#4、樹海の反逆者
男は馬を、俺と蓮は山犬を、四十分ほど走らせた場所にそれはあった。今夜は月が明るいのに加え、男の手にしたランタンの灯りは、俺たち一行の行く先をほんのりと照らしてくれた。
樹海を進むにつれて、水の流れる優しい音が耳に触れる。川が近いのかもしれない。
生い茂る木々を掻い潜った先に、ぽっかりと開かれた空間が、突如として現れた。そこにひっそりと隠れるようにして存在する木造の家。
男は突然馬の速度を落とすと、地面に降り立つ。手早く馬を家のそばへ繋ぎ止めると、家の扉を開けた。
「入れ。だが犬は入れるなよ。汚されるのはごめんだ」
俺と蓮は、山犬から降りると、彼の言いつけを守って、山犬二頭を外へと放した。彼らは利口だ。自由な時間は各々好きなように過ごすが、指笛を吹けば、主の元へ戻って来る。感謝を込めてたくさん頭を撫でてやると、ふわふわの耳を嬉しそうに後ろへ寝かせた。
お邪魔します、と言って扉をくぐると、その先には無駄な物のない、小綺麗な居間が広がっていた。
決して広くはないが、四人掛けの食卓に、台所と、生活に必要なものは大体揃っている。一人暮らしには少し広い木目調の部屋は、オレンジ色の明かりも相まって、温かみの感じる空間だった。
「靴は入口で脱いでおけ。中に泥を持ち込むな。まずは風呂を貸してやるから入ってこい。この家にいる間は、俺の命令に従え」
冷淡に命ずる男に、蓮は明らかに不満気な表情を浮かべる。
「先に入ってきたら?」
「いや、いい。」
蓮はまだ、男への警戒を解いてはいないようだった。一方で、男は蓮に無関心を貫いている。何食わぬ顔で、食卓の椅子へ腰掛けては、紙に何かを書きつけていた。
「……そっか。じゃあ、先に入ってるね」
固まった空気に困った俺は、蓮にそうとだけ伝えて、浴槽へ向かった。
数日ぶりの風呂は、最高だった。
身体の芯まで染みゆくお湯の温度に、一ヶ月分の旅の疲れが溶け出す。凝り固まっていた心も身体もほぐれ、このままとろけてしまいそうだ。
一度ゼロになった頭に蘇るのは、先の男の言葉。
もしも、森で出会ったのが、彼ではなく西国のスパイだったなら。俺も蓮も、今こうして生きていなかったかもしれない。
そういった状況に出くわしていたとしても、何らおかしくはなかったと、そう言わんばかりの彼の口調を思い出して、恐怖に震えた。
考えれば考えるほど、思考が闇へ闇へと堕ちてゆく。そこへ皇宮の襲われたあの日の光景がふと思考を過り、慌てて顔を湯船に埋めた。
そうして湯船にとっぷりと浸かり続けること十数分。少々温まり過ぎたと思った。じんわり芯から熱をもった体温に侵され、ぼんやりとした頭に眠気が襲う。
このまま眠ってしまってはいけないと、再び頭から湯を被った。
蓮が男を見る時の、獣のように研ぎ澄まされた鋭い目付きを思い出す。戦闘力の高すぎる二人を、一つの部屋に置いてきたことに、突然不安に駆られ、急いで浴室を出ることにした。
「蓮、上がったよ」
男に用意された柔らかい布で、たっぷりと水気を含んだ黒髪をかき乱しながら居間に出ると、食卓で新聞を読む男の姿があった。蓮は部屋の隅の壁に立ったままもたれ掛かり、男のことをずっと睨み付けている。
「おいおい、ずっとそんな調子でいたのかよ」
俺は小声で蓮に耳打ちする。
「琥珀。お前は逆に警戒心を持たなすぎだ。あいつの素性が分かるまでは油断できない」
「そう? 俺にはあの人、悪い人には見えないけど」
蓮は呆れた目を俺に向けた。
「だいたい、こんなことになったのは全部お前のせいだかんな。勝手に俺から離れて森を出歩いたり、あいつに余計なこと喋ったり……」
「おい」
男が新聞から顔を上げ、こちらを睨みつける。金色の、小さくとも鋭い瞳に宿る殺気。背中にすっと冷たいものが走り、思わず背筋が伸びた。
男が顔を隠すのに使っていたバンダナは既に外されている。整ったその顔立ちの、左のこめかみから頬にかけて、深く抉られた古い切り傷。思わず、食い入るように見つめてしまった。男は、俺の視線に気付いていながらも、それには触れない。
「全部聞こえているんだが。チビもさっさと風呂行ってこい」
……チビ。
思わず吹き出しそうになった口元を押さえた。チビと呼ばれた当の本人は心外そうな顔を引き攣らせた。
その口から抗議の言葉が出かかったのを見て、俺は慌てて蓮の口を押さえながら浴室へと手を引く。蓮は引き摺られながらも、口に当てられた手を払い、男に言った。
「琥珀に手出しでもしたらただじゃすまないからな!」
「お前はしつこいな。俺は東国の皇族に興味はないと、何度言ったら分かる。いいから部屋が汚れる前に、その汗にまみれた汚い身体洗ってこい」
……何故この人は、蓮の怒りを煽るような言い方しかしないのだろう。わざとなのか?
俺は無理矢理蓮を浴室へと放り込み、脱衣所の扉をぴしゃりと閉めた。居間に戻ると、男は先ほどと同じ姿勢で、再び新聞に目を落としている。その影に俺は声をかけた。
「あの、助けてくださったうえに、風呂まで貸していただいて。ありがとうございます」
凶悪な目付きが俺のことを横目で捉えた。
「皇族の一人息子の割には……いや、だからこそ、というべきか……礼儀がきちんとしてんだな」
「母がそういうところに厳しい人だったので。皇族の内部事情、よくお知りなんですね」
俺の呼びかけに男は応じなかった。黙って再び新聞に目を落とす。
「どうして取引をしようという気になったのですか?」
「言ったろ。気が変わったからだ」
男は新聞を眺めたままそう言った。視線は新聞に向いているものの、文字を追っているようには見えない。
そんな返答を聞きたかったのではなかった。男にとって、気の変わるような何かがあったのではないかと思ったから、俺は訊いたのだ。もやもやと霧の晴れない気分と戦っていると、男は続けた。
「逃亡者はいつだって情報戦だ。より多くの情報が欲しい。それに十代そこそこのガキを見殺しにできるほど、俺は残酷じゃない」
いやいや、本気で俺の首を絞めつけ、蓮に剣を突き付けてた人が、何言ってんだよ。俺が皇族じゃなかったら、きっとあのまま殺されてたぞ。
そう心の中で毒づいたのを知ってか知らずか、男は無表情で新聞をパラリとめくった。
「そういや、あのチビの言ってたことはあながち間違っちゃいねえからな。お前はもっと人を疑うことを覚えておいた方がいい」
「……それは、やっぱりあなたが悪人だと、そう言っているのですか」
「……悪人、ね……。ある人から見ればそうかもしれないし、またある人から見ればそうじゃねえかもな。俺が悪人かそうじゃないかを判断するのはお前自身だ」
「はあ……」
この人の言うことは抽象的でよくわからない。
それから俺は男の正面の席に座り、頬杖をついて蓮が戻るのを待った。男は基本無口なのだろうか。俺を見るでも話しかけるでもなく、今度はちゃんと、新聞の文字を目で追っていた。
居間の壁に取り付けられた掛け時計の、針が時を刻む音だけが、てくてくと鳴り響く。ほっかりとした体温に再び眠気に襲われて、欠伸が一つ生まれた頃、勢いよく脱衣所の扉が開いた。
全身から湯気を立ち昇らせた蓮は、むっとした顔つきのまま、男の方へ歩み寄る。
その短い入浴時間で、きちんと体を洗えたのかは疑問だったが、本人はいてもたってもいられなかったのだろう。
それから蓮は、男に楯突くように訊ねた。
「で。お前は何者なんだよ?」
男はちらと蓮の方に視線を向け、新聞紙を閉じた。
「本当にせっかちだな。聞かずとも、お前なら薄々勘づいてるんじゃねえのか」
勘づいてるって、何を?
そう訊ねようと蓮を見たが、蓮の瞳は俺のことを捉えてはいなかった。
「……ということは、お前は元々俺らを迎え入れるつもりで、それなのに、俺らであることを確かめずにあんな手荒な真似をしたのか?」
「迎え入れる? 何の話だ。確かにお前らがここに来るかもしれんことは予想できても、手を貸すつもりなど微塵も無かったが」
そう言うと男は立ち上がり、黙って隣の部屋へ姿を消す。
「……聞いてた話と全然違うじゃないか」
「どういうこと?」
話が見えず、小声で愚痴を零す蓮にそう訊ねた。しかし蓮が答えるよりも早く、男が居間へ戻ってきたために、俺の質問は流れてしまった。
「これが俺の証明だ。」
男はピンッと何か小さいものを俺に投げてよこした。俺はそれを慌てて両手で受け止める。
手を開いてみると、縦三センチ横二センチ程の、長方形のバッチだった。金色をベースに、赤色で炎のような模様が描かれている。この印は確か……西国の紋章。
「西国の兵士が身につけるものだ。それは西国の兵士のみが持っているものであり、かつ本来、兵士ならば風呂や寝るとき以外は常に身に付けていなければならない。しかし俺は常に外して家に置いてある。この意味が分かるか?」
「……つまり、あなたは西国の元兵士だということですか?」
流石、東国民は聡いな、と漏らし、男は静かに頷く。そして続けた。
「俺は兵士だったにもかかわらず、西国を裏切り、国を出た。結果、西の王様は色んな手を尽くし俺を探し回っているってわけだ」
彼の“王様”の言い方にはあからさまな悪意が込められていた。
「どうして、そんなことを?」
「西国のやり方が気に食わなかったからだ。俺も頑固なんでな」
彼は食卓の上のコーヒーをすすった。
蓮をちらと盗み見ると、先ほどと目付きが変わっていた。獣のような目付きではなく、普段通りに近い、柔らかなものに変わっていた。少しは男を信用したということだろう。
「貴方のことは何と呼べばいいでしょう?」
訊ねると、男は再び食卓につき、新聞を開きながら言った。
「俺の名は朝倉徹眞だ」




