01
外出時は制服。そんな校則がある華見学園の生徒、北村涼子がアルバイトの帰りにその道を選んだのは、ほんの気紛れだった。
茜色の空を見上げながら貴重な春休みの予定をほとんどバイトで埋めてしまい少しだけ後悔しつつも、欲しい物を思い浮かべるだけでウキウキしてしまう。だが家に帰れば手付かずの課題がある。せっかくの楽しい妄想時間を引き延ばしたくなった涼子は、ふと目に入った路地へと足を向けた。
古くからある住宅街だが、通るのは初めてだった。車がギリギリ擦れ違えるくらいの、広い様で狭く家が近い、そんな道だった。
夕食の仕度をしている音や匂いの満ちた空間を、すれ違うお婆さんの挨拶に慌てて返したりしながら進んでいく。
ぽつん、と公園があった。
鉄棒とブランコ。他には水飲み場だけの小さな公園。
どこか寂れた様子に惹かれて公園に入った。
ブランコに座り、軽く揺らしながら買い物の妄想に浸る。
誰かを誘って色々見て回ったら楽しいだろうと思いつつ、隣に住む幼馴染みの京太を誘う気にはなれなかった。
1年下で、幼さの残る中性的な顔立ちの京太とは姉と弟の様な関係だったけれど、最近は異性として意識されている気がする。
しかし涼子としては、まだまだ子供っぽい京太を弟としか見れず、会う時間を減らす意味もあって春休みをバイト浸けにした。そこに少しの罪悪感がある。
どうにもならないと分かっているのだけれど、
「姉離れしてくれないかなぁ」
血は繋がってないけど、と呟き空を見上げた。
日が沈み、全ての輪郭が朧気となる黄昏どき。逢魔時。
視界の隅で何かが動いた気がして、顔を向けた。
「気のせいか……あれ? なにあのモヤみたいなの」
涼子は公園の真ん中にあるそれに気付き、スマートフォンを取り出してカメラを起動する。
カメラ越しだとよりハッキリ見えるそれは、表面がゆらゆらと揺れる水の柱に見えた。
静止画を撮って、こういうのが好きそうな京太に「なにこれ」とメッセージを付けて送る。
不思議と恐怖は感じない。動画で撮りながら近付き、ゆらゆらと揺れる表面に触れようとした、その時。ぶわっと広がったそれが、涼子を包み込むように押し寄せ――そのまま通り過ぎた。
悲鳴を上げる間もない、一瞬の出来事。
ぽかんとしていた涼子だったが、
「あ、スマホ!」
と叫んで画面を見た。大丈夫、濡れていない。そして自分の体もチェックし、どこも濡れていない事を確認すると、真っ先にスマートフォンを心配した自分が可笑しくなって、振り向く余裕が出来た。
謎のモヤは街灯の光を受けながら公園を出ていく。
涼子は、このところ京太には寂しくさせた事もあり、この不思議な現象を見せてやろうと思って撮影しながら追いかけた。
更に不思議な事が起きた。
涼子が追い付いたところで、モヤが振り返ったのだ。
顔なんて無いのに、そう感じた。そしてその表面が、三日月を横にした形に裂けた。
(え? わらっ……た? 生き物なの?)
まるで意思があるかの如く笑って見せたモヤは、そのまま空気に溶け込む様に消えた。
(何これ何これ何これ!! 何か変なの居た!!)
涼子は興奮した勢いで京太の番号をタップした。
だが。
「あれ?」
無音のスマートフォンを耳から離して画面を見ると「発信できません」の文字が浮かんでいた。アンテナも立っていない。
「なんで? ちゃんと引き落とされていたのに。もしかして壊れた?」
リョウコはスマートフォンの料金を自分で払っている。それが所持する条件だったからだ。そのためにバイトをする様になり、専用に作った引き落とし口座には常に3ヶ月分が入っている。
便利ツールが突然使えなくなると、言い様の無い不安に襲われるものだ。涼子も例外ではなく、ひとまず家へと急ぐ事にした。
周りはすっかり暗くなっている。街灯の多い道で良かったと思いながら急ぎ足で歩いていると、また、お婆さんと擦れ違う。
「おや、いま帰りかい? 気を付けて行くんだよ」
「ありがとうございます」
優しい言葉に会釈して礼を言い、はたと気付いた。
(今の声、さっきも擦れ違った人じゃ?)
そんなバカなと振り返ったが、お婆さんに怪しいところは無く、のんびり歩いているだけだ。
あとから来た若い男性が、笑顔でお婆さんに話し掛けた。そのまま立ち話をはじめたところをみると、知り合いなのだろう。
(もしかして……!)
涼子は、数年前に町外れの農道で起きた事件を思い出し、慌てて自宅に向かって走り出した。
「はあっ……はあっ、や、っぱり……」
10分後。
息を切らしながら到着した自宅は、まるで時間が一気に流れたかの様に寂れていた。
傾いて重くなった門扉を開けて、敷地に入る。人の出入りが絶えて久しい雰囲気の玄関。
近付いてみると、サッシには埃が積もっていた。上を見上げる。
(あ……無い)
両親と自分の名前が並ぶ表札が無くなっていた。その事実と荒れた敷地は、随分前からここが無人である事を示している。涼子は、先程思い出した事件と同じ事が、自分にも起きたのではないかと考えはじめていた。
数年前に起きた女子高校生消失事件。無事に帰って来たのは2年後だけれど、本人は過去からやってきたかの様に、何もかもが消失した日のままだったそうだ。そして、全て忘れられたかの様に続報が一切無いのも謎である。
奇妙だったのは周りの誰もが、一緒にネットニュースを見た京太すらも、数日後には忘れてしまっていた事だ。
スマートフォンを見た。
Wi-Fiが接続されていた。
パスが通ったという事は、隣の家に住んでいるのは京太とその家族だ。そして、Wi-Fiが使えるのにアンテナが表示されないのは、機器の故障ではなく、料金未納のため解約されたからだろう。
涼子は京太の部屋が見える所まで移動して、2階のそこを見上げた。カーテンから室内の光が漏れている。
アプリを立ち上げてメッセージを見ると、10数分前に送ったばかりの画像は「保存期限が過ぎました」の文字だけで真っ黒になっていた。
震える指でメッセージを綴り、送信する。
『京太、帰ってる?』
すぐに既読が付き、返信が来た。
『どちらさん?』
通じたということは、当然名前も表示されている。なのに。
他人行儀な返信を見て、涼子はふらふらと玄関まで戻る。
(そうだ、Wi-Fiが使えるうちに)
迎えに来て。祈りながら両親のアカウントにメッセージを送る。
だが。
10分程で父から来た返信は『うちに子供はいない。次は通報します』だった。
「そんな……おとうさん……おかあさん……」
あまりの喪失感に立っていられなくなり、その場に座り込む。ショックが大き過ぎたせいか、涙は出なかった。
「ぅう、さむ……」
涼子はぶるっと震えて膝を抱え込み、体を丸めた。
日が落ちて随分経ち冷え始めている。春先の強い風が玄関先まで吹き込み、体温を奪っていく。
(なんでこんな事に。アレを見たせい? ううん、そうだけど、それよりもあのとき……)
あのとき寄り道さえしなければ。そんな考えがぐるぐると回っている。
(そんなの……わかるはず無いじゃない)
いくら後悔してもどうにもならない。自分は、ただ不運だった。そう思うしかなかった。
「そこの君。こんな所で何をしている」
突然、冷たい男声と共に、眩しい光を浴びせられた。
顔を上げて声の主を見たが、逆光で見えない。
「それは華見学園の制服だね。ああ、もしかして家出かい? 参ったな、もう上がりの時間なのに」
何も答えられずにいたら、迷惑そうに勝手な結論を出したようだ。学生服に詳しいのなら警官だろうか。
ぼんやりとそんな事を考えて眺める。
男は身分証をライトで照らして見せた。
「はい、この通り。だんまりでも構わないけど、取り敢えず補導するからね。こっちへ来てくれるかな?」
今の涼子には拒否する気力などなく、小さく頷いてノロノロと立ち上がった。
男は少年課の私服警官だった。
車の後部座席に乗せられ、運転席に座った警官の質問に答えて行く。
「うーーん、この住所ってさっきの空き家だよね。お兄さんとしてはサクッと済ませて上がりたいんだ。これあげるから、正直に教えてくれないかなぁ」
ホンとはダメだけどね? とおどけてホットココアのボトル缶を差し出す警官に、涼子の心が少しだけ和らいだ。
一口飲んで温かさを噛み締める。そして。
「信じて貰えるか分からないですけど……」
そう前置きして、涼子は自身に起きた事を説明し、警官は相槌を打つだけで、黙って聞いてくれた。
とはいえ涼子が話せるのは「寄り道したら変な物体に一瞬包まれて現状に至った」だけである。話などすぐ終わる。
警官は。
「マジか。それじゃ行く所が無くなってあそこに居た訳だ。なるほどねぇ……」
「信じてくれるんですか?」
そう聞いてみたものの、涼子は期待などしていない。何せこの警官はさっさと帰りたいだけらしい。――ところが。
「信じると言うか、ね。信じざるを得ないんだ」
警官は、そんな事を言って振り向いた。
「騙して申し訳無いけれど、実は僕は警官ではない。僕は5年前の消失事件で消えていた女の子の、幼馴染みだ」
この性格もキャラを被っているだけだと付け加えて差し出してきた免許証。
そこに記載された名前は――佐倉良樹となっていた。