#3、不穏な雨の音
東国を守る結界が消えた。
結界と共に、これまで築き上げられてきたものたちが、一斉に音を立てて崩れ去ったように、俺には見えた。
「聞きました? 陛下が亡くなり、国境の結界が消えてしまったというのに、新たな結界は未だに張られていないんですってよ」
「うそ、本当に……。ああ、なんということでしょう。……やはり、穢れた血の皇太子では、皇帝の力を行使できないとの噂は真だったということでしょうか」
「おい」
廊下にひそひそと響く宮女の声は蓮の一言で一瞬止む。
「皇宮内では口を慎め」
廊下を通る俺に気付いていないのか、あるいは敢えて聞かせるように話しているのか。内容が全て丸聞こえだ。
すると、すぐそばにいた痩せた宮女が目の前に現れ、俺たちは行く手を遮られた。そして棘のある口調で、蓮に詰め寄る。
「蓮様は一体どういうおつもりでいらっしゃるのですか。陛下は、十二の頃にはもう皇族のお力を使いこなしておいででしたのに、琥珀様は十四になられても、お力の宿る兆しが御座いません。そのようなお方が、我が国の皇帝の座に就かれるのに相応しいと、本当にお思いなのですか。それとも、あなた方は、東国を終わらせるおつもりですか」
吊り上げた彼女の細い眉は、俺への敵対心の塊だった。蓮もそれに劣らずもの凄い剣幕で彼女を睨みつけながら言う。
「聞こえなかったか、口を慎め。お前の言動が無礼だと言っている」
「……いいから、蓮。いちいち気にとめるな」
その様子を見兼ねて俺は止めに入った。
皇宮内の人前では、立場上、蓮は俺に反抗できない。蓮は不服そうに口を開きかけたが、そこから言葉が放たれることはなかった。
俺は彼女を無視して、そばを通り過ぎる。蓮も渋々後をついて来た。
彼女は、穢れたものでも見るような視線を、その場から立ち去る俺に注ぎ続けていた。俺はその視線からも蓮の瞳からも目を背け、溜息をつく。
彼女との距離が離れたのを確認してから、蓮は俺を責めるように言った。
「何で止めるんだよ! もう時期皇帝になる身なんだから、もっと怒れよ! そんなんだからああいう奴らが後を絶たないんじゃないか」
「だからっていちいち突っかかっていては際限がないだろう」
はっきり言って、この状況は異常以外の何物でもない。
父が亡くなってからというもの、国の様子は一変した。葬儀の日から三ヶ月ほど経った今では、先程のような出来事も、もう珍しいことではなかった。蓮はその度に注意したり怒ったりを繰り返していたが、俺はその状況がもううんざりだった。
「琥珀もさ、もっと自覚しろよ、そんなんじゃ皇帝になるのに……」
「ならなくていい。」
蓮の話を遮る。蓮は俺のキッパリと断言した台詞に、戸惑った表情を見せた。
「こんな状況で、何ができるって言うんだよ。もう、分かったろ。俺が皇帝になることなんて、やっぱり誰も望んでなかった。それなのに、わざわざ俺が皇帝にならなきゃいけない理由が何処にある? 蓮は一体この状況の何処を見て、俺が皇帝になれると信じているの。なれるわけないだろう」
吐き出す言葉と共に、この三ヶ月、溜め込んできた苛々が募る。
「俺だって、皇帝になんか、なりたくない。」
俺の放った言葉に、蓮は口を噤み、辺りを見回した。たまたま、その場に人が通っていなかったことを確認し、少し安堵したような顔をする。俺は、その周囲の目を気にするような彼の態度も気に食わなかった。
それから、丸い灰色の瞳に力を込め、真剣な表情で俺に言う。
「またそんなこと言って……誰かに聞かれたらどうするんだ。そういう話は、自室でならいくらでも聞くけれど、こういう廊下では無闇に話しちゃ……」
「蓮はさ」
蓮の言葉に、頂点に達した苛々が噴き出していくのが自分でも分かる。
「どうしてそんなに俺を皇帝にしたがるわけ。前に、自分の意志で血の守り人になったって言っていたけれど、それは自分の名誉のためだったりするの? 俺が皇帝にならないと、自分の地位が下がるから、俺を皇帝にすることに必死になっているんじゃねえの」
俺の中の怒り、不満、不安、劣等感といった類の負の感情が胸中を熱く満たしてゆく。
その感情達は留まるところを知らない。まるで頭の中が焦げ付きそうだ。
俺の言葉を聞き、俺の表情を見た蓮の顔が引き攣ったのが見てとれた。
俺は今、きっと酷い顔をしているのだろう。昔から、感情を顔に出さないようにすることが大の苦手だ。
そんな俺に対し、戸惑いに満ちた声で蓮は言う。
「は……何言ってるの。そんなことあるわけないだろ! ……そんなことが理由だったら、とっくにお前と友達辞めてるっつうの。ていうか、それ、本気で言ってる? 本気で、俺が、そんな理由で、お前といるって……思ってた……わけ……?」
蓮の言葉の語気は、悲しげに、自信なさげに、どんどん弱まっていった。
蓮を傷付けた、と思った。
彼の視線が下に落ち、一瞬俯いたかと思うと、今度は顔を赤くさせて俺の瞳を真っ直ぐ見つめた。そして泣きだしそうにも見える顔で、腹の底に抱えた何かを訴えるかけるように言った。
「俺が……! 一体どんな思いで、お前を守ることに必死でいると思って……!」
悲しみに溢れた灰色の瞳は、俺のことを睨み付ける。
「お前は何も分かってない!」
俺はその蓮の瞳から目を逸らす。
それは彼の表情の変化に申し訳なさを感じた一方で、苛立ちが収まらず、素直になれなかったのもある。
しかし、それ以前に、こんなに感情的になる蓮を見るのは初めてだった。だから、そんな彼を前にして、何を言えば良いのか分からなかったのだ。
外は雨が降っていて、やけに空気がじとじととしている。何だか憂鬱な気分にさせる天気だ。空も暗くどんよりとしている。俺は視線のやり場に困り、廊下の窓の方へ目をやり、空を見上げた。
「何だ……?」
暫くして、突然蓮が声を上げた。
俺に向かって話し掛けたのかと思ったが、違った。先ほどの言い争いなど、まるでなかったかのように、真剣そのものの瞳で周囲を見渡し、獣の如くじっと耳を澄ませていた。
その蓮の様子に、不安を覚える。
「……どうした?」
「……何かおかしい。嫌な予感がする。……琥珀はここで待ってて。様子を見てくる。すぐ戻ってくるから」
蓮が走り出す。おい、と声をかけるも、蓮はそのまま行ってしまった。
言われてみれば、確かに何かがおかしいような気もする。何がと言われても上手く言葉に表せない。しかし何らかの違和感がそこにはあった。だが、その違和感の正体が分からない。
雨が強くなったのだろうか。急にザーっという雨の音が大きくなり、取り残された俺の不安を煽った。
その雨の音を聴くうちに、俺は漸く違和感の正体に気が付く。
……人が、いない。
目線の先に長く続く廊下にも、人の生活する気配が感じられない。不気味な程に静かなのだ。雨の音しか聴こえない。
……皇宮の中は、こんなにも静かだっただろうか?
得体の知れぬ恐怖に体が張りついた。同時に、視界が少し陰る。それから、背後に人の気配を感じた。俺は慌てて振り返る。
一・五メートルほど離れた距離に顔を布で隠した長身の男が立っていた。
光の陰になっていてあまりよくは見えないが、露出した男の瞳が殺意を宿しているのは明らかだった。