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お華の髪飾りⅡ  作者: 本隠坊
2/65

②お華、再び・終わりの始まり(後編)

(1)

 

 吉原の一件が片づいた翌日。

 お華は、北町奉行所に呼ばれた。

 通い慣れている北町だが、奉行私邸の裏庭を回った時だった。

 お華は目の前に広がった、その光景に足が止まった。

 なんと、庭中、花だらけなのだ。

 しかも、みんな朝顔だ。

 言ってみれば、お花畑の様だった。

 いや、実は正真正銘のお花畑なのだ。

 それに、目をとられていた時、屋敷の侍女に呼ばれ、お華はハッと気を取り戻し、庭先から、屋敷に上がった。

 この時の奉行は、鍋島内匠頭道孝という名の奉行であった。

 名字で想像つかれると思うが、当時の佐賀藩主・鍋島斉直の五男である。

 しかし、五男でもあるから、別家である餅ノ木鍋島家に、養子に入り、旗本となっていた。


 実はお華、この奉行とは初対面であった。

 御前に出たお華は平伏し、

「お初にお目にかかります。同心、桜田浩太郎が妹、お華にございます」

 と、武家の娘らしく挨拶したが、正面の内匠頭は、

「おう! いつ逢えるか楽しみにしておったぞ」

 笑顔で、声を掛ける。

 さすがに、これにはお華も恐縮して、

「これはこれは、ありがたいお言葉。深く御礼申し上げます」

 すると、部屋にお茶を持って、一目で奥方と分かる女が入って来た。

 笑顔で、お華に茶を出すと、

「これはこれは、奥方様でいらっしゃいますか? これは御自ら。誠に申し訳ございません」

 お華は、益々恐縮して、平伏する。

 すると内匠頭は、

「これは奥の、おくまじゃ。本当に一番楽しみにしていたのは、こいつなのだがな」

 と、大笑いする。

 お華は、背中を伸ばし、

「これはこれは、勿体ない事で。誠にありがとうございます」

 と、深く頭を下げる。

 すると、内匠頭にお茶を出しながら、おくまは、

「遠山の奥方様から、お話は聞いていたのよ~」

 笑顔で明るく言う。

「あ、遠山様の。おけい様」

「そう。北町奉行所に行ったら、一度会ってみたらって。面白いわよって」

 さすがにそれには、お華も笑って、

「まあ、そんな、噺家の様に面白い事なんか、言わないんですけどね~。おけい様は、何か勘違いなさってらっしゃいます」

 などと言うと、おくまも口に手を当て、大笑いしている。

 そして、お華は、

「奥方様? 庭のあのお華は、奥方様が?」

 と聞くと、おくまは、首を振り、

「あれは、こちらの方よ」

「え! お奉行様が?」

 お華は驚いて、奉行の顔を見る。

「そうよ。殿様は、ああいうのが好きなのよ」

「は~」

 と、唸るお華。

 すると、鍋島は、

「報告を聞いたが、お前さん。二階から飛び降りて、手裏剣打ったんだって?」

 それには、

「え?」

 と、奥方の方が驚いた。

 お華は、少し笑って頷き、

「ええ。下手人が人質連れて、屋根なんか上がるものですから、仕方無く」

 鍋島は笑って、

「奥。この娘は、お城でも飛んで曲者を倒した女だ。上様も感心して、屋敷を褒美で貰ってるほどの女だ。驚くには値しないよ」

「は~」

 おくまは、信じられないような顔をしている。

「それで、そなた。褒美は同心達にやれと、桜田から聞いたが、それで本当に良いのか?」

 お華は、大きく頷き、

「兄からご報告がありましたか? 実は、あの若い同心達は、子供の頃、良く引き連れて遊んでおりまして、その頃は、全く弱い連中で、その辺は、今も変わっておりませんが……」

 と笑いながら、

「でも、今回、あの子達がいたお陰で、人質になった娘の命も助かりましたし、そして、私も二階から飛び降りる事が出来ました。あの子達が居なかったら、あのように上手くお縄まで出来たかどうかわかりませぬ。ですから、手柄というなら、まず、あの子達が一番手であると存じまして……」

 それには、鍋島も大きく頷き、

「なるほど、下支えの者が本当の手柄と言う訳か……。それは、我が意にも叶ている」

 隣のおくまも、笑顔で頷く。

「それとそなた。花魁道中もやったとか、そりゃ、一体何じゃ?」

 鍋島は、続けて微笑みながら聞くと、お華は、仰け反って大きく笑い。

「残念ながらあの事件で、呼び出しの本来の遊女が、足を捻りまして。変わって道中やってくれ。と頼まれたものですから、仕方無く……」

「そなた。それはそれで、嬉しかったのではないの?」

 おくまが少し笑いながら聞くと、

「ええ」

 と笑いながら頷く。

「中に入りますと、吉原自体は、やはりどうかと。私でも思いますが、あのお練りは、妙に気持ち良かったですよ~。奥様も一度、おやりになってみたらいかかでしょ」

「まあ!」

 と、おくまは驚き、

「こらこら。そんな事進める奴がおるか」

 鍋島に笑いながら怒られ、笑いながら肩をすくめるお華。

 すると、鍋島は、

「そなたの申状はよく分かった。まあ、褒美は遠山殿が出すから、わしの方から、伝えておこう」

 と、言ってくれたので、お華は微笑んで平伏する。

「まあ、そちらはそれで良いが、そうは言っても、わしとしても、大活躍のお華にも褒美はやらんといかん」

 それには、おくまも大きく頷いた。

 しかしお華は、

「いえいえ、お奉行様。そんな勿体ない事は……」

 と、手を振りながら言ったが、鍋島は、

「お華御殿に比べれば、たいしたもんじゃない。あれじゃ」

 鍋島は庭を指差した。

「え?」

 不思議な顔になるお華に、

「あの、花を何本か、お前に譲ってやろう」

 それにはお華も、心の底から笑顔が浮かんだ。

「本当にございますかぁ~、それは誠に嬉しい。うちの小さな子が喜びまする」

 直ちに平伏する。

「お華には、やはり、お花じゃ」

 鍋島は、おくまと顔を合わせ、微笑んで頷く。



(2)

 

 お華は奉行所から、風呂敷に包まれた花たちを下げながら、屋敷に戻った。

 その時、屋敷の庭では、おゆきがキャキャ言いながら遊び回り、傍らにおみよ、佐助、優斎先生が談笑していた。

 そこにお華が、えらく大きい風呂敷を下げながら戻って来たので、三人は目を剥いて驚いた。 

 おみよが早速、近づいて、

「どうしたんです。それ」

 と指差す。

 おゆきが、お華が来たのに気づき、可愛い笑顔で近づいてきたので、お華は、おゆきを呼んで、風呂敷の中を見せてやった。

「お花? お姉さん!」

 大きい声で驚いている。

 大人達も、覗き込んで、驚いている。

「朝顔よ~。北のお奉行様に、ご褒美だって頂いたの」

 と、お華が言うと、優斎は佐助に、

「佐助さん。今のお奉行って、鍋島様でしたよね?」

「はい。そうです先生」

 優斎は、再び驚いた。

 お華は、不思議そうに、

「どうしたの先生」

 と聞くと、優斎は、

「これは……凄いご褒美頂きましたね~」

「え? そうなの?」

 優斎は首を振り、

「いや、鍋島様というお旗本は、朝顔の専門家として、えらく有名な方なんですよ。確か、本も出されているとお聞きしています。武家にはお珍しいお方ですけど、お名前は、伊達にも響いてますから」

 その言葉には、お華も仰天した。

「いや~、良いお方が、北町のお奉行になられて良かった。と思ってましたけど、お花の専門家だなんて……」

 ちなみに、鍋島は、嘉永七年「朝顔三十六花撰」と言う本の序文を書いている。

 武家では、一番の朝顔通と言っても良い。

「で、お華さん。育て方は教えて貰ったんですか?」

「はい。もう芽が出てますし、後は水を毎日一回欠かさずにと言われました」

 すると佐助が、

「あの、妹のおきみが、朝顔は詳しいです。里でよくやってましたから。こちらに来て、おゆきさんに教えてあげる様、言っときますよ。たぶん、ツルを巻く支柱なども立てなきゃいけませんし……」

 お華は嬉しそうに、

「ああ、ありがとう佐助さん。おきみちゃんにもよろしく」

 すると、優斎は、

「それじゃ、小さな花畑を庭につくりましょう」

 お華は、微笑みながら、おゆきを抱き上げ、

「良かったね。先生がお花畑作ってくれるよ~」


 

 翌日、佐助とおきみが、二人してお華の屋敷を訪ねてきた。

 屋敷には小さな池がある。

 前に住んでいた者が、庭作したものらしい。

 その横、庭石のこちら側を、少し掘り起こし、小さな花畑が出来ていた。

 とは言え、花畑とは言っても地面の表面を少し掘って、鉢植えの朝顔をそのまま並べ、安定するように少し鎚を埋めたと言うだけである。

 その時、もう、蕾になっていた朝顔たちの前に、おゆきは腰をおろし、楽しそうに眺めていた。

「おゆきちゃん!」

 と、おきみが呼び掛けると、おゆきは振り向き、ニコニコしながら、走ってきた。

「良かったね~おゆきちゃん。お花畑作って貰って」

 おきみは、幼い妹に話しかける様に、優しく話しかける。

「おきみ姉ちゃん!」

 と、大きく頷いて笑っている。

 するとそこに、お華とおみよがやって来た。

 お華が、済まなそうに、

「悪いね~おきみちゃん。姉上怒ってなかった?」

 おきみは、大きく手を振って、

「いえいえ、全く。奥様もお花のご褒美なんて、素敵ね~なんて仰ってましたよ」

 それには、お華も笑い、

「まあ、私というより、おゆきにくれた物だから、気にもならないか」

「そりゃ、そうです」

 おきみも頷いて笑う。

「じゃ、佐助さんもよろしく頼むね。わたしら出掛けなきゃならないからさ。任せる。なにかあったら、おかあさんに言ってくれる?」

「はい。承知しました」

 佐助とおきみは、頭を下げる。


 おゆきは、池端の石に座り、おきみと佐助の作業を興味深く見ている。

 作業とは言っても、庭が既に出来ているので、ツルが巻く支柱をつくるだけ。

 さらに、二人とも農家出身だ。

 しかも朝顔も育てていたので、桜田家から持ってきた竹の棒やら、何やらで、あっという間に作り上げてしまった。

「出来たの?」

 おゆきに言われたおきみは、笑顔で頷いた。

 おゆきは、最上の笑顔で、

「わ~い」

 と、叫び、屋敷の女将のところに走って行った。教えに行ったのだろう。


 ところが、おゆきを笑顔で見送ったおきみは、途端に眉を寄せ、佐助に声を掛ける。

「ねえ、兄さん。この花。ちょっとおかしいんじゃない?」

 一つの蕾を指差した。

 実は、それには佐助も気付いていた。

「うん。こりゃ普通の朝顔じゃねえよ」

 と改めて、指差した朝顔の前に屈み、出始めた蕾みを見ている。

「俺も今まで見た事ない」

 と、佐助は首を振る。

 すると、おきみは、

「この朝顔って、お奉行様が育てた物なんでしょう?」

「そうなんだよ……まさかこれって……」

「だってさ、これ、絶対、柿色だよ~」

 その言葉には、佐助も驚愕した。

 すぐ立ち上がり、回りを見回し、二人だけを確認する。

「か、柿色ってまさか」

「私も、前、鬼子母神で見たことあるけど、絶対、団十郎朝顔だよ」

「ひえ~」

 佐助は頭を抱える。

「しかもさ、ちょっと白も入っている様に見えるの。もしかしたら新種かもよ」

「げ! し、新種?」

 兄弟二人は、腕を組んだ同じ格好で、首を捻る。

 すると佐助は、腰から、普段、見廻りで使っている手帳を

取り出し、筆でその朝顔の絵を描き始めた。

「兄ちゃん。どうするの?」

 すると、佐助はおきみに顔を向け、

「これは、旦那様に一応ご報告しなきゃ。幾らご褒美でも、団十郎朝顔をくれるなんて、朝顔の玄人でもあるお奉行がする筈ねえと思うんだ。何かの間違いかも知れないし」

 しかし、おきみは首を捻り、

「そこまでしなくてもいいんじゃない? 朝顔は朝顔だし」

 と、笑うが、

「お前だって、団十郎朝顔がどの位の物か、知ってるだろ」

「うん。まあ」

「その、新種だぞ。しかも時期が時期だ。もしかしたら朝顔市に出品するお積もりかも知れない」

 それには、途端におきみも口に手をやる。どういう状況か気付いた様だ。

 そして、佐助は、

「しかも、俺達が見ているんだ。後で分かったら、玄人のくせに気付かなかったのかなんて、絶対叱られるぜ!」

 おきみも、それには真面目な顔で頷く。

「……そうかも知れない」

「奥様なんか怒っちまったら、あっさり斬られるぞ。強いんだからあの方は」

 おきみは、顔面蒼白になり、

「ひえ~」

 と、震え始める。

 佐助達は、絵を描き終わると、女将に簡単に挨拶し、急いで、八丁堀に帰っていった。



(3)


 今月、北町は休みなので、浩太郎とおさよは屋敷に居た。

「只今、帰りました~」

 すると、おさよが、

「お帰り。悪かったわね。手間掛けさせちゃって」

 いえいえ、と佐助は言いながら、

「旦那様はお部屋に?」

 と聞くと、おさよは、

「ああ、居るわよ」

 すると佐助は、おさよに、

「ちょっと、お二方にお話があるんですけど、良いですかね」

 と言って、おきみ共々、頭を下げる。

「な、何なの?」

 と、妙に改まった言い方だから、少々、警戒気味で、居間に一緒に入っていった。

 浩太郎も、

「おう、お帰り」

笑顔で迎えたが、佐助とおきみが、前に揃って座り、早速、花の件について語り始めた。

 その話を聞いた浩太郎は、顔が青ざめた。

「おいおい、そりゃ誠か?」

 佐助は頷き、

「はい。只今申し上げました通り、ただの団十郎朝顔でしたら、好事家には有名ですし、黙っていても、それ程問題は無いと思いますが……」

 おきみも、

「そうなんです。ところが、もし新種だったりすると、これはえらいことで……」

 心配そうに話す。

 すると、おさよが、

「でも、あなたたちに任せて良かった。気が付かないでいたら、とんでもない事になっていたって事でしょう」

 佐助は少し笑って、

「ありがとうございます奥様。入谷、鬼子母神の朝顔市、ご存じですか?」

 おさよは、笑顔で頷く。

「行った事は無いけど、知ってるわよ」

「道々考えていたのですけど。恐らく、そちらに出品する朝顔と間違えて、お華様にお渡ししたのではと……」

「ひえ~」

 と、その言葉に悲鳴を上げた浩太郎は、頭を抱える。

「おさよ。お奉行様はな、そりゃ朝顔についてはお詳しいんだよ。もう北のお屋敷なんざ、花畑みたいになっちまっててよ」

 四人は、少々、黙り込む。

 すると、おさよが口を開き、

「ねえねえ、市では朝顔のお店が出て、新作なんか作ると、皆に見せびらかしたりするの?」

 笑いながら、二人に聞く。

 すると、おきみが、

「そうです。好事家連中が、一番、二番決めるんですよ」

「うわ~」

 おさよは声を上げる。

 浩太郎は、おさよに、

「悪いがお前。奉行所の奥方様の所に行って、お話、聞いて来てくれるか? 女同士だから、俺が行って聞くより、本当の事、聞けると思うからさ。恐らくお奉行は、まだ城に行ってらっしゃると思うから、行くなら今だ」

 と頭を下げて頼む。

 捕り物ならともかく、こんな話は、自分には無理だと思ったのだろう。

 おさよは、少々、面倒な顔をしたが、

「仕方無いわね……佐助さん。一緒にお願い出来る?」

 もちろん佐助は、

「はい」

と返事をし、早速、北町に向かった。


 大抵、家族は奉行所など入れないのだが、桜田家はお華がそうであるように、誰も、止めようとはしない。

 しかも、奉行の奥方に。という事になれば、余計に気を遣う。

 だが、突然の訪問なので、一応、佐助を連れていって、先触れをして貰った。

 おさよも、奉行所、屋敷裏の光景を見て、お華と同じ様に、目を見張った。

「なるほどね……」

 と、意外な危機が迫っていると、簡単に感じる事が出来た。

 奥方おくまは、すぐ会ってくれた。

 前で、頭を下げるおさよは、

「初めてお目にかかります。この度は、突然にもかかわらず、快くお会い下されまして、誠にありがとうございます。同心桜田の妻、おさよにございます」

 と、丁寧に挨拶した。おさよも初対面であった。

 すると、おくまは笑顔で、

「あなたも有名な、おさよさんね。遠山様からお聞きしているわ」

 などと嬉しそうだ。

 おさよもお華と同じ様に、恥ずかしげに笑って、頭を下げる。

 

 そして、

「今日は、朝顔の件?」

 おくまの方が先に、笑って聞いてきたので、

「やはり、おわかりでしたか。誠に申し訳ございません」

 深く頭を下げ謝ると、おくまは手を振り、

「謝らなければならないのは、こっちの方よ。偉そうにお華ちゃんに朝顔あげといてね~。旦那様自ら用意しておいて、自分で間違っちゃうんだもん。世話無いわよ」

 顔をあげた、おさよは、

「やはり、朝顔市に出す花と間違って……」

「そうなのよ。それに気づいて、昨日からガックリしちゃってね~。でもね、自分が間違えたんだからどうしようもないわよ」

 それにはあわてて、

「いえいえ、それならばお返しするよう、お華に申し付けます。少々お待ちくだされば……」

 すると、おくまは、

「でもあれ、お華ちゃんところの子供にあげたんでしょう。今更、可哀想だから良いわよ」

 すると、おさよは、

「あれは、何でも団十郎朝顔とか。私は、恥ずかしながら良くわからないんですけど」

 それにはおくまも、

「そこは、私も一緒よ」

 と、大笑いする。

 おさよは、佐助に貰った、その蕾みの絵を奥方に渡し、

「下手な絵で申し訳ありません。これを書いたのは、浩太郎の付き人なのですが、この者、農家出身で、朝顔の事も割と詳しいのです。その者によりますと、これは、団十郎朝顔の、さらに新種ではないかと申すのです」

 それには、おくまも驚き、

「あら~よりによって、そんな朝顔上げちゃったの? 今晩、眠れないわよ。殿様」 

 さらに、大笑いだ。

 そしておさよは、

「奥方様? これは何でも順番もつけられるとか。新種ともなると、それは大変な事になるのでは?」

 と聞くと、おくまは頷いて、

「そうなのよ。評価が高いと、お大名や旗本のお嬢様なんかが、直ぐ買ってしまわれるんだって。一番なんかなったら、即、大奥行きよ」

その言葉には、さすがにおさよは驚愕した。

「お、大奥ですか!」

「そうなのよ。殿様も、大奥のために朝顔作ってる様なもんだとか、いつも仰ってたわ」

 おくまに言われたとき、おさよは、ある光景を思い出した。

 そういえば、庭に朝顔が、数多くあった事を。

 そして、そこが誰の庭かという事も。

 それで、おさよは片頬を上げて、笑いながら、

「それを聞いて安心しました。子供の方はともかく、お華には嫌とは言わせません。すぐ取り返して参ります」

 さすがにおくまは、

「無理しなくても良いのよ~」

 おさよは、自信満々という様子で、

「いえいえ、大丈夫にございます」


 なんて言って、直ぐ、席を立ち、おさよは北町を後にした。

「やっぱり、新種でしたか」

 佐助の言葉に、おさよは頷いた。

「ありゃ~。お華様返してくれますかね~」

 佐助の言葉に、おさよは笑顔で、

「心配ないわよ。お華倒すにゃ刃物はいらぬ。姉様一人居れば良いって奴ってとこかな」

 と高笑いだ。

 佐助には、何が何だかわからないまま、おさよについて行く。



(4)


 結局、浩太郎はおさよ、佐助兄妹を連れ、お華御殿に向かった。

歩きながら、

「おりゃ~、お華に頭下げるのは、嫌だな~」

と、ぼやく浩太郎に、おさよは笑いながら、

「恐らく今後、態度が偉そうに変わるでしょうからね~」

 との言葉に、

「あ~やだ、やだ」

 浩太郎は、本当に嫌な顔で、首を項垂れる。

 後ろの兄妹は、口を押さえて笑っている。

 しかし、おさよは、

「まあ、私にお任せ下さい」

「頼むよ~」

 と、手まで併せて、懇願する。


 到着した一向に、ちょうど、優斎も含めて、全員揃って座敷に座っていた。

 庭を皆見ながら、あれこれ話している時だった。

「これは、若様!」

 いち早く一行を見つけた、女将お吉の言葉が上がった。

「あら、兄上、姉上や、全員揃ってどうしたの?」

お華の言葉を受けながら、浩太郎は、

「お前達も来なさい」

 と、佐助兄妹も部屋に上がった。

 お華の正面におさよが座り、まるで円の様に座った。

 すると早速、浩太郎が、

「おゆき。お前さんに頼みがある」

 と、開口一番、頭を下げる。

 当然、おゆきは何の事だからわからないから、目を大きく開けて見詰めている。

 すると、おさよと兄妹も一緒に頭を下げるものだから、

 さすがに、女将は驚き、

「何をなさるのです若様。皆様」

 優斎も驚き、

「どうしたんです? 浩太郎さん」

 浩太郎は、苦い顔で、

「実は……」

 と、褒美で、おゆきに与えた朝顔を一本、返して欲しいと話した。

 お華達は言葉が出ない。

 おゆきは理解したのだろう、おゆきはシクシク泣き始めた。

 優斎とおみよも、あまりの事に目を白黒させている。

 そうなると、お華の怒りが爆発してしまう。

「みんな一緒に来て何かと思ったら、褒美を返せ? 何、ふざけた事言ってるのよ!」

 殆ど、怒鳴っている。

 そして、そうなると当然、浩太郎はおさよに全てを任せ、黙り込む。

 しかし、おさよはお華には目もくれず、

「ねえ、おゆきちゃん」

 と、話をはぐらかされたお華は、さらに怒り、

「ち、ちょっと姉上!」

 怒って言うのだが、全く相手にされずに、おゆきに話し出すおさよ。

「あのね、おゆきちゃん。あの朝顔をくれたお奉行様がね。どうしても、返してくれたら、ありがたいって言うのよ」

 おゆきが頷くのを見て、さらにおさよは、

「あのね。あの中の、一本のお花だけなのよ。それはね。本当は入江町鬼子母神の朝顔市に出す積もりだったけど、間違えて、おゆきちゃんに渡しちゃったんだって」 

 するとお華が、

「朝顔市が、どうしたって言うのよ!」

 怒りが収まらず言うのだが、おさよは相手にしない。

 その様子を聞いて、大体の事が分かった優斎は、些か笑い気味で、隣に座っているおみよに小声で、

「お華さん対おさよ様の戦いが始まったよ」

 と囁くと、おみよも口を押さえながら、大きく頷き、

「どっちが勝ちますかね?」

 優斎は、間髪入れず、

「そりゃ、おさよ様だよ。絶対、用意して来てるもの」

 おみよも同感だった様で、再び大きく頷く。


 おさよがおゆきに、それは丁寧に、そして理解出来るように話したので、おゆきも泣くのは終わった様だ。

 しかし、難関はもう一人の方だった。

「ちょっと、待って! ご褒美ってのは、一度渡したら、返せなんて言わないものよ!」

 おゆきの諒解を貰ったおさよは、お華に向かって座り直した。

それを見て、優斎も、

「反撃が始まるよ」

 小声で、何というか実況が始まる。

 すると、おみよは、

「先生、ご褒美って。一度渡したら返しちゃいけないものなの」

 と聞く。

「まあ、基本はね。でもそれぞれ、事情もあるからさ。絶対って訳じゃないんだよ」

 おさよは、お華を睨み付け、

「ほう。じゃ、あなたは何があっても返さないって言うのね?」

 お華は、若干トーンが下がり、

「な、何があっても何て言わないけどさ。一度、子供にあげたものなんだから、子供に返せなんて、大人の都合でしょ!」

 と言い返す。

 実は、浩太郎もここが一番弱い所だった。

 だから、何も口を挟まないで下を向いている。

「おや、その子供のおゆきちゃんも、ちゃんと分かってくれたのに、あなたは絶対嫌だと言うのね?」

「そりゃ、そうよ。たかだか、朝顔市の為に、何で、おゆきが泣かなきゃならないのよ!」

 その時、優斎がまた、

「反撃が始まるよ」

 おみよも頷き、

「何でしょう。楽しみです」

 と、この二人は別の次元で喜んでいるが、そこに、

「な~に、二人でごちゃごちゃ言ってるの!」

 お華の怒りの声が飛ぶ。

 思わず二人は手を上げ、頭を下げるが、笑っている。

 すると、女将のお吉が、

「お華ちゃん。もう良いわよ。奥様の言う通りにしなさいな」

 優しく言うのだが、お華は、

「おかあさんは黙ってて!」

 どうも、引くに引けなくなった様だ。

 すると、おさよは、

「佐助さん。朝顔市の説明をしてあげて。そこの分からない芸者の為に」

 佐助も、急に振られて驚いた。

 が、それでも落ち着いた声で、

「皆様も行かれた事ございますか?」

と聞くと、殆どの女は頷いたが、お華は固まっている。

「まあ、市と言うからには、そこで多くの植木屋など玄人が、いらっしゃったお客様にお売りするんですけど、あっし。いやこの妹も、里で作っておりましてね。あっしも若い頃、売る手伝いをしたことがあります。まさに、江戸での最大の市でございますから、色々な朝顔が売りに出されます。残念ながら妹は、玄人とはいっても、まだその頃は子供。そんな朝顔、誰も見向きもしません。仕方無く、大安売りしたくらいです」

 おきみも、笑って頭を下げている。

 しかし、お華は、

「分かったけど、それが何だって言うのよ」

 すると、佐助は頷いて、

「まあ、それは屋台で売るってだけで、玄人にとっては、おまけみたいなもんなのです。一番大事なのは、発表会」

「発表会?!」

 さすがに、そういった話には優斎が、すぐ反応した。

「ええ。要するに、一番、評判の良い朝顔。つまりは、誰も見たことがない朝顔はどれだ? って、評価を付けるのです」

「ほう~」

 優斎とおみよは大きく唸る。

 浩太郎は、町方だから当然知っている。

 すると、今度はおきみが、

「私も、一度は新作新種を。と思ったのですが、全く駄目でした。今、一番難しいのは、団十郎朝顔という品種です」

「団十郎朝顔?」 

 それには、お華たちが、一斉に声を上げた。

 さすがに、芝居好きの女将。お吉は嬉しそうな顔で、

「団十郎って、あの団十郎様?」

 それには、佐助が頷き、

「そうです女将。市川團十郎家の色。柿色の朝顔です」

「へぇ~そんな物があるんだ~」

 と、お吉やおみよは感心したが、おきみは何でも無い顔で、外を指差し、

「ほら、今、あそこにありますよ。蕾が」

 と言われ、お華達は全員が驚愕した。

「え、あの貰った朝顔?」

 と、おみよが言うと、おきみが、

「ええ、そうです。見比べてみると、わかります。一つだけ色が違うのがあることに」

 すると、何とおゆきが、

「あ、あったよ。紫っぽいの」

 よく、一人で嬉しそうに、ずっと眺めていたからわかったのだろう。

 おきみは笑って頷き、

「そう、あれが花開くと、柿色になるの」

 おゆきは、嬉しくなったのだろう、急に立ち上がって、見に行こうとした。

「触っちゃだめよ。見るだけよ!」

 と、お吉に言われ、頷きながら下に降りて、大きめの草履を履いて、パタパタと走っていった。

 すると、もう余裕のおさよは、

「分かりましたか、おゆきより聞き分けの無い、お華さん」

 唸る、お華。

「で、でも……」

 まだ、諦めていないらしい。

 既に優斎は、座りながら前に倒れて、畳を叩いて喜んでいる。

 それを苦々しく横目で見ながら、お華は、

「じ、じゃ、そ、その発表会が終わったら、返して貰えるんでしょうね!」

 と、お華は最後の簪を廻転しながら放つという感じ。

 しかし、おさよは、そんなものは、あっさりと、そして冷徹な声で一言。でた叩き落とす。

「無理ね」

 まさに、小太刀でバッサリ斬って捨てた。

それには、優斎もおさよも大爆笑だ。

「何でよ! 評価が付いて、終わりでしょう!」

 と諦めずに、お華は追いすがるが、おさよは横の佐助に、また顔を向ける。

 佐助は、済まなそうな顔で、

「お華様。すみません。やっぱり市ですので、それも買い手が直ぐ付きます」

「ええ~?」

 お華は肩を落とす。

 すると、おさよは更にトドメに入った。

「その発表会で、一等賞の様な朝顔は、直ぐに買い手が付くのよ。優斎さんのところの伊達様お姫様の様な、大名のお姫様とかね。でも、最大の買い手は大奥ね」

「お、大奥!」

 それには、優斎は当然な事ながら、お華、おみよも驚愕した。

 すると、そこにおゆきが選ってきて、おきみの前に行って、チョコンと座る。

 そして、

「ねえねえ、おねえちゃん。あの紫の蕾は、何か白い筋が入っているよ?」

 と聞いてきたので、おきみは嬉しそうに、

「よく分かったね~」

 と頭を撫で、そして皆に、

「あれは、団十郎朝顔って言うだけじゃなく、新種の団十郎朝顔。新しい朝顔なんです。私も長年、朝顔を育てましたが、ああいうのを見るのは初めてで、凄く感動しています」

 なんて、言うものだから、浩太郎も驚いて、

「へ~、さすが、朝顔にゃ本まで出されているお奉行だ。植木屋より玄人なのか」

 するとお華は、

「さっきから、凄い凄いって言ってるけど、そんなに高く売れるの?」

 と聞いてきたので、佐助が、

「普通の朝顔なら、せいぜい四文ぐらいで買えます。大体、私の田舎でも、野菜多く買ってくれた屋敷に、おまけで上げてたくらいですから。でも、団十郎朝顔なら、恐らく、十五、六両はします」

「十五六?!」

 お華は、さすがに驚く。

 現代の価値にすると、仮に、多く見積もって、百五十万円から百六十万円である。

 それには、さすがに全員、驚いている。

 お華が、慌てた様子で、

「朝顔一つで、そんなにするの?」

 佐助は頷き、そして、

「そして、庭の朝顔は、今、おきみが言った様に恐らく新種の団十郎朝顔。おそらく、その、倍。しかも、お奉行が作られたという評判も加わって、それより高いかも知れません」

「倍って、さ、三十両?」

 浩太郎もおさよも、額は初めて聞いたから、顔を合わせて驚いている。

 しかし、それを聞き、頷いたおさよは、

「さて、お華さん? さらに、大奥でよく買われるのは、どなただと思う? あなたも良く、よぉ~くご存じの姉小路様よ。あなたは、姉小路様に逆らって、渡さないと言う気なのかな?」

 最後の切り札が出た。

 さすがに、その名前には、

「あ、姉様~!」

 お華も、あわあわと口を空いたまま、仰天した。

「そうよ。あなたも姉小路様のお部屋を見た事あるでしょう。お庭に、朝顔が植えてあったの憶えてないの?」

「うわ~」

 お華は頭を抱えた。

 そして、おさよは、

「まさか、このお屋敷頂いておいて、朝顔は嫌だなんて、言わないわよね~」

 と、勝利の笑顔を浮かべる。

 優斎は、笑顔で大きく頷き、

「これは、おさよ様の勝ちですな。じゃないと、私の医療所も無くなってしまう」

 と、笑っている。

 そして、隣のおみよは、畳に突っ伏して笑い転げている。

 お華は、敗北感で言葉も出ない。

 勝利のおさよは、おゆきに笑顔で、

「おゆきちゃん。お奉行の奥様がね。代わりに奉行所の朝顔、いっぱい上げるって言ってたわよ。一本無くなるけど、その分、数が増えるから。本当のお花畑みたいになるよ~」

 と、おゆきに言うと、おゆきは、

「きゃ~」

 、声を上げ、満面の笑みで喜んでいる。

 そして、お華に、

「例え一日でも、ここで育てた朝顔。あなた、おゆきちゃんを連れて、朝顔市に行ってきなさい。どうなるか興味あるでしょ」

お華は俯いて、

「は、はい……」

 と、力が無く承諾する。

 すると、おきみが、

「奥様、私も一緒に行ってよろしいですか?」

 と聞くので、

「ええ、良いわよ。でも、おゆきちゃん連れてだから、帰りはおんぶして買えることになるよ~」

 と笑う。

 おきみも笑いながら、

「はい。大丈夫です。ありがとうございます」

 和やかに頭を下げる。

「佐助さん。明日にでも、あの朝顔。お奉行様の所にお返ししてくれる?」

「へい。承知しやした」

 と、こちらも頭を下げる。

 眉を寄せた優斎が、

「お華さん。大負けでしたね~」

 と言うと、お華はガックリと、畳に手を着け悔しがる。

 しかし、回りは、皆大笑いだ。



(5)


 さて、入谷の朝顔祭りは、七月の上旬、三日間行われる。

 その三日目。

 お華・おゆき・おみよ・お吉、そして佐助兄妹は、現在の昭和通り沿いにある

入谷鬼子母神に向かった。

 この頃は、ブームの始まりといった時期だが、もう人出が多くなっている。

 まずは、と言う事で鬼子母神にお参りした後、境内に立ち並ぶ、朝顔の数々を見て回った。

 玄人でもある、おきみの解説を聞きながら、おゆきは大喜びで見て回る。

「一人で行っちゃ駄目よ! 迷子になるよ~」

お華は、飛び回るおゆきに注意しながら、おみよに、

「いや~凄いね~」

 あまりの人と、朝顔の数々に仰天していた。

「ええ、毎年、盛況になってますよ」

 と、話す佐助だったが、彼もこの人気には驚いていた。


 さて、この一行は、花を見るだけが目的では無い。

 この日は、いわゆる品評会の日。

 お堂近くの広場で、その発表会が行われる。

 それが一行にとって大きな目的だ。

 皆が、揃ってそこに行くと、今、正に発表が行われていた。

 回りの町人達は、屈んで見ている。お華達も並んで屈む。

 すると、司会と思われる町人が、大きな声で、

「さて、今年の一等賞は……」

 係の者が、その朝顔を、一等賞の台に運んできた。

「あれは……」

 それを見て、おゆきの手を握るお華の力が、若干強くなる。

「今年は、北町奉行・鍋島内匠頭様、新作のご出品、おゆきの笑顔です!」

 皆は、一斉に手を上げ、声を上げて喜んだ。

「おゆきの笑顔……やった、やったおゆきちゃん。おゆきちゃんの朝顔が一番よ~」

 お華は、満面笑顔で喜ぶが、幼いおゆきには、あまり良く分からなかったのだろう。

 隣のお吉に顔を向けると、

「おゆきが、一番綺麗な、朝顔を作ったと言ってるよ」

 と、優しく声を掛ける。

「ゆき、の名前付けてくれるなんて、お奉行様もなかなか粋ですね~」

 おみよが、お華に言うと、お華は大きく頷いた。

 本当に意味が分かっているかどうか不明だが、おゆきも良い事である事だけはわかったのだろう。

 キャキャ、喜び始めた。

 すると、ほぼ同時に、もう一つ立て札が、朝顔の脇に置かれた。そこには、

(売約済み・大奥、姉小路様)

 と、書かれてあった。

「もう、売れちゃったの!」

 と言った、回りの反応とは別に、お華は悲鳴を上げ、仰天した。

 おみよと佐助は逆に、大笑いしている。

 そして、

「姉さん。危なかったね~お叱り喰らうところだったよ~」

 と、おみよに言われ、

 ハアハア言いながら、お華は小さな声で、

「た、助かった……」

 と、小さな声で、頷いた。


 すると、その会場に、なんと奉行・鍋島が姿を現した。

 特に表彰というのではない。

 ただ彼は彼で、この市には私的に関与しているのもあって、与力二名を引き連れ、見に来ていたのだ。

 驚く、お華と、佐助だったが、離れていたのもあって、わざわざ挨拶するのもどうかと思っていた。

 ところが、この大勢の人出の中。

 お華の感性が、微かな殺気を感じた。

 そして、歩く奉行の前後に目をやる。

 すると、突然、二人の男が立ち上がり、大声を上げる。

 お華も、同時に立ち上がる。

 言葉は詳しく聞き取れなかったが、「……の敵! 覚悟!」と言って刀を抜いたのだ。

 お華は、大きな声で、

「おゆき、下がっていなさい!」

 と叫んだ。

 素早く隣のおさよが、おゆきを抱き取り、後ろに飛ぶ。

 おゆきは、なにが何だか分からなかっただろう。泣く暇も無かった。

 鍋島は驚いた顔だったが、刀に手をやり、正面の相手を睨み付ける。

 お華は最初に、奉行の後ろから、与力二人をすり抜けて、刀を振り上げて走る侍に向かって、簪を右手から二本、飛ばした。

 そして、素早く、正面からの侍に向かって、左手から二本打ち抜いた。

 それは、木漏れ日の光を、充分反射させながら、今にも斬り掛かりそうな侍を襲う。

 二人とも、見事に膝と右腕を貫かれた。

 思わぬ方向からの、いきなりの衝撃に、さぞ驚いただろう。

 斬り付けるのはおろか、その場にスッ転んでしまった。

 それを見たお華は、

「佐助さん! お縄よ!」

 と、鋭い声で、言い付ける。

 佐助は、休みだがら、懐に隠しておいた縄を取り出しつつ、倒れている男達に走っていった。

 奉行も、何かが飛んだ気配には気づいていた。

 しかし、それがお華だと分かって、むしろ、そちらの方が驚いた様だ。

 その辺の町人などは、悲鳴を上げているが、人が多く逃げる事が出来なかったようだ。

 倒れた下手人と、奉行達をただ、見ている。

 奉行の前後では、佐助を手伝って、与力達が下手人をお縄にしている。

 そして、一連の動きを目の当たりにした、小さなおゆきは、驚き過ぎて声も出せず、お華を見ながら震えていた。

 それに気付いた、おみよは優しい声で、おゆきの耳元に、

「お華姉さんは、あなたの味方よ、驚かなくても大丈夫」

 と、優しく抱きしめる。

 おゆきは、ようやく、うんと頷いた。


「お華! 来ておったのか」

 と、鍋島はお華に声を掛け、手を上げる。

 お華は、笑顔で頭を下げ、人を抜けて奉行の近くに行く。

 お吉達も、立ち上がりそれにつづく。

 お華は、気の毒そうな顔で、

「お奉行様。こんな時に災難でしたね~」

 気楽な調子で、鍋島に声を掛ける。

「いや~。お前さんがいて、助かったよ~」

 するとお華は、

「何です? こいつら」

 と、不機嫌気味に言うと、

 一人の与力が、奉行の側により、

「彼奴らは、先日、評定所でお家お取り潰しで、旗本が切腹になった、小川家の家臣の様で……」

 と報告したが、傍らのお華の顔を見て、

「げ! お華!」

 三歩は下がった。

 もう一人も現れたところで、お華は、

「年番与力様達? どういう事です? 与力様とあろう方が、切り込みに気づかないとは……」

 そう、二人は北町で、奉行を除いて、一番偉いとされる年番奉行であった。

 二人は、あまりの失態に、動揺し、

「あ、いや、すまん」

 と、謝ってしまった。

 それを聞いた佐助は、

「うひゃ~、年番与力様が謝ってるよ~」

 小声で、驚いている。

 しかし、鍋島は、

「まあ、良い」

 と、特に怒りもせず、

「しかし、お華。話には聞いていたが、さすがだな。こんな人混みの中、正確に打ち抜くとは」

 お華は一転、恥ずかしがって、

「いえいえ、それよりもお奉行様。おゆきの笑顔。誠に持ってありがとうございました。なかなか粋な事で、私も嬉しゅうございます」

「はは、あれは、奥が考えたのじゃ。せめて名前ぐらいはとな」

 お華は、手を振って、おゆきを呼び、抱き上げた。

「これが、おゆきにございます。おゆき、こちらが北町のお奉行様の鍋島様じゃ。朝顔に、おゆきの名前をつけて下さった、お優しい方じゃ。お礼とご挨拶を」

 おゆきは、頷いて、

「おゆきにございます。この度は、ありがとうございました」

 と、少し辿々しいが、しっかり挨拶した。

 鍋島は、満面の笑顔で、

「良い挨拶じゃ、よく出来た」

 と褒めて、頭を撫でてくれた。

 そして、

「奥がな。おゆきに花を上げるって、一杯用意しているから、奉行所に取りにきなさい」

 と言ってくれると、お華とおゆきは、笑顔で、

「ありがとうございます」

 二人で頭を下げた。



~つづく~


 今回もお読み頂き、誠にありがとうございます。

 続き物の後半でしたが、すみません、前後半に分ける程の話ではありませんでしたね(笑)

 まあ、江戸時代の朝顔のブームについて知って頂ければ、充分です。

 

 ところで、私の小説では、一両は、今の価値で、10万円に設定しております。

 学説でも、一両、5万、7万5千、10万。あるいは23万などと、見解が分かれていますが、私は計算しやすいので10万にしています(笑)

 小説だしね。 

 そもそも、小判は、現代の価格と比較するのは非常に難しい。

 何を基準(金の取引価格・米の値段など)にしても、小判自体が、前シリーズでも書きましたが、小判改鋳などで、江戸の政権ごとに変わってしまう。

 ですから、一概に確定は非常に難しいのです。


 専門家以外の方々は、上は10万、下は5万程度に考えて頂ければよろしいかと。

 ちなみに、文ですが、一文=20円。若しくは25円と言われています。

 要するに、一杯のかけそばは、いつも16文。320円か400円で考えて頂ければ良いかと。


 お華は、幕末の物語なので、一両10万はちょっと高い。と思うのですが、その辺お酌み取り頂ければありがたく存じます。

 

 さて、次回は、ちょっと個人的な趣味が入ったお話です。

 あながちいい加減ではないので、どうかご了承頂きたいと念じております。

 それでは、今回も誠にありがとうございました。

 次回もよろしくお願い申し上げます。

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