羽化の始まり
ヴァイセンベルク公爵家に送った手紙も、エヴァルト侯爵家に送った手紙も、どちらからも返事がない。
あったのは、エヴァルト侯爵家からの、あの伝言だけ。それ以降は何もない。
「なんでだよ…」
王太子でなくとも、自分は第一王子なのだ。
そう、正妃の息子。
大切にされるべき存在で、エーディトを、今度こそきちんと愛して、可愛い子を己の腕に抱くのだと。
アルベリヒは、勝手にそう決めていた。
たとえ、ユリエラの妨害があったとしても、成し遂げてやるんだと決めていたのに。
「いや…まだ、大丈夫なはずだ」
独り言をつぶやいて、少し気分転換にと中庭に向かう。
最近は要領も良くなってきたので、午前中には自分の与えられた勉強内容を終えられるようになってきていた。
一応、『前』は神童と呼ばれるくらいには賢かったのだ。
それが今、アルベリヒの心の拠り所。
しかしユリエラやエーディトには一切近づけない。午前で勉強を終えて、午後からはまた別の授業が組み込まれるようになってしまっていた。
とはいえ、最近の行動の良好さは母に褒めてもらいたいと、アルベリヒは思った。母の優しさに、触れたかった。
今の時間は、王妃も確か休憩を兼ねてお茶をしているかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱いていそいそと中庭に向かった。
四阿でお茶をしている母を見つけ、顔がほころぶアルベリヒだった、のだが。
「まぁ、第二王子殿下はそんなにもお勉強が進んでいるのね。すごいわ」
「王妃殿下、この子は褒められれば褒められるほど有頂天になってしまいますわ」
「ひどいです、母上!」
少し遠くで繰り広げられている、あの光景は何だ。
アルベリヒは思わず吐き気を感じ、慌てて母の元へと駆け寄った。
「は、母上!」
「…まぁ…何ですか、騒々しい」
「何、で…何で、側妃なんかと、」
「…側妃、なんか…ですって?」
ぎろりと王妃はアルベリヒを睨んだ。
先ほどまでの温かな眼差しも、声も、何もかも、もうない。
どうしてだろうか、前回はあれほどまでに側妃に敵対心を抱いていたというのに。どうして今回はこんなにも仲がよさそうなのだろうか。
「わたくしの人間関係に口を出せる程、…お前はいつからそんなにも偉くなったというのかしらねぇ…?」
冷たく言い放たれた言葉は正論で、何も言い返せない。
アルベリヒの登場で、どこか気まずげな雰囲気になってしまった。王妃は深いため息を吐いて手をあげ、側近を呼んだ。
側妃は、自分の子に何かされては敵わない、と言わんばかりに第二王子をぎゅっと抱き締めている。いつの間に、と問い詰めたかったのだが、この雰囲気ではできるわけがない。
「誰か!…第一王子を、部屋に戻せ」
淡々と告げられる言葉と、それに従う側近。
彼らは王妃の部下だから、いかにアルベリヒが何かを言おうにも聞いてなどくれなかった。
どれだけ母に手を伸ばしても届くわけがない。
ねぇ、母上と呼びかけたいのにすべてにおいて拒否されている。
だって本当なら、あそこに、座っているのは。
「俺、だったのに」
これが絶望か、と。
アルベリヒは言葉通り部屋に引きずり戻され、そのまま室内に閉じ込められてしまった。
「何で、だよ」
呆然と呟いても、誰からも返事が返ってくることは、なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「まぁまぁ。頭が悪いこと、この上ない文面ですことぉ…」
ユリエラとクロノは、揃ってアルベリヒからの手紙を読んでいた。
相変わらずユリエラはベッドの上で。
クロノはユリエラに見やすいように、手紙を器用に見せている。なお、エーディトは念のための主治医の検診なので、今日一日は家から出られない。
「そしてまぁ…何とも…ありきたりな罵り文句しか書いてない、とぉってもつまらないお手紙…」
「見るに堪えんな」
こんな手紙、エーディトに見られなくて良かった、と言わんばかりに二人そろって溜息を吐いた。
「アルベリヒは、どうしてこんな手紙を送ってくるのだ」
「簡単ですよぉ。こっち側が皆記憶もちでやり直してるからぁ、力を貸せとか手を貸せってうるさいんですよねぇ」
「手を貸すのか」
「クロノ、それもう一度言ったら胴体と首がおさらばしますわよぉ?」
「い、一応聞いただけだ!」
「はいはぁい」
ふふ、とユリエラは笑う。
そして、手紙をぐしゃぐしゃと丸めてぽい、とゴミ箱の方向へと投げた。
「えいっ」
ぽこん、と手紙はゴミ箱にあたって落ちる。
「あらぁ…」
投げ捨てるために手首から肩にかけての腕が見えてしまった。まぁ、と改めて呟いてから、ユリエラは自分の手を仰ぎ見た。
「思っていたより、とぉっても早いですことぉ…」
――もう、そろそろ限界だ。
思ったよりも神の力との融合が早い。
ヒトであるには、もう限界だった。
せめて…半年は気合でもたせたかったけれど。『ユリエラ』として、エーディトとクロノが幸せに笑っている姿を、もっともっと見ていたかったけれど、もう無理であると悟った。
「この家に、ユリエラなんて人間はおりません」
「…そうだな」
ぽろ、とユリエラの体が崩れ落ちてくる。
「やぁだ、わたくしが実感した途端に更に早まってしまったわぁ…」
クロノは立ち上がり、ユリエラに対して深く腰を折り胸に手を当てた。
「父上と母上を、呼んでまいります」
「えぇ…お願いね」
急ぎ足で出て行ったクロノを見送り、母に対して言い聞かせていた内容をほんの少しだけ謝る。
自分の代わりに神子に、と言ったがあれはとんでもない嘘だ。
正確に言うと『消滅する自分の代わりに』が正しい。
もう、ユリエラは人でなくなるのだから、代わりを探す他ないが、それの役割がクロノなのだから。
「…王位を継げないくらいで、ガタガタ言わないでほしいんですよねぇ…。人殺しのくせに」
色々な事を考えながら、アルベリヒからの手紙は指先を動かして手紙ごと燃やし尽くした。
送った、といくら言ってもこちらに届いていないと言い切ればさして問題ない。
今のアルベリヒは気狂い寸前の王子として有名なのだから、そんな王子の言うことをどこまで、誰が信じるというのだろうか。
「哀れだこと」
でも、まだ足りない。
神の交代を、奇跡を、見せつけて絶望させなければいけない。
お前たちが何もできないと馬鹿にした者たちの願いが、どれだけ純粋で強くて、たった一人を大切に想っていたものだったのかを思い知れ。
ばたばたと近づいてくるいくつもの足音を聞きながら、ユリエラの意識がぼんやりとしてくる。
「…姉様…」
ごめんなさい。でも、最後に、貴女には…会いたかったな。呟いてから、何とか保てていた意識がふっと闇に落ちていった。




