翌年。ドーアはハバロフスクに
翌年。ドーアはハバロフスクにひとりの男を訪れていた。
見るからに研究者らしい、アルフレッドが言い残した名前の人物である。
「…誰の波形を用いても、あの器に適合するものはありませんでした……数少ない、幾つかの例外を除いて」
初老の白髪を撫でながら、苦々しいはずの記憶を懐かしそうに呟く。
「世の中の仕組みが、この研究を妨げていたのです。総督閣下は……失礼。アレクセイ=レオーノフの精神波形は、液状空疎をぎこちないながらも動かしてみせました」
構わないと片手を挙げ、話の続きを引き取る。
「だがあなたは、あれをああも滑らかに操った」
「はい。もっと近くに最高の素材がいたのです」
二人の視線が薄翠色の不定形体――液状空疎と呼ばれたものに集まる。見ている間も次々と姿を変え、生物はもちろん人工物すら模ってゆく。
「イシュカちゃん……後に不慮の死を遂げた才能溢れる女の子。わたしとあの子は、同じ村の出身でして」
「不慮などではない」
ドーアが厳しい言葉と声で遮る。
「断じて不慮なんかじゃない。殺されたんだ。神を名乗る理不尽な仕組みに」
「……………」
「支援は惜しまない。何としても完成させてくれ。この技術が完成したとき、『イシュカの国』は永遠となる」
思うところがあるのだろう。彼は普通の人間だが、ミレニアムの解体により得した者ばかりではない。血族にクリメアがいたり、伴侶のハーフエルフが職を失ったり。あれほど大きな変革をすると、どこでどのような恨みを買うか。
「…もう一度、名前を聞かせてくれ」
「ミハイル=エレメエヴィチと申します。エレナがお世話になりました」
ハバロフスク総督アレクセイ=レオーノフの曾孫にしてエレナの兄。ハーフエルフの誕生は、ハーフエルフ同士の子であっても絶対ではない。
「これから、よろしく頼む」
どうでもよいことだった。
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あれから何年経ったか。
憶えていない。数えれば分かるが、無用なことをする気になれない。
生ける屍、死にかけの生者。どちらがマシかと問われれば、ドーアは確実に後者と答えるだろう。死にかけの生者には、死者への手向けができるのだから。
未来へと目を向ける者は、その考え方を否定する。生者は自分のために、生きている誰かのために生きるべき。望むと望むまいと、人は生きねばならないのだから、と。
善意から成る言葉だ。そしてそれは、このような形を取ることもある。
「…お慕い申し上げております。あなた様にお仕えするようになってから、ずっと」
相手が皇帝と呼ばれる者でなくとも、自らの想いを告げるのは容易ではない。彼女には、それだけの勇気があったとみるべきだろう。しかし愚かである。誰もが救いを求めていると、人は必ず救われねばならないと。勝手な思い込みでしかない。
「お前は俺に忘れろというのか。忘れられるとでも思っているのか。何が狙いだ。金か?権力か?実家の親に頼まれでもしたか。そのような身贔屓と不公平を許す国など、俺の妻は……イシュカは絶対に望んだりしない」
ドーアが怒りを露わにすることはあった。彼自身の言うとおり、政に私情が持ち込まれたとき。そもそも政を私されようとしたとき。そのような愚行に巻き込まれて、彼の妻は命を落とした。断じて許せない、二度とあのような悲劇を起こさせはしない。
元首官邸――皇居とも呼ばれる屋敷でのみドーアと接する侍女は、このような彼を見たことがない。公務を離れているときのドーアは優しく、いつも相手を問わず気遣いがあった。いきなり強烈な感情をぶつけられては、怯えるしかない。戸惑うしかない。禁じられている言葉を思わず口走っても、責められるものではない。
「お、お赦しを陛下。ですが、わたくしは」
「間違えるな。俺は王ではない。国民の第一人者だ」
声音は冷静だが、ドーアの怒りは未だ収まらなかった。
「お前のような者は、この国に要らない」
侍女の顔が恐怖に引き攣る。
「消えろ」
翌朝、侍女の姿は帝都から消えていた。
イシュカの国には、姦通罪というものが存在する。逮捕監禁されるのではと、自ら職を辞して逃げだしただけなのだが。
そのことに誰も触れない。恐ろしくて触れられなかったのである。
どうでもよいことだった。
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「神なき世に生まれた子供達が成人する。そろそろみんなに国を任せてもいい頃だ」
万年議会を解散し、初の民選議会選挙を実施する。
公正に選ばれた議員達は、満場一致でドーアを初代の執政官に指名した。
どうでもよいことだった。
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寿命が持たない。今年ドーアは、ちょうど五十歳を迎えた。
ミハイル=エレメエヴィチの研究が完成するまで、確実に命を繋ぐ方法は。
無論、エルフ化するしかなかった。しかしこの『イシュカの国』において、後天的なクリメア化は違法である。その技術を知る者も、実際に使うことができる者も、密かに聖賢王の遺産を引き継いだドーアひとりだけとなっている。
「何人も法を守らねばならない。俺は重大な罪を犯した」
法の定めに従い、執政官を辞任して刑罰に服することを宣言。
人工進化の罪状に定められた刑罰は無期懲役。すなわち一生を作業所の中で過ごさねばならない。それでも生きていられるなら、再びイシュカの魂に触れられるのなら。
当局は元首の逆鱗を恐れた。特別扱いを避けるよう細心の注意を払いながら軟禁、そのうえで住民投票を実施。国民総意の恩赦により、懲役を伴わず仮釈放を認めない絶対的終身刑という形を整えた。遺漏なく民主的手続きを取ることで、反論を封じたのである。これにはドーアも従わざるを得ない。
「長年の献身に感謝を。あなた様の功績は、皆が理解しております」
「ありがとう。俺はここで、大人しく夢が叶うのを待つことにするよ」
一介の服役囚になろうとも、皇帝への忖度が已むことはなかった。
厚意の範疇と思えるものは受けとる。さもなくば断る。看守に報告する。
どうでもよいことだった。
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ドーアがエルフへと人工進化して五十余年。
執念に引き伸ばされたミハイルの命の灯が、ようやく消えた。
液状空疎の研究が完成したのである。
『虚鳥』と名づけられたそれは、幼いイシュカの精神波形を頼りに動く。人を傷つける指示は拒み、実験中の事故に際しては守ろうとしたことさえあったという。
「…よく、やってくれた。俺は、あなたの罪を一生忘れない」
時を同じくして、首都上空に建造された巨大な空中都市『スプラ』。無数の『オコノミヤキ』が結合し、一つの巨大なネットワークを形成している。
だが、これは本来の目的に即した使い方ではない。
幾つもの欠片に分かれて世界各地へ。虚鳥の群れに護られ、圧倒的な火力を持つ浮島に抗する術はなく。イシュカの国は、未だ抵抗を続ける全ての総督府を滅ぼした。
瓦礫の山に、翠緑の羽根を残して。旧時代の名を冠した都市は、ついに消滅する。
「トリポリの総督が捕まったらしいぜ」
「ふーん。それより明日の早番のことだけどよ……」
どうでもよいことだった。
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「建国万歳!」
「百周年万歳!」
「ドーア様万歳!」
「イシュカ様万歳!」
「本当、いい世の中だよなあ。真面目に働けば報われるし」
「ああ、皇帝陛下サマサマさ!」
「…しっ。その呼び方、聞かれたら大変だぞ」
「えっ……」
「忘れたのかよ!」
一介の囚人に過ぎなくなった皇帝は、神とか独裁を憎んでいる。その理由は、かつて神を名乗るエルフ達に妻を殺されたからと言われていて。
「…本当、いつまで続くんだろうな」
どうでもよいことだった。




