#6、偽りはまだ
「そ…………んな……」
カラカラの喉から情けない声がこぼれ落ちた。立っていられない。絶望のままに、地面に膝をついた。
「嘘……嘘だよ……なあ、なんで……こうなった……? 死ななきゃならなかった理由が、伊織の……伊織の、何処にあったっていうんだよ!!!」
俺の問いに答えてくれる者は誰もいない。
声が震えた。身体が震えた。心が震えた。
目の前の守りたかったものが、あと一歩、ほんのあともう一歩、届かないところで消えてしまう。
この感覚はもう、うんざりだった。
あの瞬間もそうだった。すみれの花びらの上に倒れ込んだ母の身体が動かなくなった瞬間も。身体を真っ赤に染めた徹眞の瞳が、世界を映していないことに気付いた瞬間も。
この世界に人の運命を司る神が存在するならば、こんな形で彼を死なせた理由を問いたかった。
国の皇を殺した罰ですか。徹眞を殺した罰ですか。それらの行為は、たしかに、許せたものではない。でも……伊織にナイフを持たせてしまったのは、俺の存在ゆえなのに。
いつの間にか、蓮と架瑠亜も俺の隣で呆然と上を見上げていた。赤く染まった伊織の影を見つめたまま、呼吸を止めていた。やがて、架瑠亜は震えた細い指でその小さな顔を覆った。
「今、この時、世界は平穏を取り戻した。旧中つ国と東の国の罪は晴れた。今、この瞬間、これらの国や民への迫害行為は一切禁じ、実行しないことを、約束された未来で、永久に誓おう」
高らかに響き渡る王の声。冷えた風がすべてを攫ってゆく。
……なにが、平穏だ。
王の凛々しい声に湧く聴衆の歓声も、拍手も、希望に飢えた俺たちを孤独の隅へと追いやった。
「世界の歴史に一つ、新たな区切りがついたこの時、新たな時代を踏み出すための、もうひとつの重要な儀式──東国の戴冠式を行う」
「……戴、冠式……?」
蓮が乾いた声で王の言葉を繰り返した、次の瞬間だった。蓮が大きく息を呑んだ。
「…………え?」
そろり、と蓮の顔を覗く。蓮は、まるで時が止まってしまったかのように固まっていた。蓮は、処刑台上の人物を、食い入るように見つめていた。視線の先を辿る。
「神屋敷殿」
王が声を響かせる。王の放ったその一言に、ぞくり、と背中が凍りついた。蓮の視線と王の視線が、同じ人物の上で交差していた。その人物は彼らを代表し、舞台上で、恭しく一礼する。
「あれは、二年と三ヶ月前。私は神屋敷家御一族にとある話を持ち掛けた。世界平和を願い、自国の罪について自らの手で落とし前をつけ、世界に誠意を見せたならば、私は神屋敷家御一族を新たな東国の皇として認めよう、と」
処刑台を見上げたまま、俺は蓮と同じように、身じろぎひとつできなかった。
愕然とした。
伊織の胸を撃ち破った銃を手にする彼らの瞳の色は、王に勇ましい敬礼を向けている彼らの瞳の色は、比喩表現でも何でもなく、現実に、間違いなく灰色だった。
手をついた地面の雪が、体温でじわりと溶ける。
「そして、神屋敷家御一族は、私の、否、世界の期待に応えてくれた。今日、神屋敷家御一族は、一度は慕った自らの主に対し、鉄槌を下した。皇宮内の皇太子を追いつめたが逃がしてしまった、あの二年前の苦い過去を経ても、なお、世界のために尽くし、見事責務を果たしてみせた彼らの誠意を讃えるべきであり、その責任感と実行力、他国の平和を望む姿勢は、新たな時代を築く東国の皇の器に相応しい」
「馬鹿だ……」
蓮が消え入りそうな声で言ったのが、この雑踏の中でも俺の耳へ届いた。
「……なんで、気付かなかったんだ……よく考えれば、簡単に分かることだった。……あの日……皇宮を襲ったのが、神屋敷家だった……なんて、さ。」
蓮は誰に言うでもなく、一人、声を震わせた。
「ただの民衆が、あんなふうに皇宮の者を大量に殺せるわけがない……皇宮侵入者が皇宮内の間取りを正確に把握していたことも……夜逃げした神屋敷家が琥珀の死を示唆していたことも……あのクーデターを起こした人物が彼らだったからこそ、成しえたこと……だっ、た……」
蓮は歯を食いしばる。憎悪で満たした灰色の瞳で、伊織を囲う男たちを睨みつけた。
「…………許さない」
鬼のような形相で処刑台の上の血族を睨み付ける蓮は、処刑台へ向かって、一歩を踏み出した。蓮は、処刑台上の灰色の瞳だけを見つめていた。静かに姿勢を屈める。
「だめ」
踏み出してゆく蓮の腕を引いたのは、架瑠亜の右手だった。
「離せよ!! あいつらは……」
その架瑠亜を、蓮はぎらついた目で、見つめる。
「あいつらは、琥珀を、皇宮を、裏切ったんだ!! もともと琥珀を殺すつもりで、あいつらは、自分たちのために皇宮を簡単に見捨てたんだ!! そんな奴らが、東国の皇だって……? ……ふざけんな……! ……いっ……!」
突然鳴った乾いた音に、思わず俺は目を瞑った。蓮の心の叫びを聞きながら、下唇を強く噛み締めた架瑠亜が、蓮の頬を叩いた音だった。
「状況をちゃんと見て。貴方が前に出て行ったところで、一体何になるの? 今、皇太子は死んだの。この世界には今、平和が訪れたの」
「架瑠亜! お前は……っ」
「彼の死を無駄にする気?」
きっぱりと言い放つ、架瑠亜の尖った藍色の瞳には、透明な涙が浮かんでいた。
架瑠亜は、ずっと泣いていた。綺麗な瞳から大粒の涙が溢れ、透明感のある肌の上を伝い続けていた。蓮は架瑠亜の瞳を見て、強く下唇を噛む。
俺も、頭では分かっていた。伊織が、俺の名前を着て国の犠牲となった今、たとえ俺が大衆の前で真実を告げたとしても、世界は再び混乱に陥るだけだ。
どちらが本物の皇太子なのか。
あるいは、どちらも皇太子でなく、真の皇太子が他にいるという可能性は。
偽物の処刑人を立てた東国と旧中つ国に誠意など元からなかったのではないか。
誠意のない制裁など無意味だ。
やはり穢れた血はこの世界から根絶やしにすべきだ。
言われてもいない民衆の怒声が、頭の中に降って湧く。そのせいで、足がすくんで動けなかった。
こんな結末に、納得できるわけがなかった。かといって、伊織の死をこの手で無駄にすることも、俺にはできない。
神屋敷家が起こしたというあの日の雨に濡れたクーデター。もしも……もしも、あの日、彼らの企て通りに俺が殺されていたのならば、伊織は今頃──……。
「…………ん?」
ざらり、と胸の内が、何か歪な影に触れた。
伊織が処刑人としてこの場に初めて立ったのは、今からおよそ四年前。
王が神屋敷に話を持ち掛けたのが、今からおよそ二年三ヶ月前。
皇宮が襲われたのが、今からおよそ二年前。
……おかしい。
葛藤の中で、突然、ぼんやりとした違和感が浮かびあがる。その違和感をなぞるように、ゆっくりと、王の青い瞳を見上げた。
四年前の時点では、“自分は皇太子ではない”という伊織の主張を、王は、確かめもせず退けた。それはまるで、伊織が本物か偽物かを疑わない、あるいは、それについて関心がなかったようにも見える。
それから一転、王が神屋敷家に話を持ち掛けた二年三ヶ月前と聞いて、連想される出来事、それは、皇帝の死。
西国は、東国皇帝の結界を恐れていた。皇帝の死を知った瞬間、皇太子の死を切望した。それはまだ理解できる。でも──。
胸の中で捉えた違和感は、やがて輪郭を伴い、歪な塊となって俺の前に姿を現し始める。
……過去の罪を恨んでいたのなら、歴史の制裁は公然の場で正式な形をもって行われてこそ、意味を成すものではないのか。
二年前のあの日、目の前の神屋敷の人間は、俺の背中に刃を刺し込んだ。蓮がいなければ、きっとあのまま、俺は死んでいた。
何故、王は神屋敷家を使ったクーデターという、内部的で非公式的な手段を認めたのだろう。
それに、異世界にいた伊織を現世界へわざわざ引き戻し、特殊な蝙蝠を使ってまで命を奪おうとした理由は?
二年三ヶ月前の時点で、仮に異世界へ行った伊織が偽物である確証を得ていたとして、そうまでして徹底的に伊織の息の根を止める必要性はなかったはずだ。しかも、現世界に戻ってきた伊織のそばには、傷付けてはならない国の王女もいたのに。
──つまるところ、俺が言いたいのはだな……あの日起きた、東国のクーデターは絶対に裏がある、ということだ。
徹眞の鋭い目付きと低い声が、脳裏に蘇る。
「……裏。」
声に出した途端、頭の端の方が、音を立てて弾け飛んだような気がした。
同時に、強い突風が吹いた。地面の白い雪が舞う。後ろ髪が、視界を覆い隠す。
「待ちなさい!!」
突然、強風と共に頭上から声が降ってきた。興奮し熱をもっていた、広場の聴衆の歓声は温度を下げ、戸惑いの騒めきへと移り変わる。
処刑台の上に突如として現れたのは、桜色のドレスに身を包んだ波琉だった。強風に黄金色の髪を靡かせながら、澄んだ青い瞳に怒りを滲ませ、広場の人間を見下ろしていた。




