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第一章【苦界の女】

※浜木綿の花言葉は『どこか遠くへ』『汚れのない』『私はあなたを信じます』です。

吉原を舞台に小説を書いてみようと思い付き、吉原や江戸の生活に関する書籍を買い漁り、なるべくリアルに吉原の女郎の生活を書くことを目指しました。

女郎の名前を決めるときに、まだ何にも染まっていない白い花であること、遠い世界を夢見る儚いイメージ、意志の強さという意味を持たせたかったので、浜木綿という名前がぴったり当てはまりました。


この作品は、吉原での生活を綴る前編第一部(全四章)と、外の世界で生きる後編第二部(全四章)で進みます。


佐奈の生き様物語を、どうか最後までお付き合い下されば幸いです。




それが彼女の生き方だった―





ひとつ、ふたつなくなってしまえば…あとは何も遺らない。



吉原の女には、何が残るのだろう――



第一章【苦界の女】



壱『遠雷』


雨ばかり続く梅雨もそろそろ終わろうかという時節。江戸・吉原の一角に見世を構える比較的小さなの妓楼の張見世に出ていた浜木綿(はまゆう)は、先程自分を指名した客が通された部屋に向かうべく、ぎしぎしと軋む大階段を上がる。


季節柄湿気でじとりとした空気が廊下にも篭り、いい加減暑苦しく感じ始めた着物にうんざりだと小さな溜息をひとつ零す。慣れているとはいえこれからまた一仕事しなければならないと思うと、進むその足どりは軽くはない。


この遊郭に放り込まれた幼い頃の恐怖や不安、水揚げを迎え初めて男を知らしめられた頃の不快感などは、毎日同じことを繰り返しているうち欠片も感じない無機質無感動なものとなっていたので、今更どうとも思わない。


大階段を上がりきり、薄暗い廊下を進む。途中、脇にある小さな格子窓に目を遣れば、今朝方雨が止み夕方までは曇り空だったのに、昼間よりも一段と曇は暗くなり今夜あたりまた泣き出しそうな空模様となっていた。


もうじき初夏になる。


また雷が増える季節が来るのかと、遠くで小さく鳴る遠雷を耳にひとり心中でごちた。幼子でもあるまいに特段雷が怖いわけではないが、耳障りなのが気に障る。


またひとつ溜息を残して、あまり遅くなって咎めだてられては面倒だと、浜木綿はさっさと歩みを再開した。



弐『もうひとりの姉』


翌朝、大部屋の窓辺に座る浜木綿は、機嫌が悪かった。というのも、夕べは案の定大降りの雨が降り出し屋根を激しく叩き、雷は夜中数刻に渡り続いた。そして昨日相手をした客も、やけにべったりとしつこく絡んできていたので、何時にも増して煩わしかった。


泊まり客ではなかったのが幸いというもので、天気がいかに悪かろうが、時間が来ると渋る男をさっさと送り出して布団に入った。



同じく大部屋で寝起きする娘の大半は夕べは泊まり客だったのだろう、明け方部屋に戻ってきて少し仮眠した後、今は湯屋に出掛け、部屋に残っているのはごく僅かだ。

湯屋に一緒に行こうと誘われたが、今は気乗りしないから昼前に行くと言って断った。


格子窓から覗く外は、夕べよりかは大分小雨になったとはいえ、しとしとと雨が降り続いている。この時期には茶飯事ではあるが、朝からこれではあまり良い気はしない。


今日は一日やまないのかと恨めしげな眼差しを空に送っていると、軽い足音と共にひとりの女が嬉々として大部屋の襖を開け入ってきた。


「お早う、ゆう!」


「伊吹姉さん」


声高に大部屋に降りてきたのは、『伊吹(いぶき)』という自分の姉女郎だった。

彼女は売れっ子とまではいかなくとも、気さくで面倒見が良く馴染み客もそこそこに付く自室持ちの先輩女郎である。


『佐奈』という名を捨て、この妓楼で『浜木綿』として生きなければならなくなったあの日、自分の姉女郎として世話を頼まれた時から、親しみを込めて『ゆう』と呼びよく可愛がってくれた。

浜木綿が禿から新造になった新造出しの折りには、自分の借金が増えるばかりにも拘わらず、身の回りのものをなるだけ高価なものに調え、大夫付きの妹女郎程とはいかずとも、同期の女郎に見劣りしない程豪勢にしてくれたものだ。


普段はあまり笑わない浜木綿だが、姉女郎である伊吹にだけは本当の姉妹のように接していた。

浜木綿には売られた時に引き離された実の姉がひとりいるが、もうひとり姉がいるなら伊吹のような人が良いと思う程、姉女郎として以上に伊吹を家族のように慕っている。



「お早う、伊吹姉さん。今朝もえらい元気やけど、どしたん?」


「湯屋に出ていった娘達に、あんたが臍曲げてるって聞いたんだよ。夕べは床の相手した訳じゃないっていうし、またどうしたのかと思ってさ」


「こうして毎日欠かさず妹を気遣うなんて、姉の鑑だろう」なんて自分で言いながらけらけらと笑っている。そんな伊吹を見ていると、雨だ雷だと苛々している自分が馬鹿らしく思えてくるから不思議なものだ。

口では言わないが、内心姉に感謝し夕べからずっと引き結んでいた口端を漸く緩めた。


「なんでもないげん。ただ夕べの雷やら、ずっと続いてる雨が嫌なだけやし」


「姉さん見てると、もうどうでもよくなったわいね」と可愛い気のないことを言いながら苦笑を漏らせば、そんな言い草には慣れているとさして気にもとめずに微笑みながら伊吹は手を差し出した。


「なんだ、ならよかったよ。

んじゃあ、あたしも今から風呂に行くから、あんたも一緒に行くだろう?」


一応問うてはいるが、拒否など端から受け付ける気などないと、言外に滲ませている。そんな姉の言い草なども、浜木綿には既に解りきっている事だ。

姉の御蔭で機嫌が直った今、別に断る理由もない。浜木綿は姉の白くて小さな手を取り、さっきまで重かった腰を軽々と上げて姉と共に大部屋を出た。




参『遠い夢』


吉原の湯屋は何軒かあるが、入込湯といえど此処は吉原。しかもこんな昼見世前の時間とくれば客は女郎しかいない。


伊吹と浜木綿が見世から近い馴染みの湯屋の暖簾を潜ったのは、いつもより少し遅かった。

その為、大半の女郎は既に妓楼に帰ろうという頃合いで、同じ見世の娘達も入れ違いに先に妓楼に戻っていった。



脱衣所で着物を脱ぎ洗い場に行けば、他の見世の娘が数人いる程度で、いつもは混み合って入るのに、随分と楽だった。

これなら今度から業と時間をずらしてこの時間に二人で来るか、と笑いあった。



吉原の朝の湯屋で女郎がする話といえば、毎度毎度代わり映えしないし想像に難くない。

無粋な客が決まりを破りあちこちに跡をつけやがっただの、あそこの女郎が間夫(まぶ)を作っただの、馴染み客が余所の見世に浮気して折檻されただの。

女郎は態態声を抑えたりしないから、聞き耳を立てずとも聞きたくない事まで聞こえてくるものだ。


そんな会話を聞き流しながら、二人は暢気に互いの小さな背中を流しあった




湯屋から妓楼へと戻り、飯と化粧、髪結いを済ませれば、あっという間に昼見世の時分になった。


伊吹は今日は昼の座敷はないらしく、暇潰しに外に出ようと誘われたので浜木綿も付き合う事にした。


今日一日中続くと思われていた雨は八ツ時(14時頃)には上がり、二人で何を見るでもなく通りをぶらつく。

この時間は何処の見世の女郎も自由に過ごしている為、仲之町の通りは漸く訪れた晴れ間を満喫する娘達で賑わっている。



談笑しながら歩いていると、伊吹が何か見付けたようで「あ」と声をあげたと思ったら小走りで駆けて行った。


茶屋の近くの脇で脚を止めた伊吹に浜木綿が追いついてみれば、売卜者に手相を見て貰うと張り切っていた。

吉原で女郎相手に手相なんて馬鹿らしいと浜木綿は思っているが、女郎とてただの女。占い好きな娘も結構いる為商売になるらしく、こうして時々本物だか偽物だか判らない何人かの売卜者が来る。


浜木綿はぼんやりと占いをしている伊吹を眺めていると、ひとしきり占って貰い満足した伊吹が「たまにはゆうも見て貰いなよ」と言ってきた。


「あたしはいいよ。信じてないし。

姉さんはしょっちゅうやっとるけど、金まで払って何が面白いがん?」


「当たるも八卦、当たらぬも八卦って言うだろ。気の持ちようさ。たまに当たれば面白いよ」


「勿体ない…そんなのに金使うくらいなら、甘味に使うし」


「あんたはいつもそうだねぇ。ま、ゆうらしいけどさ」


そう言って笑った伊吹に、浜木綿が興味本位で占いの結果を聞いてみると、「人気運」と「金運」がよかったと上機嫌だった。



この吉原にいる女郎には江戸の町娘のような「恋愛運」なんて欠片も必要ない。

「健康運」や「寿命」だって、吉原を出る可能性よりもどうせ年季明けまでに死ぬ可能性のほうが遥かに高い女郎にとっては何の意味もない。

それよりも見世で格を上げる可能性や、昔から憧れている道中を踏むような花魁になれるような運があった方がまだ夢があるし嬉しいものだ。


端から冗談で「恋愛運はどうやったん?」と伊吹に問えば、


「恋なんて甘ったるいもん此処〈吉原〉に放り込まれた時から捨ててるさ。間夫なんて作るもんじゃない。

どうせ叶わない夢を見るなら、金持ちの旦那に身請けされるか、見世一番の花魁になって道中踏んで、散々腹稼いだ金で借金返して自力で出てやるんだ。そしたらゆうも金持ちの旦那に頼んで出してやるよ」


と、偉い自慢気に返ってきたので相変わらずな姉に呆れながらも、こんなやり取りも楽しいもんだと浜木綿にも笑みが零れる。


「それだって随分とまた遠い夢やがいね。大体そんな売れっ子になっちまったら、どうせうちのけちな遣手婆ならそんな金づる易々と手放してくれんよ」


「あはは、全くだよ」


「まぁ期待しんとその時が来るの、気長に愉しみしとるわ姉さん」



二人並んで妓楼へと帰る道すがら、「どうだい上手くなったもんだろう。ゆうも何時道中踏めるようになるかわかんないんだから、あたしが教えた通り練習しとくんだよ」と、得意気に外八文字を踏む真似を披露する伊吹の傍らで「こけんといてよ、姉さん」とからかいながら、賑やかな初夏の通りを笑って歩いた。




肆『占める空虚』


そうして梅雨も過ぎていき夏の暑さにも大分慣れ、暑いだ何だと一々文句を言うのも馬鹿らしくなってきた夏も半ばの暮六つ刻。


いつも通り張見世に上がっていた浜木綿は、冷やかしやら物色している男達の視線を受け流しながら煙管を吹かす。

色男や金持ちそうな男を見つけては艶を帯びた猫撫で声を彼等にかける他の娘達の中で、浜木綿は客を取り始めてからずっと変わらずこうしてきた。

どれだけ頑張って客を取ったとしても、考えるのも馬鹿らしい程自分に課せられた借金は返せるわけもない。

十年働いて年季が明ければ自由になれるが、大半の女郎は病や過労でそれまでに呆気なく死んじまう。かといってこんなこじんまりした中堅の妓楼でも、不器用な自分では人気の女郎にはなれぬし武家やら商家の娘の出でもないから花魁にもなれるわけもない。第一、自分は無駄に着飾ったり白粉をはたくのは嫌いだ。


どうせ金を積まれれば遣り手婆は喜んで座敷に揚げる。女郎は客を選べやしないのだ。だったらどうとでもすればいい。

浜木綿は自分に関わる事ですら何処か他人事のように無関心で、姉や伊吹の事以外は何時も冷めていた。



虚にくわえていた煙管の煙草も、残り僅かになっていたのだろう。煙りの出も悪くなってきたから、もう暫く吸うのであればまた新しく煙草を詰めねばならない。

だがそれも面倒だと思っていると、いつの間にか自分を指名した客がいたらしく、奥から遣り手婆が顔を出し浜木綿に部屋へ行くよう告げた。


最後の煙りを吐き出すと煙管盆に灰を落とし、重い着物の裾を引きずり大階段へと足を向けた。


客が居る部屋の襖を開けると、浜木綿は顔をしかめた。

手狭な部屋の中央で、早速手酌で酒を煽りながらこちらを舐め回すように見て手招きをする今夜の客は、浜木綿の贔屓客の中で一番嫌いな男だった。


「浜木綿、待っていたぞ。早くこっちに来て酌をしろ。仕事が忙しくて暫く来れなかったから、寂しかったか?」


(まさか。テメェの相手するくらいなら、爺連中や餓鬼と寝た方がまだましだ)


浜木綿が座敷で大して愛想を振り撒かないのは、何時ものこと。

特にこの客の前では、機嫌取りをしたことすら一度もない。浜木綿はこの男が初めから好かなかった。


客に好きも嫌いもないが、笑い方やねとりとした視線に触り方、果ては床が憐れに思う程下手だときている。

誰に手ほどきを受けたのか、歳は既に男の盛りをとうに過ぎているのに、未だに独り身であるのも頷ける。



端から気持ち良く飲ませてやる気もないが、この男とてそれを知っていて毎度浜木綿を指名してくるのだから、構う必要もない。

適当に飲ませてさっさとやる事を済ませ、今日こそは早く寝てくれないかと無駄に願いながら、渋々襖を閉めた。


男・日高屋は半年程前から浜木綿の下に通い始めた客だ。

聞いてもいないのにべらべらと自分の事を喋るのは何処の男も同じで、日高屋もそうだった。

客の、ましてやこの男の財布事情なんざ心底どうでもいいが、勝手に聞かせてきた話によると実家は江戸でこじんまりと商家を営んでいたが、自分が継いでからは手法を変え京・大阪に古着を買い付けに行きながらうまく儲けたらしい。

所謂成金野郎。だから羽振りを利かせて吉原遊びを始めたんだと。


目をつけられたこちらとしては、幾ら金を出してくれても傍迷惑な話だ。いっそ西に移り住んで島原通いにでも鞍替えしてくれりゃあいいのに。


「誰の前でも器用に啼く女より、お前みたいな無愛想な幼子の方がずっと面白い。お前を最初に啼かせるのは俺だからな」


元々酒もそこまで強い男ではないから、半刻程飲ませれば出来上がってきた。

そうなれば後は何時も通りで、隅に敷かれた床になだれ込むように組み敷かれる。

酒気を帯びた色気の欠片もない暑苦しい吐息が、夏の暑さで少し汗ばんでいる肌を何度も撫でる。遊女に接吻はしないのが決まりだから、代わりと言わんばかりに首筋やら躯のあちこちに口づけ舐めまわす。

跡をつけてはいけない、という決まりがあるのがせめてもの救いだ。こんな男の所有印なんて、数日で消えるとはいっても残されるなんて反吐が出る。



男が自分の上を這いずりまわるのを、浜木綿は声も発てずされるがまま放っておく。

どうせこちらがまぐろのふりをしようが、啼き真似すらしなかろうが、この男は自分に飽きてやめてくれるような男ではない。

その汗ばんだ醜い肩越しに薄ぼんやりと映る天井に視線を遣り、次いで、全てが不快な存在に揺すられながら、何故吉原に来る客は皆置行灯の明かりすら消さぬ無粋者ばかりなのかと、未だ赤々と燃える灯を何を思うでもなく見つめた。


炎の熱が此処まで届く筈はないのだけれど、浜木綿の虚な瞳に映る橙の光から伝わるのか、何故か熱が移りちりちりと身を焼かれる様な心地がした。

この燈が自分を占める空の何かを埋め尽くして、全て満たしてくれたらいいのに。

暖かいのか、それともその熱さに焼かれて熔けてしまうのか。いずれにしろ、こんなところにいるよりはずっとましなのかもしれない。


吉原に生きる他の女達は、姉や伊吹はそんな不毛な考えを巡らせた事はないのだろうか。


明かりが消され静かな闇が訪れるまで、浜木綿は自分に伝わる熱すぎる熱を自ら消すようにその瞳を閉じた。




伍『芙蓉』


昨晩、遊女としての自分の面倒を見て育ててくれた姉女郎が、病で死んだ。


未だ夜が明けぬ内に、部屋を片付けるように淡々と粗末な棺桶に入れられた真っ白な姉の姿を思い返して、芙蓉(ふよう)は薄ぼんやりと白んできた天を見上げる。


本来二人姉妹の姉である自分が、唯一姉と呼び慕った女の儚い最期を、客の相手をしていた芙蓉は看取ることが出来なかった。


先月から原因不明の病で日に日に弱っていた姉は、今月に入ってからは遂にまともな食事を取る事も出来なくなり、客も取れず部屋に寝たきりになっていた。


数日後には治療という名目で、箕輪に送られる事になっていたのだ。治療とはいっても、握り返す弱々しくて冷たい手は恐らく永くはないだろうと、事情を知る誰もが内心そう覚悟していた。



「…(たちばな)姉さん」


優しかった姉女郎の、自分の頬を撫でた感触を思い出す。その頬に涙はない。覚悟していたのに、いざこの場に立ってみると、何を思ったらいいのかも芙蓉には解らなかった。


妓楼の見世先で、投げ込み寺へと向かう弔い衆に担がれた姉の柩を、その後ろ姿が見えなくなっても尚、暫くその道行を見送っていた。


「行ってこんか、姉さん…。やっと外に出られてんから、身体には気ぃつけんなんよ、」


残暑の生暖かい風が頬を撫でる。じきに今日も何も変わらない吉原が起き出すだろう。雲一つない晴天だ。今日も一日暑くなるなと、ゆるりと一度眼を伏せて後、女が一人いなくなっただけなのに、芙蓉には随分と寂しい場所になってしまった妓楼の中へ、静かに戻っていった。




陸『姉妹』


翌日の昼間、夕べ大嫌いな客の床の相手をさせられて案の定不機嫌になっている浜木綿を見て、昼見世の客の見送りを終えた伊吹は浜木綿を茶屋へ誘った。


憎らしい程晴天の下、仲の町の気に入りの茶屋の店内に腰を下ろした二人は、漸く日陰だと息をつく。伊吹は二人分の茶と葛きりを注文し、未だに不機嫌な浜木綿に「今日も奢ってやるから機嫌治しな」と相変わらず子供な妹を嗜めるように苦笑いした。


日高屋が来た翌日は、不機嫌な浜木綿にこの茶屋の彼女気に入りの葛きりを食べさせるのが常だ。そうすれば意外と単純な自分の妹女郎は、すぐ機嫌を治す。


以前、なかなかの上客なんだからいいじゃないかと伊吹が言った時、あんな奴さっさと浮気して折檻されちまえと浜木綿は返してきた。普通は馴染み客が他の女郎に乗り換えたら、例え好かぬ客でもいい気はしない。だが、そこまで女郎に嫌われている当の日高屋は、寧ろ愛想もない浜木綿が毛色の違う猫の様で構いたくなるのか、どんなにつれなくしても上機嫌で絡んでくるらしい。



暫くして運ばれてきた涼し気な葛きりを匙で掬い、からからの喉に通せば、引き結んでいた浜木綿の口元もあっという間に綻んだ。


「あんたは無愛想だけど可愛らしい顔してるからね。化粧をしても幼さが残ってるから、反抗期の娘みたいで構いたくなるんだろうさ」


「反抗期の娘ってなんねんて。…でも、普通は愛想がいい娘を選ぶもんじゃないけ?全く理解出来んげんけど」


そういいながらもさっきまでの仏頂面は何処へやら。甘味一口で機嫌を治す現金な浜木綿に「そんなところがまだまだ子供なんだよ」と伊吹は軽く笑い飛ばす。



そんな長閑な昼間を過ごしていた二人の耳に、「ゆう」と呼びかける声が響いた。


声のした店先を見ると、背が少し高めで柔らかい笑みを浮かべた女が居た。


「おねぇ、どしたん?」


微笑みながら空いている隣の席に腰掛けた女は、別の妓楼に入れられた浜木綿の実の姉・芙蓉だった。とはいっても『芙蓉』とは遊女名で本名は茜といった。お互い吉原に来てからは名を棄てた身として、姉妹間でも本名では呼ばない。


大した事を尋ねられたわけでもないのに、妹のその問いにずきりと芙蓉の胸が痛む。夕べ死んだ姉女郎を思い出すから妓楼には居づらく、ふと妹の顔をみたくなったのだとは、言えるわけもなかった。


「…何だか久しぶりにゆうの顔を見たくなってね、この茶屋にいないかなと思って見に来たのよ」


僅かに揺らいだ芙蓉の眼の陰りに伊吹は気付いたが、尋ねられたくない事は誰にでもあるし無理に聞くのは野暮だと、何時ものように言葉を返す。


「ゆうは此処の葛きり、大好きだもんねぇ。吉原で夏に涼みがてら食べると言ったら何時も此処なんだから」


「伊吹も随分ゆうの姉さんらしくなったじゃないの。しっかりものの伊吹がいれば、甘えん坊のゆうも安心して任せられるよ」


「…何処が甘えん坊ねんて」


「あんたがこんだけ嫌がらんと方言出して喋るんは、気ぃ許しとる証拠やろ?良いことやがいね」


やはり実の妹と話すのは嬉しいのだろう。妹を見る芙蓉の表情には、先程伊吹が見た陰りは幾らか和らいだように穏やかになっていた。


「あらまあ、芙蓉ねぇさんが方言出して喋るの珍しいねぇ」


「あ、素になってた?ゆうと話してると、つい釣られて出ちゃうわぁ」


芙蓉は軽く周りを見回し、店内に同じ妓楼の娘や知った客がいないかと目を遣った。


「今はいいけど、そっちの見世じゃお里言葉出しちゃいかんから気ぃつけんなん。ばれたら遣り手婆に叱られれんろ?」


「面倒だよねぇ、あたしは芙蓉さんが素朴に感じれていいと思うけど」


「あたしもどうせならゆうと同じ妓楼がよかったよ。

廓言葉にはもう慣れたもんだけど、やっぱり落ち着かないよ。田舎臭くても、こっちのほうがずっと良いわぁ…」


吉原の中というのは些かどうかと思うが、姉女郎死んだ今、前にも増して芙蓉はそう思った。


伊吹は生まれも育ちも江戸だが、浜木綿と芙蓉の姉妹は違う。江戸から西に行った雪国、加賀の出だった。


吉原の女郎は、親が女郎と言う娘や自分から働きにきた娘もいるが、色んな事情で売られてきた娘も多い。


彼女達姉妹も後者で、二人の家は小さな商家を営んでいたが、両親が流行り病で早くに亡くなり、近隣の親類に面倒を見て貰っていたが、長引く飢饉に困窮して口減らしに売られた。


当時もしも姉妹がもっと幼ければ、吉原に売ることも出来ず間引かれていたかもしれない。それを考えれば、女の我が身を売り続けるこの生活でも、こうして姉妹が共に居られる吉原の生き方は悲観だけでもなかった。


風の噂によると、芙蓉と浜木綿が吉原に来て間もなく、加賀で農民達の一揆があり、数人の農民の首謀者が責任を取らされ死罪にされた聞く。そんな大事があったのだから、行き先は吉原でも先に故郷を出てきてよかったのかもしれないと、姉妹と事情を知る伊吹は考えている。


「あたしも同じの」と葛きりを頼んだ芙蓉を交え、僅かながら夏の暑さを忘れて、三人の女達は半時程他愛ない話を続けた。



漆『夏の終わり』


七夕祭りには、此処吉原も形だけは笹に短冊を吊す。浜木綿は願いなんてないと書いたこともないが、毎年願掛けしている伊吹や一部の女郎は、あれが欲しいだの道中を踏みたいだのと似たり寄ったりな願いを今年も書いて楽しんだ。


十二日は朝早くから仲の町の草市に、盂蘭盆会(うらぼんえ)に供える草花や精霊棚の飾り物が並ぶ。それを横目にもうそんな時期かと、翌日は元日以来の休日だと喜んだかと思えば、八朔の大紋日が来た。


この日に道中を踏む花魁は皆、立派な白無垢を着る。その姿を一目見ようとやってくる男達だけではなく、この日は俄を見る為、普段吉原に縁がない女達まで詰めかけるから、伊吹と浜木綿も格子越しに見る混雑した往来に、外に出る気も失せると、大部屋にだらし無く脚を放り出して団扇を片手に涼んでいた。


「白無垢なんていやぁ聞こえはいいが、吉原で着てりゃあ不気味にしか見えないよねぇ。まるで死人か幽霊だよ。

あたしならあんな女、抱く気も失せるし酌も断るね」


「女郎が白無垢着てたって、どうせ中身は変わらんげんし。"清楚さ"なんて欠片もないがんにね」


冷めた目で煩わしそうに外を見遣る女郎達の傍らで、吉原に来たばかりの禿や新造は祭のように賑わうさまに目を輝かせている。そんな幼い娘達の中の一人が様子見から帰ってくるなり、大門で『女は切手、女は切手』と左右四人ずつ立っている若い衆が叫んでいたがあれは何か、と近くにいた伊吹に問うた。


「ありぁ四郎兵衛会所(しろうびょうえかいしょ)の奴らで、この人混みに紛れて女郎が逃げ出すのを見張ってんのさ。

女郎に成り立ての女や間夫狂いの女は、見付かりゃあ仕置き部屋に入れられて酷い目に会うってのに、毎年抜けようとする女が絶えないんだ。

だから、ああして逃げられねェように監視してんだよ。

全く御苦労な事さ。どうせあんな事してても、やろうとする女は減りゃしないんだけどね」


伊吹はそう答えると、「へぇ」と未だに理解しきれていない様な面の禿(かむろ)の頭を軽く撫で「ほら、んなこと気にしないで遊んできな」と促した。


また妓楼の暖簾を潜り、うんざりする程の人混みに揚々と消えて行った小さな背を視線で追いながら、「…なんで抜けようなんて無駄な事考えんのかね」と伊吹は呟いていたが、答えなんて持っている筈もない浜木綿は、ぼんやりと宙を眺めたまま何も返さなかった。




㭭『彼岸花』


日中も随分と過ごし易くなり、漸く秋らしい陽気になった長月。仲秋の名月も過ぎて菊の節句を迎え、吉原の女達は皆冬衣装になった。


後の月見の翌日の晩のこと。何時も通り夜見世で賑わう吉原に、突如騒々しい半鐘が鳴り渡った。


二階の引付座敷で初会の客の相手をしていた浜木綿の元へも、行灯の油を継ぎ足しに各部屋を回っていた不寝番(ねずのばん)が火事だと報せに来た。


廊下に出ると、廻し部屋から客や女達が大階段へと急いでいる。浜木綿も後に続いて妓楼の外へ出ると、暮四つの黒い筈の空は夕日のように朱かった。視線を下ろすと、同じ見世の遊女達の中に伊吹がいた。


「伊吹姉さん、」


「ゆう、待ってたよ。

火元はどうやら江戸町二丁目だとさ。伏見町まで火が回り始めてるみたいだから、大門は開けないつもりらしい。待合の辻は人集りだとよ。

みんな水道尻に向かってるから、あたしらもそっちに逃げよう。


芙蓉姉さんなら大丈夫さ。江戸町二丁目なら、姉さんの見世がある江戸町一丁目は通りを挟んだ向かいだから心配ないよ」


「うん」


浜木綿が頷いたのを確認すると、伊吹は浜木綿の手をしっかと握り走り出した。


冬衣装の為夏場よりは重く走り辛いが、吉原での小火騒ぎなどは茶飯事なので慣れている。角町を抜け仲の町の通りに出ると、人波の中から一際火の手が上がる妓楼を見て泣き叫ぶ娘がいた。


「姉さん、姉さん、

早く逃げないと死んじまうよ!」


火元の妓楼の女郎なのだろう。忘八や中郎連中に早く逃げろと促されている。


「大方、あの娘の姉女郎が自分の妓楼に火を付けたんだろうさ。逃げる為に火を付けたものの、火の廻りが早くて逃げられなくなっちまったのかね」


伊吹はそう呟くと「行くよ」と溜息混じりに浜木綿に告げ、未だ「姉さん、姉さん」と声を泣き枯らしても尚叫び続けている声に背を向けて、人波の中を二人は走った。


水道尻まで辿り着いた二人は、九郎助稲荷や開運稲荷周辺にいた同じ見世の者達と合流し、同じく逃げてきた芙蓉の無事も確認出来た。

皆が見守る中、火消や若衆が一晩中消火に当たり、吉原の火が漸く消えたのは空が白み始めた頃だった。

結局、この火事は伏見町と江戸町二丁目の見世数棟、羅生門河岸の長屋二棟を焼いた。


火元は江戸町二丁目の大見世で、座敷持ちの女郎が客に入れ込み、その間夫と相対死しようと自室に火を点けたのだという。妹女郎の説得も甲斐なく、血の様な朱色の着物を着た姉女郎は、間夫の男と往生したらしい。


角町にある伊吹と浜木綿の見世や、江戸町一丁目の芙蓉の見世は無事だったので、騒ぎが落ち着くとすぐに通常通り営業を再開出来たが、全焼した見世は暫くの間、本所や深川が借宅(かりたく)に宛てられたらしい。


「全く、借宅なんて羨ましい話だよねぇ。あたしらも少しくらい外の空気を吸いたいもんさね」


「不景気にでもなれば、楼主の親父だってうちにも一丁火の一つや二つ景気良く点けてやろうかって気になるんやろうけどね」


「生憎見世の景気はぼちぼちだから、もう暫くは望んでも無理だろうねぇ。っつっても、どうせその金は皆見世の懐に飛んでいっちまうから、あたしらには何の得もないってのに。


火事で焼け死ぬのは御免だけど、あたしも偶には外で羽を伸ばしたいよ」


そんな愚痴を言いながら、焼けた見世跡でも見てやろうかと昼の角町の通りをぶらついていると、焼けた羅生門河岸の長屋の向かいを流れる鉄漿溝(おはぐろどぶ)の端一面に、赤々とした彼岸花が咲いていた。



「いつもこんな気味悪いとこまでこんから気付かんかったけど、もうこんなに咲いとってんね」


「あの世の彼岸に咲く死人花か。


…お前らが焼いたんか?」


まるで好き合った男と女ごと薄汚れた吉原の一角を焼いた紅蓮の炎の様に、未だ燃える様に咲く地獄の華。

浜木綿と伊吹は暫くの間その華を眺め、心中した二人が見た最期の光景はどんなものだったのだろうと、思いを巡らせていた。




玖『流れ者』


貧富の差が激しいこの時勢、島原などの花街は他に行き場もない者の流れ着く吹き溜まりでもあった。


吉原も例外ではなく、廓の裏で働く若い者は皆、浅草馬道の口入屋・大塚屋が斡旋する為、岡っ引の側面を持つ奴が連れて来る人間なんて、ならず者が大半だった。


冬の寒さも厳しくなり、見世の年季の入った大火鉢の回りに皆固まって、先日のふいご祭りで潰れなかった蜜柑を食べながら暖を取っていた、霜月半ばの昼時。遣手婆が見慣れぬ年頃の女を一人連れてきた。


「大塚屋から連れて来られた新人だよ。名は伊織(いおり)に決まった。明日から見世に出すから、初雪(はつゆき)、世話してやんな」


「はぁい、あたしもついに姉さんだ」


「あんたが姉さんなんて、こいつが可哀相だね」


初雪は、この夏部屋持ちになったばかりの、三河出のよく笑う陽気な気性の女だった。

遣手婆が去ると、寒いだろうと伊織を火鉢の前に座らせ、皆口々に話かけ始めた。


「あんたよかったね、此処は大見世じゃないが、今の所は虐めるような陰険な女はいないから、他の見世に比べりゃ随分過ごし易いよ」


「ほんと、余所じゃあ蹴落としやら派閥割れやらしてる所もあるらしいしね。此処はそんな見上げた志持った女いないから」


「嗚呼、女って怖いねぇ」と巫山戯(ふざけ)る先輩女郎達を余所に、姉女郎になった初雪が伊織に問うた。


「そういやぁ、あんた。大塚屋の口利きで来たって言ったけど、何でまた吉原なんかに自分から来たんだい?」


「確かに遊女にされる女は、大体女衒(ぜげん)に連れてこられるもんだからね。

歳だって十六、七ってとこだろ?口入屋に行ったんなら他にも武家にでも奉公出来ただろうに」


遊女にはそれぞれ事情があるから皆深くは追求しないが、此処の女達は揃いも揃って世話焼き癖がある者が多い為、興味本意も合間って伊織に尋ねた。


「あたしは武蔵の家を捨てたんだ。母ちゃんは八つの時に死んでさ、飲んだくれの親父の代わりにあたしが働いたんだけど、あの飲んだくれが作った阿呆な程の借金は返せないし、最近は自分の娘まで抱き始める始末で。


だからいい加減愛想も尽きて捨てたんだ」


淡々と話す伊織の声は、まるで他人事の様に落ち着いて。更に困った困ったと苦笑混じりに続けた。


「でも出たはいいけど、宛ても行きたい場所も別にないしさ。取りあえず江戸に出てきて仕事探したんだけど、何処も詰まらないしどうもしっくりこなくて。ならいっそ吉原でもいいかなってね。


喰うに困らなけりゃ何処でもよかったし、いざ自由になっても行きたい場所もなけりゃあ虚しいだけだよ」


「まぁ吉原〈此処)なら出られねぇ変わりに、いなきゃなんねぇから居場所っちゃあ居場所だわな」


「あたしから見りゃ物好きだけど」といいながら、まぁ仲良くしようやと初雪を始め皆笑って伊織にも蜜柑でも食えと促しながらお喋りを再開した。


浜木綿は同じく盛り上がる伊吹の隣に座りながら、飄々とした伊織の横顔を解せぬ思いで見つめていた。




拾『吉原の家族』


翌日の張見世には、早速伊織も浜木綿達と共に客待ちをしていた。早く働きたいとの伊織の希望もあっての事で、着物など急拵えで足りない分は、姉女郎の初雪や他の先輩女郎が快く貸してくれたらしい。


馴染み客は伊織を見て「家族が増えてよかったな」と女達に声をかけていた。


いつも通り煙管を吹かす浜木綿に、前に座っていた伊織が声をかけた。


「そういえば昨日皆が言ってたけど、見世って普通は張り合うもんなのかい?」


「…まぁ見世にもよると思うけど」


言葉少なな浜木綿に苦笑しながら、補うように隣に座っていた娘が続ける。


「うちは遣手婆やら親父はもっと稼げって口煩いけど、皆そこまで欲もないしね。仲良いほうがいいだろ」


「へぇ…、だから此処じゃ家族なんだ。此処に来たあたしはツイてるね」


やはり多少は緊張していたのか、幾らか強張っていた表情を緩めて、伊織も嬉しそうに笑った。


やがて伊織に初めての指名が入ると、皆からの「頑張りな」という声に「行ってきまぁす」と暢気に席を立っていった。


浜木綿はその背を見ながら、自分も初めはこんな見送りを受けたもんだったと、思い出して客が来るまで暇を潰した。




拾壱『年の瀬の賑わい』


師走も半ばの明け方、大部屋へ戻るなりこっとりと布団を被り寝直していた浜木綿や伊織は、二刻も経たぬうちに伊吹と初雪の大声に叩き起こされた。


布団を取り上げられた浜木綿は、不機嫌に姉を抗議した。


「伊吹姉さん、さっきやっと寝れたばっかねんから、もう少しくらい寝かしてや」


「そうだよ、初雪姉さん。なんでそんな早く起きなきゃなんないのさ」


「伊織は知らないから仕様がないけど、ゆうは忘れてるね…今日は師走の十三だろ?」


「…?なんかあったっけ」


「煤掃きだよ!煤掃き。

もう他の娘らは起きて着替えてんだから、あんた達も早く起きな!」


姉達の物を言わせぬ剣幕に渋々支度をした二人は、寒い寒いと文句をいいながら若い者の手に渡されて掃除に使われていく手拭いをぼんやり眺めて、「こんな所で寝ぼけてちゃ掃除の邪魔だ」と再び姉女郎に叱られていた。



二刻ばかり経って漸く大掃除が終わると、遊女達が皆待ちに待っていた時間が来た。皆にやにやしながら、始まるのを今か今かと待っているそぶりをしている。それを不思議に思った伊織は、どうしたのかと初雪に尋ねた。


「毎年大掃除の後は祝儀をするだろ?此処〈妓楼〉では家の中心といやあ、親父と遣手婆だからね。皆胴上げに託けて、日頃の腹いせに悪戯してやるんだ。


まぁあんたはまだ恨みもなんもないかもしれないけど、皆に混ざってはしゃいどきな」


そう楽しそうに笑った初雪に吊られるように、伊織も悪戯心に火がついたようで、皆に混ざって嫌がる二人を追いかけ廻して思いきり楽しんだ。


その様子を少し離れた所で見ていた伊吹は、同じく隣にいた浜木綿に「よかったね」と囁いた。


「…何がいね?」


浜木綿は余り口にこそ出さないが、親しい人間を内心気遣っているのはよく知っている。今回も、余り会話はしないが歳の変わらない伊織の事を、少なからず気にかけていたのを伊吹は見抜いていた。


飽くまで惚けようとする浜木綿に、伊織の事だと言えば剥きになって拗ねるだろうと察し、素直じゃないなと苦笑しながら「さぁ、何の事だろうね」とごまかしてやることにしたのだった。


そんな騒がしい暮行事の僅か数日後。朝から珍しくご機嫌な様子の浜木綿を見た伊織は、なんでそんなに嬉しそうなのかと声をかけてきた。


「そんなことないよ」と素っ気なく返した浜木綿に、そのやり取りを遠くから見ていた伊吹はからかい混じりに説明した。


「ゆうは甘味が大好きだからね。今日の餅搗きが楽しみなんだよ」


ね、と結われる前の乱れた髪を撫でてやれば、「違うし」と年相応にふて腐れた浜木綿がまた可愛らしくてつい笑みが零れた。


伊織も、普段余り笑わない浜木綿の意外な一面を見られた嬉しさに、「あたしも楽しみだよ」と笑った。



やがて昼頃には三之輪・金杉から出入りの者達が数人手伝いに訪れ、内証前の廊下に筵を敷くと「御代は目出度の若松様よ」と威勢よく歌いながら、餅搗きが始まった。


大団扇で扇がれ冷まされていく搗きたての餅を眺める浜木綿の顔は、他の女達の誰よりも嬉しそうだった。


翌日二十日を過ぎると、張見世も休みになる。遊女達は皆、年末年始の無心や正月松の内の仕舞い客の確保に、何時もは文を余り書かない者も文をしたためていた。


普段面倒だと殆ど筆すら持たない浜木綿も、仕方なしに他の娘と同じように大部屋の長机に張り付いている。


「書くことなんてないし…」とぽつりと零せば、呆れながら伊吹が助言してやる。


「適当に‘来年も宜しく’とでも書いときゃいいのさ。どうせ文だけ殊勝な事書いたって、ゆうの場合は代筆だと思われるだけだし」


「…そういう姉さんはもう終わったん?」


「ああ、あんたが唸ってる間にとっくにね。


それにしても、相変わらずゆうは字下手だよね。少しは練習しなよ」


「いいげん!どうせこんな時しか書かんし。今更面倒臭い。読めりゃいいんだ、こんなもん」


浜木綿が毎年この時期になると、こうして同じ事を言うのは皆知っている。周りで同じように黙々と文を書いていた娘達は相変わらずだと笑い、浜木綿の向かいで初雪に教わりながら初の営業用の文を書いていた伊織も、声を上げて笑った。


笑われた当の浜木綿だけが、頭を撫でようと手を伸ばす伊吹から逃げながら、「笑わんで」と拗ねていた。


あっという間に大晦日を迎えると、狐舞いがこの妓楼にもおしかけ、笛太鼓の拍子に合わせ「ご祈祷ご祈祷とんちきとんちき」と新造や禿を追いかけ回し、来年身篭りたくない娘達が必死に逃げる様を姉女郎達が笑いながら、賑やかに年を越した。









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