ユーラシア大陸極東の
ユーラシア大陸極東のハバロフスク行政区ガヴァニ。ミレニアム連邦本部の巡察視ランディは、今日も今日とて昼寝に勤しんでいた。
場所は、いつもの喫茶店である。夕方から居酒屋に様変わりするこの店は、昔から魚介を使った料理が美味いことで喜ばれている。陽だまりの窓際席で微睡む姿は一匹の猫だが、今回はいつもと違うところがある。それは猫が二匹いることだ。
小さなほうの一匹が、戸惑い気味に呟く。
「…なあ。これでいいのか?」
「何が」
大きなほうはテーブルに俯せ。話しかけられても顔すら上げない。
「仕事だよ。前のとこでは頑張ってただろ」
「あー……」
視線は向けたが、相変わらず突っ伏している。
「あそこは駄目だったから。でも、ここは大丈夫」
「何で」
「総督が信頼できる……ふぁ」
何度目か分からない欠伸を洩らす。ハバロフスク総督アレクセイ=レオーノフは、ランディが最も信頼するエルフのひとり。
「…まあ。いい土地なのは分かるけどさ」
渋々矛を収めた。どこも同じだろうと思っていたが、ドーアの生まれ育ったトリポリとハバロフスクやガヴァニは大分違う。
雰囲気が柔らかいのだ。都に着いてすぐ市場を視察した折、取り巻きも連れず気安く挨拶してきた誰かが、視察中の総督だったときは驚いたもの。
「そんなわけだから、この行政区では好きにしていいよ。時間に戻れば家まで送るから」
「総督様は立派なお方さ。だからあたし達も、この人が働くトコなんか見たことないんだよ」
紅茶のおかわりを持ってきた女将までが、そんなことを言う。
「これでも優秀なんだろうし、ちゃんと教わって立派な助手さんになっておくれね?」
「……分かったよ。それじゃあ」
とりあえず繰り出してみる。当てはないが、都会育ちのドーアにとっては田舎自体が珍しい。同じ港でも船着き場の形や少なさなど、こんなに違うのかと驚いてしまう。その一方、ここは世界の中心たるミレニアム本部と近かった。
(こんなとこ来るなら、ネムロに連れてってくれればよかったんだよ)
波止場に座り、届くか届かないかの波をマナで操る。ランディかファドワがいるとき以外、術式の使用を禁じられたことから考えた遊びだ。波を思いのまま動かすには、精密な重力操作と出力調整が必要。加えて見つからないようにとなると、最小限のマナでやらねばならない。なかなか難しく、よい訓練になる。
水の球を造って動かすのは簡単にできた。当面の目標は、定まった形を持たせず1㎏以上操ること。球体のときは外側をマナで包めばよいが、水分子ひとつひとつを把握なんかしたらドーアの頭が破裂する。教えてくれたランディによると、18gの水の中には6.0×10²³個もの小さな粒がひしめいているのだ。
(一つにすれば扱える。でも器に入れたら液体の性質がなくなってしまう……)
やり方の問題だ。力任せに操るマナを増やすのではなく、最も効率的かつ効果的な方法を選ぶこと。法創術の才能やエルフ適性は関係ない、発想の柔軟さ。
「ねえ」
「完全に閉じ込めなければいいわけだ。でも口を開けたままだと、そこから中身が零れるんだよな……」
「ねえってば」
「…いや待てよ?マナの形は変えられるんだ。そこに水を混ぜればイケる!問題はどこまで割合を上げられるかだ」
何もない空中なら、量が少なくとも操っているように見えるだろう。
だが、それでは駄目なのだ。操りたいのは波であって、静止した水ではない。
マナは排他性のない概念的な存在である。四つの力を媒介する素粒子ですらないとすれば、本当に見かけ上の概念という可能性も。酸化還元反応の理論が確立される前に存在した、仮説上の物質フロギストンのようなもの。
真実はいずれにせよ、ここではその『排他性のなさ』を利用する。極力密度を下げ、展開領域を広くしたマナを海水面に被せてゆく。初めは板状の平面、水面を揺らしている手応えはあったが大きな力にはならなかった。
そこで今度は、半球状に展開してみる。マナを潜らせては浮かせ、浮かせては潜らせ――どことなく不器用だが、練習すれば上手くゆくかもしれない。今のところはまだ、いきなり海の上に出現した『場違いで間抜けな洗濯機』に見える……
「もしもーし。聞こえてますか~」
「うわっ!?」
術が解けた。水は自由になり、元の穏やかな波へ呑み込まれてゆく。
(…見られた!)
最初に考えたのがそれだった。声は少女のもの、明らかにランディではない。
油断していた。理由は分からないが、ランディからもファドワからも力を使うところは見せないよう何度も言い含められている。
慌てて声の主を探す。ドーアと同い年くらいだろう、それにしては全く怯えていなかったのが気になる――振り返ると思ったより近くにいて、触れあうほど傍から互いの顔を覗き込む。ドーアは反射的に後退り、片足を踏み外して落ちかける。淡い蜂蜜の髪と雪色の膚を持つ少女は、冬の日差しを思わせる温かさと儚さを含んで笑った。
「大丈夫?」
言いながらも、くすくすと笑う。見た目に反して、案外底意地が悪いのかもしれない。思わずむっとして乱暴に言い返す。
「うるさい。お前がはしたなく忍び寄るからだ」
「はしたなくないよ。先にちゃんと声かけたもん」
「あんな近くに来てからじゃ意味ないだろ」
「その前にも二回かけました」
「嘘だ。全然聞こえなかったぞ」
「嘘じゃないよ?全然聞こえないみたいだったけど」
またくすくす笑う。溜息をつく。水掛け論にしかならない。
「…いつから見てた?」
「う~ん。海を見ながら呟いてたところ」
「最初からじゃないか……」




