ネムロが早い新緑の
ネムロが早い新緑の季節を迎えるようになって百九十三年。
ミレニアム本部の学び舎は、生徒数が少ない。ハーフエルフの助手も含めれば、生徒二十八名に対して教員十五名という充実ぶり。また教員がエルフとハーフエルフの両方いるように、生徒のほうもエルフ候補生とハーフエルフが両方いる。
そして学級制ではなく徒弟制だ。生徒は決まった教授の下につき、必要なときは特定分野に限って自らの師より造詣が深い教員の指導を受ける。就学年齢も様々だが、多くは十八歳以上であることから大学や大学院に近い自由な形が取られていた。
ここまで明確な個別指導ならば、入学も卒業も季節を限る意味などない。生徒本人の希望や受け容れる教授側の指導枠、赴任先の当て。それらの問題が折り合えば、めでたく入学または卒業となる。現在は副学長を務める教授の下にエルフ候補生の青年がひとり、他二十七名のハーフエルフ達を三名の教授が等しく受け持っている。
学び舎は実力主義であり、評価と育成にあたっては合理性と効率性を重視する。さりとて明らかな待遇差は、時に誤った自尊心を生む。
「…今日から入学するイシュカ=ニコラエヴナだ。今まで年齢制限はなかったが、今回から十三歳以上と決まった。イシュカ君、先輩の皆に挨拶しなさい」
「はい。ハバロフスク行政区の漁港ガヴァニから来ました、イシュカ=ニコラエヴナです。得意なことは……まだよく分かりません。仲よくしてくださいね」
このような無難極まる挨拶も、聞く者によっては不遜に響くのかもしれない。まばらな拍手が沸く教場の最後列、不機嫌そうに視線を逸らした者達がいる。本日の朝礼を担当する教員は誰かを探して――そのうち諦めるように首を傾げた。
「スミン君は欠席か。フィールドワークの届出があったか……?」
外泊を要する課題が出たり、特別に許可を得て帰省したときなど、一部の生徒がミレニアム本部にいないことも多い。むしろ全員揃っているほうが稀である。
名前の挙がった生徒は、イシュカを除けば唯一のエルフ候補生。彼女のメンターを務めることになっているという。また後日紹介するから、今日のところは学び舎の施設を案内すると言い渡された。
夕刻。丸一日かかった学長直々のオリエンテーションが終わり、こっそり背伸びしていたイシュカのところへ数人の女子生徒がやってくる。
集団の中から、先輩とは思えない小柄な少女が押し出された。
「あ、あの。イシュカ=ニコラエヴナさん」
「はい?」
「私、エレナ=エレメエヴナ……総督アレクセイ=レオーノフの曾孫です」
言われてみれば、どことなくお人好しな面影が。今もエルフ候補生なんて異物に怖くて話しかけられない、臆病な同輩の割を食わされている。見かけによらず勇敢な人――形作られて間もない彼女への印象が、イシュカの中で修正された。
そうまでして語りたい、エレナの大事な用件とは。
「私と、お友達になってくださいっ!」
「はい。喜んで」
「…こんなことエルフ候補生の方に言うのは失礼かもですけど、曾祖父にお話を聞いたときから憧れて……えぇえ!?」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
固まるエレナに深々とお辞儀した。他の生徒達も集まってくる。
「ウチ、フユミ~。君のこと『イっちょん』って呼んでいい?」
「ちょっと、いきなり失礼でしょ!あああごめんなさい、私はこいつの姉で……」
ガヴァニを離れて最初の夜は、思いのほか楽しく過ぎていった。
明日から基礎課程が始まる。早めに休んだほうがよい……のだが、エレナやフユミと夜更かししてしまい、フユミの姉マリコを巻き込んで寮監に叱られた。遠慮なく話せる同年代の友達がいなかったイシュカにとっては、どれも初めての経験である。
翌朝、エレナ達と一緒にフユミを叩き起こして学び舎へ。イシュカ以外の三人は指導教官が一緒、門をくぐると短い別れを惜しみながら去っていった。担任未定のイシュカは、教員達の間を渡り歩くしかない。
「まず最初は……っと。生物学概論のタカハシ先生から」
理学棟の教場へ向かう。そこには歳上の男女が四人。ここにいるということは、全員イシュカと同じくらいの学力である。
「おはようございます」
「……………」
誰も視線を合わせようとしない。
「…おはようございます」
「はい、おはよう。では講義を始めるぞー」
発音が悪かったわけではないようだ。むしろタカハシ教員のほうが母国語訛りはきつい。それに英語はアクセント、発音は二の次と聞いている。
「……生物の構造的要素は大きく三つ。DNAやRNAの複製による遺伝と増殖、DNAからmRNAを経てのタンパク合成、脂質二重層の細胞膜であって……」
このあたりの話は、ガヴァニでも時々ランディに聞かされていた。そのときは十歳の子供に何話してるんだろうと呆れたものだが、今となっては将来落ちこぼれて嫌な思いをしないようにとの気遣いだったと分かる。
「……ここまでが、地球上の生物の話だ。これから地球外のほうに進んでいくが……これまた不思議なくらい変わらないんだよなあ」
タカハシ教員、困ったように頭をガリガリと掻く。
実のところ、旧時代のNASA――アメリカ航空宇宙局の有人火星探査は、大きな成果を出すことなく終わった。正確には、成果があったのかどうか現在は不明――あまりにも画期的な発見があったため、人類社会に与える動揺を最小限にとどめる公表手段を検討しているうちに『全き最後の日』が訪れたとも言われている。
関係者の命と大半の記憶媒体が失われた以上、もちろん真相は不明だ。しかしこの説を唱える人々は、いわゆるところの陰謀論者。いかにもそれらしい存在であるはずのプレゼンターを何故か無視している。とどのつまり「謎は深まった」「疑惑は深まった」「政府は何かを隠している」と言いたいだけなのだろう。その時点で微妙と言わざるを得ない。
「みんなも知ってのとおり、人類に一番身近な異星人がプレゼンターだ。体組織そのものや身体的特徴のデータが手に入ったわけではないが、参考となる情報は存在する――そう、クリメア化の生体強化技術だな」
これもあらましは知っている。作用機序は今なおブラックボックスだが、最初は向こう見ずな魔女が自分に人体実験をして、対抗する力を欲した聖賢王達が後追い人工進化したという。方向性が異なるエルフ、ドワーフ、ホビットの三種類がある。
よく分からないのは、プレゼンターが適性診断プログラムも用意していたこと。彼らの正体が実は古代の人類でした、などという話なら生物学的には分かるが。考古学的にはあり得ない。謎めいた技術供与が地球に対してだけなのか、それとも条件――一定水準の科学力を満たせば、どこの星いかなる生命体にも与えられるものなのか。前者だとしたら、あの眉唾な古代宇宙飛行士説とやらで一応の説明がつく。数万年前に現生人類のサンプルを調査したのだろう。だが……もしも後者なのだとしたら。
「……どう考えても、プレゼンターが人類と似ても似つかない存在とは思えないんだよ。いくら量子レベルで事象を操れるからといって、未知の生物種が特定の遺伝子操作技術に適合するかなんてさ。そもそも三百年くらい昔は、遺伝子が核酸かタンパクかで議論があったくらいなんだ。地球外生命体の遺伝システムが、我々と同じである論拠はない……」
タカハシ教員の語り口にも熱が入ってくる。それと反比例するように、イシュカの意識は陽気に誘われて夢の中へ――行きそうなところを、窓の外くらいに留めておく。漁師の家に生まれた彼女は、実用的なこと以外興味がないのだ。
(…ドーアなら喜んだんだろうなあ)
うとうとしはじめたとき。教本の角で後頭部を叩かれる。
「痛っ」
「寝るなら仮眠室に行けよー。俺は暇だし、後で個別授業しても構わんからな」
「すみません……」
控えめな笑いが、教場に満ちる。
それは今朝来たときと違う、温かいものだった。




