2話
何も映らないはずの鏡が、神様の姿を映し出した、その翌日である。
傍目にも一目でわかるほどの緊張感をその身にまとわせながら、イーラはその日の儀式に取りかかった。
本当なら、もっと早くに。その日のうちにもう一度、鏡に魔力を込めたかったのだけれど。残念なことに、この困った鏡が巫女の魔力を受け付けてくれるのは、一日に一度きりなのだ。
その為イーラは、その日はずっと一日、上の空。あれは本当に神様だったのだろうかと、頭の中でぐるぐると。答えの出ない問いを、見えない誰かに向かって投げかけ続けていたのだった。
件のお茶会には、参加した。参加したけれど、内容はよく覚えていない。
侯爵家ご令嬢が、いまいち反応のないイーラに苛ついていたり。呆けた様子のイーラを心配して、辺境伯家のカレン様があれこれと気を使ってくださったり。そのやけに親密な様子を見たお茶会主催者が、二人の仲の良さに気がついてしまったり。おかげで彼女の機嫌が、高高度からの自由落下ばりに急激に悪くなっていったり。善良な第三者の参加者達が、生まれたての子鹿のようにカタカタ震える羽目になったり。最終的に、侯爵家と辺境伯家のご令嬢二人が、互いに白い手袋を投げつけ合いそうになったりしたりしたのだけれど。
でも、イーラはよく覚えていない。それどころではなかったので。知らないということは幸せなことだ。けどこの場合はおそらく、後から色々と大変な思いをしそうなのもイーラである。覚悟するように。
まあそういうわけで、どうにかこうにかその日は過ぎていったのだ。
そしてその翌日、イーラの行動は迅速だった。
朝日が昇る前に目を覚まして。いやむしろ、眠れぬ夜を過ごした結果、ほぼ徹夜の状態で。目をギンギンと血走らせて。ちょっと人様にはお見せしかねる、なにであれな形相をして。そして日が昇るのと同時、イーラは鏡に魔力を込めた。
ダイヤルは、昨日からいじってない。昨日のあれが夢でも幻でも、妖精の悪戯でも無い限りもう一度、神様の元へと繋がるはずである。もしかすると、妖精の悪戯の結果、繋がったという可能性もなくはないのだが。あいつらは、人の予想の斜め下を行く。
何もかも一切、見逃すことのないように。その決意とともに、物理的に穴が開きそうなほどの目力を込めてイーラが見つめる中、鏡の面に変化が起きた。
ゆっくりと、波打つように漆黒が揺れる。中心から同心円を描くようにして広がっていったその波は、やがて不規則に流れを変えて。変化した波と波が繋がって、一つの絵を描き出して。そしてその絵が人の顔であると、イーラに気付かせた時。ついに、鏡は像を結ぶ。一人の男の姿を、映し出す。
「……また映ったよ」
その男性は、沈痛な表情を浮かべて。親指と人差し指の指先で眉間を摘まんで、絞り出すように。そんな言葉を呟いた。
なんか神様、機嫌が悪い……かも?
「あっ、あのっ! 初めましてっ! 私、イーラ・グーゴルと申しますっ!」
とりあえず、何はともあれ挨拶だ。片足を斜め後ろの内側に引いて、もう片方の足の膝を軽く曲げて、背筋は伸ばしたまま、自己紹介。カーテシーを決めてみる。
声が上ずってしまったけれど、手も足も震えてしまっていたけれど、どうにか大目に見ていただきたい。焦りのあまり、淑女らしかぬ直接的な挨拶になってしまったけれど、これも大目に見て欲しい。だって私、神様と言葉を交わした初めての人間になっちゃったのよ、仕方が無いってものじゃないっ!
喉がカラカラ。心臓はバクバク。頭の中はグールグル。ついでに視界もグールグル。緊張のあまり、目が回ってきた。でもダメ、ここで倒れなんてしちゃったなら、印象は最悪になってしまう。頑張れ、私っ!
「……俺、幽霊から挨拶されちまったよ。誰かにいっても信じてもらえねーだろーなー」
神様が、遠い目をしながら、ハハハと乾いた笑いを上げている。何やら、神様はお疲れの御様子。
神様というこれ以上もない上位の存在に降りかかる悩みなど、いかなるものなのか及びも付かない。そのご心労の具合なんて、自分程度におもんばかることなど出来ないだろう。
でも、とりあえず。先の神様のお言葉の中に、引っかかるものがある。
「あの、失礼ながら。私、まだ生きておりますけれど」
あれかな、我の前には生も死も等しく平等なのだ、とか。そんな感じ?
でも、いくら神様とはいえ、アンデットモンスターと間違われるのは、その。ちょっと、嫌かも。
「つってもなー。この鏡、調べてみたけどやっぱりモニターとかじゃなさそうだし。まあそもそも、こんなアンティークな鏡に機械なんて入ってるわけもないんだけど」
栗栖課長からもらったんだよな、これ。由来とか聞いてみるか。そんなことを呟きながら、頭をガリガリと爪で掻き、途方に暮れたような声と表情の神様。なんだろう、すごく疲れてるように見える。
なんていうのかしら、こう。神様だったら、もっと威厳があって欲しかったというか。別にあの嫌味な公爵閣下みたいに、無駄に偉そうにして欲しいって訳じゃあないんだけど。
そもそもこの神様、若すぎるのよね。私と同じか、下手をするともっと若く見える。
何となく、神様といえば白髪で白いヒゲのお爺さん、そんなイメージだったのだけれど。けれどこの方、黒い髪と瞳で、ヒゲはなし。いえ、よく見るとうっすらと無精ヒゲが生えてるわね。まだ朝早い時間だから仕方が無いのかもしれないけれど。って、神様もヒゲって剃るの? 歯磨きするんだから、ヒゲぐらい剃ってもおかしくないか。
「それに、鏡に映る女の顔なんて、幽霊だって相場が決まってるだろ」
「だから、生きてますってば。ゴーストなんかと一緒にしないでください」
神様が、あんまりにもそれっぽくないものだから。ついつい、言い返してしまったじゃない。
なんていうか、こう。一言だけ、いいですか。私の緊張とかドキドキとか、憧れとかそういうの、返せと文句を言ってやりたい気分なんですけど。
「幽霊じゃないとしたら、後は何だよ。超常現象的な……超能力とか、魔法とか?」
「あっ、それです。魔法ですよ、魔法。超能力ってのが何かはわかりませんけど。妖精が、魔法で神様の姿を映す鏡を作ったんです。それで、その鏡を使う巫女が、私です」
「この科学の時代に、魔法を使ったストーカー? 妖精が? 何で俺のこと? ……訳わかんね。幽霊の方がまだ信じられる」
神様、ますますしかめっ面。
この鏡の存在を、神様はご存じなかったのね。妖精が、内緒で勝手に作ったものだったんだわ。本当に妖精って奴は、色々と厄介事を引き起こすのね。人間の生みの親とはいえ、素直に敬えないのも仕方が無いってものよね。
「あのっ! ご迷惑でしたら、今後はこの鏡を使わないようにいたしますが……」
一族の使命を、投げ出す形になるけれど。でも、神様ご自身が嫌がっておられるのなら、これ以上この鏡を使うわけにはいかない。
どうせ今までずっと繋がってこなかったのだから、いっそ国には報告しない方がいいのかも。詳しい所はお父様と相談だけれど、対外的には何も変わったりしないはず。あっ、でも。それで巫女姫のお手当をいただくのは、流石にちょっと心苦しいかも。どうしようかしら。
イーラの言葉に、神様は少し思案顔。また頭をガリガリ掻き出して、眉間に皺を寄せて、うんうんと頭を悩ませている様子。
そのまま、しばし。無言のままに時間が過ぎて。やがて決意をしたように、神様が曰く。
「いや、このまま無かったことにするのも、すっきりしなくて嫌だ。詳しい事情とか、鏡のこととか、聞かせてもらえるんなら知りたい。不思議と、あんま怖いって感じもしないしな、あんた」
あと、すごい美人だから、これっきりってのも少しもったいない。ぼそりと呟く神様は、現在の所、彼女なし。男の悲しい性である、これは見逃してあげようじゃないか。日本には、幽霊と所帯を持った男の話とかもあることだし。結構、日本人はこういうのに寛容なのです。
幸いにもその呟きはイーラの耳に届くことはなく、彼女は神様に拒絶されなかったことにほっと安堵の息をつく。
「ただ、二つだけいいか?」
と、そこに。少し真剣な響きの神様の声。
ゴクリとつばを飲み込んで身を固め、神託に備えるイーラ。
「まず、読み方が違う。さっきから俺のこと神様って呼んでるけど。カミじゃなくて、ジンだよ。俺の名前は、じん・ゆうせい、だ。何で俺なんかなのか知らないけど、ストーキングしてるんなら名前くらい正しく覚えとけよ」
神勇生。勇気を持って正しく生きる、神のごとく。そんな名を持つ彼である。この奇妙で不可思議な状況からも、逃げ出したりはせず、一歩を踏み込んでみる気になったらしい。
それと、もう一つ。
「あと今度から、鏡に映るのは夜にしてくれ。何で朝なんだよ、時間ないって。あーもう、いつの間にかこんな時間だ、会社行かねーとっ!」
幽霊だったら、日が沈んでから出てこいよ-。そんな叫びを上げながら、わたわたと身支度を調える神様、改め神青年。現在彼女募集中。
けれどいくら慌てているとはいえ、仮にも女性が見ているというのだぞ。配慮もなく、いきなり服を着替え出すのはいかがなものか、青年よ。そんなだから、名前の後ろから彼女募集中の文字が外れないのだぞ。
顔を洗って歯を磨き、ゼリータイプの朝食でもって五秒でエネルギーチャージ。軽く髪の毛にブラシを入れて、スーツの上着を羽織って、準備完了いざ出陣。
と、その前に。座卓の上に置いてある、この部屋には不釣り合いに立派な古めかしい卓上鏡。どうしたものかと数秒悩んだ後、それをそっと倒して、鏡の面を机に伏せた。
少し迷ったけれど躊躇いがちに、鏡へ向けて言ってきますと声をかけて。そして彼は、戦いの場へと赴いていった。
一方、イーラである。
神様と首尾よく話は出来たし、とりあえずは今後も鏡を使って良いようだし。最後はバタバタとした終わり方だったけど、彼女としては十分に手応えのある対話であったように思う。
けれど。そんなことなど、吹き飛んだ。すごい勢いで空の彼方へと、飛んでいってしまった。
だって、それも仕方が無いでは無いか。
「……男の人の裸、見ちゃった。初めて、見ちゃった……」
ちょっと最後の光景が、衝撃的に過ぎたのだから。貞淑な淑女たる身には、刺激が強すぎてしまったのだから。
不審に思った侍女がそっと扉を開けて部屋の中を確認するまで、しばらく。イーラはその態勢のまま、ずっと立ち尽くしていたのだった。
頬も耳も、首から上の全てを真っ赤っかに染めたままで。




