夢見騒がし
表彰状が落ちていた。高校生の時に「あなたの家庭作文」で佳作を貰ったやつだった。綺麗好きな母の事を大げさにおもしろおかしく書いた作文で、絶対に本人に読ませるわけにはいかず、引き出しに隠した名誉だった。玄関からの長い廊下には折り紙、キャラクターのクリアファイル、コピー用紙に友達が描いた漫画、とりわけ映画のチラシが鮮やかに散らばっていた。
私は床の上を歩くことにこだわらなかったので、靴を脱ぐと表彰状をまたいで、すみれ色の折り紙を踏んだ。その次にピアノを弾くドレス姿の女性の足元にある映画のタイトルを踏んだ。そのあとは何を踏んだか、もう確かめなかった。長い廊下の終わりにある扉の色がわからなかった。混ざったような、混ざってないようなごちゃごちゃした色だった。それに、でこぼこ膨れていた。亀の甲羅だと思った。
甲羅の扉を開けると、リビングだ。玄関の廊下よりは短いけれど、同じ幅で細長いのは同じだ。リビングはクレヨンのにおいで淀んでいた。ソファは鉛筆と消しゴムがうじゃうじゃと占領している。落ちていたはさみを拾うとソファの前のテーブルに置いた。ソファのうしろには半透明なシャワーカーテンがある。それを引けば、シルバーの猫足の真っ赤なバスタブがあった。覗くと墨汁の湯が張られていた。そのせいか、元からかはわからないけれど、バスマットも真っ黒だった。そこで電球をさがしに来た事を思い出した。天井に付けるのじゃなくて、勉強机のスタンドに付けるちいさめの電球。またシャワーカーテンを引くと、キッチンだ。食卓テーブルにはシールが貼れる場所すべてに貼られていた。うさぎ、七色の星、ぞう、ひまわり、あひる、サングラス。幼いシールばかりだった。食卓テーブルの上にビー玉もあった。灰色のビー玉が一つだけ。キッチンの奥の扉が開いている。ベッドルームだ。そこからうめき声が聞こえた。老婆のうめき声だった。一歩近づくと大声が耳に響いた。
「こっちへ来るな!」
必死に隠している。ベッドルームに行けないなら、電球を見つけられない。
こちらの購入を考えています。値引きは可能でしょうか?
起き抜けに、フリマアプリを立ち上げた。全十巻セットを三千円で出品していた漫画にコメントが来ていた。
コメントありがとうございます。2500円まで下げました。
返信してから歯を磨き、卵ご飯をかき込んでまたスマホを確かめると購入されていて、メッセージが来ていた。
大ファンの漫画家の本なので、安く買えて嬉しいです!お取引きよろしくお願いします!
大ファンなら本屋で買えや。絶版になってるわけでもないのに。購入者のアカウントのアイコンが大きくてピカピカなバイクだったのもなんだか気にくわなかった。
ご購入ありがとうございます。本日中に発送致します。
卵がべったりついた茶碗を多めの食器洗剤で念入りに洗って、着替えて、下地とアイブロウだけの化粧をする。それなりに無事な状態で相手に届くように梱包する。トートバッグに商品になったそれを入れ、家を出る。
勤め先が潰れたのは突然だった。世の中が不景気だっていうのは知っていたが、私が入社した時からずっと不景気だったから、そんなものは風呂のゴムパッキンのカビみたいな、どうこうしてもどうしようもないもので、見て見ぬふりをすればどうにかなるものだと思い込んでいた。
「長い綱渡りをしてきたんです。それが、ええぇ、えー。ちぎれてしまいました。一生懸命結び直そうとしたのですが、力及ばず……。誠に申し訳ない。申し訳ない」
社長はそう言って頭を下げた。つむじが見えた。社長のつむじを見たのはそれが初めてだった。ただただ、いたたまれなくて、私はすぐに目を伏せた。
「あなたは若いから、すぐに次が見つかる。気負っちゃダメよ」
私物を片付けていると、仲が良かった斜め前の田村さんが声をかけてきた。
「しばらく遊ぶのもいいんじゃない?あ、棚にある封筒とかクリアファイルとか透明な袋、いる人は持って帰っていいって社長が」
田村さんの明るい声が響く。誰も欲しがらなかった封筒と透明袋の束を私は抱えられるだけ、抱えて帰った。
無職になって一か月は不安はなかった。ただただ、気ままでいい毎日だった。けれど月が変わるとお金が入って来ず、通帳の数字が減ってゆく。これが何百円になった時を想像したらぞっとした。不安が液体のようになって、左右の肺の間で渦を巻いた。銀行からの帰り、カフェでキャラメルラテを飲みながらスマホで求人を探した。その時、フリマアプリのバナー広告が目に入った。電気代ぐらいは稼げるかもしれない。そう思って、いらないバッグを出品すると、一時間で売れた。それから部屋中を毎日漁るようになった。それが今でも続いている。仕事を辞めて半年以上経っていた。貯金はずっと減っている。
一週間ぶりに郵便受けを開けた。まとめて引っこ抜く。部屋に戻ると、床に投げた。ピザの宅配、ヨガ、政治家の顔、新しい焼肉屋、時短レシピが載った生活情報誌、分譲マンション。全部自分には関係がなかった。
壁の本棚は一番下の棚以外、空っぽになった。クローゼットにかかっているのは、コートだけになった。スーツも随分前に売った。本棚から一冊、文庫本を出す。唯一、フリマアプリで買ったものだった。十年以上前に絶版になった本だった。レリィ・ドグの「恐れ」。中学生の時に図書館で読んだ本だった。絶版本は定価より高く売れることがある。全四巻の漫画が二十万で売れているのをフリマアプリで最近見た。灰色の表紙でおどろおどろしい絵だった。概要を読むと、カルト的な人気を持つ作家のホラー漫画だった。出版社は倒産、作者が亡くなっているためマニアの間で高額で取り引きされているらしかった。レリィ・ドグもこの世にいないが、人気がなかったので定価の半額で出品されていた。届いたのは、読み込まれた様子のない綺麗な本だった。
シールだらけの食卓テーブルに先生が座っていた。小学校の二年生の時の担任の先生。名前は覚えていない。女の先生で、あまり笑わない先生だった。食卓テーブルにはトマトと卵のオイスターソース炒めがあった。母がよく作ったレシピだ。色が綺麗だからという理由で母が好きな料理だった。料理をスプーンで掬って、ひと口食べる。味がまったくしなかった。母は色でも言葉でも風景でも、暗いのを嫌った。汚いことは恐怖だった。道に落ちていたコーラの瓶を子どもの私が小説の主人公の気分で拾って帰った日、母は激怒した。
「お母さんは汚いものが大っ嫌いなの。いらないものはけして持って帰らないで」
あれほど恐ろしい母は後にも先にもなかった。
食卓テーブルの上にある灰色のビー玉が一つ転がった。最初は緑色だったけど、みんなも緑色が必要で、茶色にしたけど、それもやっぱりみんな必要で、結局灰色にした。灰色のビー玉は食卓から落ち、バスルームの方に転がっていく。私はそれを追いかけた。
「忘れても、なかった事にはできません。見えなくなってもそれはずっとそこにあるのです」
背後で先生が厳しい声で言った。灰色のビー玉はバスタブの手前にあったお道具箱に通せんぼされて動かなくなっていた。私が幼稚園で使っていたお道具箱だ。肌色と橙色の間の色のお道具箱。クレヨンと折り紙とのりとはさみが、きっと入っていた。けれど全部、玄関の廊下やリビングに出したはず。お道具箱を持ち上げた。それでも灰色のビー玉は動かなかった。お道具箱の蓋を開ける。そこにはプレーリードッグの丸い死体があった。そうだ。貰ってきたのに母に怒られると思ってここに隠していたのをすっかり忘れていた。ひどい事をしてしまった。恐ろしい事をしてしまった。私はとんでもなく罪悪感で不安になった。早く、ベッドルームに運んで隠さないと。
「忘れても、なかった事にはできません。見えなくなってもそれはずっとそこにあるのです」
さっき背後で聞いた言葉を先生に目を見て言われた。黒く澄んだ瞳に、蛍光灯の明かりが白く光っている。私はベッドルームのドアを開けようとした。老婆が呻いている。どうしよう。でも絶対にプレーリードッグの死体をベッドルームに隠さないといけない。それに電球が必要だ。電球はいつもここにある。私はベッドルームに入った。けれど老婆はいなかった。老婆だと思い込んでいた人は近所のおじさんだった。植木屋のおじさん。
「電球は四つでいいだろう?使いかけだけどまだまだ綺麗だよ」
おじさんは優しく笑った。
枕元の文庫本を見る。レリィ・ドグ。プレーリードッグと名前がよく似ていると中学生の頃も思った。寝る前に読むんじゃなかった。
歯を磨きながら、プレーリードッグの死体について考えた。小学校の先生と近所のおじさんについても。ひとつのグレーのビー玉。小学校二年生の時の担任。電球が四つと言った近所のおじさん。三つの数字は特別な暗号な気がした。オボシメシという類。宝くじを買うと決めた。
近所の、植木屋のおじさんの事を十年は忘れていた気がする。奥さんはクリーニング屋で働いていた。夫婦に子どもはいなかったが、子ども好きだった。私もいっとき、幼馴染と遊びに行っていた。わたしが小学二年生の時だった気がする。そしてその頃に確か植木屋さんの夫婦は引っ越したのだ。
宝くじ売り場で数字を選ぶやつを買った。その日の夕方には当選結果が出た。私が選んだ数字は一つも出なかった。
億万長者を想像する。読みかけのレリィ・ドグの本を開くと、読んだ。
『悪運の雨に降られた時よりも、幸運の傘を手に入れた時の方が人生の境目である』
「したことは、忘れてもなかったことにならない。ずっとあるの。そこにあるのよ」
先生が甲羅の扉の前に立っていた。今日の扉は緑色だった。
「この緑のペンはあなたが使っていいペンだから」
先生が私にペンを差し出す。私はペンを受け取り、甲羅の扉を塗りはじめた。けれど、インクがすぐにかすれ、出なくなった。
「先生、新しい緑のペンはありますか?」
「緑は木の葉っぱに使っているから、みんな欲しがっています」
「じゃあ、黄緑」
「黄緑は原っぱの色にしています」
「甲羅の色って、茶色でもよかったかな?」
「茶色は幹に使ってるの」
「じゃあ、灰色でいいや」
私は灰色で甲羅を塗り出す。昔、同じ事をした気がした。先生を見る。
「夢を見なさい」
先生が言った。先生の手のひらから緑色のビー玉があふれ出した。私はそれをもらって、甲羅の扉に沢山はめ込んだ。
小学二年生の時の学習発表会、劇をした。シナリオは忘れた。黒板に先生が登場人物を書いていく。役は挙手制だった。人気がある役はじゃんけんで決めた。私は本当になんでもよかったので、誰も選ばなかった亀に立候補した。衣装はそれぞれ、自分で作らなければならなかった。私は段ボールを楕円に切って、土台を作った。甲羅を表現するために、卵パックを貼りつける事にした。先生はこのアイデアをとても褒めてくれた。そして帰りの会の時に、クラスのみんなに卵パックを私のために持って来てくれるように話してくれた。次の日、私は卵パックを余るほど手に入れた。すぐに、卵パックに緑のマジックで色を塗り始めた。けれど、緑のマジックは取り合いだった。仕方なく、黄緑にしたけれどそれもすぐに貸してと言われた。次に茶色のマジックを選んだけれど、それもみんなが欲しい色だった。結局、マジックケースに余っていた灰色で甲羅を塗った。やる気も意欲もない子どもだった。見かねた先生が緑の画用紙の切れ端を集めて来てくれた。
学習発表会がどんなのだったか、忘れてしまった。けれど、先生が褒めてくれた事はずっと覚えている。
「あなたが亀の役を選んだのも、亀の甲羅を灰色に塗ったのも、先生はあなたのいいところだと思う。あなたにみんなが卵のパックを持って来てくれたでしょう?あれも、あなたの長所よ。覚えておいて」
先生が頼んだからみんな持って来てくれただけだよ。そう思ったけれど、口には出さなかった。
知らない見覚えを感じる夢を見るようになってしばらく、洗濯機が動かなくなった。さらに来月は賃貸の更新料を払わなくてはいけなかった。銀行には、家賃三か月分のお金しかもうなかった。申し合わせたように、フリマアプリもぱったり売れなくなった。新しく出品しようにも、手放すものがなくなってしまった。私がいらないものは他の人もいらない。なんら不思議な事ではない。当然な事。永遠じゃないお金と時間。
日が沈んで、部屋にたっぷりの暗闇が満ち満ちてゆく。諦めて、照明をつければ、夜は窓からこぼれた。カーテンをきつく閉めた。
先生が中腰になって、ソファの上にある短くなった鉛筆を集めていた。
「長い鉛筆が一本もないのね」
不思議がりながら先生は、土をならすように鉛筆の群れを撫でた。長いのは、筆箱か鉛筆立てに入れている。新品のストックは一番下の引き出しに入れる。それは、勉強机を買ってくれた時、助言のように母が作ったルールだった。しまう場所を決めるのはとても大切な事だった。どこに何があるか、忘れないための大切なルール。私は引き出しを探す。
「未来があるから夢を見るんじゃないの。過去があったから夢を見るの」
先生はシャワーカーテンをドレスの裾のように持ち上げた。そこにはお道具箱があった。先生は心配そうに私を振り返った。
「本心がどうであれ、今日まであなたはやってきたんだから」
先生は笑わない。それでも、とても優しかった。私は先生の持ち上げてくれたカーテンの裾の下をくぐった。お道具箱を持ち上げる。蓋を開けたけれど、何も入ってなかった。お道具箱を持って行こうとすると、文鎮を踏んでしまった。痛い気がした。
写真が散らばったキッチンを通り過ぎ、ベッドルームの本棚にお道具箱を置いた。
「こんなので大丈夫かい?」
植木屋のおじさんが不安そうに四つの電球を抱えて立っていた。私は頷いた。ここで頷かないとおじさんが傷つく気がした。私はお道具の蓋を開けた。おじさんはそこに電球を詰めた。私は蓋をする。そして新品のノートを上に置いて、お道具箱を隠した。おじさんはまだ困ったような顔をした。私の母に怒られる事を恐れているのかもしれない。
「そのうちいらなくなるかもね。昔はいらないと思ったものが、この先役に立つ時が来るかもしれない。まあ、君が欲しいなら今はそれでいい」
白状すれば、別に欲しいわけじゃなかった。
新しい洗濯機が届いてからは、半分眠ったように一日一日をやり過ごした。ご飯も午後三時に一回食べるだけになった。
部屋は物がいくつもなくなったのに、さっぱりしなかった。床にチラシが散らばってるせいかもしれない。座っているのが億劫になって寝っ転がった。床板を撫でる。ここは夢の中ではない。手を伸ばして届く広告を捕まえた。分譲マンションのチラシだった。間取りの種類が三つあった。自分が住むならどれかと想像した。ふと墨汁が入った赤いバスタブが頭に浮かんだ。私は文鎮を踏んだ。あれは習字セットではないだろうか。赤い習字セットを私は小学生の頃に使っていた。私は起き上がると片面印刷の広告を探した。けれどなかったので、会社でもらった白い封筒をテレビ台の下から引っ張り出した。テーブルにあった水性の黒いペンで、夢の間取りを描いた。玄関からの長い廊下。それより短い細長いリビング。習字セットのバスルーム。シールと写真のキッチン。一番奥の広いベッドルーム。ペンを置く。間取りを描いた封筒を両手で、表彰状のように持ち上げた。それは正面から見た勉強机だった。部屋の間取りは引き出しだった。
両親は留守だった。持っていた鍵で玄関を開けた。実家は夢より静かだった。二階に上がって、私の部屋に入った。部屋は私がいた時よりも綺麗にされていた。母のおかげだ。真っ直ぐ勉強机に向かった。椅子を引くと、一番上にある二つの引き出しを同時に開けた。左の、長い方の引き出しには映画のチラシが入っている。一番底に表彰状。右には使いかけの鉛筆と消しゴム、シャーペンにはさみ、奥にクレヨンもあった。引き出しを閉じた。右の引き出しの下は引き出しではなく、棚になっていた。今は何もないけれど、ここに習字セットを置いていた。あと、幼稚園の頃から使っていたお道具箱。キッチンの引き出しを飛ばして、その下を開けた。新品のノートがまだ一冊残っていた。ノートをどけると、お道具箱が出てきた。肌色と橙色の間の色が変わっていないのに驚いた。お道具箱を勉強机の上に出すと、蓋を開けた。びっくりして肩が揺れた。おどろおどろしい灰色の老婆の絵が見えた。それは漫画だった。四冊入っていた。
記憶が蘇った、というような大袈裟な思い出ではない。植木屋のおじさんの家に子どもが出入りするのは、近所でも有名だった。植木屋のおじさんは善人以外の何者でもなくて、大人達からも信頼されていた。だから、引っ越す事になった時、知っている人はみんな悲しがった。そしておじさんは、できる限り身軽に引っ越さないといけないからと持っていた本や漫画を子どもたちにあげるようになった。その噂が私の耳に届いたのは周りよりも遅かった。だから私は、おじさん達の家の部屋の本がいっぱいあった棚がなくなっていたのにショックを受けた。棚ごとなかったのだ。きっと顔に出ていたんだと思う。私が、漫画目当てで来たことにおじさんは気が付いて、部屋の押し入れを漁り出した。
「小説の挿絵集ならあったかもなぁ。素敵な画集だよ」
素敵な画集をさがすおじさんの背中を見ながら私はアーモンドチョコレートを黙々と食べていた。林檎ジュースを飲み干した頃にはもう漫画も画集もどうでもよくなって、気まずいから早く帰りたくて仕方なかった。
「これならあったけど。あまり読んでないから、綺麗だよ」
おじさんの手にある漫画を見て、おばさんは怒ったように慌てた。
「ちょっと、それホラーだよ」
「やっぱりダメかぁ」
おじさんは笑ってごまかした。私はそれがいいですとか、欲しいとか、なんとか言ったと思う。おばさんは素っ頓狂な声を上げた。おじさんは喉を鳴らして笑った。
「そうか。こういうのが読みたいのか。好きなものは好きでいい」
別に好きじゃない。思ったけれどごまかすようにうつむいた。おばさんは不安そうにした。
「こんな小さい子にこんな漫画あげて、お母さん嫌がるんじゃない?」
私もそう思った。
「いいじゃないか。こっそり持って帰りなさい」
おじさんは私がホラーを好きだと信じて押し通した。帰り道、私は灰色の老婆の絵が恐ろしくて裏に向けた。これは明るい色が好きな母に怒られると思った。だから、お道具箱に隠した。隠し事をいつまで覚えていたんだろう。小学校を卒業する冬におじさんの訃報を知った時はまだ覚えていたはずだ。でも私は、そんな日でもお道具箱を開けなかった。
ホラー漫画は十五万で出品して、無事に売れた。少し安くしたのはおじさんへの嘘の罪悪感からだと思う。私はそのお金で、仕事を見つけるためのスーツと靴と鞄を買った。お金が無くなるならやっぱり働くしかない。
ハローワークに通う途中、田村さんに偶然再会した。田村さんが奢るからと二人でカフェに入った。久しぶりにキャラメルラテを飲んだ。会社を辞めてから一度も再就職していなかった私に田村さんは驚いた。そして、田村さんが働いている会社が求人を出しているから面接を受けてみないかと言ってくれた。
「あなた、いつもみんなが嫌がる仕事してくれたでしょう?文句も言わずに黙って。どんなに忙しくても不機嫌になった事もなくて。みんな言ってたのよ。あなたが辞めたら一番困るって」
これが運か長所かはどっちでもいい。それよりなんよりやっぱり、金持ちになりたい。