1・宝石の果樹園で、ジャム作り。①
これから尋ねる事は、簡単なお遊びです。
何らかのテストではありませんし、以後大して関わってくるものでもありませんので、気を楽にして考えましょう。
問1・果物狩りに来たあなた。目の前に、果物の実っている木が三本あります。
1・宝石のルビーのように真っ赤に輝く、リンゴ
2・揺らすと鈴のような音色を奏でる、ぶどう
3・ポップなドット柄の、メロン
さて、あなたが欲しいと思うのは、いずれのうちどれでしょう?
パチリ、とその者が目覚めて数秒のうちに感じたのは、「突然なんなの?」みたいなしっかりとした疑問ではなく、『無』であった。
これは……?
ぼんやりした頭がゆっくりと機能し始めると、目の前が黒いという事を、黒に慣れ始めると閉じた空間を感じ取り、統合させて真っ暗闇の中にいるのだと理解した。濃淡の違う黒が上下左右に――壁と床が視界に入って来る。
ここは……?どこなんだろう。
その者は自然と手足をバタバタ動かしていた。モコモコとした手触りの、柔らかなクッションのようなものに身を預けている事を知る。
無から少しずつ、暗闇、己の置かれた状況という情報を得た後、今度は聴覚が働いて音を拾う。カツ、カツ、カツ……。くぐもっているが、床を歩く音のように思える。その靴音が大きくなるたびに全身がビクリと過剰反応を起こした。何者かが自分のいるこの場に近付いて来ている事が分かったのだ。今すぐどこかに隠れたいという欲求が生まれる。
ギイ……という一等大きなきしむ音と共に、閉ざされていた空間が開け放たれた。
「こんにちは、旅人さん」
成す術無く刹那的な光を受けたところに降って来たのは、大人びた若い女性の声。廊下に佇むその女性は、暗闇と同系色の裾長ドレスと縁の広い大きな帽子を被っていた。
魔女だ、と漠然とした恐怖を抱いた。
「う、うわ、うわあ! 助けて! 助けて!」
己の状況把握もままならぬうちに、恐ろしげな格好の不審人物が現れるという非常事態。情けない声で喚きながら、モコモコのクッション――否、クマのぬいぐるみ達の隙間に逃げ場を求めた。
「目が覚めたばかりなのに、随分と元気なのねえ」女性はゆったりとした口調で言った。「でもそんな体では、そう遠くへは行けないんじゃないかしら」
「へ?」
女性がランプを掲げると、スポットライトに照らされるようにその者の姿が露わになった。小さくて短い手足に、詰め物でちょっぴり膨らんだ腹部。顔から頭にかけてペタペタと手をやると、鼻は体より固いし、まん丸とした両耳が真横にではなく頭上にくっついていた。
クマだ! クマのぬいぐるみになってる! ボタンの黒目が大きく広がった。
「ひどい! あなたが魔術か何かでこんな事を? どういう目的があって僕をこんな姿に!」
「本来の姿とは違う?」女性は動じずに微笑む。
「そうだよ! 多分、きっと……あれ?」
本来の姿って……なに?
彼が新たな疑問に直面していると、女性は腰にかかるくらいの長髪をなびかせて、クマのぬいぐるみだらけの部屋の中に入って来た。ただ一つだけ命の宿っている彼は近付いて来るシルエットに震えた後、咄嗟にまた身を隠そうとする。が、所詮ぬいぐるみの体では抗う事も出来ず、あえなく捕まってしまった。両脇の下にするりと手を入れられて、くるりと対面させられる。
彼女は赤ん坊程の頭を支えて、クマ耳をやたらと指でいじって来た。じたばたもがく相手に対してのんびりとクマ耳を探り、一人納得したような表情を浮かべる。
「さあ、行きましょうマーフィン」
そう言って、どこからか取り出したベル付きリボンをマーフィンと呼ぶ彼の首に回して結び、床へ降ろした。
マーフィン? 僕の事を言ってる? 僕、そんな名前じゃなかった気がするんだけど。
マーフィンは首に括られたブラウンのリボンをちょいと引っ張る。リボンの生地は伸びるが、ベルは揺れても鳴りはせず。
ではどんな名前なら自分が納得するのかと自問自答すると、分からなかった。縫い目のあるお腹辺りがきゅうっと苦しくなって、考える事を遮断させるのだ。本当の姿というのを考えた時もそうなった。
「行きましょうって、どこに」
「私が行きたいところ。大体はね。でも、他にやりたい事があるなら言ってみて?」
「僕が……やりたい事? 魂胆は何です?」
「うふふ」
ダメだこの人。怪しさが募るばかりで信用出来ないや。
マーフィンは力なく肩を下げて、微笑む女性に背を向けた。乗り気でない様子の彼に、女性は首を傾げる。
「どうしたのマーフィン?」
「勝手に名前つけられるし、自分が何者かもここがどこだかもよく分かんないし」
それに。
「言っちゃあ悪いですけど、あなたに付いて行かなきゃいけない道理なんてない……ですし」
俯きがちになって、拒絶の現れた言葉を付け足す。達観しているような物言いの女性に対して、そう易々と操られてなるものかと思った。
女性は不思議そうな顔をしたが、やがてふっと笑った。
「あなたは随分と用心深い子なのね?」
マーフィンには結構強く当たったという自覚があった。だが彼女は嫌な顔一つせずにしゃがむと、小さな体を反転させて、指のないまん丸な両手を柔らかく包み込むように握った。
「大丈夫。私と一緒に行きましょう?」
これが説得のつもりであるなら論外のはずだった。大丈夫か否かを決めるのはマーフィンであるし、彼の猜疑心を解きほぐすようなものでもない。けれど、目と目を合わせて、相手を思いやるような加減で手を握られると、マーフィンの心に巻き付いていた枷のようなものが、カシャン、と一つ落っこちたような気がした。
「ベルルカ」と名乗ったこの世界の住人らしい女性とマーフィンは、板張りの廊下を歩く。歩きながら、マーフィンはベルルカの勧めで小指の端っこを掴んでいた。
彼は付いて行くのが大変そうだった。大人のベルルカと小さなぬいぐるみのマーフィンとの身長差はかなりある。人間の子供、それも耳のてっぺんを含めても幼児くらいの背丈しかないマーフィンの歩幅は、ベルルカの一歩の約半分。
それなのに、ベルルカにはこちらの歩調に合わせようという気はないようで、マイペースに進んでいた。自分が逆の立場であったらそれこそ「大丈夫か」くらいの確認は取るのに。今のところ疲れは感じないが、そのうち引きずってでも前進していきそうで怖くなってくる。
「あ、あの、ちょっとは僕に合わせようって気はないんです?」
「言葉がハッキリとしている人は、私について来られるって知っているのよ。ふふ」
「……」 一瞬マーフィンは嫌な顔をした。「それで、今僕らはどこへ向かってるんですか? ちゃんと教えてくれないと、従ってくれない相手だっているんですよ?」
マーフィンは前や後ろを確認しながら話しかけた。ランプの明りの届かないところが何も見えない程に暗くて、強気な言葉とは裏腹に、ベルルカと繋がった手に力が入る。
「私の気が向いたところ。あなたにはやりたい事が見つからないみたいだから」
「自分の事ですら曖昧なのに、そんなのパッと出てくるわけないじゃないですか」
「それもそうね。考えておくわ」
「……」
やはり、欲しい解答には辿り着かず。「気が向いたところ」というのが底無し沼や地獄とかであったら曖昧関係なくお断りなのに、こんな答え方ではさっぱりだ。
「自分がクマのぬいぐるみになってるってこと事態は分かるのに、自分の名前とか容姿とか、根幹の部分を忘れてるのは何でですか? 『僕』って自分を指すのも正しいんだかどうなんだか確証が持てないだなんて。後生ですから、知っているなら教えて欲しいです」
「そんなに気に止む必要はないわ。あなたがここに居続ければ、自分がぬいぐるみになっているって事もふわふわしてきちゃうから。あなたのその体みたいに」
「そうやってまたはぐらかすような事を――って、そ、それってどんどん忘れて行っちゃうってこと……?」
さらっと不安になる情報を流されたマーフィンは、小指から手を離して足を止めた。
ベルルカはマーフィンが離れた事に気付くと、振り返って目を瞬かせた。
「あなたみたいな子はあんまり私から離れない方がいいのだけれど。あなたがそうしていたいなら、私は止めはしないわ」
明りごと遠ざかって行くベルルカ。もっと不安を煽るような事を言われたマーフィンは、大人しく彼女に付いて行く他なかった。
廊下を抜けた実感も扉を開ける動作すらもなく、二人はいつの間にか野外を歩いていた。外であるとマーフィンが思い至った理由は一つ。たくさんの木が自分達を取り囲んでいるからである。森の様子は四季の移り変わりがごちゃ混ぜになったようだし、どこまでも広がる平たい地面にはまるで雲の上みたいに霞がかっているし、上を仰げば突き抜けた空は淡い紫色をしていて、太陽や月が見当たらないのにも関わらず、ランプがいらないくらいに明るくなっているが、自分がそうだと思ったから外なのである。どうせ尋ねてものらりくらりで済まされるのだから、最早そういう不思議な場所として切り替えていかねば、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「さあ、着いたわよマーフィン」
ベルルカは円形に開かれた広場に案内した。中央には大きな丸太テーブルと椅子があり、その先の森は一列の木柵で隔たれていて、扉を介して進めるようになっているらしい。
「果樹園?」と言ってベルルカを見上げると、頷きが返って来た。
「これからここでジャムを作ろうと思って」
被っている帽子の縁を持ち上げると、手を差し入れて手提げの網かごを取り出した。
「ジャム? ジャムってあの……パンに塗る、甘いやつ?」
「そう。パンに塗る、甘いやつ」
「ドロドロしてて、ちょっと放っておくとすぐにカビが生えてきちゃう、甘いやつ?」
「そう。ドロドロしてて、ちょっと放っておくとすぐにカビが生えてきちゃう、甘いやつ」
マーフィンの反応が気に入ったのだろうか。ベルルカは愉快そうにオウム返しした。
「この辺りの果物で、好きなものを取ってきてちょうだい。私が美味しいジャムにしてあげるわ」
「それは皮肉なんでしょうか? やりたい事がなければ、自分の好きなものだって同じ事ですよ」
「どうして? 気になったものや、心惹かれたものだって当てはまるはずでしょう。私といる事を嫌だと思えるのだから、あなたのお気に入りだってちゃんと見つかるわ」
「うっ」
痛いところを突かれ、折れたマーフィンはベルルカと一緒に果樹園を回る事になった。二人の目の前には柵に囲まれた扉が三つあり、その向こうは右側方面に曲がった道、真ん中の一直線に伸びた道、左方向に曲がった道へと続いている。扉についた看板にはそれぞれ『宝石の木』、『音の木』、『模様の木』と書かれている。
二人は右の『宝石の木』の道へ入って行った。そこは一本の道を挟んで植え込みと、白い広葉樹林が広がっていた。雪を被っているのとは様子が違う。葉と幹の境が曖昧な程に真っ白な上、葉の形どころか木の形すらどれも同じように見える。
ただ、実っている果物だけは別であった。ルビーのように真っ赤なリンゴ、サファイアのような深いブルーをしたバナナ、ダイヤモンドのごとく高潔さを湛えるパパイア、黄緑色が美しいペリドットのマスカット、パールが集まったようなクランベリー、蜜が固められた琥珀のパイナップル……これらが一定のエリアごとに種類分けされて実っている。イメージに合う色をした果物から一風変わった組み合わせのものまで、一つ一つが看板にあった通り、宝石のような輝きと艶を持っているのだ。
これは……この景色は、ちょっと凄いかもしれない。マーフィンはいつの間にか爪先立ちになって、首をぐるんぐるん回していた。
「ふふ、忙しそうねマーフィン。私の肩に乗れば、もっとよく見渡せると思うわ。どうかしら」
「へ? いや、その、えっと……あう」
マーフィンは気恥ずかしそうに両手を上げた。ベルルカは笑って腰を屈めた。
肩にマーフィンを乗せて、ベルルカは再び歩み始める。小さな背丈で木に実った果物を眺めるには限界があったので、マーフィンは満足した。おまけにベルルカの歩調に合わせる必要までなくなった。
ガーネットの深紅が綺麗なさくらんぼ、アメジストの紫色に染まった巨峰、エメラルドグリーンのキウイ、水面の模様が浮かんだ、涼やかなアクアマリン色をしたレモン……これらを快適な気分でマーフィンは愛でていった。
「そろそろ果物狩りに取りかかろうかしらね。見ていて」
ベルルカは道から逸れると、一本の木に近付いた。アクアマリンのレモンがぽつぽつと実っている。
一つのレモンを見上げ、彼女は片手を上げてもぎ取るような動作をした。すると数枚の葉が落ちるのと同時に枝がしなり、パキッと音がした直後、目当てのレモンが彼女の手の中に収まっていた。
「さっきの、どうやったんです? 魔法?」
「『あれが欲しい』と思いながら手首を少し捻っただけよ。普通の果物を取るみたいに。やってみて」
「うん」
マーフィンもパッと目についたレモンで試そうと決めた。そのレモンとマーフィンとの距離は、直線で結んでも三メートル。脚立も何も使わずして手に入れるなんて、普通ならどう考えても不可能だ。しかし、ベルルカの言った通りに両手で引っ張るような動作をすると、枝がしなってずっしりと身の詰まった果実が手に入っていた。
ベルルカは「簡単でしょう?」と言いたげな表情を見せる。マーフィンはしっかりと頷いた。
マーフィンがもぎ取った果物を、ベルルカが受け取ってカゴの中に入れる。暫くはそんな作業が繰り返された。どんな果物がどれだけ欲しいかという指示はなかった。深々としたカゴの中がいっぱいになるまで、ベルルカは好きに取らせていた。
「見て。一つ目のカゴがいっぱいになったわ」
カゴの中身を見せるように持ち上げるベルルカ。宝箱のように綺麗な色で溢れている。
「重くないですか?」
「大して感じないわ」
ベルルカは一つ目のカゴを腕に下げて、もう一つ同じカゴを帽子から取り出した。そうしてこれも果物で満たしてしまうと、
「私の分だけじゃなくて、あなた用の特別なジャムも作りたいの」
言いながら、帽子からカゴを取り出すベルルカ。彼女が下げているものよりも遥かに小さなカゴで、果物三つくらいでいっぱいになりそうだった。
「これを渡すから、どれでも好きなものをこの中に入れてちょうだい」
「どれでも、好きなもの……」
「そう。コツは掴めたと思うから。私は一度、果樹園の入り口までカゴを置きに行って、それから木の葉っぱを集めて来るわ。入れると完成した時にジャムの色がくすまず、綺麗なままになるから」
ベルルカはマーフィンを肩から降ろすと、背を向け、元来た道を戻り始めた。マーフィンは自分を置いて離れていく彼女に対し、どこか胸に一物あるといった様子で「あ、あの!」と声をかける。
「そうだったわね。そのままだと、歩き回るのに不便よね」
マーフィンの心境をこんなふうに受け取ったベルルカは、身を屈めると、手で周囲の霞を集め始めた。そうしてふっくらと盛り上がった霞を一塊の雲のような形にして、その上にマーフィンとカゴを乗せてあげた。宙を移動する乗り物の出来上がりだ。これでいいとベルルカは満足すると、踵を返して霞の中に紛れて行った。
そう言うつもりで声をかけたわけじゃないんだけどなあ……。ふかふかの雲と一緒にその場を漂いながら、ベルルカが消えていった方向を見つめるマーフィン。拠り所になっていたものが消失してしまったような感覚を覚えたが、ベルルカがそんな存在になりつつあるというのを意識する前に頭を切り替えて、自分の好きな物探しをする事にした。
ゆったりと一定の速度で、ひたすら真っ直ぐ進むマーフィン。延々と道が続いてそうで、果てを見に行く気はまるでないのだが、ベルルカの元で果物をもいでいた時と比べて自分の好きなものを選ぶとなると、どの果物も今ひとつピンと来なかった。加えて、例えばリンゴ一つとってもサファイアなリンゴ、エメラルドなリンゴ……といった具合の豊富さなので、余計に悩ましい。
「困ったな。このままだといつまで経っても終わらないぞ。何か考え方を変えないと」
少し悩んで、マーフィンは「気になるものを見つける」という方向から、「ジャムにしたら美味しそうなのはどれか」という切り口で果物を探す事に。無限に思える木々の中から選りすぐりを探し出さねばならないという使命感に似たものから、ハードルが若干下がったように感じられた。そこから青や黒といった暗色系はやめておこうとか、ゴールドに輝くドラゴンフルーツやシルバーのメタリックないがぐりといった、口に入れる事に抵抗があるもの、瑪瑙みたいな層が特徴的でアートチックなスイカなど、元のイメージの果物からあんまりにもかけ離れたものはやめておこう、というふうな思考が産まれていった。
やがてマーフィンはとあるイチゴに手を伸ばしていた。ルビー色をしたイチゴ。単純に美味しそうに思えたからだ。イチゴは赤いものであるというイメージに加えて、一層赤々と主張しているのであれば、良いジャムになる事は間違い無しと確信出来た。
「でも、味がイメージと違うって事も考えられるしなあ。試しに一つ食べてみようかな」
ヘタを取って、小さな手にはちょっと余るイチゴを眺めるマーフィン。間近で見ると赤の中にも濃淡やピンクにみえる部分があって、本当に丁寧に加工を施された石のよう。
先端から控え目にかじってみる。しゃくっ。しっかりとした歯ごたえと、期待から一段上乗せされた味が口の中に広がると、マーフィンは満足げに何度も頷いた。
全部頬の中に納めてしまうと、マーフィンは二つ目のイチゴに目をつけた。たくさん実っているし、もう一つくらい食べても良いかな? という思考に至る。結局三つ食べて、カゴにイチゴを入れた。
イチゴを食べた事で抵抗感が薄まったのか、お腹に余裕のあったマーフィンは隣りのエリアのメロンにも手を付けていた。皮が氷の張った水晶のように半透明になっていて、編み目模様の奥に目を凝らすと中身のオレンジ色が見える。メロンは半分に割らずとも食べる事が出来た。イチゴどころか地上で育つはずのメロンまでも木に実っているだとか、果物じゃなくて野菜の分類じゃなかったっけ? とおかしな点はいくつもあるが、ぬいぐるみと化した自分が雲に乗ってプカプカしている時点で現実離れしているので、どうでも良くなってきた。
「さすがにメロンほどのサイズは食べきれないなあ。ちょっと味見するくらいでいいんだけど」
あ! マーフィンはとっても悪い事を思い付いてしまった!
それは実っている果物をもぎ取らずに、そのまま一口だけいただいてしまう事だった。メロンのみならず、あちこちの果物に小さなかじり跡が付いて行った。
「こんな事しちゃいけない気がするけど……げぷ。あの人だったら許してくれるかな。えへへ」
味見した中で気に入った、ポカポカ陽気のお日様を彷彿とさせる、トパーズのオレンジをカゴの中に入れる。
「何だか楽しくなってきちゃった。最後の一個は少し冒険してみようかな。――あ、あれが綺麗! あれに決めた!」
一色が主な果物の中で、多種多様な色彩のアプローチを見せる果物を手に取る。夢現つとさせるオパールの極彩色や楕円の形状からは、一体どのような果物なのか想像つかないが、マーフィンはそれを一切味見せずにカゴの中に入れた。ジャムが出来上がった時に初めて味が分かるという思惑だった。
短時間でお腹を大きく膨らませたマーフィンは、ゴロンと雲の上に寝そべった。口の周りや手が果汁ですっかり汚れてしまってベトベト。その割には悪くない気分だ。うつらうつらとしてきて、やがて寝息を立て始める。
しかし。穏やかな心地を引き裂くようにして、平穏の時は終わりを告げる。
ビリッ!
何かが破けた音。マーフィンは飛び起きた。異質な音の正体は目下に現れていた。
お腹の部分の生地が、破けている。
きっと果物を食べ過ぎたせいだ。これがズボンのお尻に空いたのだったらちょっとまずいくらいの穴だが、特に痛みはないし、詰め物の綿が飛び出すまでには至っていないので、本人は「まいったなあ」の一言で片付けようとしていた。
が、大変な事になったのはそのすぐ後だった。彼方から風に乗って運ばれてきたかのように黒い粒子がやってきて、マーフィンの周りに集まり出したのだ。それまで動物の鳴き声だとか、虫の姿を意識した事がなかったのに、その粒子はまるで生きているかのように飛び回り、不気味な音を立てる。
ブ……ブブ……ブブブブブ……
「な、何だこれ! しっし! あっち行け! あっち行けったら!」
マーフィンは目障りな粒子の集まりを追い払うべく腕を振り回す。一向に粒子は離れようとしない。どころかどんどん数を増やして、ある形を成した。
手だ。かぎ爪の伸びた、人間の手の形。
左右に分裂した黒点蠢く手が、大口を開けるみたいに爪を立ててマーフィンに滲み寄ってくる。怯えたマーフィンはすぐにその場から逃げ出した。「早く逃げて! 早く!」と切羽詰まった命令に従った雲のスピードは、ぐんぐん加速して行く。追っ手は霞に紛れて見えなくなった。うまく追い払えただろうかと一瞬気を抜けば、目の前から粒子の大群が襲いかかる。そして直進する雲を容赦なく掻きむしっていき、乗り物のなくなったマーフィンはとうとう地面に投げ出された。地表を漂っていた霞が逆巻き、マーフィンの姿を覆い隠すどころか、ここにいると示すように彼の周囲から消え去る。
「嫌だ! こっちに来ないでよ!」
立ち上がって走ろうとするが、もつれてしまった。地面に転がる間抜けな獲物に、その魔の手はカクカクと指の関節を動かして狙いを定める。
「助けて!」
右足に食らいつかれた。生地がビリビリ裂けていく音がする。
「助けて!」
背中を爪で抉られる。左腕を引っ張られる。糸がブチブチ切れて、綿が晒される。
「助けてえ! ベルルカさん!」
殺される!
――きみ……だ! やめ……! ……けて!
――……なた……て……しも、し……ッ!!
絶望した瞬間、暗闇に外灯が佇む景色と、もつれ合う大と小のシルエット、小と大の声が、頭の中を駆け巡った。
今の絶望と似た記憶として、呼び起こされた。