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第二十二話

 生きてやる。


 私たちは、普通に生きてやる。


 そう誓った矢先、私はクラスの棚橋亮介くんに告白された。最初はメッセージアプリでのやりとりだった。好きかもしれないというメッセージに『LIKEとLOVEのどっち?』と返したら、十分ほど間を置いてから『LOVEかもしれない』と来た。尾ひれのようについたかもしれないに、彼の優柔不断さと、それから少しの愛らしさを感じた。


 それから、翌日の放課後に玄関で待ち合わせの約束をして、私はスマホをロックした。暗くなった画面に映ったのは、やや溶けた表情の私だった。


 甘酸っぱい、どこにでもあるような学生の恋愛。


 そうだ、きっとこれでいい。


 私は誰かを愛せるし、愛を受け取れる。歪んだものなど一つもなく、整備された道をゆっくりと進む。


 妹の唇はティラミスのような感触だった。まさか私のファーストキスが日陰とだなんて、思いもしなかった。


 吸いつく唇は、愛撫というよりも縋るような必死さがあって、私の中に眠る慈愛のようなものがうずくのがわかった。私は私のことをそこまでの善人だとは思っていない。思っていないからこそ取り繕うこともできるし、誰かを敬うこともできた。


 普通でいることはなによりも難しい。格言だったか、それとも歌詞だったか。どこかで聞いたことのある言葉が本質に迫るものだったと理解し、産着に包んだ石を腹に収めてギャハハと笑わなければそれでいいと方針を定める。


 せめて人の道を外れないように。それだけを肝に命じた。


 丁度、家に来た従妹がゲームをやっていた。タクミくんとケンタくんだった。毛先が空を向いた短髪が、その子たちのやんちゃさを表しているような気がして、声を掛け合いながら協力している姿は微笑ましいものがあった。


 タクミくんがモンスターの尻尾がどうしても欲しいようで、執拗に尻尾を狙い、切り落とすことに成功しいていた。


 ケンタくんがモンスターと戦うキャラクターを動かしながら、尻尾攻撃に気を付けてと言うと、尻尾切れてるから大丈夫だよ、とタクミくんが言った。


 覗き見ると、たしかにモンスターの尻尾が切れているせいで、大技と見られるサマーソルトも不発に終わっていた。それでもモンスターは諦めず、群がるハンターを必死に尻尾で迎撃しようとしていた。


 その光景を見て、私は思ったことをふと口から零した。


「尻尾がないのに尻尾で攻撃しようとするの、なんだかかわいいね」


 本当に、率直に、単純に、頭に浮かんだ感想だった。


 タクミくんとケンタくんは顔を見合わせて、私から逃げるように部屋を出て行った。


 動物の特集を組んだテレビ番組で、上あごのないワニが出ていた。上あごがないのに、必死に餌である牛の肉を噛み切ろうとしているのがかわいかった。


 肘から先のない子供が、テーブルに置いてあるフォークを取ろうと必死に手を伸ばしている姿がかわいかった。


 川汚染によりハサミが退化してしまったザリガニが、必死に貝を持とうとしているのがかわいかった。


 思春期に入る頃、クラスのみんながやっているように自分を慰めてもなにも起きなかったのに。


 動かない左足を必死に引きずって私を目指す日陰を想像したら、簡単に達することができた。それが私の、ハジメテだった。


「どうした、小春」


 私を抱きしめる亮介くんが心配そうに覗き込んでくる。男の子なのに長いまつ毛が、心配そうな亮介くんの瞳を守る。


 暗い部屋の中、汗ばんだ亮介くんの腕が私の首に回される。へそ下に感じる異物感を異物感としてでしか感じられず、もどかしい足を動かすとすぐに解放される。


「なんでもないの」

「考え事?」

「ううん、ほんとに大丈夫だから。ごめんね亮介くん。せっかく、真剣にしてくれてたのに。私、やっぱりヘタみたい」

「そんなことないよ。俺も全然慣れてないから。うん、今日はここまでにしよう。ほら、服」


 シワにならないようにハンガーにかけてくれた服を受け取って、パンツから先に穿き、そのあとにシャツを着た。火照った身体は運動によるもので、それ以外のものを含まなかった。


 支度をして、その日は帰ることになった。いつもならクッションに座りながら、他愛のない話を広げてそれを幸せと感じ取るのだけど、今日はそれがなかった。


 送るよ、とコートを羽織った亮介くんと一緒に歩道橋を渡る。最近は私の家ではなく、亮介くんの家で遊ぶことが多くなった。それは亮介くんからの提案だった。


 亮介くんは、どこか私の家に来ることを避けているようにも思えた。


「寒いね」

「そうだな。雪、そろそろ降るかも。長靴買ったほうがいいかな」

「えー? 私たちのとこはそんなに積もらないよ。スノトレはあったほうがいいかもだけど」」

「そっか、あはは。長靴はちょっと大袈裟すぎだな」

「今度買いにいこっか、一緒に」

「お、いいね!  行こう行こう!」

「もう、いきなりはしゃがないでよ」


 手を繋いでいることも忘れて亮介くんが前に進む。前のめりになりながら、亮介くんの後を追う。転びはしないんだろうな、という安心感が、亮介くんの背中を見ていると湧いてくる。


 これが男の子に恋をするという気持ちなのだろうか。


 だとしたら、うん、きっと、順調だ。


「あのさ、小春」


 亮介くんが言いずらそうに口元をまごつかせ、目線を泳がせた。なに? と首を傾げると、亮介くんは目を逸らしながら小さな声で呟いた。


「小春の妹の、日陰、ちゃん、だっけ。あの子さ、その」


 要領を得ない言い分は、歩道橋を降りるまで続いた。


 大きいな窓ガラスの向こうにムートンコートが飾られた服屋を過ぎて、イルミネーションが星のように輝く大きな噴水の前まで来たところで、ようやく亮介くんが口火を切る。


「なんか、変じゃないか」

「変って?」

「・・・・・・具体的には言えないけど、どこかが、俺たちが抱えてるような心の、どこかが欠けてるような、気が」


 言っている途中で亮介くんの額には冷汗が滲んだ。繋いだ手のひらも汗ばんでいる。こんなに寒いのに。


「そんなことないよ。日陰はいい子だよ」


 私は日陰が生まれてからこれまで、ずっと傍で見てきたのだから分かる。


 日陰は純粋なだけだ。疑問を疑問と思い、好奇心に逆らおうとしない野心を持っている。けれど、日陰は人の気持ちが分かる子だ。


 ありがとう、ごめんなさい。その二つを日陰は忘れたことがない。


 あれほどお母さんに酷い目に合わされても、日陰はお母さんの悪口を言ったことが一度もないし、幼い頃から抱いているお母さんに対する愛情はなにひとつ形を変えていない。まっさらで、ちょっと他の色が混じりやすいだけだ。


 そんな日陰が、変? おかしい? 違う。


 日陰は優しい。おばあちゃんや、お母さんとは違う。人の子だ。日陰は昔から親戚などから酷い言い様で罵られたせいもあって自分のことを悪く思っているようだけど、そんなことは絶対にない。


「けどさ、なんか不気味っていうか、この前も――」

「大丈夫だよ。日陰は」


 いつからか、大丈夫という言葉が私の口癖になっていた。それは自分に言い聞かせているのか、分からないけど。この言葉を発すると、この世界に自分が溶け込んでいくような気がして、安心するのだ。


「でも、日陰って名前も、あれ、じゃないか? ちょっと変っていうか、それを前提に付けられたっていうか。だって、普通そんな名前子供につけないだろ。もしかしたらさ、生まれた時から分かってたんじゃないか、ほら、そういう病気、あるっていうだろ」

「ないよ」

「でも」

「ない」


 握った手に力がこもる。


 力なんて入れてないのに、まるで、私の中に眠る血液が、意思を持ったかのように暴れまわるのだ。


 少しの疑念、嫌気、それから敵対心。そんなものが一瞬でも宿れば、私の血、それから刻み込まれた遺伝子が騒ぎ立てはじめる。


 あの日聞いた、不快な咀嚼音が鼓膜の奥で響く。私を追いかける影。私は逃げ切ることができなくて、その影に捕まる。


 振り向くと、茶色に濁った歯を見せて笑うお母さんの顔がある。そんな夢、幻を何度も見てきた。


 けど、私はならない。


 なってたまるか。


 私は日陰と普通に生きる。人間として、幸せになる。そう誓ったのだ。


 家が見えると、私は手を離して先行する。後ろに手を組んで振り返ると、まだ引っかかりがあるような亮介くんの表情があった。


「ずっと一緒にいる私が言うんだから、本当だよ。それとも私の言うこと、信じられない?」


 わざとイタズラ気に笑って見せると、亮介くんは頬をかいて、それからぎこちなく笑ってくれた。すべてが晴れたわけではない、けれどこれ以上は詮索しない。そういった顔だった。


 それが、普通だと思う。それが普通の対応だと思う。亮介くんは利口だ。おかしくない。ありがとう。


 変なこと言ってごめん、と謝る亮介くんに、私は声をかける。


「いいんだ。あ、でもね。日陰の名前を悪く言ったことは許さないからね。今度靴買いに行った時、この前飲みたい! って言った八百円のスムージー奢ってもらうから」

「ええー!?」

「あははっ、約束」


 亮介くんは嫌そうな素振りを見せたが、顔は笑っていた。おどけるような雰囲気に。緊張がほぐれたのだろう。


「悪く言ったつもりはないんだ。ただ珍しいだろ? 日陰って名前」

「そうかもね。けど、私は好きだよ。日陰って名前」


 亮介くんは私を見て、言葉の続きを待っていた。私が言うことなんて想像もつかない、そういう乖離した価値観を覗き見るような、か細い瞳だった。


 だから私はそれになにかをくべるかのように、言ってあげるのだ。


「だって日陰ってことは、周りにたくさんの光があるってことでしょ?」


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