1話
巫女姫イーラは、今日も鏡を覗きこむ。
昨日も覗いた。一昨日も覗いた。その前の日も、前の前の日も。巫女の立場になったその日から、毎日毎日、変わることなく。多分、明日から先もずっと、同じだろう。
それって、別に普通のことなのでは? 身だしなみを整えたり何なり、毎日するのが当たり前なのでは?
イーラだって、年頃の女性なのだから。姫と呼ばれるほどの、貴き立場にいるのだから。侍女にお世話をされるのとは別に、自分で鏡くらいは覗いたりするでしょ?
きっと、そう思う人もいることだろう。でも、その鏡とこの鏡とでは、覗く意味と目的が全く異なるのだ。
確かに、イーラの輝くような白銀の髪や、高い山の上に降る雪のように真っ白な肌を美しく保つため、あれやこれやと頑張ってはいる。遠い祖先に妖精族の者がいたという美貌をより美しくみせるため、侍女もイーラ自身も一生懸命に努力をしている。でも、それとこれとは違うことなのだ。
それはそうと、その必死の努力に関しては、触れないようにするのがマナーです。男性諸君、気をつけたまえ。
では、この鏡を覗きこむ理由とは何か。それは、これがイーラのお仕事だから。妖精の血を引いている者にしか扱うことの出来ないこの特別な鏡を通じて、神の声を聴くこと。それが、巫女姫としての大切なお勤めなのだ。
世界の始まりにおいて、神は妖精を創り出した。それを真似て、妖精は人を作り出した。そう、伝えられている。そしてこの鏡は、妖精から人へと贈られた品。神のおわす箱庭と人の世界とを繋ぐ、神器なのである。
その名も、妖精の鏡。まんまである。少しは捻れと、制作した妖精に伝えたい。イーラはこっそりそう思っている。
妖精は、自らが生み出した存在である人間のことを愛しているようだ。まあ、彼らなりにではあるのだが。その為、どうしようもなく困ったことがあったなら、この鏡を通じて神様にお願いしてみなと。そういって、この王国の初代国王にこの鏡を授けたそうだ。
ところで、ここで思い出して欲しい。妖精とは、どういう存在であるのかを。そう、彼らは悪戯好きなのだ。人の困った顔を見るのが、とてもとても大好きなのだ。それが故に、必然というべきか。この妖精の鏡もまた、一筋縄ではいかない代物だったのである。
この鏡、大型のいわゆる鏡台なのだが。妖精の血を引く者が魔力を注いだ上で、下部に付いているつまみを回して正しい座標に合わせると、神の箱庭へと繋がる。取り扱い説明書には、そう書いてある。
ここで問題なのが、そのつまみには0から9までのメモリが振ってあること。そして何より、そのつまみがずらりと100個も並んでいること。組み合わせ総数、実に10の100乗。
ちなみにこの数字は、現実世界において観測可能な範囲の宇宙に存在している原子の数よりも、更に多い数だという。
尚、挑戦出来るのは一日に一回だけである。一度使うと、また朝日が昇らない限り魔力を受け付けなくなる鬼畜仕様なのだ。
建国王は思った。これ、嫌がらせでしょ。って。
そして早々に鏡に見切りをつけると、面倒事は適当な部下に全て丸投げ……げふんげふん。若手の中でも特に優秀だった者に、恩賞としてこの鏡を下賜したのだ。何代か前において妖精族の血が入っているというのも、押しつけるのに都合が良かっ……鏡の所有者として相応しい経歴であったので。
これがイーラの家、グーゴル伯爵家の興りとなる。
頑張って神様の声を聞いてね。建国王より、そんなありがたいお言葉を賜った初代の伯爵は、それを一族の使命だと定めた。面倒だけど、とりあえず形だけでもやっとかないとまずいしね。
そういう訳で、一族の中で最も美しい、うら若き乙女が巫女姫として選ばれて、一日一回のダイヤルチャレンジが始められることになったのだ。以降、それが今日まで続いているのである。残念といおうか、当然といおうか。この鏡が何かを映し出したことなど、これまで一度たりとて無いのであるが。
巫女姫という立場も、当初とは随分と変化した。かつては、俗世と縁を切りその役割に生涯を捧げるという、行き過ぎた使命感を持つ者だっていないわけではなかったのだが。今となっては5年かぜいぜい10年で引退して、次代に役割を引き継ぐのが常である。婚期が遅れちゃうからね。仕方ないね。
イーラも弱冠8歳で巫女姫となり、それから10年が経過した。今年で、18歳になるわけだ。結婚適齢期の真っ盛りである。
そろそろ彼女も、巫女姫からは引退か。次に襲名するのは分家のあの子か、それともあの子か。一族の中ではそんな話題が場を賑わすことも多いけど、イーラ自身はどうしたものかと思ってる。
別に、巫女姫をやっているからといって、世間との交流が制限されるということもないのだ。巫女という名称だけれど、神殿の奥まった場所に住んで生涯そこから出られない、なんてことはないのだ。そもそも、鏡は自室においてあるのだし。かつてはそれ専用の建物があったのだけれど、いちいち移動するのが面倒だという先々代の英断により、今のやり方に変わった。
貴族としての交流にも、別に支障はない。社交界だって、とっくのとうにデビュー済み。サロンでお茶を供にする仲の良い友人だっている。その辺り、普通の貴族と何ら差は無い。
だったら、別にこのままずっと続けても構わないんじゃないの。そんな風にも思うのだ。
婚約者が決まるまえに巫女姫になったから、誰かが待っているわけでもないし。別に、好きな人とかいるわけでもないし。素敵な出会いが自分を待っているなんて、子供じみた夢も持ってないし。お役目を終えた後に、良く知らない家にお嫁に行かされるくらいなら、この鏡と結婚しちゃってもいいんじゃないの。
それに、人生の半分をこの鏡と過ごしてきたのだ。生産性は全くないとはいえ、それなりに愛着もある。可愛い妹分達の誰かの婚期が遅れることもない。あと、この仕事をしていると、国からお手当がもらえる。これは大きい。伯爵家の財産ではない、個人で自由に使える金銭というものは、中々に貴重なのです。
だからまあ、何事もなければしばらくは。いっそこのまま、ずっと一生。巫女姫、やっていこうかな。それも悪くないと思っているイーラである。
そういう訳で、今日もイーラは鏡を覗く。手元のダイヤルを当てずっぽうにカチカチ回して、覗きこむ。
何処にも繋がることのない、自分の顔さえ映していない、ただの鏡としての役割すらも果たしていない、その漆黒の鏡面の向こう側を見通そうとする。
注入していた魔力が減っていく。それがなくなれば、今日のお勤めはこれでおしまい。
本気で込めればもっと長い時間、半日だって繋いでいられるけど。でも、この座標では繋がらない、それが判明するのに5分もあれば十分なのだ。10年の間ずっと同じ事を続けていれば、要領だって良くなるというもの。
鏡だって、見ているようで実はろくに見ていない。じっと見続けていたところで、疲れるだけだし。顔と視線は鏡に向けたまま、頭の中ではあれこれと、別のことを考えているのがいつものこと。
朝起きて身支度を調えたら、お勤めをしながら今日一日の予定を確認する。それがイーラの日課なのだ。
今日は午後から、侯爵家のご令嬢が主催するお茶会があるのだけれど。……正直、気が重いわ。
クレイ辺境伯家のカレン様が、今後は王都に住まわれるそう。地元でやられていた事業を、王都でもなされることになったとか。それで挨拶がてら、今日のお茶会に顔を出されることになっているのよね。でも、今日の主催者のあの方、カレン様をライバル視してるからなあ。親戚筋だし年も近いし、色々と比較されてるんでしょうね。カレン様が優秀な方の分、お気の毒とは思うけど。
実は私、カレン様とは仲が良いのよね。あちらが、二つ年上のお姉さん。子供の頃はよく一緒に遊んだものだわ。ご自分の領地でお仕事をなされるようになってからは、中々お会い出来ないでいたけど。
昨日も、再会を祝してうちで一緒にお茶したのよね。これは秘密にしておかないと。バレたら、これから八つ当たりの対象にされること請け合いだわ。
あーもう、面倒だわー。
でもまあ、爵位が上の方々と仲良くしておくことも大切よね。コネは作っておかないと。女性の間での繋がりは、ある意味において男性のものよりも恐ろしいのだから。次期当主となる予定の弟のためにも、お姉ちゃん頑張るからね。
つらつらと、そんなことを考えているうちに。鏡に込めていた魔力が、空になろうとしているようだ。黒い鏡にうっすらと映っていた顔も、だんだんとぼやけて薄れていく。
さてとそれじゃあ、今日も頑張りましょうか。胸のまえで拳を作って、よしっと気合いを一つ。新しい一日に思いを馳せて席を立ち、鏡に背を向けたところで。
……あれ?
今、何か映って……なかった?
大慌てで今一度、妖精の鏡へと体を向ける。黒い鏡の奥の奥、そこへとじいっと目をこらしてみれば。
そこには、今にも消えようとしている儚いものだけれど、確かに男性らしき姿がうっすらと。
嘘っ! 映ってるっ! ほんとに映ってるっ!!
はしたなくも、思わず大きな声を上げてしまった。巫女姫のお勤めの最中は一人きりになるのが慣例なので、それを聞いた者がいないのは幸いだった。もし、部屋の前で待機しているであろう、イーラ付きの侍女にして乳姉妹のアンナに聞かれていたならば、後が怖いところだった。
って、今はそれどころじゃないっ!
えっと、どうしよう。今から魔力の追加は出来ないから、せめてダイヤル回して、もっとはっきりと映らないか試してみる?
とりあえず、最初のダイヤルを一つずらして……って、ダメっ! 完全に消えちゃったっ! 戻してっ! 戻してっ!! あ、よかった、まだ映ってる。ギリギリセーフ。
じゃあ、こっちのダイヤルならどう? 少し、写りが良くなった……ような? この男性が神様? 口の中に入れた棒を、小刻みに動かしているけど、なにをなされて……って、もしかして歯磨き? 神様も、歯を磨くのね。
あ、神様の手が止まった。目を細めるようにして、怪訝そうな顔をなされて、じっとこちらを見ておられる。私に気付いてくださった?
もっとはっきり見えるようにならないのかしら。えっと、さっきはこれで映ったから、じゃあこうして……消えたじゃないっ! もう、どうなってるのよ、これっ! ……叩いたら良くなるかしら? えいっ。
あ、映った。はっきりと、神様と目が合った。
神様はとても驚かれたように、目をまん丸に見開いて。そして、動きの止まった歯ブラシの脇から、ダラーッと涎のような白い液体が。神様におかれましては、はしたのうございますわよ。
「……えっ、なにこれ? これって、モニターになってんの?」
半ば錯乱しているイーラとは対照的に、静かに。それでもとても驚いているらしき、鏡の向こう側の男性の姿。そして彼が、ぼそりとそんな呟きをもらした、その時。残されていた僅かな魔力がついに尽き、鏡は元通りの何も映さぬ、漆黒の闇へと姿を変えた。
その場に残されたのは、呆然としたイーラのみ。
そのまましばし。イーラが固まったまま、時間が経って。
そしてぼそりと、彼女の口から言葉が漏れた。
「そういえば……」
どこか、途方に暮れたような。そんな口調でもって紡がれる、巫女姫イーラの言葉といえば。
「……神様と繋がった時って、何処に報告すればいいのかしら?」
王国に妖精の鏡がもたらされ、初代の巫女姫がそのお役目についてより、幾星霜。その間、鏡は何も映さないことこそが当たり前であって。
いざ映った時にどうすればよいか。そもそも、神との対話が実現した際に何を話すべきなのか。そういった決め事は時の彼方に風化して、忘れ去られていたのであった。




