残り香
「……雪?」
先に気付いたのは木原だった。
「雪?」
菱川が遅れて顔を上げる。既にクリスマスカラー一色に染め上げられた街、イルミネーションに明々と照らし出されたそこへ目を凝らせば、小さな小さな欠片がひらひらと落ちてきていた。真冬の装いに身を固めた男女が手をつなぎ、通りをゆっくりと歩いていく。向かいからやってくる男は黒い毛糸の手袋に雪を受け、それを覗き込む女は取ってつけたような黄色い声ではしゃいでいた。絵に描いたような幸福。絵に描いたようなカップル。ふと、女に生まれれば、と木原は思った。女に生まれていれば、僕らはああして雪を覗き込んで、意味もなくはしゃいで笑いあっただろうか。いや、勿論意味がないわけじゃない。あれは確かにひとつの、紛れもなくひとつの典型的な幸せなんだ。幸せだからあのカップルは笑っている。でも僕らは……。
「お、本当だ」
菱川はのんびりと言った。携帯を持っていた手をそのままポケットへ突っ込み、少し猫背気味に。チョコレート色のマフラーを巻き、同じ色の手袋をしている。ほんの少し距離を置いて歩くその姿はイルミネーションに照らし出され、いくつもの影になって木原の前に伸びていた。木原はそれを踏んで歩こうと試みた。菱川が進む度に影は流れ、木原の足を掠めるようにして去った。
「こんな時期にも降るんだなあ」
「ね。珍しいね」
過ぎ去る影を睨みつけたまま、木原は努めて明るい声を出した。菱川は何も言わなかった。人通りの多いせいで耳の痛くなるような静けさにはならない。その分、人一人分の空白が隣を歩いているような、そんな感覚が木原をより一層緊張させる。緩やかな下り坂を、二人はゆっくりと並んで歩いた。このまま行けばそう長くかからずに駅に着く。そうすればそのまま帰ることになるだろう。歪みそうな口元を隠すために、持ち上げた手に息を吐きかけた。ダウンは喉の半ばまでしか守ってくれない。吐息を受けた鼻先が余計に凍えて痺れそうだった。
「寒い?」
「ん?」
「俺の手袋貸そうか?」
「ああ、いや、うん。別に。大丈夫」
菱川の角張った手が脳裏に浮かんで、慌てて追い払う。
「いいの?」
「うん。本当に大丈夫」
「ん」
会話が完結してしまった後で、借りれば良かったかな、と木原はどこかで思った。その感覚はすぐに、重たい後悔になって胃の底に降り積もる。
「よくダウンだけで平気だな」
「でも喉までは守られてるから」
「あー。確かに」
菱川の視線がダウンの淵をなぞる気配がして、木原は少しだけ身を固くした。いくらもしないうちに視線は木原の喉元を離れ、ポケットに突っ込んだ左手に降りていく。
「でも手は寒いじゃん」
「ああ、まあ。でもポッケに入れとけばさ。そんなに寒くないよ」
「マジか。俺なんか手袋してポケット入れてまだ寒いのに」
「それは寒がりすぎでしょ」
「そうかな」
「そうだよ」
他愛ない会話が途切れると、木原はまた濃霧のような不安が内側を満たしていくのを感じた。眩しいくらいのイルミネーションがその暗さを際立たせる。相変わらず足元をすり抜ける菱川の影は悲しいくらい淡かった。いつ終わるか分からないこの距離を、もうできないかもしれないこの距離での歩みを、僕は無駄にしたんだろうか。
でも、と木原は顔を上げる。視界の端に、菱川の黒いスニーカーが現れては消える。でも。嫌われるくらいなら、この距離でいい。これ以上近づけなくても、またこうして歩けるならそれで……。
……また?
ふと、木原は歩みを止めた。
「……っ」
また、なんてものが、本当にあるのか?
もし、菱川が僕の事を嫌っていたなら。もうこんな日は来ない。もうこんな距離はやってこない。二度と会ってさえくれないかもしれない。姿も見なくなり、連絡も取れなくなり、菱川という存在は僕のもとから綺麗さっぱり失われる。一人分の空白。或いはそれ以上にもっと、もっと痛くて苦しいもの。
――男のこと好きなんてありえないでしょ。気色悪い。
見たこともない表情で、聞いたこともない台詞を吐き捨てるように言う菱川の姿が浮かんで、木原はぐっと拳を握った。立ち止まってはいけない。気付かれないように、息を殺して、影のようにその隣で。
「駅、もうそろそろだっけ」
雪の落ちてくる速度のようだった。何も知らない、菱川の間延びした声。雪は地面に落ちる寸前でひゅるりと風に舞い、吸い込まれるように消えてしまう。
「……そうだね」
でも。
「あのさ」
「うん?」
嫌われるなら、いっそ嫌われるくらいなら、爪痕のひとつも残してくれないんじゃ、嫌だ。消えないで。消えるならせめて、この心にじくじく疼く傷のひとつくらい、残して。
嫌ってくれていいから、そばにいて。
「もう一軒、行ったりしない?」
搾り出すように、木原は言った。
菱川が次の言葉を紡ぐまでの一瞬が何十倍にも引き伸ばされていた。その沈黙は絶望だった。ただ、その絶望のどこかで、木原は同時に奇妙な落ち着きも感じていた。甘えだ、と木原は判断し、そして自分でそれを滑稽に感じた。ああ、そうだ。菱川は優しい。だから。
「ああ。いいね」
菱川は相も変わらずのんびりと言って、柔らかく微笑んだまま木原を見た。
ああ、ほら。菱川は優しい。
「お酒、それともお茶?」
そう問いかける菱川の、瞳に映る自分自身を木原は一瞬はっきりと捉えた。ありありと怯えを孕ませて引きつったその笑顔の、あまりの惨めさに逃げ出してしまいそうだった。菱川の優しさに甘えている自分がひどく矮小で、卑劣な人間であるように思われる。木原は俯き、その足の下に菱川の影があるのを見て思わず苦笑した。なるほど。影の側が自分から捕まってくれたのか。この不甲斐ない足に。
嬉しいことは、嬉しいけど。
いつまで捕まっていてくれるのだろう。こんな僕に。
「……お酒」
何もかも、飲まずにいられない気分だった。
「分かった。確か駅前に一軒あるから」
「本当?」
「うん。行きに見た覚えがある」
「いいの、付き合わせちゃって」
「うん。ていうか、ぶっちゃけ俺も行きたいと思ってた」
「……そう」
菱川の言葉が、木原には嬉しくてたまらなかった。社交辞令かもしれないと、思わなかったわけではない。これが最後の優しさかもしれないとさえ、一瞬思った。その優しさの全ては、自分の思いを知らないが故のものであることも、痛いほど分かっていた。痛いほど分かっていて、それでもなお、もうしばらくの間そばにいられることを、喜んだ。
「ホットワインとか飲みたいね」
考えなしにぽつりと呟くと、菱川はふっと苦笑いした。
「やっぱりお前寒いんじゃん」
「そりゃあ、多少は寒いよ」
開き直って木原は言う。イルミネーションの終わりが見えてきて、その向こうに少し暗さの増した通りが続いていた。雪はもうほとんど降っていないに等しかった。
「マフラー貸そうか」
「いや、いいって」
「本当に?」
本当に、と言いかけて、木原の喉はきゅっと凍りついた。ついさっき胃に沈んでいた苦い後悔が、体の内側でぐるぐると蠢いていた。
駅前までもう、いくらもない。
「……じゃあ貸して」
「ん」
しゅるりと解かれたチョコレート色のそれが差し出される。受け取った感触は柔らかく、まだはっきりとしたぬくもりを持って木原の手の中にあった。木原はそれを、唇に触れないよう丁寧に、しっかり巻いた。きゅっと、形を整える。
「どう」
どう、というのはどういう意味合いなのか、木原にはもう上手く考えられなかった。
「あったかい」
* * *
木原が間違えてそれを持って帰ってきたのは、半ば意図的なものだった。菱川は何も言わなかった。案外寒さに強いのかもしれないし、単に忘れてしまっていたのかもしれない。それでも、菱川は意識的にマフラーのことを持ち出さなかったのではないかと、木原は思っていた。そう思いたかっただけかもしれなかった。
「ただいま」
玄関に立ったまま、誰もいない部屋に虚しく挨拶をする。ここに菱川がいれば。おかえりのないただいまほど空虚なものはない。ただいまを言う度、木原は菱川のおかえりを思い描いた。それだけを欲していたかといえば、明らかにもっと多くのものを望んでいることは間違いなかった。それが高望みだと分かっているから、木原は進めない。その中途半端な自分が恨めしかった。嫌われてもいいからなんて、思ってはいない。結局は、菱川の優しさを見越して安全圏で動いているに過ぎなかった。本当に嫌われてもいいと思うなら、寒さにかこつけて手をつなぎ、酔いに任せて抱きつき、唇を奪ったって良かった。結局、木原にはそれができなかった。
ゆっくりと、息を吐く。部屋に満ちる、人一人分の欠落。
「……好きなのに」
持って帰ることができたのは、首に巻いたチョコレートの色だけ。
木原は荷物さえ下ろさないまま、両手をマフラーにかけた。唇につかないようにと気を遣っていたそれを、鼻の上まで引き上げる。そこに残るぬくもりの、いくらかの部分は確実に菱川のものだと信じた。鼻から息を吸う。洗剤か柔軟剤とおぼしき花の匂いの、その合間に流れるノイズを木原は探した。嗅ぎ慣れた自分自身の匂いも随分混じっている。ほとんどないに等しいそのノイズを、木原は確かに感じ取った。これは菱川の匂いだと、そう思った。
菱川の巻いていたマフラー。その下の、白くもしっかりとした首筋。主張しすぎない喉仏。産毛の残る項。その全部に、菱川の優しい体の全てにこうして鼻を寄せることができたら、どんなに、どんなによかっただろう。
――おかえり。
「ただいま」
二度目の挨拶はマフラーに吸い込まれて、聞こえない。