①お華、再び (前編)
(1)
弘化二年(1845)梅雨も明けた、六月末の事である。
その日、お華は、南町奉行所に向かっていた。
門前に着き、門番と顔を合わせると、何故か、後退りしている。
「な、何か御用で?」
何だか妙に、怖がっている。
お華は苦笑いで、
「お奉行様のお召しでね」
と言うと、サッと正面を横に飛び、頭を膝に付けるように下げ、右手だけを高く中に向け、
「さ、さあ~どうぞ!」
などと、言っている。
お華は、些か笑いながら、額を片手で押さえ、奉行の私邸に進んだ。
すると、その私邸玄関正面に来る間、お華を見かけた、外に居た与力同心連中は、目を大きく開け、これもササッと、端に避ける。
決して、芸者だから、遠巻きに喜んでいる訳では無い。
それらの顔にも、やはり怯えが浮かんでいる。
その光景は、他国で言うなれば、モーゼの十戒。
まるで水が引いていくように、正面が広がる。
お華は、なんの咎めも受けず、玄関まで辿り着いた。
すると、今度は、応対に出た侍が、眼を大きく開ける。
お華にもかかわらず、玄関正面から、居間に通されてしまった。
そして、首を捻って、お華が座って待っているところに、奉行がやって来た。
この時の南町奉行は、なんと、遠山左衛門尉景元。
そう、北町の奉行だった遠山は、妖怪の一件の後。
大目付から再び、奉行職に復職したのである。
同一人物が、南北両方の奉行を務めるのは、極めて異例の事だった。
それはともかく、お華は、
「先日、ご就任のお祝いを申し上げたばかりなのに、このお呼び出し。これは又、面倒な事ではございませんか?」
と、少々、眉を寄せて、聞く。
遠山は、大笑いだ。
「よく分かったな、お華。さすがにこれは、お華じゃ無いと、ちと無理なんじゃ」
と、言われてしまう。
やはり。とガックリしたところで、奥方のけいが、自らお茶を持ってきた。
お華に茶を出しながら、
「何かまた、大変な事、ご命じになられたの?」
気の毒そうに聞かれたが、
「いえいえ、これからでございます」
と、お華は手を振りながら笑ったが、急に目を細くして、
「奥様! 先日もそうだったんですけど、私がここに来ると、門番さんから、与力、同心の方々まで、さ~っと、皆、壁にひっついちゃうんですけど、何でですかね?」
おけいに訴えるのだが、遠山もけいも、途端に大笑いになった。
笑いながら遠山が、
「当たり前だろ。また、一位様の着物着て、なんかあったら大変だと思ってるんだよ。しかもお前は、それで与力同心をあの世に行かせて、その時の奉行でさえ、遙か南に飛ばしちまったからな。誰よりも怖いよ」
それには、お華が、
「え~。私がやった訳じゃ無いし、あの着物だって、本当は一位様の着物じゃないんですけどね~」
と、言って、迷惑そうに首を振る。
すると、遠山は、
「実は、先日でも良かったんだが、祝いに来てくれたのに、無粋だと思ったんでな。さて、頼みというのはな、実は、お前に吉原に行って欲しいのじゃ……」
その言葉には、お華も、そして横のけいも仰け反るように驚いた。
「よ、よしわら!? ち、ちょっとお待ち下さいませ。お奉行。兄が何かやって、縁坐で吉原ですか?」
その言葉には、遠山、再び大笑いして、
「何言ってるのだ。お前の兄は北町だろう。南のわしが、そんな事、出来る訳なかろう。それに、そんな縁坐、聞いた事無いわ」
と膝を叩いて、大喜びだ。
そして、笑いながら真面目な顔に変わり、
「そういう事ではない。実はな……」
と、遠山は事情を話し出した。
実は、南町の同心だった男が、吉原に馴染みの遊女がいるらしい。
もし、吉原に現れるようなら、女達を守って、捕まえて欲しい。との事だ。
この男は、妖怪の手下と言っても良い、同心の一人だった。
しかし、その時の事が忘れられず、未だに、市中の商家などから、金品を脅し取り、吉原で入れあげた女に、派手に使っているとの報告が、遠山の耳に入った。
無論、説諭して止めるよう注意したのだが、言葉は届かなかった。
結局、商家は勿論、その吉原の見世からまで、あまりの乱暴に、奉行所への訴えもあった事から、とうとう御役御免の処分になった。ところが今でも、商家を回り金を脅し取り、相変わらず、その女に入れあげているというのだ。
遠山は、如何にも困った顔で、
「まあ、御役御免にはなっているから、後は、目付に任せても良い事ではあるのだが……。むやみに取り囲んで、吉原辺りで大騒ぎされたら、かなわんからな」
お華は、眉を寄せ、
「は~。なるほど。じゃ、私は吉原で暴れさせないようにって事ですか?」
遠山は頷いて、そして若干笑い、
「如何にも、権八・小紫みてえになりそうだろ?」
などというものだから、お華は大いに驚き、
「殿様、良くそんな芝居なんぞ、ご存じですね~」
と言うと、遠山は、笑いながら片頬を上げ、
「おりゃ、若い頃、芝居小屋の草履取りしてたからな」
何故か、べらんめい調で言い放つ。
お華は驚愕し、おけいに、
「本当の事ですか、奥様!」
けいは、ガックリと肩を落とし、
「何もそんな事、仰らなくても……」
と、呆れ顔だ。
するとお華は、今気が付いた様に、腿を手で打ち、
「だから、町の人は、入れ墨お奉行なんて言うんですよ~。殿様、本当に墨なんぞ入れてるんですか?」
遠山は、片頬を上げながら、フンと横を向き、
「教えねえよ」
なんて言っている。
お華に言われる前に、おけいは既に姿を消していた。
「まあ、お気持ちは承知しました。ただ……」
と、お華は続けて、
「お奉行様。お奉行様ならお分かりでしょ? 女が絡んじまったら、始末に負えないって。結局、あたしが簪打って、余計大騒ぎになるかもしれませんよ~」
それには、遠山も笑って頷いている。
「つまり、その吉原で騒ぎを起こして、芝居なんかになる前に止めろって事でしょうか?」
遠山は、再び頷き、
「さすが、お華太夫だな。その通りじゃ。下手なことされて、奉行のわしにどうだこうだと言う事ではない。ああいうのは、抜いちまえば前が見えなくなる。すると、あそこに居る大勢の女も、大変な事になるからな」
お華は頷き、
「やっぱり……」
と、言った後。
お華はお茶を持って戻って来た、おけいに、
「吉原ね~。あそこは大変なんですよ。遊女屋であっても、天下御免のところだから、何かと煩くて。お城でも無いのに、座る所さえ、あれこれと煩いですから」
愚痴っぽく零す。
おけいも、よく分からないながらも、気の毒そうに、
「あなたも、毎度、大変ね~」
と、優しく言われ、お華は、口を押さえ頷く。
すると、遠山は、
「ま、とにかく頼む。今は北の月だから、北の奉行にも話は通してあるから、何とかしてくれ」
するとお華は、斜め上を向いて、
「そういえば吉原は、同心の方も詰めているんですよね~」
遠山は頷き、
「北の同心がいるんだが、そう言う相手じゃ、おいそれとは止められまい」
お華も何度も頷き、
「そうですか。それでは、兄に話し、手配を増やして頂きます。でもあんまり、あそこで簪とか打ちたくないんですけどね~」
「そりゃ、そうだろうな。大騒ぎになるぜ。いやむしろ逆に、お前の方が芝居にされちまうぜ~」
遠山は、その絵が頭に浮かぶのか、大笑いをしている。
「それでは、うちのおみよ連れて入ります。その同心の方と大門の何とかと言う人に話を通せば、一応は大丈夫ですね?」
「ああ、お前も知っているだろう沢田じゃ。既に話は通してある。心配せず言って来い」
その名前には、お華も驚き、
「ああ、沢田様ですか。小さい時に良く遊んでくれた方ですよ~」
と言った途端、「あ!」っと声を上げ、肩をガックリ落とし、
「なんだ、初めっから、否応は無かったんですね」
と、少々恨めしげに遠山に目をやると、遠山は大笑いだ。
(2)
奉行所を出たお華は、夕刻というのもあって、浩太郎に相談しようと北町に向かった。
今なら隣の駅、東京だ。直ぐ着いた。
さすがに北町では、門番も怖がることは無い。
入って行くと、ちょうど、壁際の腰掛けに座っている佐助を見つけた。佐助もお華に気が付いて、
「あ、お華さま!」
と、立ち上げる。
お華は、その佐助に兄への取り次ぎを頼んだ。
佐助は笑顔で頷き、同心部屋に駆け寄り、戸を開け、
「旦那様!」
大きい声で、声を掛けた。
殆どの同心が、集まっていて、一斉にこちらを向く。
その時、浩太郎はと言うと、文机の上で、早坂徳之介と、今日の見廻りについて、手帳を見ながら確認をしていた。
報告書を書く為だ。
顔を上げた浩太郎は、入って来たお華に、
「なんだ、お華。しかし、お奉行は勿論、奥方でさえ、こんな所、滅多に入って来ないのに、お前は関係無しだな」
と苦笑いだ。
すると、同心部屋の長、高橋などが笑顔で、
「お! お華じゃないか。どうしたどうした」
と、見廻りから帰ってきていた、他の若手連中もニコニコとしている。
お華は、上に上がりながら、
「やっぱり、ここは安心するわね~」
などと言うものだから、皆、不思議な顔をしている。
お華は皆に向かって、
「南じゃ、あたしが行くと、皆怖がるのよ」
それには、一斉に大笑いとなった。
しかし、とくぼんだけは、頷きながら怯えている。
それを見ながら、浩太郎は、更に苦笑いで、
「当たり前だろう、お前はあそこで、どれだけの恐怖を与えてると思ってるんだ」
さらに、大笑いとなる。
そして、浩太郎は、
「それで、こんな所になんだ。何かあったのか?」
お華は、頷いて、
「ちょうど良いわ。若い皆も一緒に聞きなさい」
などと、偉そうに言うものだから、高橋は驚き、苦笑いで首を捻る。
若手連中は、他ならぬお華に言われれば。文句も言わず、素直に少し前に出て正座している。
浩太郎は、眉を寄せ、
「お前は、年番与力様か何かか?」
と、呆れ顔である。
「で、なんだ」
お華は頷き、南で命じられた事を全て話した。
それには、さすがに浩太郎も驚いた。
しかし、
「その話か。今の今まで、皆集められて、お奉行様からお指図を受けていたところだ」
「そうなんだ。やっぱりね~。あの妖怪の流れらしいんだけどさ。とんでもない事やってるのよ。結局、私が、何とかしろって、遠山のお奉行様がね」
高橋は、その話を聞いて、
「なるほど、仕方無いから、遠山様も、とっておきを出してきたか」
と笑う。
「いやいや~」
お華は笑いながら、恥ずかしげに否定する。
浩太郎は腕を組み、困った顔で、
「とは言え、何とかしろって言ったってな~」
するとお華は、
「守れ! って言われてもさ。私とおみよじゃ限度があるからさ。兄上に助けて貰おうと思ってね」
「う~ん」
と浩太郎は唸る。
そして、高橋に顔を向けて、
「高橋様。一応、早坂を、事前に沢田さんのところに詰めるというのは構いませんか?」
高橋は、笑顔で、
「ああ、構わんよ。あと、あの辺、担当の若い者も手伝ってやれ。南とは言っても、我らと同じ、同心の不祥事だ。なるべく早めに片付けねばならん」
浩太郎も頷いて、玄関先を向き、
「佐助も早坂と一緒にそこに詰めろ。そして済まないが、他の皆も、ちょっと助けてやってくれるか?」
若い、吉原周辺を担当している同心は、一斉に頷いた。
すると、お華は、回りの若い同心達に、
「あんた達も変な事すると、あたしが手裏剣打ちに行くことになるからね。北町の人だけは、気を付けて下さいよ」
なんて言うものだから、とくぼんが、
「お華さんに逆らえる同心は、ここには居ませんよ」
と、弱々しげに訴えると、皆、一斉に頷く。
それを見て、高橋もまた、大笑いしている。
(3)
「え? 吉原~?」
と、驚きの、そして嫌そうな声を上げるおみよに、四の五の言わせず、お華は二人で吉原に向かった。
二人は、大門の前まで行って、そこで、通りを見張っている若い男に、
「ちょっと、ちょっと」
と声を掛ける。
それは、四郎兵衛と呼ばれる、吉原の世話役を勤める大門監視役の若い者だった。
同心小屋に行くと言ったところ、すぐに案内してくれた。
既に、話が通じていたのだろう。
お華達二人で、そこに行くと、年配の同心が笑顔で出迎えてくれた。
お華とおみよは、頭を深く下げる。
「お華じゃないか!」
「沢田様、お久しぶりにございます」
と、丁寧に挨拶すると、沢田は和やかに、
「よく来たお華。話は聞いていたものの、まさかと思っていたのじゃが、これも何かの縁じゃな」
この沢田は、お華の亡き父親、段蔵の仲の良かった同心仲間で、当然、お華もよく知っている。
「お前の話は、よく聞いていたが、お前と、本当に一緒に仕事するなんぞ、わしも年を取ったものじゃ!」
満面の笑みで、本当に嬉しそうだった。
そして二人は、小屋の中に入るよう言われ、二人は、同心控え部屋に入って、話を聞いた。
沢田は、長椅子に座った二人に、
「見番には、内々に命じてあるから、安心して指示に従えば良い。そして、行く見世は、角町の富貴楼という見世だ。結構な大見世だが、お前さん達なら、問題ないだろ?」
と、和やかに言ってくれるのだが、お華は、
「沢田様、その見世の方にも?」
「無論じゃ。いきなり入ったら、結構、面倒じゃからな」
「やはり」
と、お華とおみよは、顔を合わせて頷いた。
「ま、後はお前さん達次第じゃ。でも、今日か明日っていう事らしいから、何とかなるじゃろ」
お華は頷き、
「ねえ、おじさま?」
と、お華は、子供の頃に返っている。
「やっぱり、大門からは入ってこないの?」
沢田は頷き、
「そうなんじゃ。入り口は一つだからな。見つければ、手配も出来るのだが、事前に同心連中が、その辺ウロウロするのもな……」
お華は、大きく頷き、
「そうねえ。じゃ、おじさま。一つだけお願いがあるんですけど」
「ん? なんじゃ?」
「はい。その男は、見世の言うこと聞かずに、刀持って上がってるんでしょ?」
「おお、そうじゃ。本来は、刀は刀番に預けねばならんのだがな」
お華は大きく頷いて、
「お願いっていうのは、もし、何かあったら、恐らく、刀抜いて騒ぎ出すでしょ」
沢田は頷く、
「その時、おじさまは外の人達を、なるべく離して貰いたいんですよ。何か間違いがあっちゃいけません。下手打つと、私たちのせいになってしまいます。折角、おじ様とお仕事するのに、それではあまりにかっこが付きません。ひいては亡き父上にも申し訳無いんで、そこの所だけ、あの四郎兵衛さん所の連中を使ってでも、やって欲しいのです」
と、お華は深く頭を下げると、沢田は破顔し、
「よく言ったお華。さすが段蔵さんの娘じゃ。それは任せてくれ。しかし、お前さんもあまり無理するなよ。怪我でもされたら、むしろ、わしが段蔵さんに合わせる顔が無くなるからな」
お華は笑顔で、
「万一の時は、この……」
と、となりのおみよに手をやり、
「場合によってはこの、私の妹芸者のおみよが、連絡に走りますので、よろしくお願いします」
お華とおみよは、深く頭を下げた。
「おお、承知した」
それから、二人は早速、吉原の見番に向かった。
すると、見番責任者の案内で、その問題の見世、角町の富貴楼に向かった。
そして、お華達は、一階にある、そこの主人の部屋に通され、その前に座った。
その主人は愛想良く、
「これはこれは、沢田様からお伺いしております。北町のお方。わざわざのお越し、ありがとうございます」
と、その女将共々、丁寧に挨拶した。
お華達は、柳橋の芸者というより、お手先として連絡が行き届いていたのであろう。
すると、お華の方も挨拶を済ますと、
「さてご主人。南町奉行所の同心だった男は、今も相変わらずで?」
と、早速聞いた。
主人は頭に手を当て、
「へえ。近頃はしょっちゅうではありませんが、私共も、大変迷惑しております。ただ遊ぶだけならまだしも、いきなり刀を振り回したり致しますんで、子供達も大変怖がっております」
子供達と言うのは、遊女達と言う意味である。
お華もそれに頷き、
「そりゃ、そうでしょうね。して、いつも誰を目当てにやってくるので?」
と聞くと、主人は、
「今、参ります……あ、参りました」
と、家屋で草履の音も高らかに、ガラっと障子が開いた時、女が一人、後ろには禿らしき子供の様な者達二人、入って来て姿勢良く座った。
そして、
「いらしゃりませ。私、ここの呼び出し、二代目花風でありんす」
と微笑んで、頭を下げる。
柳橋とは違った、何とも言えぬ色っぽい印象の挨拶であった。
来客と言うことで、本格的な化粧前であったが、それでも見事な容姿であった。
お華は、おみよもそうだが、生まれて初めて見る、吉原の呼び出し。
その姿に、「ほう~」と、目を見張り、静かに唸った。
しかし、感心してばかりはいられない。
お華は和やかに、
「花風さんとおっしゃりますか。私はお華。柳橋ではお華太夫と名乗っております。何の縁か、似たような名前で、何というか嬉しゅうございます」
と、「おみよです」と言う、おみよ共々、挨拶をした。
すると、主人も、
「花風に、お華太夫とは……。正に名前も位も一緒という事ですな」
と大笑いだ。お華も乾いた笑いの後、
ささ、皆様こちらへ、と、花風と禿達を呼んで、
「よろしいですか皆様。私は柳橋の芸者と申しましたが、一方で、奉行所の手の者です。今回、ご主人の訴えもあって、あなた達は勿論、他の遊女の方々を守るべく参りました。どうかその辺、ご承知おき下さいませ」
お華は、丁寧に挨拶すると、三人は、少し緊張気味で、挨拶を返す。
そして、お華は、
「花風さん。その例の男は、いつ頃からここへ?」
花風は、微笑みながら、
「へえ、もう二年ぐらい前でござりんしょうか」
お華は頷き、そのとても落ち着いた様子に感心した。
「さすが、迷惑な客でも、客は客というところですね」
笑顔で聞くと、
「へぇ。一度、上げた以上、贅沢は言えりんせん」
と、言う。芸者稼業のお華。意味は良く分かる。
「とは言え、事が事。あなたにもご協力願わなければなりません。それはご承知で?」
花風は、真顔で頷き、
「へぇ。それはもう」
「まあ、あなたや他の方はともかく、幼い子も居ますからね」
と、お華は禿達を見回し、
「少々、曲げてもらわねければなりません」
つまり、客が一人、居なくなるが、我慢してくれということだ。
それには、花風も笑顔で、
「へぇ」
と頷いたのだが、そのとき禿の一人が、口を尖らせて、
「お華様。家の姉さんが、何か悪い事をしたとでも、仰るのでありんすか!」
と、少々怒り出した。
花風は驚いて、その子に向かい、
「これ! お文、何を言いやるのか」
と、注意したが、お華は大笑いだ。
お華は、おみよに、
「おゆきと、同じぐらいかね~」
と言って、おみよが笑って頷いた後、
「フフ、お文ちゃんって言うんだ。姉さんの為に怒ったかい? 私も、そういう気が強い子は好きよ~」
頷きながら和やかに、
「姉さんは、何も悪くはないよ。でもね、何かを護る為には、何かを犠牲にしなけりゃならないの。わかる?」
その禿は、分かった様な、分からない様な顔だ。
さらに、お華は笑いながら、
「あなた達は、ねえさんの言うことを聞いてればいいのよ。あんたたちにとってこの人は、おいらんとこの姉ちゃんなんでしょ」
これは、花魁の語源と言われている。
花風の方も、このやり取りを聞いて、お華がただ者では無い事に気が付いた様で、心の底から喜んでいる。
お華は、主人に向かって、
「まあ、奉行所が、その前に、お縄にしてくれればいいんだけど。もし、ここに現れたら、いつもの様に上げて下さい。決して、抵抗はしないように、ご主人も、一刀両断されたくなかったらね。そしてすぐ、知らせて下さい」
主人は、さすがに目を大きく開け、
「そりゃ、もう」
と、怯えながら平伏する。
「そして、あなたたちは決して部屋を出てはいけません。特に花風さん。よろしくお願いしますよ」
花風は、相変わらず姿勢良く、
「へえ」
と、優雅に頭を下げた。
(3)
それからお華達は、暫く、同心控えの小屋に居た。
何かあれば、見世からここに知らせが来る。
座敷に出る必要が無かったから、些か安心している。
おみよは、吉原各見世で流している清掻きを聞きながら、併せて弾いたりして過ごしていた。
お華達にしたら、ここに居れば、目立たず、吉原の芸者連中とも顔を合わせずに済んで、喜んでいた。
しばらくすると、そこに、とくぼんと佐助がやって来た。
座ってお茶を飲んで居たお華は、二人を見て、
「おお、これは早坂殿。良く参られた」
などと、ふざけて言っている。
早坂は、苦笑いで、
「やっぱり、足取りは掴めないみたいですよ。ここに来るんじゃないですかね~」
それには、お華も呆れ気味に、
「何をやってるんだか……。ねえ、おじさま? ここって、大門以外に入り込む方法ってあるの?」
沢田は、少し困った顔で、
「う~ん。普通は無理だけどな。まあ、溝を超えて入るぐらいか……」
お華も嫌そうな顔をして、
「え~、あんなところ? そこまでしても来たいかね。本当に芝居の筋みたいだ」
それには沢田も、
「本当に、その通りじゃ。昔、あそこは本当に足抜けしょうと逃げた女郎がいたんだが、渡りきれずに、溺れちまってな~無残な事じゃ」
しみじみと、茶を飲む。
それには、
「あ~いやだ」
と、しかめっ面で本当に嫌そうな顔をして、早坂に向かって、
「とくぼん! あとはどれくらい来てくれるの?」
叱りつける様に聞く。
すると早坂は、
「浅草や、本所から来てくれます。あと、桜田様も、後でいらっしゃると……」
お華はまずまず納得した様に、
「ふ~ん。そうなの。まあ、それなら良いか」
などと偉そうに言うから、早坂は驚き、沢田は大笑いだ。
そんな時だった。
見世から知らせが来た。見世の若衆だった。
大きな呼吸の中、話を聞くと、どうも、刀を振り回し、
「花風を出せ!」
と、叫び回って居るようだ。
沢田達は、色めき立った。
どうも予想通りと言って良いのか、お歯黒どぶを渡り、男が富貴楼に現れたというのだ。足下が、グチャグチャらしい。
お華は呆れて、
「いやだね~。まだお日様高いのに……さ、おみよちゃん行くよ」
「はい」
と二人は席を立った。
既に、恐怖に怯えた遊女達数名は、外に出て様子を伺っている。
当然、町を歩くお客? 冷やかし連中も、興味津々に様子を伺っている。
「全く、一番恐れていた事になっちゃったよ」
と、おみよに囁いたお華は、人を掻き分け見世に向かう。
見世に着くと、お華は大声で、
「どこにいる!」
と、怒りにまかせて怒鳴った。
すると、階段を滑り落ちるように降りてきた主人が、真っ青な顔をして、
「う、上に! 花風を引き摺り出して、籠もっちまってます!」
と、叫ぶ様に教えた。
お華と、おさよは、履き物もそのままに、急いで二階に駆け上がった。
そこは、窓側の宴会場にしつらえた、少々、大きめな部屋だった。
入ってみると、男が、禿を一人抱えて、刀を上に上げていた。
その禿は、お華に文句を言っていた、あのお文だった。
それを見たお華は、恐れも無く、ずかずかと近づき、
「あんた! 何て事してんの!」
と、怒鳴るように叱りつけた。
男も、怒鳴る女に気づいたようだ。
「お、お前はお華!」
そこには、足を悪くしたのか、畳に倒れている花風と、姉に手を伸ばしながら藻掻く、お文の姿が目に入った。
どうやら、花風を引っ張ってきた様だが、足を悪くした花風を捨て、代わりに禿を人質にした様だ。
お華の怒りは、頂点に達しようとしていた。
おみよは、思った。
(あ~あ、油に火を付けちゃったよ……)
お華は、目と眉を逆立て、
「この~。侍なら、一人でサッサと、自害でもしたらどうだい! そんな事も出来ずに、そんな幼い子を人質にするたぁ、侍の風上にもおけねえ!」
と、荒い口調で再度、怒鳴る。
まるで、芝居のセリフの様だと、実は、おみよは、心の中で笑っていた。
するとお華は、隣のおみよに、小さい声で、
「あんた。あの花風さんを引っ張っておいで。心配することはない。彼奴が手を出す事は出来ないから」
というお華の指示に、素直に頷いたおみよは、窓側に、さぁっと走り、花風の着物を掴むと、言われた通り、引っ張り始めた。
それに気が付いた男は、
「何をしやがる!」
と、怒り、刀をおみよに振りかぶろうとした時、お華の簪が飛んだ。
それはその男の左耳を貫通する。いや、削ぎ取った。
さすがにその男は、「ぎぁ~」と悲鳴を上げ、片膝を着く。
しかし、お文はしっかりと、目の前に押さえつけ、それ以上のお華の攻撃を防いでいた。
そんな中、おみよは上手く、花風を引き摺って、お華の後ろに寝かせた。
お華は、男を睨み付けながら、おみよに、
「具合は!」
と叫ぶ。
おみよは、長く優斎の手伝いをしていた、今で言うところの看護師だ。
素早く確認し、
「大丈夫、ちょっと捻っただけだと思う!」
と、すぐに答えた。
それに頷くお華は、捕まっているお文に、
「お文ちゃん! しばらく我慢しなさい。私が助けてあげるから!」
と、大声で言うと、なんとその子は、
「あい。おいらん姉さん……」
と言って、微かに笑ったのだ。
それには、お華も余計に血が上った。
おみよは、(あらら禿ちゃん……火に油を注いじゃった)
と、花風を看ながら思った。
すると、お華はすかさず、簪を一本。懐から矢のように打ち出した。
すると、禿の足のした、その男の足に、音を立てるように深く突き刺さった。
おみよに、簡単な治療をされながら、見ていた花風は、目を大きく開け驚愕した。
しかし、普通ならお華は、六本ぐらい纏めて打つところだが、ここは大きいと言っても部屋の中。
お華は隙を見て、一本ずつ、無理せず取り押さえようとでも、思っていたのだろう。
しかし一方、男の方としても、このままでは拙い。と思ったのかも知れない。
男は、痛さに耐えながら、窓側に近づき、お文を抱えたまま、二階の屋根に出た。
「何するの!」
と、怒鳴るお華を尻目に、まず、お文を、なんと上の屋根に放り投げ、そして自分は雨戸の戸袋を伝わって、屋根、いわゆる屋上に、足を負傷しているにも拘わらず、あっという間に上がっていった。
さすがにその早さには、お華も妙な感心をしたが、そんな場合では無い。
回りの遊女達に、
「ここにはハシゴはあるの?」
と、大声で聞くと、
「は、はい」
遊女の一人が言うと、
「すぐ持ってきなさい!」
と命じると、三人程の遊女は、飛ぶように部屋を出て、階段を下りていった。
そして、お華は再び、
「他の子はお布団を十枚ばかり、ここから下に落としなさい。今直ぐよ」
それには遊女の一人が、
「お布団?」
「そうよ、あの子が落ちても大丈夫な様に」
理解した遊女達は、慌てて一斉に押し入れの襖を開け始める。
お華は、おみよに、
「下に行って、とくぼんに、落ちてきた布団を重ねて、落ちても大丈夫なようにする様、伝えてくれる?」
おみよは、なるほどという顔をして、階段を急いで降りていった。
(4)
その同じ時、浩太郎は、ようやく吉原に着いたのだが、あまりの人だかりに驚愕していた。
「北町じゃ!」
と声を上げながら、ようやく富貴楼の前に辿り着くと、沢田と、とくぼん達が、上を見詰めていた。
浩太郎もつられて顔を上げると、男が禿を抱えているのが見えた。
「あちゃ~!」
と、叫びながら、
「沢田様、こりゃ一体?」
「おお、浩太郎ではないか。すまんなわざわざ」
「いえ、久方振りです。しかし、もう大変な事になってる様ですな」
沢田は、苦笑いで、
「やはり、逃げて来やがった。そして、お華が、追い詰めたって訳じゃ」
浩太郎も、苦笑いで、
「追い詰めたって……。でも、あんなとこ上がられたら、少々厄介ですな」
「そうなのじゃ、どうしようかの、浩太郎」
と聞かれたが、浩太郎も、直ぐには判断が付かなかった。
人質もいる。
本当に困った顔をしている。
そこに、おみよが降りてきて、外に出てきた。
すぐ上を見ると、
(ありゃ、大変な事になっちゃった)
と、思いながら、同じく上を見ている浩太郎に、
「旦那様!」
それに気づいた浩太郎は、
「おお、おみよ。中はどうなってる!」
と聞く。
おみよは、若干笑って、
「彼奴が、小さい子人質にして、姉さんに油を注ぐから、そりゃ、ボーボーと」
浩太郎も同じく下を向いて笑い、
「なるほど、そりゃそうだろうな」
「たぶん、姉さんは、屋根に上る筈です」
浩太郎は頭を掻き、
「またかよ。穏便に片づける積もりが、周り見てみろ、大騒ぎだよ」
それには、おみよも沢田たちも、抑えながらも大笑いだ。
そしておみよが、若い同心達に向かい大きな声で、
「今から、布団が落ちてきます。落ちても大丈夫なように、広げて重ねて下さい」
と、とくぼん達に叫ぶ。
浩太郎は呆れた顔で、言葉も無い。
やがて、二階から、布団が次々落とされる。
庶民とは言っても、吉原の布団だ。それなりに弾力性もある、上等な布団だ。
これを重ねれば、落ちても衝撃は緩和されるだろう。
そして同じく二階では、女達がハシゴを持ってきた。
「ありがとう」
と、お華は礼を言って、布団を放り投げている女達を横目に、ハシゴを部屋に立て掛ける。
それをするすると上って行く、お華。
お華はその時、甲賀の姉さんに教えて貰った、屋根裏への入り方を思い出していた。
(姉さんに助けられたわね)
と微笑みながら、上りきる。
そして、屋根に張ってある板を触ると、あるところでお華は頷き、肘打ちでボンと穴を空けた。
それは、瓦を浮き上がらせ、一緒に下に落ちていった。
ちょうど、投げられた、布団の上に落ちていった。
それに気付いた浩太郎は、これは始まったと、
「早坂、そしてみんな! 布団を早く重ねろ!」
と命じた。
若い同心達は、慌てて布団を重ねる。
さすがに、こんな所でこんな事するのは、生まれて初めての事だろう。
一方、お華は、チラッと下を見て、
「あんた達! 上の一枚広げて、持ってなさい!」
と叫んだ。
それは、下の浩太郎には、直ぐ理解出来た。
「おそらく人質が落ちてくる。お前達四方持って受け止めてやるんだ!」
と叫ぶ。
その声は、お華にも伝わった。
ニヤっと笑ったお華は、まだ、お文を抱えている男に顔を向けた。
男は、大きく息をしながら、ここまで上ってきたお華に、驚き動揺している。
ここなら、お華に制約は無い。
「早く、人質を離しな!」
しかし、
「やかましい!」
と、男はまた、刀を人質に振り上げる。
しかし、そんな素振りは、今のお華には通じない。
お華は、顔は正面を向いたまま、下に向かって、
「さあ、分かってくれない様だから、今行くよ。用意はいい!」
と叫ぶ。
すると、とくぼんが、大声で、
「大丈夫で~す!」
と、大声を上げる。
良しと、僅かに頷いたお華は、
「お文。ちょっと目を瞑ってなさい!」
と叫んだ。
彼女が頷いた瞬間、お華は懐に手をやり、何も無い青空の下、くるっと回り、止まった瞬間、光が、あらゆる方向に広がった。
そして、今度は反対に肩を回した。
計六本の簪は、お日様の光を思い切り浴び、多くを反射させながら、男に進んでいった。
男は、刀で迎え撃とうと前に進んだが、その瞬間、恐怖で目が大きく開く。
それは、まともに、顔・肩・膝へと怒濤の様に突き刺さった。
これにはさすがに、男はお文を離してしまった。
当然、お文は屋根から転がる様に、下に落ちていった。
さぞ、恐ろしかったであっただろう。
しかし、
「来たぞ!」
と、見ていた浩太郎が、大きな声で叫んだ。
布団の端を持っている四人は、上を見ながら、若干右往左往しながらも、見事、落ちてきた禿を受け止めた。
小さい彼女だから、大した衝撃も無く、降りて来ることが出来たようだ。
回りからは、大きな歓声と拍手が上がる。
すぐ、おみよは、禿に近づき、身体を確かめる。
さて、上は?
「まだ、私と戦おうっての? 今日は何本でもあるから、付き合ってやるよ! ほら、斬ってきな」
と、お華は珍しく煽っている。
人質が無事だったから安心はしただろうが、怒りは収まらなかった。
しかし、実はお華。簪はもう、そんなに残って無かった。
男は、もう自暴自棄になってしまっていたのであろう。
「うお~!」
と叫びながら、傷ついた身体で刀を振り上げ、お華に向かって屋根を走り出す。
しかしは、お華は微かな微笑を浮かべ、下に沈む。
そして、外した瓦を一枚。素早く持ち上げ、まるで花札を飛ばすように、見た目 軽く、打ち放った。
さすがに簪の様には行かないが、それは低く、大きな平手裏剣の様に、正確に男の両足に飛んでいった。
悲鳴の様な声を上げ、それを喰らった男は、ただでさえ、滑りやすい屋根の上だ。
平行を保つことなど出来はしない。
刀を持ったまま、そのまま下に落ちていく。
下の人々に、こちらは本当の悲鳴が上がる。
浩太郎は、その瞬間、
「布団を離せ!」
と叫ぶ。
言われたまま、とくぼん達は布団を離した。
男は、重ねられた布団の端に落ちていった。
そのまま落ちるよりマシではあるものの、相当な衝撃で男は落ちて行き、そのまま、通りの端に転がっている。
しかし、意識はまだ、微かに会った様だ。
感心にも、簪が沢山刺さったまま、立ち上がり、また刀を振り上げた。
沢田が、若衆に指示をして下がらせている、周辺の一般の見物人に斬り掛かろうとした。
その瞬間、再び上から、声が飛んだ。
「とくぼん! 行くよ!」
と、お華の響き渡る声だ。
浩太郎は慌てて、
「ふ、布団を持て!」
と、こちらも叫ぶ、とくぼん達も慌てて持ち直す。
すると、お華が、瓦を蹴った。
浩太郎とおみよは、
「やっぱり!」
同時に声を上げる。
下に居る、全ての人間が、空のお華を見上げていた。
舞い上がったお華は、右手で三本、そしてその反動で廻転し、左で三本。
天空から、まるで雷が落ちるように、男に直撃した。
お華は、片膝を立て、布団の中に落ちていく。
見てる町人達は、狂喜乱舞である。そして、大きな歓声も上がる。
さすがに、切れてしまった布団の端を持っている、とくぼんも、あまりの事に驚愕の顔だ。
着陸したお華は、すぐ浩太郎に、
「後はお願い!」
と、笑いながら、叫んで頼む。
浩太郎は苦笑して、
「全く!」
と言ったが、六本喰らっても、今だ立ち上がっている男に向かって、猛然と走り出した。
浩太郎は、例の刃引きの長刀で、男の刀を跳ね飛ばし、今度は、既に、簪が刺さっている上を叩き打った。
さすがにこれは、耐えられない、膝が落ちる。
その上、浩太郎は、素早く後ろに回り、首筋を薙ぎ払った。
男は、前のめりで崩れていった。
すると浩太郎は、
「おい! お縄だ!」
とくぼん達若手に、確保を指示した。
戻って来た浩太郎に、お華は笑いながら、
「ごめんね。全部打っちゃったからさ」
浩太郎は呆れた顔で、縄を掛けてる若手達を指差し、
「おい、手柄は、彼奴らで良いだろう」
それにはお華も、
「私は、手柄なんぞいらないよ~」
すると、浩太郎は若手達に
「手柄は、お前達にくれるってよ。合い一で、報告してやるよ」
言ってやると、とくぼんや若手達は、嬉しそうに声を上げる。
ちなみに、合い一というのは、捕り物などの手柄で、誰が一番槍か分からないときに、該当者全てを一番とする、奉行所の言葉である。
とくぼんの様な、見習いの若手には、褒美は人数割になるものの、それでもありがたい。
見世に戻ったお華は、主人や、遊女達から、次々、お礼を言われた。
特に、人質となった、お文は、涙一杯浮かべて、お華に抱きついた。
隣で、おみよも、頷きながら微笑む。
「怖かったかい?」
その娘は、涙を零しながら、
「信じていたでありんす。ほんに、ありがとう、ござんした」
お華は、笑顔で頭を撫でてやる。
そして、後ろの花風に目をやって、
「あんた。年季が終わったら、身請けになるのかい?」
と聞いた。
吉原の年季は、大抵十年。
借金の残債などで、変わってしまう事が多いが、それが一応の目安。
「身請けは、まだ決まっておりんせん」
彼女は首を振る。
お華は、頷いて、
「もし、行くところが無かったら、わたしっん所おいで。まあ、呼び出しほど、金には全くならないけど、夜露を凌ぐぐらいはできるよ。残り、頑張ってね」
と言ってくれた。
花風も、その言葉には目を潤ませて、
「これは、これは……よろしゅう、お願いしんす」
と、平伏した。
そして、花風は少し微笑んで、
「お願いがありんす。お華様」
「なに?」
「申し訳ござりんせんが、実は本日、これから私の代わりに、お練りをやって下しゃりませんか?」
と、微笑んだが、お華には何の事かよく分からない。
「ん?」
首を捻るお華に、後ろからおみよが、笑いながら、
「花風さんの代わりに、花魁道中やってくれないかと言ってますけど……」
お華は、口を開けて驚愕する。
「そ、そんな事出来る訳ないでしょう。道中が、どんなものかは大体分かるけど、大体、あたしゃ、今日初めて吉原に来たのよ~」
すると、花風は、
「大丈夫にござりんす。二階から飛び降りれるようなお華さんで、ござりんす。何とかなりんしょう」
と、妙に自信もって言った。
すると、お文も、
「あちきも一緒にござりんす。大丈夫にござりんす」
と、小さい子に言われてしまい、お華は不承不承、承諾せざるを得ない。
「じゃ! おねがいしんす」
花風の声で、一斉に新造の若い遊女が、お華の髪型を変え始めた。
それを見て、おみよは大笑いしたが、そのおみよも、髪型を変えられ初めて、驚いている。
「え! あたしも?」
花風がそれを眺めながら、
「申し訳ござりんせん。本日、お迎えに上がる方は、あちきににも大事なお方。とにかく、形だけでも充分でござりんす」
髪を解かれ、目を大きくしているお華は、
「でもさ、あれって高下駄、外八文字で歩けば良いだけなの?」
すると花風は、新造を一人呼んで、歩き方の見本を見せた。
「大抵は、三年はかかるものにござりんすが、もう、お分かりでしょう。後は調子だけ、併せて頂ければ、よござんす」
お華は、呆れて、
「三年って……あたしは今日、初めて来たんだってば~」
と嘆く。
しかし、花風はその様な事はお構いなく、
「あとは、きちっと前を見詰め、姿勢良く、歩んでいただけば、よろしゅうござりんす」
「きちっとね~?」
のお華の言葉に、おみよが後ろから和やかに、
「姉さん。姉小路様の真似すればいいんですよ」
「姉さまの真似? ああ、ああいう感じか……」
そんなこんなで、お華は、いつのまにか、絢爛豪華な、伊達兵庫の髪型に変わ っていた。
鏡で見たお華は、不満もどこへやら、割と満足そうな顔をしている。
そして、珊瑚の簪や鼈甲の簪を、一体、幾つだと言う程刺された。
「あらら、あたしにそれだけ簪刺すとは、妙なものね」
微かに笑うお華。
そして後ろのおみよも高島田にされ、嬉しそうだ。
そのころ、浩太郎は、同心控えで、沢田と一緒に茶を飲み、談笑していた。
ところが、そこに佐助が、どたどた戸を開けて入って来て、
「旦那様、大変です」
と声を上げた。浩太郎は笑って、
「今度はなんだ?」
軽く聞いたが、佐助は口を震わせながら、
「お、お華様が、花魁道中を!」
さすがに、浩太郎と沢田が驚き、思わず立ち上がり、
「な、何だと?」
三人は、急いで外に出て、吉原、仲之町の街道を見たら、朱傘の元、女達がそれは豪華な衣装で、並んでいた。
そしてお華が、禿の後ろ、先頭に、澄ました顔で立っていた。
続いて、うしろには、振り袖姿のおみよも緊張気味で、立って居る。
「おいおい!」
と浩太郎は声を上げるが、沢田は、
「さすが、段蔵さんの娘じゃ。飽きさせないの~」
笑って口を押さえている。
すると、先頭の若い衆が、金棒を鳴らし、響く大声で、
「皆の衆! 吉原、久々の太夫! お華太夫様のお練りにございまする~」
大声で、始まりを告げると、見ていた見物人は驚喜する。
お華は、初めてにも拘わらず落ち着いた様子で、斜め上に目をやりながら外八文字で進む。
それが果たして、姉小路の真似なのかどうか定かでは無いが、沸く、観客は初めて聞く、お華太夫の名前を心に刻み込んだかもしれない。
さすが、お華。運動神経と踊りの上手らしく、それらしく堂々と進んでいる。
「全くあいつは……亡き父上に怒られんぞ……」
と言いながら、腕を組んで眺める浩太郎も、微かに微笑んだ。
~つづく~
今回もお読み頂き、ありがとうござりんす。
再び、お華登場です。
江戸と言えば、不夜城・吉原。
まずは、ここから始めてみました。
やってしまいました。お華太夫の花魁道中。
予想通りですか?
前作の短編も吉原、そして花風でしたが、まあ、二代目と言うことで、ご了承下さい(笑)
さて、いよいよ幕末期に入っていきます。
相変わらず、お華は飛んでいます(笑)
実はこれが京都の話なら、書く事は山ほどあるのですが、江戸というと、かなり限定されます。
要するに、江戸の場合は、黒船騒ぎの他は、本当に最後の最後にならないと、維新についての事件も、あまり起きないからです。
しかし、それでも今の時代に続く、大きな変革期。
何とか、上手く書ければと考えております。
どうか、前回に引き続き、よろしくお願いします。
そして、後編もよろしくお願いします。