夜のリビングルーム
みしり、という音が私の鼓膜を震わせた。ふとそちらの方を見てみると、誰もいない。ただそこには、薄暗い光に照らされてできた私の影だけがあった。
「…………」
緊張感と静寂が同時に私に襲いかかる。そこには、誰もいない。
思わず髪に触れると、するする、という音がして、よりいっそうの沈黙が場を支配していく。そんな傍らで、ふと、どうしてこんなに髪を伸ばしていたのだったかな、となんとなく思いを馳せた。
あれはいつの頃だったか、思い出せないが、ともかく夏のことだったような気がする。短い髪の毛が汗ばんだ私の頬にペッタリと張り付いているのを見た孝文が、
「……かつらとか、被ってみる気ない?」
と言ってきたのだ。不安そうな面持ちで彼の顔を凝視すると、
「いや、ハゲとかじゃなくて、髪長いの、見てみたい」
「……せめてウィッグっていいなさいよ。デリカシーのない」
思わず食って掛かってしまうのも、いつもの二人の関係だった。そして、いつもいつも孝文が笑って私を許してくれるのだ。謝らなくとも、いつも。いつも。
「悪い悪い。」
「……髪、長い方が好きなの?」
そんな会話を数十年前にしたのだった。あの当時ぬば玉のように黒く、艶やかだった私の身の毛は、今ではコンクリートのような灰色だ。もしかしたら、髪を伸ばしすぎると髪が痛むのかもしれないなぁ。と思いながらも、なんとなく髪を短くする気にはならなかった。それに、最近少し薄くなってきた気もするし、余計に髪は切りたくない。髪は、長い方が好きだったから。
「ねぇ、髪は長い方が好きなのよね?」
なんとなく、みしりという音がした方に声をかけた。
夜のリビングは、一人ではないような気がする。
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