#1、東国の世継ぎ
肩に乗せられた、か細い手が小さく震えている気がした。
意識を何処かへ置いてきてしまったように、俺は呆然とその場に立ち尽くしていた。
「さ、こちらへ」
そう促す誰かの声で、我に返る。
指示に従い、静かに一歩を踏み出した。黒く重たい着物の床を擦る音が、乾いた空気を伝い、ずっしりとした雰囲気の漂う大広間に響き渡る。
母の手が肩から離れ、今度は優しく背中に触れた。
オレンジ色の、少ない照明に照らされた広い空間。正面の奥の壁には、龍を象った黄金色の装飾品が、照明に照らされ輝いている。その前に置かれた白い棺は、すべての音を吸収しているかのように沈黙を守っていた。静かで重い存在感を放っている。
部屋の奥まで進み、棺の前で歩みを止めると、俺と母は目を瞑り、右と左の掌を合わせ、同時に静かに頭を下げた。それからそっと目を開き、その場に跪く。
用意されていた盃に透明な酒が注がれると、その盃を両手で持ち上げる。中身が溢れないように気を付けながら、ふうっと息を吹きかけた。
酒の水面に映った天井がゆらゆらと揺れる。
手の中で盃をくるりと一回、右向きに回転させ、そっと口をつける。そのまま盃を傾け、半分ほど喉に通した。
なんとも言えない苦味が口の中にじんわりと広がってゆく。
盃を持ったまま、今度は静かに立ち上がり、一歩前へと歩み出た。
視界に飛び込んできたのは、棺の中で眠る父の顔。
鼻筋の高い父の顔は、化粧が施されたことで、美しさが一層際立っており、葬儀中であることも忘れ、思わずじっと覗き込んでしまう。
自分の父はもうこの世にはいない。
父の顔の美しさに、そのことを現実として突き付けられる。
目の前に眠る父は、今にも目を覚まし、言葉を発しそうにも思えたが、生気の感じられない顔色に、その希望は打ち砕かれた。
頭の奥がくらりと疼き、一瞬世界が歪む。手足が鉛のように重い。
「琥珀」
背後で跪いていた母が立ち上がる。
俺のそばに寄り添い、再び背中に手を添えながら優しく名前を囁いた。
母が何を言わんとしているのか、俺にはすぐに理解できた。
今は私情は捨てて葬儀に集中せねばならない。葬儀中は泣くことも許されないと教わっていた。
俺は唇を噛み締めることで自分を戒める。
深呼吸で呼吸を整え、盃を持った手に意識を注いだ。
手の中で盃を、今度は左回しに一回転。それからそれを、父の口元へと運ぶ。盃を傾け、少しだけ開いた口の中に、残った酒の半分を注ぎ込んだ。
照明にきらきらと染まりながら、透明な液が、すうっと口の中に吸い込まれていった。
盃を水平に戻し、再びそれを右向きに回す。盃の端にそっと口をつけ、酒の苦味を感じぬよう、残りを一気に飲み干した。
空になった盃を手にしたまま一歩下がると、父の顔はもう見えなくなった。
再び跪き、袖の中で手の平を合わせ、隣の母と同時に一礼した。
静かに立ち上がり、棺に背を向ける。
目の前には同じ黒く重たい着物を着た人達が大勢、胸の前で手の平を合わせ、跪いたまま頭を下げていた。俺もその列の中央へ戻り、同じ姿勢をとる。
式の中で行ったこれらの動作には一つ一つ意味があるという。
この東国では、酒には魂が溶け合う性質があると信じられている。
まず自分の息を吹き込んでから、己の唾液を混ぜることで、死者を送る側の魂が酒に溶ける。
そして、それを死者に飲ませることで、今度は死者の魂が酒に溶ける。
再び、送る側の者の魂を吹き込むことで、死者の魂は送り出す者の魂と融合し、浄化され、安心して死後の世界へ行くことができるのだという。
また、盃の回転方向にもきちんと意味づけがされている。
右回りは此岸、左回りは彼岸。
魂を吹き込む前にそれぞれの方向に回すことで魂の通る道が開かれるそうだ。
静寂が支配する空間で、大勢の者に見守られながら東国の皇帝である父君の魂はあの世へと送られた。
❀ ✿ ❀
葬儀を終えると、次は食事会の時間だった。葬儀の時とは打って変わって、陽の射した明るい広間で、父の死を労り、感謝の気持ちを共有しながら食事をする。
俺と母には参加者に酒を注いで回るという役回りがある。
食事会の準備が整うまで、別室で待つようにとの指示があった。
俺と母と、護衛についた蓮は静まり返った葬儀の大広間を出て、長い石造りの廊下を歩いた。
何となく、母の一歩後ろをついて歩く。蓮はそのまた後ろを歩く。コツンコツン、と三人分の硬い足音だけが広い廊下に静かに響いていた。
暫く黙りこんでいたが、周りに誰も居ないことを確認し、重い口を開いた。とても聞かずにはいられなかった。
「あの……母上。父上は……」
母は返事どころか振り返りもせず、真っ直ぐに前を見据え、歩き続けた。黙り込んだまま、息の漏れる音だけが、耳に触れた。
少しだけ迷った末に、言いかけた言葉の先を声に出すことを、選んだ。
「昨日まで……普通でしたのに。何故、急に逝ってしまわれたのですか。父上の御命を奪った原因は、いったい何なのでしょう」
それでもやはり母は何も答えなかった。
少し早足になる。
俺もそれ以上は続けなかった。訊いても無駄だと思ったからだ。
誰一人として口を開かないまま、待機するよう言われた小部屋の前へ到着する。
蓮がさっと後ろから前に出て、戸を静かに開けた。母はか細くとも凛とした声でありがとう、と言った。
母に続き部屋へ入ると、蓮は部屋には入らず、そのまま外から静かに戸を閉めた。
部屋には母と二人きりになった。母はそれでも俺の方を振り向かない。代わりにそのまま部屋の奥のドレッサーに向き合い、首もとに下げていたペンダントを外していた。
俺は、着物の重さと、空気の重さと、これから自分が背負い込むであろうことの重さに心も体も押し潰されそうだった。
部屋の隅に置かれた柔らかそうな椅子に腰掛けてはみるものの、気持ちは少しも落ち着かない。
俺が父の死を知ったのは今朝のことだった。
朝から皇宮中がざわめいていた。
朝食の前に、一人の宮女が報告に上がった。その時初めて、ことを知った。
葬儀の準備が整うまで、俺は自室で待機するよう言われた。
だから、俺は死んだときの父の様子を一切知らない。
「陛下は……」
小部屋に入室してから五分ほど経過した後だった。何の脈絡もなく、突然母は口を開いた。俺は母の方を見、背筋を伸ばす。
しかし、母は未だ俺に背を向けていた。ただ、俺と同じようにその背筋はしゃんと伸びている。
「陛下は、病気だったのです」
「いつから?」
「お生まれになった時からです。持病を抱えておりました」
「……そのようなこと、今まで一度も聞いた覚えがありません」
「当然です。余計な心配をかけまいと……一部の者にしか教えてくださらなかったものですから」
母は無理に張ったようなか細い声で話した。張りつめた糸が今にも切れて、消えてなくなりそうだ。
母は突然振り返る。
黒くて細く、長い髪が綺麗に揺れた。
目と目が合う。綺麗な二重と、引き込まれそうなほどの強い意思を宿したような真っ黒な瞳。俺の瞳は母とよく似ていると、周囲からもそう言われた。
その瞳を見て、初めて気づいた。
母は瞳に涙を溜めていた。
今にも零れそうなその瞳に、俺は何も言えなくなる。
母はゆっくりと俺に近づいた。俺の目の前に立つと、先ほど外したペンダントを、その繊細な手つきで、俺の首にかける。
紐の先に付いていたのは、夜空を連想させるような深い青色をした丸い石と、指輪にも見える銀色のリングだった。石の表面には龍の模様を象った東国の紋章が刻まれている。
見た瞬間、その石が何であるのかはすぐに理解した。
それは、いつも父が身に付けていたもの。
代々皇帝に受け継がれている大切な石。
──つまり、持つ者が東国の皇帝であるということの証。
「琥珀。これはどんな時であっても手放してはなりません。次の者に渡すその時が来るまで、貴方が肌身離さず持ち歩くこと。良いですね」
母は涙を溜めた瞳を真っ直ぐ俺に注いで言った。
母の喪服からは、ほのかにすみれの薫りがする。華奢な肩が小さくふるふると震えているのがその着物ごしに分かった。
その震えを前に、ある覚悟が心に芽生える。
父がいなくなった今、俺がこの人を守り、支えなければならない。
母はどんな時でも、強く、美しい。そして今も強くあり続けようとしている。東国の皇妃として、あるべき姿を全うしようとしている。俺も強くあらなければならない。
母の瞳を見つめた。決意を込めて、はい、と重く、静かに頷いた。
その直後、部屋にノックの音が転がり、凛とした蓮の声が響いた。
「お時間です。ご案内いたします」
部屋から出ると、蓮の誘導で、俺と母は会場へ向かう。
蓮と俺は同い年で、皇族と護衛の関係以前に幼馴染であり、お互い唯一の親友でもある。
それもあって、いつも無邪気に冗談を飛ばす彼が、こうして真面目な顔で任務を全うする姿は、もう何度も目にしているはずなのに、未だに違和感が抜けない。
今、彼も周りや自分と同じように真っ黒な喪服を身に纏っているが、他の者が着用しているものとは作りが違っている。いざというときでも動けるようにだ。
剥き出しになった二の腕やふくらはぎは、よく見ると意外と筋肉質で、こんなにたくましかっただろうかと俺は首を捻った。
彼は背中には幅十センチ、長さ一メートルほどもある刀を背負っている。小柄な蓮が持つとその大きさがより際立っていた。
食事会が始まると、静まり返っていた葬式の時とは一変して賑やかさや華やかさがあった。俺と母は色鮮やかな酒の瓶を持って、挨拶周りをしながら、参加者のグラスに酒を注いで回った。
「畏れ入ります、琥珀様。私のような身分の低い者であっても、陛下からはたくさんのお気遣いを戴きました。誠にお悔やみ申し上げます」
「殿下、ありがとうございます。この国の繁栄は陛下のお力なしには実現ならなかったことと強く実感しております。これからの殿下のご活躍を期待しております」
「殿下……」
参加者は挨拶に回る俺に対し様々な言葉を投げかけた。
父の死を嘆き涙する者、感謝の気持ちを述べる者、今後の東国を心配する者など、様々であったが、皆が口を揃えたのは、父はどのような相手であっても優しく、心遣いを忘れず、国民を大切に想っていたということだ。
俺の中の父は、厳格で、何処と無く、近寄り難い雰囲気のある人物だった。
思えば、今まで父とはあまり深く関わってこなかったかもしれない。こうして話を聞きに回っていると、自分の知らない父親の姿がたくさんあるようだと、何だか不思議な気持ちになった。
一通り挨拶回りを済ませ、場に少し落ち着きが見え出した頃、俺は少しの間、会場を離れることにした。
そう遠くない場所に中庭がある。
俺は昔から、中庭が好きだった。疲れたとき、悲しいとき、眠れないときなどはよくそこを訪れた。
中庭はいつでも穏やかだ。
木々の間から暖かい陽の光が射し込み、全体が淡い緑色に照らされた空間。水のせせらぎは心を和ませ、小鳥のさえずりやリスの動き回る気配は心を躍らせる。
俺の特等席は水の湧き出るところのすぐ隣に置かれたベンチ。陽の暖かさに誘われて眠ってしまうこともしばしばだった。
俺は中庭に着くと、ベンチに腰掛け、頬杖をつきながら目を瞑った。
春が近づき暖かくなり始めた風が優しく頬を撫で、俺の黒い前髪を揺らした。
今日一日の忙しさに心が殺されていたが、こうして一人になると一気に現実が襲ってくる。今になって父の死が頭の中をかき乱した。
父の死は、受け入れるにはあまりにも突然すぎた。
昨日、垣間見た父の姿を思い浮かべる。
何も異変なんてなかった。病に苦しむ姿など今まで見たことも聞いたこともないというのに。
暫く、空間に身を預けていた。混乱した頭の中を落ち着かせるために。
すると、ふと遠くから、人の話し声が聴こえてきた。誰かが中庭に入ってきたようだ。
黙ってここに抜けてきたことが他人に知られると、何となくまずいのではないかと思い、咄嗟にそばの石像の陰に隠れた。
声の主は二名の男だった。声が近づいてくる。
悟られないようにその場で息を殺した。あまり長居されたら戻れなくなると思うと、少し焦る。
早く彼らがこの場を去ってくれるようにと願った。
「いいベンチじゃないか」
「葬儀で疲れたし、ちょっと休んでいこう」
彼らがベンチに座ったのが、気配で分かった。
ベンチに残った自分の温もりが彼らに気付かれやしないかと、緊張が走る。しかし、喪服が厚手でできていたためか、彼らは何の気も留めない様子で会話を続けた。
俺はベンチからそう離れていないこの場所に、こうして身を隠したことを心底後悔した。こうなっては、今さら、平然を装って出て行くのも気まずいものがある。
会場へ戻る機会を窺いながら、彼らの会話を意図せず盗み聞きしてしまったこの事態は、彼らにとっても、俺にとっても、蓮にとっても不益なこと以外の何物でもなかったということを、俺は後に知ることとなる。