ここまでの経緯について、
ここまでの経緯について、多少の説明が必要だろう。
三つ以上の物体が関わる運動は、古典力学では表現できないらしい。
セラフィナ=カスキ。ミカゼ=アトジマ。セレスティア=キャロル。三つの力がせめぎあった混沌は、一瞬の均衡も生み出さずに崩れた。世界を道連れにして。
事の発端は、少年の母が勤めていた研究所のとある実験。それは極めて単純な、加速量子の衝突だった。ただしそのために用いられた電荷が11TeV。ヨーロッパのCERNはおろか中国科学院高能物理研究所のLHCさえ文字どおり桁が違う。使われている単位がGから千倍のTになっているのだ。
最初にCERNの量子加速器ができたときは、ミニブラックホールが生成されて地球を呑み込んでしまうのではと騒がれたものである。結果として無事だったのだが、今回も同じとは限らない。自然界には閾値というものがあり、特定のパラメータが特定の数値以上または以下になったとき突然様相を変える。本来は工学など人為的な分野で使う言葉だが、固体・液体・気体の状態変化――氷が解けて水となり、水が沸騰して水蒸気となり、雲となって雨が降り、寒くなれば雪や雹となる。これらを想像すると分かりやすいだろう。
実験の責任者は理論物理学専攻のセラフィナ=カスキ理学博士。彼女が指揮を執っていたゆえ、最初の一人に選ばれた。文明が一定の段階に達したとき、正体不明の存在――実際に姿は現さなかった――から与えられる魔法的な技術体系『統制者システム』。これは人類側の呼称だが、その標準語にカスキ博士の思考言語が選ばれたのである。
カスキ博士と同僚のルースア博士はフィンランドの出身。他にフィンランド語を解する研究員はおらず、統制者システム及び正体不明の存在『プレゼンター』の研究は、この二人を中心に進められていった。
国際リニアコライダー研究所、通称ILCの研究スタッフは全部で九名。
まず理事長の田之倉玲。一応理論物理学専攻、日本国籍。それなりの研究成果を残しているが、今の彼はマネージャに近い。予算取りと広報が主な仕事だ。
室長のハムザ=オズディル、専攻は量子力学、トルコ国籍。
主任研究員のユルハ=アトジマ、専攻は情報数理、アメリカ国籍。部下の西都原昌男、専攻は電子情報工学、有体に言えばホワイトハッカー。日本国籍。
主任研究員の白石真琴、専攻は神経生理学、日本国籍。部下のウド=バール、専攻は分子生物学、ドイツ国籍。
主任研究員のヴァルマ=ルースア、専攻は社会心理学、フィンランド国籍。部下のアナスタシア=ネヴラキス、専攻は文化人類学、ギリシャ国籍。
主任研究員のセラフィナ=カスキ、専攻は理論物理学、フィンランド国籍。
この他、統制者システムの被験者ミカゼ=アトジマと西都原昌男の助手ダイチ=アトジマも出入りしていた。二人ともユルハ=アトジマの子、当年未だ八歳である。
統制者システムについても、あと少し説明が必要だろう。
まず何ができるか。これは最初に現れたときカスキ博士の脳内へ送り込まれた『取扱説明書』内で明確に示されている。統制者システム起動後にシステムの有効範囲内で起きた事柄を全て記憶し、それらの情報をどの時点からどの時点に対しても書き換えできること。辻褄が合わなくとも、辻褄が合うように運命めいた強制力が働く。
大きなルールは三つ。起動するのに演算装置としての人間が必要なこと。そして必ず意識を失う。電子計算機での代替は不可――検証する手段もなかった。物理的な機械に繋ぐのではなく、拡張現実様のホログラム表示に従った標準言語による音声入力。全てがブラックボックスの、ネジ穴ひとつ見当たらない空飛ぶ円盤を手に入れたようなもの。
統制者には適性があり、プレゼンターのプログラムでのみ診断できること。ゼロは適性なし、1は不適格、2は起動可能だが不安定、3以上で安定的な運用が可能となる。ちなみにレベル1が西都原昌男とネヴラキス博士、レベル2はカスキ博士。研究室の全員を調べたところ三名が該当。基準等は一切不明。
強大な力を持つ統制者システムだが、システム起動前から存在した人物に直接的な改竄を施すことはできない。犬や猫など人間以外も含まれる。ただし固有名のない野生動物は対象外のようだ。もし人間に名前をつけなかったら、影響を逃れられるのかもしれない。
これらの情報が断片的に広まり、研究所が存在する日本国は世界中から疑いの目で見られた。同盟国のアメリカとて例外ではない。ジャパンアズナンバーワンと言われた時代もそうだが、自らの覇権を脅かすものは何であれ容赦しないのである。
西側の国際協力により運営される機関ゆえ、情報共有は滞りなく行われた。しかし問題は全世界に向けて無差別に行われたことと、あまりにも衝撃的だったこと。いち早く情報を摑める立地国にもかかわらず、日本政府から関係国への報告が遅れたこと。
決裂は決定的なものとなった。日本人は未だ世界征服の野望を諦めていない、百年前は武力で、四十年前は経済で侵略を目論んだが阻まれている。民主主義の皮を被って油断させ、中国の脅威を殊更に叫びつつ、今度はタイムマシンで静かに事を運ぶつもりだ、と。
無論馬鹿げているが、これに中国とロシアも乗った。核大国首脳による共同緊急記者会見が開かれ、日本国全土へ向けた飽和核攻撃を実施したとの声明が出た。弾着と臨界まであと数分、巻き込んでしまう罪なき外国人や大半の善良な日本人のために祈りましょう……と、自らの国の大統領が吐いた白々しい台詞をアルフは憶えている。全ての抵抗が無へと帰すディストピアの出現を、それほどまでに恐れたのだろう。
結果として、核爆発は起こらなかった。在日米軍の監視と国内法に縛られた自衛隊は為す術なく――正確には法を無視してでも国を護ろうと動いた者達はいたが――世界共通の敵を凶弾から救ったのはカスキ博士だった。
今度は目覚めないかもしれないリスクを承知のうえ、統制者システムを起動した。緊急のことゆえ、影響を最小限に抑えたりコストとなる未知のエネルギー『マナ』の消耗を少なくする工夫もない。彼女が願ったのは『誰も被爆しない明日』――それだけ。
かなり強引な結末もあった。弾道ミサイルごと重力圏外へ飛んでいった例はまだよい。ウラン238が放射性を持たない同量の鉛にすり替わったり、中身のイエローケーキ精製物が本物のレモンケーキやカボチャの煮物に化けていたり。
何にせよ世界は救われたが、このとき絶望の淵に墜とされた者もいた。
ルースア博士である。カスキ博士を偏愛する彼女は、目覚める気配すらない友に絶望した。起動直前で止められた最初のときと違い、実働させた今回は停止の条件として大量のマナが必要となる。無茶な運用により大半のマナを使いきってしまったことも災いした。
昏睡が長期化するにつれ、カスキ博士のシステムは入力も受けつけなくなってくる。次第に暴走を始め、もはや止めるどころか宥めることさえ叶わない。彼女と同じ言葉を話せるのは自分だけ、他の研究員は当てにならない――自分が何とかしなくては。
田之倉理事長以下、他の研究員も手を拱いていたわけではない。カスキ博士に頼らない国防を手に入れるため、非人道性を承知で『クリメア』と呼ばれる人工種族を生み出した。馴染みにくいとの理由から、西都原昌男が西洋の神話や創作から『ドワーフ』『ホビット』と名づけた。力の強いほうがドワーフ、手先の器用なほうがホビット。
ユルハが秘密裏に我が子二人の統制者適性を調べたのも、この頃。辞書と首っ引きではあったが、ユルハも片言のフィンランド語を解するようになっていた。ネヴラキス博士から部下の協力すら拒むルースア博士の様子を聞かされ、何となく危険なものを察したらしい。適性の診断結果はダイチが2、ミカゼが3。安定的な運用が可能と知るや、あろうことかユルハは愛娘を統制者の軛に繋いだ。回復の見込みも立てられないまま。
ここまでの話を、ユルハに呼び寄せられたときセレスとアルフは聞かされた。
アルフと統制者のひとりセレスは、ユルハの友人だった。FBI捜査官の頃に知り合い、退官してからも交流が続いた。アルフとセレスは仕事仲間、ユルハはセレスの篤い信仰心に興味を持ち、アルフはユルハから情報数理の手解きを受けた。
アルフ達の仕事は、探偵と民間軍事会社の中間――あくまで紛争地帯を除く、しかし荒事込みの便利屋。藁にも縋る思いのユルハが頼ってきたのも無理はない。
それぞれミカゼとダイチを預かり、事態が落ち着くまで日本国内を転々とするつもりだった。しかし状況は更に悪化し、危険を冒してエルフ化――人類初の人工進化を成し遂げたルースア博士が日本政府を掌握、恐るべき情報管理社会を実現させてしまう。
この先は推測だ。居場所の秘密を守るため、セレスとアルフは互いに連絡を取っていない。ユルハとも同様である。彼女は二人に子供達のことを全部任せてくれた。
ユルハと研究所で再会したとき、セレスとアルフも統制者適性を調べられている。アルフはゼロ、セレスは……4だった。
戦闘に役立ちそうな術式とカスキ博士へのアクセスアカウントを貰い、主に関東地方を逃げ隠れしていたが、あまり長くは持たなかった。何度も見つけられ、その都度ルースア博士が調整したエルフの襲撃を受ける。潜伏先にダイチを残して単独行動を取っていたときにアルフは捕らえられ、やがて追い詰められたセレスも起死回生を狙って統制者システムを起動するしかなくなったのだろう。
現実世界の国際リニアコライダーは、2022年現在予算化すらされておりません。
様々な綱引きの結果、日本国内候補地は決まりましたがそこまでで止まっています。
これを最初に書いたのは結構前なので、さすがに今となっては2027年近すぎるだろって感じ。
大国間の総力戦なんて夢にも思ってませんでしたし、そこは並行世界ということで。
中国に巨大なサイクロトロンを作るそうですが、こっちも是非やってくれないですかね・・・