雪の中の修道院の墓地
雪の中の修道院の墓地
永沢、お前が死んだって聞いたのは、年末に札幌のホテルで開かれた同窓会の時だった。中学を卒業してから二十七年近く経って開かれた同窓会で、その話を佐々木楓から聞いたとき、俺はなんだか少しお前のことがうらやましかった。
俺と永沢と佐々木は、中学三年で同じクラスだった。他に相馬がいて、お前ら三人は小学校も一緒だったから、同じクラスに五年も六年もいて、もう飽きたって言ってたよな。だから、お前ら、いや、永沢と相馬がうらやましかったんだ。だって、あんなに魅力的な佐々木楓と一緒なのに、飽きたとはなんて言い草だよ。
教室で初めて会った彼女は俊敏な山猫のように、まったく無駄のない体つきをしていたんだ。ショートヘアーで、笑うと微かにえくぼができる顔の造りは小さくて、七頭身が主流だった女子のなかでは唯一八頭身だった。そうそう、あのころは女子の体型がまだ発展途上で、どんなに可愛い子でもたいてい脚は太いのが主流だったのに、佐々木楓の脚は細く真っ直ぐで美しかったよな。でも完璧な下半身を印象づけていたのは脚のおかげだけではない。それはセーラー服の濃紺の襞スカートと一体化して完全な美を構成していたんだ。それほど彼女のスカート姿は完璧だった。
俺はそんな彼女を好きになってしまった。そう、一目惚れってやつさ。でも、惹かれたのは容姿のせいだけじゃない。彼女と初めて話したとき、楽しくて、まるでずっと昔から友達だったかのように盛り上がったんだ。
そんな楓はクラスどころか学年のアイドルで、俺の手には届かなかったけど、永沢も相馬もあいつのこと好きだって知ってたよ。なんで俺たち三人仲がよかったんだろうな。きっと皆で楓に憧れてたからかな。楓が大好きで忘れられなくなったって、俺が最初に言ったからお前らは言いそびれたんだろう? 俺だって好きだ、俺が最初だからなって言えばいいだけなのにさ。そう、俺たちは皆幼くて純粋だった。
永沢、あのときお前はこう言ったんだ。透明な水晶の球と、透明なガラスの球を見分けることは簡単じゃないって、俺たち三人で教室の後ろで話し込んでいて、俺が『楓のことが好きなんだ』って話した時さ。そのとき彼女は、素敵な後ろ姿で紺のスカートを揺らせながら、黒板を一生懸命消していた。それから俺たちのほうを振り返って微笑んだ。
「人間の魂なんてガラスの球みたいなものなんだ。いつか粉々に砕けてしまう。そうして沢山の破片が吹き寄せられて集められ、溶かされて球に戻るけど、その球にはまだ性質がない……、産まれたばかりの球は水晶にもなれるしガラスにもなれる。でもそれはやがてどちらかの性質しか示さなくなって、ほとんどがまたガラスになってしまうんだ」
お前の悲しげな声を聞きながら、楓が俺の横を通りすぎて教室から出て行くのを見つめていた。
「なあ吉岡、好きな女の子がいるなんて素敵だよ。真剣に好きになれる子がいるなんて、水晶になれるチャンスだもん」
お前が微笑みながらそう言ったとき、俺には意味なんかわからなかった。いや、意味が有るのかどうかだって関心なかったんだ。ただ、石とか霊魂とかに異常な関心を持っていて、皆から石オタクって言われていたから適当に聞いていただけだった。
★ ★ ★
私もうじきおばあちゃんになるのよ、同窓会で隣に座った楓から、そんな言葉を聞いたとき、そんなに季節が循環したのかって思ったんだ。いったいあれから何回夏が、そして何回冬が巡ったのだろう。そうなんだ、おめでとうって言って、二十七年ぶりの同窓会だから、そんな話も有り得るさ、でも、昔と変わらない美しい楓がおばあさんだなんて、四十過ぎでおばあさんだなんて不思議だった。
同窓会は学年全体で主催されていたが、会場ではクラス別に結婚式場にあるような丸テーブルが用意されていて、俺のテーブルには十人ほどが昔話を咲かせていた。
「永沢も相馬も来てないんだな」俺の声は誰にも届かないほど小さかったはずなのに、楓には聞こえていたのだろう。
「吉岡君、やっぱり知らなかったのね?」
「えっ、何を」
「永沢君……、三年前に亡くなったのよ」
俺は、高校を出ると東京の私立大学に行き、そのまま東京で職についたから、毎年実家には帰ったけど中学校の同級生に会うのは本当に二十七年ぶりだった。とりあえず、そうか、とは言ってみた。テレビドラマだったら大げさに驚く場面なのだろうが、特段に衝撃もなくて、自分には冷たい血しか流れていないのか、なんて、そっちのほうが衝撃だった。そのとき、あの教室で、楓の揺れるスカートを見ながら永沢が話した水晶の話を思い出していた。
「そうか、知らなかったよ……。なあ、楓、お前知ってるか、水晶の球とガラス球の見分け方」
「どうしたの、唐突に!」
彼女は一瞬怪訝そうな顔をしたが、その後に、そんなことは誰でも知っているという感じでスラリと答えた。
「すごく細い黒い線を用意して、その上に球を置けばいいの。もしなければ髪の毛でもいいわ。それでその球をのぞいて細い線を見るのよ。もしガラスならば線は一本で、どんな角度でみても廻しても一本のままなの、でも水晶ならば一本の線は二本に分離するの。もし見えなければ球をのぞきながらゆっくり廻せば必ず二本に見えるのよ」
「良く知ってるな」初めて聞く話に感心したが、宝石に興味を持つ女性ならば普通の知識なのかもしれない「女性は誰でも知ってるのか? 水晶とガラスの見分け方」俺はそう続けた。
「ちがうわ。永沢君に教わったのよ、最後に会ったときに。そのとき永沢君が面白い話をしてくれたの。私たちみんな魂の珠を一つずつ持ってるんですって、でも、その珠は水晶かもしれないし、ガラスかもしれないって」
その話、聞いてたのか。そうだよな、永沢って言えばやっぱりそこに行き着くよな。俺はそんなことを考えながら、ずっと昔に感じていた疑問を思い出して楓にぶつけてみた。
「俺たちが持っているらしい珠だけど、水晶なのかガラスなのかを見分ける方法ってあるのかな?」
「わたしも気になったから永沢君に聞いたけど、笑ってるだけで教えてくれなかった」
永沢が末期癌で癌センターに入院したことを聞きつけた相馬が、楓に連絡してきたらしい、それで小中学校で永沢と親しかった一人を誘って三人で見舞ったのだという。吉岡君にも連絡しようと思ったんだけど、うまく連絡できなかったから、と楓は言った。
永沢君とっても嬉しそうだったわ、と、楓は、その時のことを思い出して言ったのだが、哀しさなんてかけらもないような言い方だった。
「永沢君ね、今日はありがとうって言って、私たちが持っていった林檎を剥いてくれたのよ。私がやるからって言ったら、いいんだ、どうしても自分でやりたいからって、たぶん、そのとき、永沢君泣いてたと思う……、その林檎を食べてた時よ、水晶とガラスの話をしてくれたのは」
俺はその話を聞いて羨ましかった。いったいこの世の中に、初恋の人に看取られて死んだ奴なんて何人いるんだろう。まあ正確には看取られた訳ではないけれど、不治の病で死を迎える前に初恋の人に会えるなんて、そんなにはないんじゃないだろうか。
「なあ、楓、あいつは幸せな奴だ。俺はそう思うけど」
「そうかな。奥さんも恋人もいなくて一人ぼっちで、それに一人残されたお母さんより先に逝くなんて、可哀想だわ」
永沢は独身だった。俺はそんなことさえ知らなかった。
「あの病室で、永沢君が泣いてるかもって感じたとき私も悲しかった。でも、今は違うの、永沢君は水晶になったんじゃないかって思うのよ」
あいつは楓のことをずっと想い続けていたのかもしれない、頭をよぎる一瞬の思い、だが、それを口にすることはできなかった。
明日、永沢の墓参りに行こうって誰かが言い出して、俺と楓を含めた四人で行くことになった。年末年始の帰省を利用した同窓会だから急な話だったけど、俺は予定を変えても行きたかった。帰宅して妻と娘にその話をすると、スケートに行く約束が変わったことに少し不満そうだった。
★ ★ ★
駅に集合してバスで向かった。バスはコンクリートの立ち並ぶ都市部を離れて、森がある郊外へと向かう。雪は例年になく多かったが、雪道に慣れたバスはほぼ時刻通りに運行した。
「墓地は修道院の敷地の中よ」
楓の声でバスを降りると、そこは一面の銀世界で、踏みしめる雪は柔らかく、俺が履いていた長靴は時々膝下まで入ってしまう。降り続く雪の中で、自分たち以外には生命体は存在してないかのように感じられる。楓の案内で雪深い路を歩いて行くと、やがて広大な修道院の敷地に入った。深い雪は音を吸収し、深深とした空気の中で靴と雪とが擦れ合う音だけが響いていた。全ての葉が落ち、白い雪に覆われた巨大な樫の並木を歩きながら、俺は軽い目眩を覚えた。
朽ちた修道院の尖塔に、鳴らない青銅の鐘が見える。
それは鳥のゐない鳥籠のようだ。
葉の落ちた赤樫の巨木が立ち並び
根元に言いようの無い暗い石の碑銘が羅列する。
雪はいつ果てるともなく舞い、全ては白と黒とに塗り分けられる。
誰もいない、雪の中の修道院の墓地。
誰もいるはずのない、その墓地にそいつは立っていた。
「やあ、吉岡、待ってたんだ。お前が来るの」
「ああ、遅くなってごめん」
「いいさ、気にするなよ。会えて嬉しかった。じゃあ、俺行くからさ」
「もう行くのか。待てよ、俺、お前が林檎好きだって聞いたから持って来たんだぜ」
「ありがとう、嬉しいよ」
「ここはどこなんだ?」
そこは三百年前のウィーン郊外の墓地で、朽ちかけた十字の墓石は俺たちのものだと、そいつは説明した。俺と永沢と相馬、それに楓の墓までが並んでいた。そのとき俺たちは兄弟で、同じころに黒死病で死んだのだと。
「また会えるか?」
「ああ、また会えるさ、どこかでな」
「輪廻?」
「ガラスが水晶になるまで繰り返す」
楓に肩を揺すられていた。ここよ、永沢君のお墓は。俺は、十字架が掘られた墓石の前に立っていた。そこは廃墟のような墓地ではなく、一面白く雪がつもる公園のような墓地だった。春になり雪が溶ければ、緑の芝と咲き乱れる花で輝くのだろう。
俺は墓碑の前に林檎を置いて頭を下げた。線香に代わりに皆何かを持って来ていた。これ中学の時の写真、今はネガなくてもコピーできるから作ってきたのよ。そう言って楓が見せてくれた写真には、楓と一緒に永沢と俺と相馬が写っていた。皆楽しそうに笑っている。帰り際に俺は、街で買い求めた小さな水晶の球を置いた。歩きながら振り返ってみると、置いたあたりがキラキラと輝いたように見えた。それは降りしきる雪の結晶が創る光とは違うような気がした。
「なあ楓、俺が死ぬ時にも会いに来てくれるか?」
「えっ、何言ってるのよ。まだ死なないでしょう」
「ああ、だからいつかってことさ」
「うん、行くよ。必ずね」
「そのときは、俺がカミさんにお前を紹介するよ。これが初恋の人、楓だってさ」
「そうね。その時は紹介してね」
雪は降り止むことなく降り続いている。きっと、すべてを覆い尽くすまで降り続くのだ。やがて世界が白一色になったならば、新しい記憶が書き込まれるのだろう。それはまた、ずっと先のことなのかもしれない。
降りしきる雪を見上げながら、妻と娘の顔を思い浮かべた。
<了>