#2、生きるべくして生まれた
「それにしてもだ。東国はこれからどうなることか。皇妃様は、穢れた血。皇太子様にも、その血が流れているのだろう?」
初め、彼らの発する言葉の意味が、まるで理解できなかった。
「おい、ここは皇宮の中だぞ。誰かに聞かれでもしたら、どうする」
「食事会中にこんな場所に来るような奴なんて俺達くらいだ。誰も来やしないよ。それに、皇帝は死んだんだ。残された、穢れた血の皇族に、どれだけの信望があると思う?」
“穢れた血”。
その単語が自分と母を指していることに気付いた時、胸の中でざらりとしたものが蠢いた。思わず右手で口元を押さえ、息を呑む。
彼らは、俺がそばに隠れていることなど、まるで気が付かない様子で会話を続ける。
「皇太子様はまだ齢十四だったか」
「そんぐらいじゃなかったか。正確には覚えてねえけどな。興味もないし。それにしても、皇帝は一体何を考えておられたのか。皇族に異世界人の血を混ぜるだなんて、東国の強度が下がるだけ。それに、皇帝に代々受け継がれている、結界の力。あの力の強力さは皇族の血筋にしか扱えない程だと聞いたぞ。穢れた血ならば尚更だ。その皇太子に皇帝を継がせるなど……東国は自滅の道を進む一方だ」
男が言葉を発する度に、俺の心臓が、どくん、どくん、と波打つ。今にも心臓が口から出てきてしまいそうなほどに。
顔は火照って熱を感じるのに、背中は凍るように寒い。
東国は、結界に護られた国だ。
その結界は、代々の皇帝によって張られている。結界を張ることができるのは東国皇帝の血筋のみであるため、人々は皇帝を、まるで神のように崇める。
特別な力を持つ皇族同士で派閥が生まれ、争いが起こらないよう、世継ぎは一人と決められており、また、その結界強度は、皇帝の強さを表すと云われている。
「実際、十四にもなるってのに、皇太子様には力が宿る兆しもないんだろう?」
「どうやらそのようだが、十四ならまだ子供だし、先のことは分からないだろう。いずれは……」
「お前よ、俺の前でも建前つかう気か。考えてもみろ。純東国民に異世界人を良く思ってる奴など、そうそういない。西国は異世界人を毛嫌いしているんだ。その異世界人を匿うどころか、皇帝に君臨させるだなんて、あの大国、西国の反感を買うかもしれないというリスクだって付き纏う」
男は、すべてを見下したような、人に不快感を与えるような話し方をする。
東国には、二つの人種が住んでいる。
一つは、純東国民。
彼らは、古くから東国に住んできた者の子孫だ。東国民の大多数は彼らが占め、東国内でも由緒ある民族だと云われる。
そして、もう一つは異世界人。
彼らは昔から東国に住んでいたわけではないが、今では、全東国民の一、二割程度を占める。
母にあたる皇妃も、所謂異世界人で、その血を引く俺もまた、異世界人だ。
異世界人は、文字通りこの世界とは別の世界に生きる者の子孫、らしい。
純東国民とは違い、彼らは真っ黒な瞳に真っ黒な髪を容姿に持つ。そのため、一目で、異世界人の血を引いていることが分かる。
その異世界人が嫌われている光景を、俺は今まで目にしたことなどなかった。
男たちの言葉は偽りなのか真実なのか。
……偽りであると信じたい。
そんな願いとは裏腹に、俺の気持ちは置き去りのまま、彼らの会話は止まることを知らない。
「それで、あの皇太子の誕生を喜んだ奴が何処にいたと思う? 祝福したのは建前上の話だ。本心では誰もが思っただろうよ、“やっかいだ”ってな。結界の力を持たない皇帝なんてのは、東国には必要ない。西国との戦争の火種なんて作りたくもない。だからといって皇帝の判断に楯突くわけにもいかない。東国民は皆思っているさ」
男は、ため息混じりに言った。
「何故生まれてきたのだ、と。穢れた皇太子など、生まれてこなければ良かったのに、と」
彼の悪意剥き出しに放たれる言葉は、鋭い刃となって、俺の胸を容赦なく切り裂いた。
目の前が真っ暗になる。全身がまるで石にでもなってしまったかのように、硬直した。
彼の口から発せられる言葉の意味を理解することを無意識に脳が拒否していた。
架空の作り話を聞かされている気分だ。
いや、きっとこれは作り話なのだろう。
……そうでも思わないと、自分が自分でなくなりそうだ。
世界に、まるで自分だけが取り残されてしまったようだ。
何故だろう。
俺の耳はこんなに聴こえが良かっただろうか。男の声の一つ一つ、細かい息づかいまで鮮明に聴こえた。
「確かに、あの皇太子が生まれた時の巷での批判は大きかったな。陛下が権威振りかざしてそれを無理矢理抑えたんだっけ。陛下が居なくなった今、あの皇太子が皇帝になるとしたら、また反発も起こるだろうな」
「ああ。絶対そうに決まっている。穢れた血にこの東国を守られてたまるか。近々クーデターでも起こったりしてな。なんて……」
「おい」
突然、耳に馴染んだ別の声がした。それが蓮の声だということはすぐに分かった。
蓮の放ったたった二文字の言葉で、俺はやっと地に足がついた心地になる。
蓮に見つかり、男達の息を呑む様子が伝わってくる。
「お前ら……自分達がどこで何の話をしてるか分かってんのか、あ?」
蓮の口調はいつになく荒い。
いつも、人に優しく、高めの声で明るく話す彼が、これほど凄みのある声で、怒りの感情剥き出しに話すのを聞いたのは、蓮と出会って以来初めてのことだった。
「お……俺は別に……っ」
男二人のうち、一人は焦った様子でしどろもどろにそう答えた。しかし、もう一人の彼はまた鼻で笑い、開き直った態度で言った。
「俺は現実を話しただけだが。お前も大変だよな。一生あの皇太子から離れられないんだろう。この先の東国を考えれば、お前の命は永くは持たないだろうな。まだ子供なのに、気の毒なことだ。まあせいぜい長生きできるように、頑張れよ」
ひゅん、と勢い良く風の切る音がした。蓮が刀を抜いた音だと、見ずとも分かる。これには強気だった彼も度肝を抜いたらしく、声のトーンが明らかに低くなった。
「おいおい……正気かよ」
「黙れ。正気でないのはお前の方だ。ここが皇宮の中だってことを弁えろ。本来ならば、お前らのそういう行動や態度は反逆罪にあたる。今日は皇帝の葬儀の日だから、見逃してやっているだけだ。死にたくなければ黙ってこの場を去れ。これ以上口答えするようなら二度とその口開けないようにしてやる」
蓮の刀が空を斬り、キィン、と刃がしなる音が聴こえた。直後に、ドサッと人の倒れ込む音がする。
一瞬、本当に蓮が彼らを斬ってしまったのではないかと思ったが、蓮が脅しで刀を振り、それに驚いた男がその場に尻餅をついただけのようだ。
男は怯えたような情けない声をあげる。
「おい……行こうぜ。こいつはガキだが神屋敷家の中でも選ばれた優等生だ。変に手出ししたら本当に殺されかねないぞ」
もう一人の男はチッと舌打ちをする。そしてその場から去っていく気配がした。二人の足音がみるみる遠ざかって行く。
二人の気配が遠くなってゆくにつれて、強張った全身の力が抜けていった。全身が、とんでもないくらいに力んでいたのだと、初めて気がつく。
その反動からか、彼らがいなくなった安心感からか、同時に手足の震えが止まらなくなる。慌てて両手を擦った。
「琥珀……」
不意に自分の名が呼ばれ、心臓が小さく跳ねた。
顔を上げると、蓮が俺を覗き込んでいた。丸く灰色の瞳からは俺を心配している様子が痛いほど伝わってくる。そして彼は一瞬目を游がせてから、誤魔化すように笑った。
「困るよ、琥珀。一人でうろうろされちゃ。琥珀の身に何かあったら俺が責任とらなきゃいけないんだから……」
「ああ……ごめん」
自分でも驚くくらいの力の抜けた声だった。
蓮の言葉と笑顔はひどくぎこちないものだったが、それに対してもぎこちない返答しかできない。どういう顔で蓮を見れば良いのか分からず、俯く。
蓮とは物心ついた時からの長い付き合いであるが、この時ばかりは彼との会話の仕方を忘れてしまった。
蓮は場を仕切り直すかのように、刀を背中に背負い直した。俺も立ち上がろうとする。
しかし、膝が震えて力が入らない。うまく立てない俺の肩を、蓮が支えてくれる。
蓮は俺よりも身長が低いが、力は俺よりもはるかに強かった。
「ごめん……」
「琥珀、さっきから謝ってばかりだよ」
「そうだな……ごめん」
蓮は悲しげな顔をした。
「もう一人で歩ける。大丈夫」
そう言って蓮から離れた。なんだか気まずく思い、視線を蓮から外す。
そろそろ会場に戻らなければ、不審に思われるだろう。そう思い、中庭から出ようとした。すると、蓮がそれを呼び止める。
「なあ。もう少し、休んでいこう。朝から働きっぱなしで疲れただろう。飯だって食えてないんだろ。会場からあんぱん持ってきたんだ。食べなよ」
彼の特技は気遣いだ。しかしこの時ばかりはその気遣いが逆に辛かった。
今は独りになりたい。
もしくは、人が大勢いる中に溶け込みたい。
蓮は先程の話をどこから聞いていたのだろう。俺が彼らにあんな風に思われているということを知って、可哀想、だとか気の毒、だとかそんな感想を抱いているのだろうか。
そんなことを思うと、益々気がふさぎ込んだ。
「今は何も食べたくない。それに、戻らないと周りに心配されるだろうし……」
「……その顔で戻るつもり?」
「その顔って?」
「真っ青だし……本当に酷い顔してるよ。そのまま戻ったら、それこそ、百発百中、どうしたんだろうって色んな人から心配される」
そう言われて思わず手で顔を覆う。その途端、急な吐き気に襲われた。立っていられなくなり、がくん、と体が再び傾く。
何か張り詰めていたものがぷつんと切れた音がした。
蓮に支えられながらその場にしゃがみ込む。
胃の中が空だったために、吐き気はするものの、何も吐けはしなかった。蓮が隣に屈みこんで、俺の背中を優しく擦ってくれていた。
「お前は無理しすぎだ。全部一人で背負い込むなよ。何のために俺がいると思ってんだ。この際だから、不安とか不満とか、全部吐き出してしまえよ。俺が全部聞いてやる」
蓮がいつも以上に頼もしく見えた。
氷漬けの心が溶けていく。そして体の硬直も少しずつ解かれていった。
同時に、感情も一気に流れ出す。
せき止める術も知らずに、その感情は言葉として放出されていった。
「俺は……俺は、誰からも必要とされない……生まれてこなければ良かった存在なの……? 俺は……何一つ知らなかった。穢れた血だと呼ばれていることも、西国との戦争の火種であることも、父上が病気だったことだって。何も知らなかったのは俺だけなのか……それって俺が、誰からも期待されていなかったから、誰かから教わる機会もなかった、とか、そういう……」
「違う!!!」
「……それにこのままじゃ、蓮を早死にさせてしまうって……あいつら……」
「違う!!!」
蓮は全力で、これでもかというほどに首を大きく横に振っていた。
「今お前が言ったこと、何一つとして正解じゃない。いい? 確かに、さっきの奴らみたいなおかしな偏見を持った馬鹿野郎が一定数いるのは事実だ。でも、だから何? あいつらが、なんと言おうと、お前がお前であることには変わらない。東国にはお前が必要だ。それは、俺が保証する。俺はね、この世に生きていて、生きる価値のない人間はいないと信じてる。それはお前も例外じゃないさ」
蓮は力強く、真っ直ぐに灰色の瞳を俺に向けていた。蓮の放つ言葉一つ一つが、俺の尖った心を丸くする。
「昔からずっと近くにいる俺だから分かる。お前は生きるべくして生まれたんだ。勝手に勘違いするな。」
彼の言葉には説得力があった。捻じ曲げず、真っ直ぐに素直な気持ちを届けようとするからだろう。
強ばった表情筋が、少し緩むのが分かった。あまり顔を見られたくなくて、俺は額から右目にかけて、右の手の平で覆い隠しながら訊いた。
「……蓮はさ……血の守り人になったこと、後悔してない?」
蓮は俺の言葉を聞くなり、はあ? と少し怒ったように言う。
「なわけ無いだろ! 後悔する理由が何処にあんだよ」
俺と蓮はただの幼馴染や、皇族と護衛の関係に留まらない。彼とはおよそ二年前、“血の守り人の誓い”というものを立てている。
その誓いは東国の皇族と蓮の一族である神屋敷家との古くからの仕来たりだ。神屋敷家の中で最も優秀だと認められた者が、皇帝の後継者となる者を、一生、命に代えても守ることを誓うのだ。
それは文字通り、誓いを立てた瞬間から、蓮は俺と運命を共にするということを意味する。誓いによって、俺が生きてさえいれば、どんなにひどい傷を負ったとしても蓮が死ぬことはない。逆に俺が死ぬとき、蓮も共に死ぬ。
今、蓮の命は、俺の命と繋がっている。
勿論、俺はこの誓いを立てることを批判的に捉えていたのだが、父の決めたことには逆らえなかった。
父が言うには、皇族の力を受け継いだ皇帝は、東国にとってなくてはならない存在であるが故に、そういった仕来りが現在でも続いているらしい。
「知ってる?」
蓮は、少し苛立ったように言う。
「血の守り人になれるってのは、俺らの家系の中では本当に名誉あることなんだからな。なること自体、本っ当に大変なことなんだ。お前は、俺が選ばれて気の毒、とか思ってんのかもしんねえけど、全っ然違うからな。俺がなりたくてなったんだ。だから、このことに関しては一切口出しすんじゃねえぞ、分かったな?」
蓮が心配する通り、俺は蓮と血の守りの誓いを立てたことを後悔していた。
でも、蓮がこんなにも力強く、迷いも微塵もない様子で言い切るから、冷えきった心が、じわり、と温かくなる。
「ま、そういうわけだからさ。……これから先、大変なことがたくさんあるかもしれないけど、さっきみたいに、何でも俺に相談しろよ、頼むから。俺が、一生お守りしますから。ね。」
蓮は天使のように、にっと笑う。
そして取ってきたというあんパンを半分に割り、俺に差し出した。ありがとう、と言ってそれを受け取る。
あんの甘さが少しだけキツかったが、何だか元気が湧き出るような、そんな気がした。