見初めてしまった
姉様、姉様、と声が聞こえる。
可愛いユリエラ、どうしたの?私はここにいるわ。
そう言ってユリエラに手を差し出したけれど、掴んだのはユリエラの小さな手ではなかった。逆にがっちりと手首を掴まれ、エーディトは恐怖から思わず悲鳴をあげそうになる。
「逃がさないからな、エーディト」
「…へ、陛下」
エーディトを娶っておきながら、聖女が現れるとそちらばかり構い倒して、エーディトには見向きもしなかった最低なひと。ただ最低なだけならばそれで良かった。
エーディトに見せつけるように、聖女を目の前で見せつけるように大切にして、愛を囁いた。
そんなことをするくらいなら、さっさと離縁してくれれば。そう呟いた独り言はいつの間にか聞かれ、アルベリヒの耳に入り、酷く暴力を振るわれた。殴られ、蹴られ、『お前が逃げたら家族全て、いいや、一族全て殺しつくしてやるからな』、そう言われてしまったのだ。
いっそ、その方が良いのかもしれないけれど、エーディト一人の思いでそんなことをさせてしまうわけにはいかない。
そもそも、時の神子たるユリエラとエーディトが、まともな結婚などできるはずもない。
能力を失い権力者に嫁ぐか、あるいはその身を全て神へと捧げる『神の花嫁』になるのか。どちらかだった。
エーディトが選ばされたのは、前者。しかも当時王太子だったアルベリヒたっての願い…というのは表向きかもしれないと皆がそろって思っていた。ただ、『時の神子』を娶ったという実績が欲しかったのだろう、と想像していたが、事実は異なる。
あまりにアルベリヒが駄々をこねるものだから、エーディトを脅して、無理矢理結婚したというだけの話でしかない。
最初、泣いて嫌がるエーディトを、無理矢理引きずっていく王家の使者。勿論ヴァイセンベルク公爵家がそれを許すはずもなく、一度は連れ帰ることに成功した。それを、王家はここぞとばかりに責め立て、エーディトにこう詰め寄ったのだ。
「選べ。そなたの家が反逆罪で取り潰され、使用人もろとも路頭に迷うか。お前が自ら望んで、この王家の…アルベリヒ王太子殿下の花嫁となり、家を守るか」
残酷すぎるけれど、エーディトにとって何よりも簡単な二択。
「…家を…守ります」
ぽと、と涙を落して、エーディトは首を縦に振った。
これに誰よりも喜んだのはアルベリヒだったのだが、こんな二択を出されて、誰が『嫁がない』という選択肢を取ることができるというのだろうか。
「お父様…お母様…ごめんなさい」
泣きじゃくるエーディトだったが、ヴァイセンベルク公爵はただ抱き締めることしかできなかった。公爵家なのだからもっと王家に抗えば良かった…と思っても、その時はエーディトが先に返答してしまったため、なすすべはなかった。
「我らがもっと守ってやれれば…!」
「いいえ…いいえ、お父様。お父様は殺されるかもしれないのに、その身を挺し、単身、王宮に乗り込んできてくれて私を助てくださいました。私は…エーディトは、それだけお父様に愛されているのだと…そう何よりも実感できるということが嬉しいのです…」
違う、そんなことではない。
たかがそれくらい、親であれば当然だ。そう言っても、エーディトは芯が強く、一度決めたら絶対に動かないということも分かっていたが、言わずにはいられなかった。
「お父様、お母様。きっと王太子殿下は無体を働きませんわ。だって、私は『時の神子』ですもの。…ユリエラと二人で役目を果たしていくことも、きっとご理解してくれております」
ね、と優しくエーディトは父と母に言う。
王家の人間であれば、『時の神子』がどれほど価値が高く、唯一無二の存在であるかなど分かっているはずなのだ。国王夫妻はそれを理解しているから、今回の連れ去りの件に関しても、アルベリヒを相当叱りつけた、ということは聞いている。
「だから、大丈夫。そのうち飽きて離縁されます。その時は白い結婚であることは誰もが知っているはずですもの」
「それは…そうだが」
「エーディト、良いですか。何かあれば神殿へ逃げるのですよ。ユリエラがおります。王宮と神殿は並び立っているのですからね」
「ええ、お母様。けれど、大丈夫ですわ」
そんなに心配なさらないで、と微笑んでいたエーディト。
きっと、…きっと大丈夫だろうと公爵夫妻は信じていた。だが、その思いは無残にも打ち砕かれることとなってしまった。
あくまで、国王や王妃にとっては当たり前のことであるけれど、アルベリヒにはそれが通じないということは理解していなかったし、理解したときには、何もかも全て終了してしまっているというのだが、今は、気付くはずもなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アルベリヒは、勉学においては大変優秀であった。
勿論ながら、『時の神子』がどのような存在であるかは理解していた。そのつもりだった。
初めて神子であるエーディトを見た時、彼はあまりの美しさに震え上がったそうだ。
エーディト=ヴァイセンベルク。
ヴァイセンベルク公爵家三女で、学問の成績はとてつもなく優秀。マナーも礼儀作法も、講師が『一度教えたらエーディト様は一から五を学び取ります』と褒めちぎるほど。
艶やかな銀髪と、サファイアブルーの綺麗な瞳。ほんの少しだけ釣り目がちだが、微笑むと花が咲いたように美しく、だが可憐な表情になる彼女に、アルベリヒは一目で恋に落ちた。
容姿端麗、頭脳明晰に加え、家柄も大変よく申し分ない。
勉強はできても恋愛ごとにはまるで疎かったアルベリヒは、側近に『どうしたらエーディトと仲良くなれるか』と聞いたが、側近は困ったように溜息を吐いた。
「殿下、エーディト様とは無理ですよ」
「…………は?」
側近の言葉に、アルベリヒはピクリと眉をつり上げた。
「良いですか、エーディト様はこの国そのものにとって、かけがえのない存在であらせられる『時の神子』なのです。あの御方は誰とも結婚などいたしません。それは、公爵家が明言しております」
「…何だと…?」
王太子たるアルベリヒが望んで、手に入らないものなどなかった。
異国の珍しい花が欲しいと願えば、その花だけではなく種も手に入ったから自国の温室で植え、育てた。
また、珍しい道具があれば作った技術者を探し出して、自分専用にカスタマイズしてもらい、それを愛用するなどして現在も楽しんでいる。
これが、アルベリヒ=ウスルフェンの常なのだ。
欲しいものは必ず手に入れて自分の手元に置いておく。
ある意味王族らしいとも言える思考回路なのだが、これまでは『人』でなかったために、傍若無人だとも判断されずにここまでやってこれた。
だが、今回アルベリヒが欲しがったのはまさかの『時の神子』。
人であることもだが、その存在価値は言ってしまえば、アルベリヒなんかよりも遥かに高いもの。至高の存在であるのだ。それを簡単に欲しい…とまではその時は言っていなかったが、『仲良くなる』という目的を通り越して、『王妃にしたい』と言い出すのは時間の問題だ。
アルベリヒの性格を把握している側近は、そうなる前に諦めさせようとした。
「エーディト様は時の神子としてのお役目がございます。これは陛下が昨日今日定めたものではございません。彼女が産まれ、時の神子としての力を持っている時点で、神によってそう在るべきと定められた、最も高貴な御方なのです」
「…で?」
「現在、既に神子として神殿でお過ごしになられておりますゆえ、お目通りは殿下といえど…」
「黙れ!では何故ヴァイセンベルク公爵はあの子と会っている!?」
「親、だからです」
「はぁ!?」
「特例中の特例でございます」
側近の言葉があまりに腹立たしかったのか、アルベリヒの顔はまさに憤怒の形相となってしまう。
しかし、それが紛れもない事実なのだ。
「贔屓するのか!!」
「贔屓などではありません。そもそも、エーディト様がお生まれになったのは、公爵閣下らが存在しているからではありませんか」
「それが贔屓だと言っているんだ!」
「どこが贔屓なのですか……。親であれば当然の権利にございます」
「うるさい! 贔屓と言ったら贔屓なんだ!」
「殿下がお決めになるようなことではございません。これは時の神、クロノス神からの神託あってのものなのですよ。それを贔屓と仰いますか?それに、親を『贔屓』など…。神罰が下っても文句など言えませんぞ、殿下」
「ぐ…」
ヴァイセンベルク公爵家は、時の神子を輩出したため、その瞬間から神の神託も聞こえるようになったという。
本来ならば、親から引き離して神殿入りさせるものであるのだが、エーディトの体弱さなど様々なことを考慮したがゆえの、神自らの配慮なのだ。確かに依怙贔屓ではあるものの、エーディトの体の弱さは神殿入りして初めて『今にも死にそう』から、『とても体が弱い』まで改善されているのだから。
神といえど、神子は失いたくない。
クロノス神が、自分の声を届けるため、民を良き方向へと導くために遣わす存在。それが『時の神子』。莫大な神力を使い、時には神の権能の一部すら使うと言われている、神秘の存在。
ヴァイセンベルク公爵家の者だから適性がある、というわけではない。神の波長と合う者でなければ神子などできはしない。成り得ない。
だからこそ、失ってはいけない尊い存在であるのだから。
そして、今代はその存在、というか適合者となった者がたまたま二人いた。
エーディトと、ユリエラ。
従姉妹揃って、生まれた瞬間に神の神子であると、神殿に『声』が降り注いだ。二人は年齢が二つ離れているが、エーディトが生まれた時に一回目の『声』が。そして、ユリエラが産まれた時に二回目の『声』が。
一体どういうことなのだ、と神殿と、選ばれた側のヴァイセンベルク公爵家、ならびにユリエラの生家のエヴァルト侯爵家は騒然となったが、ここで一つの仮説が生まれたのだ。
エーディトは、体が弱い。弱すぎる。
もしも、一人で神子としての役割を果たしていたら、十年生きられるかどうか、とまで神子に選ばれた当初に神殿で断言されたのだ。これがまず、エーディトが生まれて一年した頃の話。
大切な我が子だが、神に選ばれし子でもある。だが、神子として生き、役目を全うして天へと向かい、神の元で生き続けることになるのだ、と公爵家はそう、覚悟を決めた、その矢先である。
公爵家の分家筋であるエヴァルト侯爵家に生まれたユリエラ。ヴァイセンベルク公爵の弟夫妻の長女として生を受けたのだが、生まれたその日にまた、神からの声が降り注ぐこととなったのだ。
<ようやく揃った、我が愛し子。我が力を使うに相応しき魂の持ち主達よ。ようやくこの時が来てくれた>
それは、神殿のみならず王国中に届くほどの『声』。神がここまで喜ぶとは…!と、神殿の人間も王家の人間も、公爵家もどよめいたのは言うまでもない。
「…まさか、うちのユリエラまでもが…」
「だが…神子は一人なのではないのか?」
「ああ、そう聞いている。だから、エーディトちゃんが神子で……いやでも、どうしてうちのユリエラが…?」
ヴァイセンベルク公爵であるマルクと、彼の弟であるエヴァルト侯爵家当主のオースティンは向き合って話していた。
子供たちは妻たちがしっかりと世話をしてくれているので良いのだが、その日、エーディトは高い熱を出していて、部屋で寝込んでいた。
風邪を引いたわけではないのだが、こうして時折熱を出すことがあった。昨日までは何でもなかったのに…と思っていたが、ふとエーディトの父・マルクは『あ、』と零した。
「…神子への体の負担軽減…?」
マルクの言葉に、オースティンは目を丸くする。
そもそも、伝承通りでいけば、『時の神子』として選出されるのは、基本的に一人のみ。だから、エーディトが選ばれた時点でもう誰も『時の神子』にはならないと思っていたのに…と二人は揃って考え込んでいたが、マルクの言葉の意味を問うべくオースティンは口を開いた。
「兄さん、『負担軽減』って、一体どういうことだ?」
「エーディトは、体が弱いだろう。だが…もし、もしも、だ。奇跡的に、ユリエラちゃんも資質を持って生まれたのだとしたら…?」
「だが、神子と成り得るかどうかなんて分からないだろう! そもそも、伝承通りなら神子は一人のはずだ!」
<エーディトを失うは、あまりに惜しいのでな>
え、と二人の声が綺麗に重なる。
マルクにも、ユリエラの父であるオースティンも、目を丸くして声の主を探すも、そんなことを言いそうな人を考えると一人しかいなかった。
いや、彼の人を『人』と称して良いものなのだろうか、という疑問が浮かぶ。
<あれの魂は、歴代最高の美しさを誇る。だから、長く生きるために神子をもう一人選出した。同じくらいの輝きの、とても、とても綺麗な子>
穏やかな声、表情。
二人の目の前に現れた時の神クロノス。時を司っている神であるのだが、神子が誕生する可能性が最も低いと言われている。
時の力を使える、というだけで『好きなように時間を操れる』と勘違いする人が多い。
実際は、あまりに強い権能故に、できることは限られているのだが。
「…神、よ。では、あなたは…」
<二人ならば、エーディトも長く生きられる。ユリエラが、それを補えるほどの強さを持っているから>
「なんと…!」
<エーディトの魂の輝き、ユリエラの強さ。無くてはならぬ存在だ>
だから、選んだ。
そう、簡潔に答えられた。
神だからこその我儘。そんな存在から無くてはならぬ存在だと娘たちが言われているのは嬉しいが、複雑でもある。
とはいえ、エーディトは体が弱く普通に結婚したとしても子は産めないだろう。それを考えると生きる時間が長くなってくれるならば、それだけで嬉しいことだ、と二人は頷きあった。