
不安そうに口を歪めるマゼンタが醸し出す緊張感は、他の者の喉を渇かせた。
「んー僕の危険度が変わらないのは、この世の常だと思うけどなぁ。……あっ!でもさ、もう君達に興味は無いから殺しても良いんだよね」
最凶の男はいたずらっぽく狐目を強調して高らかに笑う。
気まぐれで世界を破滅させ得る男の行動の不明さが、これまで以上に周りの不信感を募らせた。
だがその中で、彼の道化を見破れる唯一の女神がほくそ笑んだ。
『貴方の勝利は視え無いわ。不戦か敗北か。どちらにせよ貴方はもう舞台に上がらないでしょう?』
最凶と対峙した無力な器を持つ女神が、何故こうも余裕のある態度を取るのか。
彼女の能力は『過去と未来の起こり得る勝利を先見する』。
サタンの勝利が未来に無い事を知っている彼女は、堂々とした態度でソファに居座っていた。
未来予知に直面した兄さんは、驚くことも憤ることもなく、普段の軽い笑顔で彼女の言葉を飲み込んだ。
「ネタバレは嫌いなんだけどなぁ。ま、そゆことだから僕から戦争は仕掛けないよー」
手を振った兄さんは立ち上がって机の脚に小指を強打し、その倒れた拍子にシロの足元の濡れた床へとうつ伏せに倒れ込んだ。
周りが見守る中、彼は動きを止めて生命活動を終了する。
フワッと粒子が浮かび上がって、窓から外へと移動して空へと舞い上がった。
「えうっそ、窒息死すんのかよ。うわーブルさん居ないと面倒臭ぇなこいつ」
グレンのドン引き声を聞いたマゼンタは、兄さんの倒れた何もない空間の前で、棒立ちになって口をあんぐりと開けている。
「『不幸』がどうとか言ってたよな……。なんかの呪いなのか?」
「いや、固有魔法だよ。日常的な死の危険――所謂ヒヤリハットがこいつにとっては必ず死に直結するんだ」
日常の例をイラストで並べ立てるグレンの画力に、ようやく「下手くそだ」と指摘する少年。
案の定、喧嘩になってお互いの服や髪を引っ張り合う。
「ありえねーだろ。固有は神から与えられた恩恵なんだぜ?マイナスに働くなんて気いた事ねぇよ」
「制御し辛い事は稀にある。斯く言う私も無意識に『魅了』が発動するし、記号も良い例だろう。強力な力は望まない結果を生むんだ」
聖典を説くマゼンタとは相反して、実例を述べて根拠を固めるグレン。
シロは思うところがあるのか、反故する2人の意見に賛同していた。
「過ぎたるは猶及ばざるが如し。何かしらの固有の能力が超過して、不幸に見えているだけかもしれないね」
情報をまとめた白猫は、マゼンタから頼まれていた用事を済ませようと出掛けの準備を始める。
小難しい話で眠り込んでしまった記号を抱き抱えて、移動のついでに部屋へと連れ帰った。
応接室へ残された3人の中で、最も気まずそうに汗を掻くのはグレンだった。
「そろそろリアスを解放してやれ。森じゃなきゃ肉体に負荷がかかるんだろ?」
彼女が居心地悪そうに外へと視線を泳がせる原因は、未だリアスに憑依し続ける女神にあった様だ。
兄さんは彼女が傍に在っても拒絶する様子は無かったが、グレンは本来敵である女神が目障りで仕方がないらしい。
軽く添えた手で口元を隠して笑うリアスは、言葉を選びながらその小さな口を開いた。
『消費する神力が減ったからそう簡単には壊れないわ。クスクス、これでいつでも貴女を貶めることが可能ね』
意味深な発言を残してソファへと身を預けるリアス。
彼女の力が抜けて其処へと沈み込む。
すると次の瞬間には、橙色の髪を揺らしながら首を傾げる少女が、幼い顔立ちで困惑した表情を浮かべていた。
リアスの帰還へ不安げな畏まった笑顔を向ける幼馴染は、彼女の手を取って気分を問う。
「疲れてないか、リアス」
グレンへ向ける敵意とは違う少年の優しい声音が、静かな部屋全体へと響き渡った。
「ええ、問題ありません。女神は何を語ったのでしょうか?失礼な事を言ってないと良いのですが……」
曖昧な記憶を辿ろうと頭を抱えるリアスの手を制したグレンは、彼女の座るソファの背もたれに行儀悪く座る。
「いや、存外友好的だったよ。憑依は出来ても力の行使は無理みたいだった。少し話を聞いただけだ」
自分を気遣う友人に両手を支えられた少女は、普段通りの優し気に申し訳なさを混ぜた苦笑いで事の顛末を聞いた。
一通り話し終えて手持無沙汰になったグレンは、少年少女の邪魔をするまいと珍しく気を遣って席を外した。
彼女の進む先には、壁を破壊された部屋が1つある。
自室の壁へと手を添えながら、彼女は仕人を想ってそっと目を閉じた。
グレンはあの喧しい男にうんざりしていたが、数年来自分を支えた感謝くらいは持ち合わせている。
彼女が破壊した物を直すのは、いつだってヤミだった。
片付かない部屋の瓦礫を踏みしめながら、足に伝わる痛みを無視してベッドを目指す。
寝不足に隈を重ねた彼女は、やっとのことで落ち着いた心と共に眠りに付こうと枕へ手を伸ばした。
「主さん!嗚呼、主さんの匂いや!兄さんの部屋薬品臭うてほんま嫌やってん!」
突然背中から腰に回された手に驚いたグレンは、その低い声の懐かしさに涙を浮かべた。
声も出さずに枕へと俯く主を心配したヤミが、彼女の顔を覗き込もうと前へと体重を掛ける。
ベッドに押し倒される形になったグレンは、身を反転させて彼の頬に手を添えた。
髪を乱した彼女は震える下唇を噛み締めて涙を堪えようとするが、濁流の様に流れるそれを止められない。
「馬鹿者が。私を置いて先に死ぬな」
「俺は主さんの為やったらいつでも死にますよ」
矛盾した回答で主を困らせたヤミは、グレンを一心に眺めた後に頬を赤らめてベッドから跳び上がった。
「嫌や主さん。そない見つめられたらもっと惚れてまうやろ」
両手を頬に添えて、男を知らぬ乙女の様に目を伏せるヤミの態度。
以前と変わらぬふざけた姿勢を取る男へと溜め息を向けたグレンは、彼が今まで何処に居たのかと聞く。
「あそこの『進むと戻る廊下』あったやん?今はその先が兄さんの部屋に繋がってん」
ヤミは真っすぐ暗闇へと続く、長い渡り廊下を指さした。
その廊下は屋根が付いた質素な作りで、木々に囲まれて和の雰囲気を醸し出している。
だがその先は外の光を無視した暗闇が、不自然に来訪者を拒絶していた。
廊下を興味本位で渡り切った事のあるグレンは首を傾げる。
ヤミの言う通り、渡った先は紆余曲折して元の場所へと繋がっていたはずだ。
今一度足を踏み入れるべきかと悩んでいると、暗い景色に似合わない兄さんがそこから姿を現した。
「あ、僕ねーここへ住むことにしたから。お隣さんだから、いつでも遊びに来ていいよ!」
ニコニコ笑う兄さんは、妹の肩に手を回して部屋へと誘導する。
離宮と呼ぶのがふさわしいその場所で扉を開くのを躊躇したグレンは、兄さんの手を払って「また今度にする」と道案内の申し出を断った。
「疲れたから寝たいんだ」
一度中断された眠気を抑えきれないグレンは、ヤミへと背中を預けて目を閉じる。
兄さんへと問いたい疑問は尽きないが、ヤミが五体満足で戻って来た事実だけが彼女を満たす。
これは安堵する彼女の物語。
嵐の過ぎ去った日常に満足したグレンは、ヤミの温もりを感じながら自然な笑みを浮かべた。
次回更新は2025/05/11を予定しています




