これは崩壊する世界の物語
ここサィデタ――末端の世界は、彼の為に創られた。
彼が世界を脅かさない為の幽閉場として、神が創造した世界。
彼は死ねない。
彼に幸せはない。
罪を犯し、世界から拒絶された悪魔。
理を打ち破った彼は、今日も明日も不幸に過ごす。
――だが、そんな罪深い悪魔が大人しく反省するだろうか――
グレンに「兄では無い」と否定された悪魔は、一拍置いて、恨めしそうに彼女を睨み付けていた。
苦しそうに頭を抱えるその手で、皮脂を割き、丸い眼球を露にする。
先刻までの余裕に満ちた表情は何だったのか。
彼はただ我が儘を通そうと、必死で言葉を捲し立てた。
「僕だって君の兄なんだから!君は僕の最愛の妹だろう?……僕だけ仲間はずれにするのかい?!」
兄を語る悪魔は、雄叫びを上げた。
ピリピリと貼り付く空気の威圧感に、リアスは涙を浮かべて息を呑む。
「大好きだよ!お兄ちゃんと久しぶりに会えて嬉しいよね?僕のだーいじな妹!ずっと僕がダメだって言うから我慢してたんだ!」
胸に手を当てて前傾姿勢で語る兄さんは、次第に黒い靄で包まれていく。
悪魔の象徴――黒い肌が全身を覆い尽くしているにもかかわらず、彼は変貌を続けていた。
ここまでくると『変身』と言うべきだろうか。
靄に包まれた腕は肥大し、異質な長さへと移り変わり、靄から現れた。
リアスは抜けた腰を庇いつつ、彼を一目見ようと必死に地面へ肘を立てる。
彼女はその目に映る異形を知っていた。
巨大化した胴体に、三角に折りたたまれた脚。
その体に似合わない巨大な岩のような頭は、バランスを保てずに右の方へダランと落ちている。
そして、彼を彼たらしめるのは、途方もなく伸びて、コードの様に絡まるその腕だった。
いつの間にか増えていた尾は、腕と似通った長さを有し、彼の後方でユラユラと蠢いている。
この形容し難いこの生き物を例えるなら『猿』だろうか。
「キキキ」と鳴る軋むような音は、彼の口から放たれているのかもしれない。
「憤怒の悪魔……『サタン』。でも、どうして……」
顔を真っ青に染めながら、リアスは震えていた。
女神が自分に見せた惨劇を思い返し、絶望に全身を支配された少女は、成す術もなく、ただそこで呆けている。
そんな彼女の様子を心配してか、幼馴染は木刀を構えて彼女の視界を遮った。
だが、そんな少年もダラダラと汗を流しながら、子羊の様に膝を震わせている。
サタンから放たれた大量の魔力に当てられた少年は、沸々と沸き立つ怒りで正常な判断を失った。
「……何だよてめぇ!リアスを怖がらせてんじゃねぇよ!」
どう考えても力不足である彼の一太刀が、5m程ある巨大な悪魔へと向けられた。
背後への警戒を怠っていたグレンとヤミは、マゼンタの奇行に一歩遅れる。
だが、勿怪の幸いか、少年の一撃が猿に届くことは無かった。
「……くっ!」
少年の愚行を阻止したのは、彼を蝕む呪いだった。
肩に急激な痛みを感じたマゼンタは、重力に潰される様にして地面へと落下した。
肩を侵食した古傷は、彼を地面に押し留めてドロドロと湧き上がる。
「クソガキ!」
マゼンタの身を案じて走り出したグレンに、横やりが入った。
風の音を置き去りにした猿の横なぎは、彼女の腹部で鈍い音を立てる。
そうして体の制御を失ったグレンは流れに身を任せて、そのまま岩場へと叩きつけられた。
――ヒュン――
そんな軽やかな物音を立てて斬撃を繰り出したのは、この場で最も冷酷な男だ。
切断された猿の腕は、宿主から切り離されても尚、ウネウネと動作している。
そんな腕の断面からは、氷の粒子が方々に散っていた。
白い息を吐きながらヤミは、一呼吸着く。
主の負傷に誰よりも冷静さを失いそうな男は、彼女の安否も確認せずにただジッと猿へと据わった目を向けていた。
吹き飛ばされた主の元へは、記号が駆けつけた。
吐血するグレンの体を支えながら、彼女はローブと目隠しを脱いだ。
それは彼女にとって最大の防御だ。
記号は考えた。
猿へと注がれた魅了は、きっと次の攻撃を阻止するだろうと。
そんな甘い思惑を持った記号を嘲笑うかのように、再生した腕が修復の勢いのまま、2人へと真っすぐ刺し出された。
次の瞬間、目を瞑ってグレンを抱きしめる記号の手前で「バチン」と音が鳴る。
覚悟していた痛みを感じない事に驚いた記号は、そろりと片目を開いて様子を伺った。
いつだって彼女を護るのは、目付け役のシロの仕事だ。
疲労した表情で記号の方へと手を伸ばす彼は、真っ赤に発光する首輪を握りしめて苦痛の声を上げている。
そんな彼の指先から連立した魔法陣は、記号の体を包み込み、猿の侵入を防いでいた。
しかし、彼の強力な魔法を以てしても、悪魔の前では役に立たない。
猿が開いた手のひらは、魔法陣に爪を立てて物理的な破壊を試みていた。
そして、バリバリと割れる音は次第に大きくなり、記号を護る全ての陣が崩壊した。
ヤミは1人で、もう片方の腕と格闘している。
リアスは過呼吸となり、使い物にならない。
マゼンタは依然として怨霊からの呪いで苦しみ、藻掻いている。
今度こそ、彼女等を襲わんとする腕を止める事は叶わない。
――ドスッ――
猿はいとも簡単に手刀で記号の鎖骨を貫いた。
そして、苦痛を感じる間もなく、記号は意識を失った。
見開かれた眼は限界まで上を向き、壊れた人形の様に動かない。
一部始終を見ていたグレンは、飛び掛けていた意識を保ち、記号の頬に手を添えた。
ドクドクと血を流す彼女は、まだ死んではいない。
しかし、傷口から溢れ出す黒い靄は、彼女の体を殺すべく領地を広げていた。
「はぁー、よりによって記号がやられるんか」
猿からの攻撃を避けたヤミは、彼女等へ近寄ると、溜息を付いた。
彼はグレンの服を捲り、腹の傷の深さを測っている。
腹部に広がった青痣は痛々しいが、数か所押してみても反応が無い事を鑑みるに、折れては無いと判断出来た。
横たわる記号を見つめるグレン。
通常時であればヤミへ抵抗を示したであろう彼女は、先程からブツブツと何かを呟いている。
「……に、なんで……」
彼女に最も近い場所に位置するヤミですら、その全貌を聞き取れない。
だが、この状況下でヤミには確信が1つあった。
ここで記号が死んでしまえば、グレンは元の廃人に戻ってしまう。
そんな不安を持った彼は、彼女の耳元で囁く。
「悪魔の力、使った方がええんとちゃいます?」
彼女を破滅に向かわせる発言を、恥ずかしげもなく言う彼こそが悪だった。
グレンはヤミの方へと顔を向けた。
希望と絶望に満ちた表情は、ヤミの次の言葉を待っている。
そして、仕人は綺麗に笑って彼女の望む言葉を与えた。
「……心配せんと俺は主さんの傍に居るから」
途端、グレンの体から猿と酷似した、黒い靄が沸き上がった。
ヤミは記号を拾うと、道中のマゼンタを蹴り上げて、動けずにいるシロとリアスの元へと落ち着いた。
彼等からは、グレンの横顔がよく見える。
空虚な覚悟を決めた彼女は、悲し気に眉尻を下げていた。
彼女の行動を見守り、鳴りを静めていた猿は、興奮した様に地面を何度も叩きつける。
地響きは地面を割いて、岩を宙に撒き散らす。
猿の雄叫びは空気を揺らして、重圧を方々に与えていた。
「……シロ、命令だ。皆を護って」
グレンらしからぬ優し気な発言は、従僕の自由を再び奪い去った。
怒りで唇を噛み締めていたシロは、強制的に発動させられる魔法に抵抗するも、悪魔との間に壁を作り上げた。
「……くっ僕は……かはっ!」
言葉を操れないシロは、主の命令のままに魔力を消費した。
透明な壁の先で、グレンは黒色に包まれる。
腕から浸食した黒い魔力は胸元まで広がり、首を絞める様に移動する。
それは「トプン」と音を立てながら、頭の先まで彼女を支配した。
俯き加減の瞳からは、赤の発光。
そして、剥き出しになった歯で、彼女は高笑いをした。
「ギャッハハハハハハハ!」
彼女は獣の様に獰猛な体躯で、猿の腕を絡み取った。
先刻まで最速を演じていた猿の腕は、その首位を彼女に譲った。
猿の腕に齧り付いた彼女は、上腕を引き千切り、その肉を飲み込む。
壁一枚隔てた先で行われる『人ならざる戦い』を目で追えた者は何人いただろうか。
「……やっぱあいつも悪魔なのかよ」
マゼンタの確信した発言に、リアスは目を凝らしながら頷いた。
「彼女は暴食の悪魔。ベルゼブブの胃は何であろうと飲み込んでしまいます」
彼等が会話をしているその瞬間も、グレンは猿の腕に齧り付く。
何度も何度も肉を貪り食い、口の周りを真っ赤に染め上げる。
腕は再生し、その数を増幅させたが、それを上回るペースで喫食する悪魔。
最凶と呼ばれたそれは、呆気なく彼女の胃の中に納まっていく。
遂には、劣勢に立たされた猿がサイズを縮小し、人と変わらない身長まで落ち着いた。
「わっ!待って待って!僕だから食べないで!」
ふと、土煙の中から場にそぐわぬ、素っ頓狂な声が響いた。
姿を戻した兄さんは、白旗を振りながら降参の意を示している。
奥歯に貼り付いた肉を指で抜き取りながら、ジト目で彼の様子を伺うグレン。
ボロボロになった白衣を必死こいて振る兄さん。
彼の着用するベルトが損傷したズボンは、下着が見えそうな程ズレ落ちていた。
そして、惨めさを追随する様に、上着のボタンも千切れてその数を減らしている。
彼の服装をマジマジと見たグレンは、無表情で魔力を抑え始めた。
兄さんは、彼女が手を休めた事に安堵したのか、ネクタイを緩めて座り込む。
「ふぅー、君も僕も無茶するんだなぁ」
わしゃわしゃと乱した髪に、いつもの寝癖を添えて。
グレンは兄さんの態度への最終確認を終えると、力を抜いてその場に倒れ込んだ。
体力と魔力を消耗した彼女は、肩で息をしている。
彼女は地面に頬ずりしながらも、安心しきった顔で兄さんに笑いかけた。
「良かった。お前なら記号を治せる」
サタンの魔力は言わずもがな『闇魔法』だ。
その上、現存する生物の頂点の悪である故に、巫女として未熟なリアスの光魔法をいとも簡単に押しのけるだろう。
術者しか解けない傷跡を負った彼女を治せるのは、その加害者である兄さんだけだった。
「えーその前に僕の両腕治して欲しいんだけどなぁ」
ヘラヘラと笑う兄さんはバランスを崩しながらも立ち上がり、疲労で動けないグレンの傍へと寄った。
「どう見ても負傷して無いだろうが……って何で治ってんだ?」
彼の腕を食らい尽くしたグレンは、疑問を持った。
彼に与えていたダメージは、どこに消え去ったのか。
不自然にだぼっとしたズボンの裾に、視線を落とした彼女。
その後、原理は不明だが彼との戦闘の初めての勝利に変わりはないと慢心する。
脅威は去ったと油断する彼女が、兄さんから差し伸べられた手に体重を乗せた時、
「……っ!主さん!」
グレンはヌルっとした生暖かい涎を垂らした。
仕人の悲鳴を聞いて、自分の危機を知ったグレンは、視線を足元へと移す。
筋力の無い細い男の腕が、胸元を貫いて制止していた。
兄さんは片腕で心臓を引き抜き、その鼓動を確認している。
「アハハッありがとう。丁度欲しいと思ってたんだ」
サタンを『純粋な悪』とするなら、彼は『不純な悪』だろう。
「あ……がっ……」
目を見開いて倒れ込む妹をゴミの様に見下す彼は、悪魔ではなく人間だった。
「そんな心配しなくて大丈夫!ブルが治せたんだし、君も治るよ」
グレンの胸元に空いた傷は、確かに人間からの攻撃だった。
靄は無く、普遍的な魔力に貫かれた胴体は、綺麗な断面を見せている。
兄さんの言う通り、彼女に回復魔法の才能があれば治癒も可能だろう。
しかし残念なことに、その回復を行える唯一の白猫は、彼女の命令で全身の制御を失っていた。
ヤミは猫の創り出した防壁に何度も斬りかかり、主の元へと駆け寄ろうと焦っている。
そんな差し詰まった悲劇を他所に、兄さんは亜空間へと心臓を放り投げた。
そこは彼の部屋が格納された空間に違いない。
目的の収集を果たした兄さんは、踵を返して上機嫌に鼻で歌っている。
――ドクン――
耳の奥に響くその鼓動を、誰もが自分のものだと勘違いをした。
胸に手を当てて不思議がっている兄さんの背後で、ヌラリとグレンが浮かび上がる。
胴体が宙に浮いた彼女は、両手足をダランと力なく垂らしている。
「ブン」と鳴る羽音が兄さんの頬を掠めて、彼の後方――グレンの胴体へと向かう。
それは何処から湧き出たのか。
虫の大軍は彼女の体全てを包み込むと、巨大な球体となり、更に上空へと浮かび上がった。
尚も彼女に集まる虫を『蝿』だと認識した頃には、球体が花開いた。
花の中心部ではグレンと思しい人型が立ち上がった。
死人の様に薄い色の肩と前胸部を黒色のドレスが強調し、ベールから覗いた2本の角は、時折崩壊しては陣形を戻す。
目元は不安定な被り物に隠れて、彼女の意思を隠匿する。
グレンの全身を包み込むのは『大量の蝿』だ。
着衣は常に蠢いて、風を受けたかのように棚引いた。
そして、小さく自然に開けられた口元は、彼女に大人びた印象を与えている。
言うなれば彼女は『蝿の女王』。
「ああっ!主さんなんて甘美な……!」
両手を組み合して跪くヤミは、彼女を信仰する信徒に他ならない。
彼が愉悦した表情で彼女を見るのは致し方ないと思えるほどに、彼女は美しかった。
浮世離れした彼女に見惚れるのも束の間、彼女が兄さんに向かって数歩寄ったかと思うと、既に兄さんの首は胴体と別れを告げていた。
ズレ落ちた頭は地面へと転がって、うつ伏せ状態になる。
残された胴体は脳からの信号を失い、ドミノの様に力なく倒れた。
ドレスの一部を担っていた蝿は、彼の死体に群がると捕食を始めた。
棒立ちでそれを見守るグレンを前にした仲間達は、呆然とその様子を伺う。
暫くして、食事を終えた蝿は、再び彼女のスカート丈を長くした。
固唾を飲んでその姿を見ていたリアス。
少女を見つけたグレンは「ニヤリ」と口元を歪めた。
「ひっ」
リアスの喉から空気が抜けると同時に、地鳴りが辺りを包んだ。
猿が崩壊させた地上を更に破壊し、もはや地面はその役割を捨てている。
ガタついた足場を諸共せず、グレンはリアスへと確実に近付く。
そして、防壁の前で立ち止まった。
「コンコン」と防御壁をノックしたグレンは、次に拳を繰り出した。
暴力で突破しようとする彼女は健在なようで、何度も拳を振って魔法を打ち砕いた。
彼女は人が通れる広さまで壁を破壊すると、仲間の安全地帯を踏み荒らした。
壁の横で構えていたヤミは、結界内に侵入したグレンの足を切断すべく刀を振る。
だが、その一撃は彼女の皮膚へ届く前に、蝿が押し留めて勢いを殺してしまった。
反発した蝿の軍勢に押し返されたヤミは、体制を崩して地面へとぶつかる。
グレンの興味はリアスにだけ向いているのか、彼の攻撃には一切構わず前進していた。
「はぁ、主さん斬るんは心苦しいけど、止めなあかんし」
満悦の笑みを浮かべる気の狂った男は、先程の一撃で取り零した刀を再び握った。
刀は形状を伸ばし、気付けば槍となっている。
腕捲りをしたヤミは、主人目掛けて思いっ切り槍をぶん投げた。
当然の如く蝿が槍をガードする。
しかし、今度の攻撃の威力は、前述の比ではない。
魔力を帯びていない槍は蝿を殺しながら、一直線にグレンの脳天を貫いた。
「なっ!……何しとんねん俺!」
態勢を崩したグレンは踏み止まり、何とか倒れずに済んだ様だ。
そして、彼女の怒りの矛先は当然の如くヤミへと向いた。
貫かれた頭のその下――ベールの隙間から覗く鋭い眼光に怯んだヤミは、懲りずに口角を上げる。
自分の陳腐な一撃では決して倒れない主に感激したヤミは、再び愉悦へ浸っていた。
次の瞬間、ダラッと涎を垂らした彼女の口が、ヤミの胴体に触れる。
「ブチブチ」と千切れる音に更なる幸せを噛み締めた仕人は、その場に倒れ込んだ。
ヤミに覆いかぶさったグレンは、ゾンビの様に生者の肉体を貪り食う。
ニヤけた顔で硬直するヤミの目から、次第に光が消えていく。
惨劇を目の当たりにしたマゼンタは、この状況を打破できるのは自分しか残されていないと感じた。
鎮まった肩の痛みを確認しつつ、彼は静かに木刀へと魔力を集中させる。
――ふと、その肩に誰かの手が乗せられた。
白服は少年の背後から颯爽と現れて、死体を食い荒らすグレンに近付く。
「へー良いんだーヤミ君殺しちゃって。大事な人なんでしょ?」
公園で遊ぶ我が子に寄り添う様に、彼はグレンの傍に立った。
声でようやく彼に気が付いたグレンは、蝿を散らして臨戦態勢を取る。
「おっとっと」
白衣が食い荒らされない様に攻撃を避けた男は、襟を正して彼女を諫めた。
「僕はもう満足したんだけどなー」
彼は紛れもなく『最凶の悪魔』だった。
死んだはずの彼は一切の怪我も無く、綺麗な出で立ちでそこに存在した。
ニコニコと笑う彼は、誰に向かうでもなく説明をする。
「ここは僕の為の世界だよ。僕が世界に縛られるための幽閉場。簡単に死ねるほど僕は善人じゃない」
無口頭で繰り出された氷の飛礫が、グレンへと向かう。
女王を護ろうと盾になった蝿は凍り付くと、地面へとハラハラと落下した。
不思議そうに視線を落としたグレンへ兄さんは笑いかける。
「あー闇を混ぜてるからね。僕はそんな器用な事出来ないって?でも僕は僕だから」
蝿が兄さんへと襲い掛かる。
兄さんは攻撃を避ける素振りを全く見せず、黒い靄を防御壁代わりにしてグレンへと手を伸ばした。
強敵に警戒したグレンは跳び上がり、彼から距離を取る。
「さあ、殴り合いでもしようか。お兄ちゃんのが強いって教えてあげる」
ニヤリと歯を見せたその男に苛立ったのか、グレンは拳に魔力を集める。
渦を巻く蝿が腕を囲うと、そこには歪な籠手が現れた。
戦闘準備を始めた彼女に対峙する兄さんは、浮かれた顔をして立っているだけだ。
地上を震わせるほどのグレンの威圧をものともせず、背を伸ばしてどっしりと構えている兄さん。
グレンの蹴り上げた地上は崩壊し、彼女の拳は兄さんへと振り下ろされた。
黒煙と土煙。
辺りを埋め尽くす視界不良に目を細めたマゼンタは、その隙間から2人の合わさった拳を見た。
「ギチギチ」と聞きなれない音が響いたかと思うと、次の瞬間には雷が落ちた時のような爆音が世界を包んだ。
……終焉の様な戦闘を最後に制したのは『兄さん』だった。
膝から崩れ落ちたグレンに、目線を合わせてしゃがみ込んだ兄さんは、彼女の言葉に耳を傾ける。
「ヤミが……ヤミが壊れちゃった……」
ようやく正気を取り戻した彼女は、両手で顔を覆う。
その隙間から溢れる液は、彼女の傷だらけの腕を濡らしていた。
兄さんは指を顎に当てて「うーん」と考える素振りを見せる。
「僕なら戻せるよ?」
彼は『死んだ人間を生き返らせる』と言った。
到底あり得ない発言。
通常の思考回路では、決して信じなかっただろう。
しかし、今の彼女にそんな正常さは残っていない。
グレンはハッとした表情で、彼を見上げた。
紫の空が朧気な彼の輪郭をハッキリと映す。
逆光に縁取られた彼の心意は伺えないが、これだけは明確に言える。
――彼は再び罪を重ねようとしている――
世界が兄さんに警鐘を鳴らす中で、グレンは弱弱しく微笑んだ。
「お願い。ヤミを治して」
彼女は言い終わると同時に、その場へ倒れ込んだ。
憤怒と暴食の戦い。
地上へと大きな傷跡を残した戦いは、こうして幕を閉じた――。
これは崩壊する世界の物語。
天変地異を起こした所業は、物語を加速させる。
展開が早すぎて読み辛い……(反省)
次回更新は2025/04/29を予定しています