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セレスティア人の手記  作者: 五月雨
始まりの仙人  ~第二暦291年~
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大規模な宗教紛争の

 大規模な宗教紛争の発生から五年。ここ東方の中原にも、西方で起こったという血腥い事件の噂は広まっていた。


 三百年の伝統を持つセレス教団と、ここ数年で急速に勢力を拡大したリゼ教団。


 後者の教祖リゼは、どこからともなく現れて貧しい農民の危機を救ったという。


 王国の黙認という名の支援を得て信者を増やしたまではよかったが、新たな教団を組織したことで結局は虎の尾を踏んだ。


 世界統一セレスティア教団である。『学び舎』を自称する教団記憶派と袂を分かってからは、弱体化に歯止めがかからない。なりふり構ってなどいられない。


 嵐の外側にいれば、このような事情が見て取れる。セレス教団の信仰派も記憶派も、それぞれ自分達のことばかり考えていた。リゼだけが間違えたのではないのだと。


 さりとて彼女と信奉者達が賢明だったとは言えない。


 微弱な仙気を放つ逞しい男は、それでもと思う。やはり自分はお師様の味方だ、と。


 木陰で蹲る女性。その人が彼のお師様。


 何もしようとしない。何も見ようとしない。川で見つけたときは、浅い流れの中に頭から突っ伏していた。大人にこそなっていたが、二十五年前とあまり変わらない姿であることに驚く。彼自身は六歳だったから、まず見ても分からなかったろう。


 慌てて仲間の元へ連れ帰り、介抱しようとしてますます異常なことに気づく。


 恐らく意識はある。目の前で何かが動けば、視線がそちらを追う。しかし自発的な行動は一切ない。動かない。喋らない。飲まない。食べない。


 にもかかわらず、生きている。


 胃を慮った薄粥も、口元を流れるだけ。あれほど食べることに執念を燃やした――もとい、健啖家として名を馳せたお師様が。


 無為自然の力だろう。


 西方で何事かあり、心を閉ざした。


 心が死を望んでも、彼女の人としての在りよう――魂が生きることを望んでいる。


 だから、死ねない。死ぬことができない。


 この姿こそが、今の彼女における無為自然なのだ。


「…お師様?」


 肩を揺すり、時々こうして呼びかける。


 身動ぎしない。


 鳥や蝶には反応するのに、人間と関わりのあるものは駄目だ。


 危害を加えようとすれば抵抗するのではないか?それは彼のほうに覚悟がなかった。大切なお師様に、そのような無体を働く気になれない。


「今日も頼みます」


「はい。お任せください」


 身体の清めは、仲間の女性に頼んである。それ以外のことは、なるべく彼自身がやった。


 今の中原に、彼女のことを知る者は少ない。


 二十五年も前にいなくなった女性のことを、そうそう憶えているものではない。


 彼女を気にかけていたというシィベイタァレンも、十年前に他界した。


 彼は道士ではなかった。それでも足繁く集まりに顔を出していたのである。世俗の塵にまみれた己の人生を嫌悪し、僅かであれ無為自然の道に近づきたくて。


 男は、呪詛を吐く。彼自身と、想いを同じくした者達のために。


「…あなたは、助けを求めなかった。逃げてきてもくれなかった……こうして心を失くすまで。そのことがわたしには、どうしようもなく悲しい」


 六歳の子供は、いつまでも六歳のままではない。十年もすれば大人になる。


 だが彼女の中では、相変わらず子供だった。それどころか存在すらしなかったかも。


 せめてタァレンを呼んでくれれば、代わりに彼が行ったはず。


 違う結果になったとは、決して言えないけれども。


「おやすみなさい。お師様……」


 厚手の毛布を被せると、自らも焚火の向こうに横たわった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 どこを、どう歩いてきたか。


 歩いたのだろう。歩けてしまった。


 誰かの手が触れる。温かい。


(…老、師……?)


 見知らぬ男だった。世話を焼こうとしているらしい。


 男には仲間がいた、老いも若いも女も。


 胸が疼く。しかし、そのざわめきも瞬く間に消えた。


 途端に、次の波が襲ってくる。


(消えたい)


 あれだけのことをしておいて。


 償えない罪などない?そんなのは嘘だ。都合のよい方便だ。


 罪の天秤を平衡に保つため、もっと多くの罪を重ねた。


 だが、それに何の意味があろう。罪などないに越したことはない。


 解決策が浮かばないのなら、黙って死ねばよかったのだ。


 巻き込んでしまった人達と一緒に。


(消えてなくなりたい)


 無気力に座り込んで。おろおろ歩いて。


 襤褸雑巾を纏った動く屍に、目を止める者はいなかった。


 王国中を争乱に巻き込んだ希代の魔女。


 建国王に取り入り、セレス教の蚕食を後押しさせたと言われている。


 そんなものだ。傍から見れば、自分のしたことなど。


 自殺する力は、とうに失われていた。


 そうなっても構わないという気持ちはあったろう。


 飲まず食わずで彷徨い、動けなくなってからはそのまま眠った。


 しかし。いつまで経っても、死は訪れない。


 彼女の在りようが、無為自然が邪魔をする。


 願いなど、とっくの昔に捨て去ったのに。


 もう生きていたくなんかないのに。


 消滅への渇望が、僅かな奇蹟を起こす。


「しなせ……て。も……いや……なの」


 男と二人だけの夜に、声を振り絞ってみた。


 お師様と呼んでくる男は、昔の彼女を知っているふうだった。


 嬉しそうに驚き、それから意味を理解して激しく言い募る。


「嘘です。あなたは死にたがってなどいません」


 どこをどう見てそう思うのか。


 生きとし生けるもの全てが、夢や希望を抱いているとでも?


 そんなもの、なくなってしまった。


 いや……そもそも最初から、持っていたのかどうか。


 死にたくない。死にたくない。幼い彼女が念じていたのは、それだけ。


「かっ…てなこと……いわない、で…」


「いいえ、やめません。わたしはあなたから、命の尊さを教わったのです」


「……っぁ……」


 五年ぶりに声を出した。


 噎せる女に、甲斐甲斐しく水を含ませる。


 ほぼ喉を通らなかったが、男は本当に嬉しそうだった。


 議論以下の押し問答だったが、それでも。


 お師様の心は、その高潔なる魂は失われていないと。


「…今あなたに必要なものは、休息です」


 弟子は、恩師の身体をゆっくりと横たえる。


「これまでずっと、歩き続けてきた。どうして罰が当たりましょう……」


 次の日からリゼは、また少しずつ話をするようになる。

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