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セレスティア人の手記  作者: 五月雨
理想の国  ~新暦193年~
26/210

「イシュカ?」

「イシュカ?」


 声を聞いたような気がした。


 指向性の通話回線ではない。居場所が分からなかったり、高速移動中は使用不能。それよりもっと直接的な、頭に刻み込まれる情報。このまま何事も起こらなかったとして、ドーアはこれらの言葉を忘れないだろう――忘れることができないだろう。


 移動端末のセイフティを解除。低空から飛び降りる。軟着陸させるよりは身ひとつのほうが簡単だ。何より今のドーアには、周囲のことを気遣う余裕がない。端末が木々を薙ぎ倒しながら湖面へ激突。俄かに激しく降らせる、潮の香りがしない雨を。


 確かめない。聞かない。この場に立っているのは全員知らない奴。それだけで充分。


「『変わりゆくもの』。我にマナを集めよ!」


「『変わらざるもの』。小さき綻びを無数に放て!」


 ランディに隠れて術式を使ったとき以来の手応え。慢性的な時間加速を治すための訓練、ミレニアムへ留学してからの実験を含めても。全力でマナを扱ったことはない。森は刻まれ、掘り返された。剝き出しの土壌に汚らわしい不自然な血が染みる。


 背中に致命傷を受けた亡骸がひとつ。ドーアが着いたとき、この男だけは何やら蹲って叫んでいた。が……今となっては、どうでもよい。もはや何もかもが手遅れ。


 蹴飛ばして退かす。その下から現れたのは、傷ひとつない姿で静かに眠るイシュカ。


 意外なことに、苦悶の表情を浮かべてはいなかった。あのようなメッセージを送ってきたということは、声を出すことができなかったに違いない。首を絞められた形跡はないが、いずれ窒息。最も苦しいと言われる方法で、イシュカは殺された。そのくせ髪や衣服は調えられ、顔も綺麗な布で丁寧に拭かれている。


「……そんな気持ちがあるなら、何故生きているうちに見せなかった。お前にその気があったら、やり直す覚悟を見せていたらイシュカは……!」


 総督に推薦できなくとも、またムクデン総督府に入れるよう口添えしたかもしれない。ドーアは反対しただろうが、フユミ達は呆れるだろうが。それでも。


 強く、強く抱き締める。冷たくなってしまったイシュカの身体を。


 どれだけ、そうしていたか。


 そのうちランディが来るだろうとか。副学長とベイカー教授はどういうつもりだったのか。タカハシ教員は上手くやれたのか。そういったことを考える余裕もなく。


「…おいおいおい。何だよ、こりゃあ……」


 何度か話したことのある濁声が、唐突に後ろから聞こえて。


「馬鹿でかいマナを感じて来てみれば……こいつらを殺ったのは、お前か」


「ああ。イシュカ以外は」


 素直に頷く。嘘を言っても仕方がない。最初に仕掛けてきたのは恐らくこいつらのほう。聖賢王アトも、法術王アルフレッドも。実力で母や姉、友人、同僚の仇を討ったと。それと同じなら、何も問題ないではないか。


「…認めやがったな」


 言うや、男の気配が変わった。水場の獲物を見逃していた猛獣の目が、捕食者のそれに変わる瞬間。さすがに危険を感じた――これまでの相手とは、わけが違う。


「事情は、後で聞いてやる。とりあえず殺人の現行犯だ」


 創術王ライオネル=クレイ。新たな復讐者の名前だった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ライオネルから繰り出される拳を見たとき、ドーアは現行犯逮捕などではない全く別のものを感じる。殺意――つまり自分と同じだ。住民記録のない三人が、ライオネルの古馴染みだった可能性は高い。


 ミレニアムは自己救済が認められた国。自分の身を護る以上のことをするなら、仲間が助けてくれるかどうかも含め、全て自己責任である。


 三人はライオネルと深い友誼を結んでいた。結果として間に合わなかったけれども、こうして仇を討とうとするくらいには。対してドーアの味方はイシュカだけ。許可なく立入禁止区域に入ったとはいえ、先に危害を加えられたとはいえ殺したのも事実。ランディはそこまでしてくれるかどうか。『王』のひとりを相手に勝ち目があるのか。


(…関係ない。俺が殺したことを咎めるなら、俺はイシュカを死なせたことを咎める。イシュカを殺した連中の味方なら、そいつは俺の敵だ)


 たとえ王だろうと。法が王を縛らないのなら、自分がその法を作る。二度とこのような悲しみを起こさせはしない。


 だが、あれを倒すのは至難の業だ。ライオネルは元軍人、それも最前線で敵陣を強襲し橋頭保を築く海兵隊の猛者。その肉体が創術により強化されている。元々頑健なうえ、取り込めるマナの上限を超えて。


 実戦経験も違う。ドーアは防戦一方。動きを見切れない以上、大きく防護壁を展開するしか。消耗が激しく、ライオネルより早く限界に達した。次の一撃を防げるか。


「とどめだ……ッ!」


 諦めない。だがなけなしのマナを集めた結界は、重い拳を受けて儚く散った。身動き取れないまま、迫りくる死を正面から見据える。


「『変わらざるもの』。viscosity=2.3×10⁸」


 別の声がして、急に身体が重くなった。いや――空気が粘りを増したのだと気づく。ドーアよりマナを集めた分、ライオネルのほうが強く影響を受けているらしい。とはいえ攻撃は止まらず、ドーアは慌ててその場から飛びのく。


「『変わらざるもの』。gas-constant=8.31×10¹³」


 再び詠唱があり、元の空気に戻った。そういえば基礎物理学で習った気がする――物質ごとの粘性と気体定数について。法術はそれら世界の法則を一時的に書き換える力を持つが、副作用を予測するのが難しいため、即興の使用は避けるようにとも。


 今見せた連携は、既に実証済みなのだろう。ドーアの窮地を救った人物は、いつの間にかライオネルの前に立ちはだかっている。


「…何故、止めた」


 法術王アルフレッドは、自らを咎める同僚の視線を追う。そこにはイシュカを含めた七人の遺体。恐らく事情を察し、だが質問には答えない。今更、法の裁きを受けろとでも?容疑者のドーア自身が理解に苦しむ。そんなことで復讐心を満たせるとは思えないからやったのだ。その点については、きっとライオネルも同じのはず。


「どうせあいつらは、俺のためとかくだらねえこと考えやがったんだ!世の中もう平和だってのに……それでも応えてやるのがダチってもんじゃねえのか?」


 くだらないと言いきった所業の後始末。それが何であれ友のためなら。


 イシュカの夢は、くだらなくない。だが、それとこれに関係があるかと言われれば。


(ん……?)


 ドーアは曰く言い難い感触を覚えた。目の前で手紙を音読され、意味不明なのに内容が頭を離れない。言葉そのものは分かるが、複雑ゆえ理解するのに時間がかかる。


 差出人の名前も送られてきた。会ったことがなくとも、嘘や冗談でないことだけは分かる。他人の頭の中に直接情報を送り込むなど、誰にでもできることではない。


(添付ファイルの使い方、効能。副作用を利用してできること……何だこれは。まるで今の状況を見透かしているみたいじゃないか)


 不意にアルフと視線が合う。彼は無言で頷いてきた。このメッセージと添付ファイルについて、もしかするとアルフも承知している。こんなものを本当に使ったら、どうなるか。永劫に目覚められなくても構わないというのか?


 ドーアに選択肢はなかった。アルフレッドとライオネルの実力は伯仲。千日手というやつで、このまま戦っても決着はつかないだろう。共倒れになれば、どちらも死ぬしかない。見捨てることもできたが、そうした場合は被害が立入禁止区域の外まで拡大する。この島で暮らすマリコやフユミもただでは済まない。


「…セレスよ希う。我は神なき世を継ぐ者なり。平和の砦を築くため、別添のとおり計らいたまえ……!」


 聞き慣れない、何とも間抜けな祝詞である。いきなり見ず知らずの誰かを訪れ、ここに書いてあるとおりやってくださいと頼むようなもの。しかし効果があることだけは確実に分かる。唱え終わった途端、膨大なマナが消えたからだ。


 争っていたままの姿勢でアルフレッドとライオネルが凍りつく。周囲に力場が形成され、やがて物理的な実体を持つようになる。コンクリート、アルミニウム、鉄――考えつく限りの頑丈な建材で覆われてゆく。


 見えなくなる直前、アルフレッドらしき疑似音声がドーアの頭に届いた。ライオネルのものではなかったゆえ、恐らくそうなのだろう。


(アトは見逃してやってくれ。お前達を一番可愛がっていたのがあいつだ……それで分かるだろう。あいつはまだ生きて、しなければならないことがある)


「……これからする話次第だ。返答によっては、約束できない」


 最後の瞬間、アルフレッドが笑ったように見えた。が、見間違いかもしれない。ドーアがそう思いたかっただけで、それには何の確証もない。


(ハバロフスクのミハイルという男に会え。きっと役に立つはずだ……)

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