願いは、
さぁ、果たしてそれは何度目の呟きなのか。幾度も呟いた『何で』という言葉を、アルベリヒはまた口にした。
エヴァルト侯爵家から届いた無慈悲な返信。
――当家にユリエラという娘はおりません。どなたかと、お間違えではないでしょうか。
確かに、先日まではユリエラ宛に手紙を出して従者に叱られた。婚約者が居るにもかかわらず、そういった手紙を出すこと自体がいかがなものか、と。
だが、つい先日送ろうとしたところ、何も言われなかったのだ。あんなに嫌悪感丸出しにして注意されていたのに。
そして返ってきた返信内容。
「おかしい」
さすがにアルベリヒも異変に気付いたようだ。
部屋に閉じこもって勉強に勤しんでいたが、ここに来てようやく部屋の外に出てみた。
王宮内が、とても慌ただしい。
一体何があったのだろうか。胸騒ぎだけがどんどん大きくなっていった。
「俺は、王位を…そしてエーディトを俺のものに…」
アルベリヒが呟いた刹那。
「あらぁ、たかがそんなことにまだこだわっていらっしゃるのでぇ?」
聞きなれた人を小馬鹿にするような声が、聞こえた。
自分の上から。
「お、おま、え」
「どうもこんにちは、王子殿下ぁ。今のお気持ちはいかがですぅ?」
あり得なかった。
巻き戻したのだから、ユリエラは自分と同じくらいの見た目のはずなのに。
「あらぁ…どうされまして…?」
目の前のユリエラは、巻き戻るその瞬間の、あの姿だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アルベリヒが王宮で、あのユリエラに遭遇した少し前に遡る。
エヴァルト侯爵家の当主夫妻、ヴァイセンベルク公爵夫妻、そして事情を知る使用人達や神殿関係者まで、出来得る限りの人物が集められた場所で。
ユリエラは意識が浮上したり、再び闇に落ちたり、を繰り返していた。
二度寝をするような、ふわふわと心地いい感覚に襲われ続けている。
「…ユリエラ…」
オースティンは心配そうに我が娘の名前を呼ぶが、その瞬間に奇妙な違和感に襲われた。
「…ん?」
おかしい。
自分にいるのは娘ではなく、息子なのに。
そう、神殿にいた孤児の男の子を引き取って、自分達は子宝に恵まれなかったんだから。
「…なんだ…これは…」
全員、奇妙な感覚に襲われていた。
目の前でベッドに横たわり、次第に人から神へと移り変わろうとしている少女が、大切だったはずなのに、そう見えなくなっている。何も感じ無くなってきている。
彼女に対しての、ユリエラへの何もかもの感情が薄れていっているのだ。
「まて」
オースティンが縋るように手を伸ばす。
「待ってくれユリエラ!わたし、は…!」
「…」
うっすらと、ユリエラが目を開く。
「わたしは、お前を、忘れたくなんかない!」
ユリエラの目から、ぽろりと涙が零れた。
「大丈夫ですわ…お父様…。代わりは用意しておりますでしょう…?」
力のない声が、ようやく聴きとれるかどうか、というくらいのボリュームでかすかに聞こえた。
「だが…!」
「クロノ…あとはお願いしますねぇ…」
ようやくだ。
ようやく、この瞬間をもって、ユリエラの願いが全て叶うのだ。
満足そうに微笑んでいたユリエラだったが、たった一人。
「(ごめんね、姉様)」
彼女があえて、この場に呼ばなかった人。
エーディトにだって、知らない内に自分の事を忘れてもらわなければ困るのだ。そうでなければ、何の憂いもなくクロノとエーディトが幸せになんかなれやしない。
――クロノと、どうか幸せに。
そう心の中で呟きかけたとき。
「ユリエラ!」
「…え」
聞きたくなかった、聞きたかった声が聞こえた。
「エーディト、ねえさま?」
「馬鹿!!なんてことしてるの!!」
周りの大人を押し分けて真っ直ぐユリエラの所に走ってきたエーディトは、かつて走ることなどできなかったのに、ここまで息を切らせて走ってきて、しまった。
余計な真似を、と思ったが呼んできたのはクロノだったようだ。
クロノは、こちらを真っ直ぐに見据えている。
「なんで…?」
「何で、じゃないわよ!貴女が消えて、ヒトではなくなって、神になるのは良い。でも、皆から、『貴女』を消さないで!!」
悲鳴のように叫ばれた切実なエーディトの『願い』。
「貴女が頑張って、全部ひっくり返したからこそ、今があるのは分かるわ!でも…っ、貴女という存在は、消させはしないから!」
「ま、待って。お待ちくださいな、エーディト姉様」
「いやよ!忘れてなんてやらないし、待ってなんかもやらないわ!クロノ!」
「ああ」
「ちょ、っ…!」
ずんずんとやってきたクロノはユリエラの頭をがっちりと鷲掴みにする。
「ちょっとー!?」
消えかけていたユリエラだったが、叫び声と共にその儚げな雰囲気が吹っ飛んだ。
「何してくれてやがりますぅ!?」
「お前が俺を巻き込んだんだ。なら、全てから消え去ることなど許してやらん!巻き込んだ責任を取れ!」
「いやちょっと、クロノ!?」
「元・神の図々しさも舐めるなよユリエラ!」
ほんの少しだけ、クロノへと権能が移動した。
さすが元・神とでも言うべきか。
何をしてくれやがるのだ、と叫ぼうとしたがそんなことよりも、権能を返さんかい!とクロノを睨んでからユリエラは慌ててエーディトへと視線をやって懇願する。
「姉様!?コイツ止めてくださいませんことー!?」
「嫌」
「姉様ーー!?!?」
「みんな、一緒よ」
誰もクロノを止めようとしない。
理由はたった、一つ。
「忘れてなんか、やらないんだから」
エーディトの言葉にはっとしてユリエラは、そこでようやくきちんとエーディトを見た。
「ユリエラ、皆あなたを忘れるなんてできっこないんだから」
泣きながら笑うエーディトは、あの時と同じく綺麗だった。




