はじまり①
どうして、こうなった?
王は、目の前に転がる王妃だった存在を呆然と見下ろした。
売り言葉に買い言葉、まさにそれが一番しっくりくる表現であったが、目の前に横たわる王妃だった彼女に拒絶され、それを受け入れたくなくて、彼女の言葉は聞きたくなくて、拒否ばかりしていた。
結果、王妃エーディトはバルコニーから身を投げた。
『もう、いや』
その一文だけ残し、飛び降りる瞬間を見た王妃宮の侍女曰く『あんなに綺麗に微笑んでいた王妃殿下を見たのは、きっと初めてです』、ということだそうだ。
文字は彼女の性格を表したように流れるようで読みやすく、とても綺麗だった。
どうしてこんなことに、何度も王であるアルベリヒは考えたけれど、彼が望む答えなど、誰も返してくれるはずもなかった。
棺桶の中、真っ白な薔薇に埋もれるように包まれ、彼女は綺麗な顔で横たわっていた。傷口が見えないように、彼女が好きだった花に包まれ、せめて最後くらいは何の憂いもないように……と。
ふらふらと、エーディトはバルコニーに出て、そのまま何の迷いもなく飛び降りたそうだ。
飛び降りた先、たまたまあった柵に体を貫かれて絶命した彼女は、まるで磔の刑にあっていたような有り様で亡くなっていたそうだ。どうしてそこに、というような配置の柵。先端は侵入者を拒むように尖っており、まるで凶器のようだ、とある人は言う。
心臓をざっくりと貫かれ、更には両腕までも貫かれていたことが『磔のよう』と言われている所以だが、そんなもの聞きたくなかった。
どうして、彼女に対して優しくしてあげなかったんだろうと、アルベリヒはただただ後悔するが、時を戻すことなどできはしないのだ。そう、思っていた。
「時戻し、ですかぁ? はい、できますよぉ?」
「は…?」
駄目元で相談に行った聖教会。大司教であるユリエラは微笑んで、のんびりとした口調で断言した。
にこにことしている彼女の表情からは何も読み取れないことが恐怖でもあったけれど、
「だ、だが、普段はできないと言っているではないか!」
「願った方にも反動は来ますからねぇ。ただ、その反動を良しとしても良いのであれば、私はこうして人によって結果の異なる可否を告げておりますのでぇ。生半可な覚悟程度で、時の巻き戻しなんか願わないでほしいんですよねぇ。巻き戻した後に話が違う!と騒ぎ立てる方もおりますし……そんなもの、こちらとしても願い下げなんですよねぇ」
底の読めない笑顔のまま、ユリエラは笑い続ける。
「ええ、なので陛下といえども代償は勿論必要ですよぉ? まさか何の対価もなしに時を戻せるとお思いですぅ?」
「何だ、金か?」
「そんなものあっても、死んだら役に立たないじゃないですか~。陛下は存外お馬鹿さんでいらっしゃることでぇ」
本来ならば不敬罪にもなるような発言の数々だが、ユリエラに限ってはそうならない。ケラケラとひとしきり笑ってから、ユリエラが出してきたのは大司教にのみ受け継がれている聖書。そして、内容はごく限られた人にしか読めない造りになっている。
しかし、これはあくまで表向き。
そんなものがなくても、ユリエラは時を戻せる。そういう役割を担っているのだから。
「我が国の守護神であらせられる神のお力を借りるために、代償としていただくものは、『蘇らせた者の記憶』にございます」
「は…?」
「生前の記憶をお持ちになったまま、王妃殿下がお目覚めになればそれはそれは悲壮な運命が待ち構えておりますよぉ?」
だって、とユリエラは続けた。
「そもそも王妃殿下の自死の原因を作ったのは、貴方様ではございませんか。…こ、く、お、う、へ、い、か?」
わざと、一言一言区切って告げる。
何ということを、と側近が睨みつけた先。ユリエラの表情は普段のヘラヘラとした読めない笑顔から一転、何の感情も読み取れない『無』であった。
「陛下がもう一つの世界からやってきた聖女様に構いきりになり、王妃殿下との思い出を次々破棄なさり、王妃殿下のお部屋も何もかも奪って」
「やめろ」
「挙げ句、聖女様がご懐妊」
「やめて、くれ」
「それで王妃殿下が自死なされたら『時戻し』を使って生き返らせてくれ、だなんてぇ…」
「あ、あぁ…」
「私なら生き返った事情を知った瞬間に首かっ切りますねぇ」
あっははは!!と高らかな笑い声が響く。
やめろ、やめてくれ、とアルベリヒは呆然と呟いていたが、ユリエラは何一つ容赦などしない。
そう、ユリエラ言われたことは全て事実。否定できない、己の不貞。
そして、それを知った王妃の絶望は相当なものだった。
聖女が望むまま、ただひたすら彼女を甘やかしてはいたが、聖女としての役割を果たしてもらうためのご機嫌取りだった。ただ、本当にそれだけだった、とエーディトには繰り返し伝えた。
だが、そんな言葉を誰が信じるというのだろうか。エーディトに対して行われた初夜と違い、聖女のことは大層大切に、とてもとても慈しんで可愛がっていた、と王妃付きの侍女はからかうように笑いながら言う。エーディトの心をまるで乱暴にえぐる様に。なるべく、エーディトが傷つくように。
結果としてエーディトは心を病んでしまい、自死を選ぶこととなるのだが、アルベリヒはエーディトを一度たりとも慰めることなどしなかった。心を病んだエーディトを、アルベリヒはひどく罵ったそうだ。
これがより一層、彼女の心を踏みにじり、壊すことになったというのに今更後悔しているとほざく、目の前の国王・アルベリヒという男。ユリエラは表情に出さないまま嫌悪感だけを募らせていく。
「どうせ陛下が王妃殿下を蘇らせたい理由なんて一つでしょう?」
「……っ」
「妃殿下のご実家、ヴァイセンベルク公爵家のお力が必要だからでしょう。己のために」
「ち、違う! 本当に、それは違うんだ!」
「まぁ…信じてもらえるとでもお思いです? 王妃殿下よりも聖女様の所に足繁く通った挙句に子まで成した男の言葉を。信じる価値、あります? 何で信じなきゃいけないんですかぁ? もう少しまともな理由をお考えなさいませね」
「あ…」
「真実の愛とか運命の出会いとか、どうでもいいんですよぉ。いくら綺麗な言葉を並べ立てようとも、単なる浮気ですもんねぇ、陛下のソレは」
『単なる浮気』というストレートな罵り文句が、思い切り突き刺さる。だが、国王はぎっとユリエラを睨みつけた。そして勢いに任せて怒鳴りつける。
「黙れ! 聖女は側妃となる女性なのだぞ! それに、ヴァイセンベルク公爵家と我が王家の縁談は国が定めたものだ、不貞だとかではない!」
「いや意味わからないんですが。国が定めた婚姻関係にも関わらず浮気なさって、王妃殿下が自死されて、周り…というか公爵家が烈火のごとく怒り狂ったから、とりあえずここに駆け込んできて苦し紛れに私を怒鳴りつけているだけの、哀れな国王様でございましょう~?」
「き、貴様…!」
あぁ言えばこう言う、まさにそれがぴったりな二人のやり取りに国王の側近は冷や汗が噴き出している。
「そ、それは、王妃が…、エーディトの理解が足りなかったせいだ!」
「………………はぁ?」
「大体、正妃がいるのであれば側妃がいて何の問題がある! 我が国は側妃制度を禁止してはおらん!」
「へぇ……」
気が付かぬうちに取れているユリエラの敬語。そして、じわじわと下がっているような気がする部屋の温度。
あれ、と思った側近だったが、次いだアルベリヒの言葉に顔面蒼白になった。
「エーディトがきちんと理解せぬまま国母になったのが、そもそもの問題なのだぞ! それにまさか抱いたくらいで神子の力が失われると誰が思うか! 大司教は国、そして国王や王妃が、何たるかを理解する必要があるのではないか?! 加護ができぬゆえ、聖女を召喚するしかなかったというのに!」
「へ、陛下…」
「何だ! お前は黙ってい、ろ…」
部屋の雰囲気も、温度も、変わった。何より一番変化したのは彼らの目の前に座っている、ユリエラの雰囲気そのもの。これまではどこかおちゃらけているような雰囲気だったのに、今はそれが一切感じられないほどに、何というか『冷たい』のだ。
ぴしり、と空気が凍り付いた音が聞こえた気がした。決して比喩表現などではない。
ユリエラの顔からは一切の表情が消え、ひたりと国王であるアルベリヒを見据えていた。
「今の発言は、エーディト姉様がわたくしにとって大切な存在で、そして親愛なる従姉だということを知った上でのものですかしら」
「……………………あ、っ」
今更ながらこの国王陛下は思い出したらしい。
ユリエラと、王妃であったエーディトはとても仲のいい従姉妹同士だったのだ。
本来であればエーディトは生まれ持った特殊スキル故に神殿所属となるはずだったところを、王家……もといアルベリヒがあまりにエーディトのことを欲しいと願ったために、拝み倒した結果、エーディトは半ば無理矢理に嫁がされたのだ。
ユリエラと二人で、それぞれが持った特殊スキルを民のために活かしていこう、と笑いあっていたのに。婚約が無理やり結ばされてから、次第にエーディトからは笑顔が消えていった。
そして、自分の意思ではなく、ただ王家との約束のために嫁いだエーディト。婚約・婚姻に関するの書類に関しても、押さえつけられるようにして半ば無理やり書かされたそうだ。
加えて、もともと体が少し弱かったエーディトだが、王妃教育を相当な速度で行ったと聞く。
見ている方が泣きたくなるような苛烈な教育スケジュール。眠る暇があるならば勉強しろ!と幾度も怒鳴られ、叩かれ、まともな休息など碌に得られないままに進められた。
エーディトが優秀であったからどうにかこなしたけれど、結婚式を挙げてからも心休まる暇などなかった。
そして、ひたすらに拒否していたけれど、無残にもエーディトの純潔は散らされてしまった。彼女からすれば、ただただ気持ち悪くて、嫌悪感ばかりが勝ってしまった行為の全て。これが愛する者とであれば、そんなことは思わなかったに違いないけれど、嫌悪感しかない相手との初夜などまさに悪夢でしかなかったのだ。
もう嫌だ、と泣き叫んでも誰も手を貸してなどくれなかった。助けようともしてくれなかった。
ヴァイセンベルク公爵が娘との面会を求めた時だけ、彼女は外の人間と会うことが出来たそうだ。そして、その際はしっかりとアルベリヒが付き添い、余計なことを言わないように思いきり背を抓っていた、とも聞く。
それらが伝聞調なのは、ユリエラが血反吐を吐く勢いであっという間に大司教の地位に上り詰めたうえで、城の人間を引っ捕まえてヴァイセンベルク家へと引き渡し、拷問に近いことを行って情報を吐き出させたからだ。
許すことなどできぬ。
ヒトではない、鬼の所業を、大切な従姉に対して行ってきたこの国の国王であるアルベリヒを。
だが、知った時はもう遅かった。




