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セツナイセカイ

作者: 黒兵

 特別なことがあったわけではなかった。

 ただ、ふと顔を上げた時、家と高校とを繋ぐ見飽きたはずの家並みや、若々しい色をした街路樹が、昇り始めた太陽に眩しいほどの輝きを与えられていて。

 ああ、綺麗だな、なんて、柄にもなく思ったりして。

 まるで初めて見る景色のような、はっと目の覚めるような気付きがあった。

 ただそれだけの、いつも通りの朝だった。



*****



 原田啓介は走っていた。階段を駆け上がり、廊下にいる人々をすり抜けて、『二‐D』と書かれたプレートを掲げる教室のドアに、いつも通りチャイムの終了と同時に、ぎりぎりで滑り込む。

「はよーっす」

 机を囲んでバカ話に盛り上がる友人達に、通り過ぎ様に声をかける。しかし話に夢中なのか返事はなく、やれやれ、と自席にカバンを置いた。窓際の列、後ろから二番目。一週間に一度のペースで行われた、四月の席替えラッシュを終え、ようやく落ち着いた場所は、退屈な授業を受け流すベストポジションだ。

「おっす」

 改めて輪に入ろうと声をかけるが、やはり誰もこちらを振り向かない。

「おい、おはよって」

 眉を潜めて背を向けるクラスメイトの肩に手を掛ける。しかしそれと同時に白髪混じりの担任教師が現れて、慌てた生徒達は散々になり席についた。啓介も舌打ちをして渋々自席につく。いつもより荒っぽく、後ろの空き机にどかりと肘を掛けた。

 悪意がなかったとしても、かけた声に気付かれないというのは胸に蟠るものである。どれだけ話に夢中なんだよ、と一人ごちながら、いつも通り出欠を取る担任の声を、自分が呼ばれるまで聞き流していた。

「原田ー」

「はい」

「原田は休みか?」

「はいはい、いまーす」

 こちらを見る担任に手を振ってアピールする。

 担任は眼鏡を直すと、首を巡らせた。

「誰か、原田から連絡もらっていないか?」

 ぞくり、と背が震えた。

 クラスメイトは顔を見合わせ、あるいはこちらを見るばかりで、誰も何も答えない。

 何だ、これは?

 静かな教室で一人手を挙げて、声を出して、相手はこちらを向いていて、気付かないはずがない。

 啓介はがたんと席を立つと、机に手をついて声を上げた。

「いますって! 先生! 十三番原田啓介います! なぁおい!?」

 必死に主張するも、担任はふむ、と息を吐いただけで出欠確認を続ける。生徒はただ呼ばれて返事をする。まるで何事も無かったかのように。

 啓介は呆然と立ち尽くした。気持ち悪さからか目の前がぐにゃりと歪む。先程から寒いものが背中を駆け回っている。

 何だよ? 集団無視か? 俺何かしたっけ。そりゃあ悪戯程度の些細な悪事はあるかも知れないけど。でも何で俺だけ。俺が。

「俺が……何したってんだ?」

 恐怖と混乱はやがて沸々とした怒りに変わり、机の上の手を震える程握りしめた。

 ホームルームの終わった教室内を、敵を見るように睨み付ける。

「おい、一体何なんだよ!? 何で俺を無視すんだ? 何かしたか? 答えろよ!」

 声を荒げても、僅かな休息時間に疎らに動き始めた生徒達はいつもと変わらない。唯一違うのは、自身の声が届かないということだ。

「くそっ、何だよ……!」

 薄気味悪さと焦燥に声を荒げる。それで誰か振り返れば良いものを、しかしその期待すらも裏切られた。

「おい、ヒロ!」

 啓介はいつもつるんでいる仲間の肩を揺さ振るが、掴んだ肩を気にしたように軽く回しただけであった。

 しかし今はその反応だけでも収穫である。彼らは間違いなく啓介に気付いているのだ。それでいて無視しているのだ。

 そうと分かった瞬間、かっと頭に血が昇り、身体が熱くなるのを感じた。だるそうに姿勢悪く座り、鞄から教科書を取り出すヒロに掴み掛かろうとしたその時。

 カラ、と、教室のドアが開いた。極静かな音だと言うのに妙に耳につき、啓介は手を止めると、睨むようにそちらを見やる。

 後ろのドアから、一人の少女が教室に入ってきた。これといった特徴もない高校指定のセーラー服にスポーツバッグを持った、胸まである黒髪の小柄な少女だ。彼女は伏せ気味の目で、無表情に教室の後ろを通って行く。

 他のクラスの者であろうか、見たことのない顔である。ちょうど良い、もしかしたら彼女はまだこの茶番に加わっていないかもしれない。啓介はその少女に近寄った。

「なぁアンタ」

 しかし少女の歩みに変化はない。

 こいつも無視か――啓介はまた眉を釣り上げると、少女の肩を乱暴に掴んだ。

「おいって!」

「きゃあっ!?」

 大きな声を上げた少女は、驚愕に見開いた目をこちらに向けた。啓介も、同じような表情で声を失う。

 予想外に大きな反応があったことにも驚いたが、それだけではない。こちらを凝視するぱっちりとした瞳の左側だけが、輝くかのような水色であった。

 カラーコンタクトだろうか? 仮にも学校に、しかも片側だけ。

 二人はしばらく見つめあう。

「……えっと……あ、あのっ、原田、くん?」

「え、あ、わりぃ」

 そこでようやく細い肩を掴んだままであったことに気づき、慌てて手を離す。

 どうやら彼女は自分のことを知っているようだと、改めて少女を見下ろす。しかし、啓介にはやはり見覚えがない。五月にもなって、大体のクラスメイトの顔は覚えたはずだから、やはり別のクラスの女子か。

 少女もまだ何かあるのか、目を眇め、あるいは片目ずつこちらをじっと見つめ、そこまでしてようやく声を上げた。

「原田君、何でここにいるの!?」

「何でって……」

 ここD組だけど、ってかあんた誰。そう問いかけようとした啓介ははっと気が付くと、ぎりっと少女を睨みつけた。

「そういうことかよ……やっぱり皆して俺をバカにしているんだな! 俺がここにいちゃ悪いかよ!?」

「ど、怒鳴らないで……ちょっと落ち着いてよ。ほら、もう先生来たし、授業始まっちゃう」

「知るかよ! どうせまた無視するんだろ」

「私は! 無視してないでしょ」

 どこかすねたような言葉に、啓介は言葉を飲み込んだ。伺うように教室を見渡す。

 教室に現れた一時限目の英語の教師もクラスメイトも、後ろでこれだけ騒いでいるというのに、やはり誰一人として気にした様子はなく黒板の方を向いている。誰も彼もが敵に見える中、確かに目の前の少女だけが、啓介に反応を返していた。あまりの異様さに、苛立ちが静まっていった。

「落ち着いた? とりあえず席に座ろ?」

「あ、あぁ……」

 こちらの顔を覗き込んで、宥めるように微笑む少女に腕を引かれるままに、啓介は窓際の自席へ向かう。彼女は啓介のすぐ後ろの空き机に腰を下ろした。

 教室はやはりこちらを気にした様子もなく、ならばと啓介も何事かを解説する教師に背を向けた。不審を露にして見知らぬ少女を見やる。瞳の色に気をとられがちだが、よく見れば少し幼めで、快活な印象の顔をしている。

「それで、あんたは誰なんだ?」

「あっ、そうだった。私は霧島杏奈。よろしくね、原田君」

「俺のこと、知ってるんだな」

「自分の前の席の人くらいなら誰でも分かるでしょ?」

 安奈と名乗った少女は、どこか可笑しげに答える。それとは対照的に、啓介は眉をひそめた。

「前の席? いつの話だ」

「今。この前席替えしてこの配置になってからずっと」

「はぁ? 何言ってんだよ、俺の後ろは空席だ。ってか、そもそもお前を今まで一度も見た覚えねぇし」

「原田君、いっつも私の机に肘掛けるよね。結構迷惑してるんだよ?」

 子どものように頬を膨らませて見せてから杏奈は笑った。

 確かに、良く後ろの机に肘を掛ける。しかしそれは後ろが空席だからであって、そこに誰かがいればしない仕草だ。その机を、彼女は自分の席だと言っているらしい。いつだって、席替えした時だって、この教室の一席だけは使用者がいないはずだというのに。

「まさか……透明人間、とか?」

 そんなばかなと、口にしながらも即座に胸中で否定する。杏奈は小さく首を傾げた。

「透明人間って、声も着ている服も透明になるのかな? でも、それにとても近いかも。私達は今、ここにいる誰にも、ここにいるんだって気付かれていないもの」

「……冗談だろ?」

 例え杏奈の言うとおりとしか思えない事態でも、それでもにわかには信じ難い。この少女がいることと声が皆に届かないこと以外では、何の変化も起きていないのだ。

杏奈もその反応を予測していたのか、すぐさま答えが返ってきた。

「だって、こんなに叫んだり喋ったりしても反応ないでしょ? 無視されてるわけじゃないの、そもそも聞こえてない、見えていないだけ」

「でも、さっき触ったら反応あったぞ」

 ヒロの肩に触れた時、確かに気にするような素振りを見せた。偶然というには少し違和感のあるタイミングでだ。

 しかしこれにも杏奈は啓介の聞きたい答えを返さない。

「何もないのに妙に気になったり、何かがぶつかったような感覚、今までに感じたことってない? 衝撃は大分和らいでるとは思うけど、そんな感覚で伝わっているんじゃないかなって思う。多分殴ったとしても、あんまり痛がらないんじゃないかなぁ。こっちでやったことも、自然に調整されて辻褄合わせちゃうみたい?」

「まじかよ……」

 少し試してみようかと思ったが、何の理由も無しに誰かを殴る気にはならなかったので止めた。代わりに痛む頭を抱える。

「一体何なんだ? わけわかんねー……」

「ここはね、多分異世界なんだよ。元の、今授業やってる世界と重なるように存在する、透明な膜で区切られた、別の世界」

 少女の高い声が止めを刺す。思考が停止する瞬間があるとすれば、正に今、この時だろう。

 異世界。漫画やアニメでは良く聞く言葉だ。例えば、眩しい光に包まれただとか、何かに吸い込まれただとか、大きな事故に巻き込まれただとか。物語の主人公達は、そんな出来事から異世界に迷い込む。

 しかし、啓介の身に、そんな特別なことが起こったわけではなかったはずだ。いつも通り家を出て、朝日に照らされたいつも通りの道を来た。

 何を言うべきか。何を聞くべきか。啓介は唇を動かすが何の意味も成さない。ため息と共に言葉を吐き出すのに、しばらくの時間を要した。

「そんなことありえるのか? 何、じゃあお前は今までずっと、俺の後ろで授業を受けていたわけ?」

「そうだよ。ちゃんと毎日来てる」

「じゃあ、俺の肘が時々この机から落とされるのって」

「それは原田君が居眠りしてるせいでしょ?」

 ぷくりと頬を膨らませた抗議の声に目が泳ぐ。確かにこの少女に、しっかりと見られているようだ。

「何でこの教室にいつまでも空き机があるのか、考えたことある?」

「確かにあるなぁとは思ってたが……深く考えなかったな。それも自然の辻褄って奴なのか?」

「多分そうだろうね。もし片付けられちゃっても、また運び込むけど」

「信じらんねぇ」

「信じられなくても、これが現実だよ」

 作り物のような色の違う瞳が断言する。その言葉も作り物であって欲しかった。返す言葉もなく、ごちゃごちゃの心を押し付けるように髪をくしゃりと掻き混ぜた。

 授業は気にせず進み続ける。



*****



「ちょっと! まだ授業中だよ!?」

「知るか! 見えてないんなら出てもばっくれても同じだろ」

「違うよぉ!」

 啓介は後ろから小走りで付いてくる少女に怒鳴りながら、サッカーをしている校庭の端を横切る。

 これだけ大声で騒いでも、やはり誰一人として、こちらには気を止めない。すぐ横にある、いつ使うのか分からない錆付いた鉄棒と幅跳び用の砂場の方が、自分達よりもまだ注目を集められるのかもしれない。誰かが捨てたらしい、無造作に砂に埋もれている空き缶を、恨めしい気持ちでねめつけた。

 見えない? 異世界だと? そんなことがあってたまるか。これは夢だ。あるいは皆が俺を騙そうとしているんだ。

 矛先もやり場も分からない怒りを抱え、ひたすら地面を蹴り続ける。こんな状況で、普通の顔をして教室で座っているなど無理な話だ。

「原田君止まって!」

「ごちゃごちゃうるせ――」

 叫ぶような声が癇に障り、反論しようと振り返ろうとした瞬間、サッカーボールがこめかみを高速で掠めて短い髪を揺らした。

「っ!?」

 痛みは無かったが、擦った熱が僅かに残る。あと半歩前に進んでいたら、直撃していたであろう。

「あっぶねーな、どこの下手くそ――」

 文句を言いながら校庭の内側を見やれば、今度は体操着姿の男子生徒が、すぐ目の前を駆け抜けた。ボールを捕まえ、目を見開いて硬直する啓介を、やはり掠めるようにして戻って行く。

 驚きのあまり言葉を失い、ただただその後ろ姿を見つめた。

「大丈夫!?」

 横に並んだ少女が、色の違う双眸でこちらを覗き込んでくる。ああ、と息を吐くように、早鐘を打つ心臓を押さえながら頷いた。

 こちらの無事を確認した杏奈がほっと息を吐く。

「危なかったね。しっかり注意するんだよ? あっちはこっちのこと見えてないんだから。こっち側からの影響が弱まるのと同じように、痛みは減るみたいなんだけど、それでも事故は起こるからね。もし大怪我しても、助けてくれる人なんて、ここにはいないんだから……」

 杏奈の表情が段々暗くなり、顔を俯ける。

「でも、今お前助けてくれただろ? まぁその……サンキュ」

 この見えざるクラスメイトの呼び声がなければ、確実にボールにぶつかっていた。

 素直に礼を言えば、杏奈は驚いたように顔を上げ、顔を少し赤らめてそっぽを向いた。

「もう、そういうことじゃなくて……ここには、治してくれる医者なんていないの」

「え?」

 意味を理解しかねて眉をひそめると、

「ここには、私と原田君しかいないから」

「はぁっ!? 俺とお前しかいないって、何だよ?」

 何度目かの衝撃的な内容を口にした少女に詰め寄る。杏奈は少し怯えた様子で後ろに下がった。

「何だよって言われても……そのままだよ。私の知る限り、この世界には今二人だけ」

「何で」

「こっちが聞きたいくらいだよ」

 不機嫌な視線がぶつかり合う。

 この世界では目の前の少女と自分だけ。周囲はこんなにも人で溢れているというのにだ。また信じられないことが追加されてしまった。

 しかし、杏奈は何でも知っているかと思えば、そうでもないらしい。そういえば、彼女の言葉には『思う』や『たぶん』という言葉が多いではないか。

 はぁ、と大きく息を吐く。理解が追いつかないことが多過ぎて、頭が痛かった。もう寝たい。考えたくない。

「やっぱお前の言ってることは信じらんねぇ。付き合ってられっか」

 諸悪の根源に吐き捨てると、踵を返してさっさと歩き出した。

「ちょっと、原田君!」

 大きな声を掛けても、啓介は無視して返事もしない。

 追いかけようとした杏奈の目の前を、ビュッとボールが切り裂いて、彼女の動きを止めさせた。

 その間にも足早に遠ざかる啓介の背中は、何者も寄せ付けない壁のようだった。追いかけたい気持ちとは裏腹に、杏奈の足はすくんだように動かない。まだ冷たさの残る春風が、砂をはらんでその間を通り抜けた。

 まるでアレを前にした時みたいだと、立ち尽くして悲しく背中を見つめる。

「原田君……行っちゃう……」

 今にも消えてしまいそうな声が、震える身体から絞り出された。



「ただいま」

 まだ日が高いうちに帰宅した啓介は、玄関口で声をかけた。家の中から掃除機の吸引音が響いてくる。

 居間をひょいと覗き込む。掃除をしている母親に、もう一度大きな声でただいま、と声をかけた。

 普通なら振り返り、早過ぎる帰宅に驚きの声を上げるところである。しかし、母は何も聞こえなかったように掃除を続けている。

 居間の中に足を踏み入れ、鼻歌を歌いながら掃除機をかける母親をじっと見つめる。しかし何分待っても啓介に気づくことはなく、終にはすぐ横を通り過ぎて、廊下の掃除を始めた。

「マジかよ……」

 その場にゆるゆるとしゃがみ込み、頭を抱える。最近は親に突っかかってばかりではあったが、怒鳴られこそすれ、無視されるほどの隔たりは無いはずだ。

 杏奈という少女の言うことが、ようやく現実味を帯びて啓介に圧し掛かってきた。

「これは悪い夢だ。夢は、醒めれば終わる」

 呪文のように呟いて、自室に駆け上がって早々に布団に潜った。



*****



「原田君!」

「……はよ」

 こちらを見て立ち上がった杏奈に、啓介は仏頂面で挨拶を返し、彼女の前の自席についた。

 結局、目が覚めてもこの悪夢は続いていた。親は傍にいる啓介に気づかないまま、「帰ってこないわねぇ」とため息を漏らしていた。朝になってもそれは変わらず、母親は当然起こしてくれるはずも無く、二時限目の途中での登校となった。

 遅れて教室に入って来たのに、教師もクラスメイトも、杏奈以外は誰も自分に気を留めない。

 喋っている教師に堂々と背を向けて、杏奈と向き合う。啓介の気分とは裏腹に、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。一瞬気を削がれたが、慌てて表情を引き締めた。まだこのクラスメイトが味方なのかどうかも分からないのだ。

「原田君……もう、来ないかと思った」

「お前に聞きたい事があって」

「ようやく信じた?」

「信じるしかないだろ……」

 降参、と両手を挙げながら、重々しくため息を吐いた。同じ空間にいるはずなのに、誰にも気づかれない世界。まだ拒絶する思いはあるものの、もはや認めざるを得ない。

 うふふ、と可笑しそうに笑う、異世界にいる謎の少女を睨みつける。

「こうなったら色々聞かせてもらうからな」

「良いよ、私が分かる範囲でなら」

 机に頬杖をついて杏奈が色違いの目を細めた。

「とりあえずだ、お前は何者だ?」

「霧島杏奈。普通の女子高生……ではないか。この世界にいる時点で」

 杏奈は自嘲したが、笑う気分でもなく質問を続ける。

「昨日、この世界には俺らだけって言ってたよな。こっちの世界はこっちで別に住人がいるとかじゃないのか」

「たぶん違うと思う。私も、元々原田君達と同じ世界にいたしね」

「マジで?」

「そうだよ。私を何だと思ったの?」

「いや、えーっと……」

 少し頬を膨らませた顔を向けられ、口篭った。杏奈が諸悪の根源かのように思っていた啓介だったが、彼女も同じ境遇ということか。途端に親近感を覚え、先程よりは穏やかな気分になった。

「じゃあさ、お前はいつからここにいるんだ?」

「中二。それから四年間ずっと」

 ふいに寂しそうに笑う。それまでの明るい雰囲気とは違う調子に瞬いて、杏奈を見返した。彼女は小さくため息を吐くと、子どものように足をぱたぱたと前後に振った。

「誰かいないかなって、私も探したよ。いっぱい探して……遠くにも行ってみた。でも誰もいなかった。皆私に気付かなかった。もしかしたら、他にこの世界には人がいるのかも知れない。可能性はゼロじゃないよ。でも、会えないなら一人と変わりないじゃない」

 誰にも気付かれない世界で、四年間も一人で過ごす。それはにわかに想像し難く、啓介は黙り込んだ。

 重くなった空気に気付いたのか、杏奈は明るい声を上げた。

「あ、でもね、本当にずっと一人だったわけじゃないんだ。子どもがたまに迷い込んで来るの」

「子ども? そいつらはどこにいるんだ?」

「今はいない。時々ひょっこり現れるんだけど、いつの間にかすぐ元の世界に戻っているの」

「元の世界に戻れるのか!?」

 瞬間、啓介は身を乗り出した。そうだ、突拍子のないことばかりで手当たり次第質問していたが、戻ることができるのかが一番の知りたいところだ。

 すぐ近くにある黒と水色の瞳を見つめる。驚いたように見開かれたそれは、揺らいで落ちた。

「うん、戻れる。子どもはその方法が分かるんだろうね。原田君は、どうかな」

「どうかなって……」

 お前は戻る方法を知らないのか、そう問おうとした口をつぐむ。黙り込む彼女が知っていれば、こんなところに四年間もいないだろう。自然と重々しいため息が吐き出された。

 子どもには分かるらしい戻る方法とやらは、啓介にはさっぱり見当がつかない。未知への不安と苛立ちに、頭がおかしくなりそうだ。

 重い沈黙が立ちこめる。黒板を叩くチョークの音が、授業中であることを思い出させた。ふいに杏奈があのね、と声を出す。注意を再び向けると、彼女は申し訳なさそうにこちらを見ていた。

「原田君は嫌かも知れないけど、正直嬉しいんだ、クラスメイトとこうやって話せて。今日にはもう、この世界にはいないんじゃないかって思ってたけど、教室に来て、私に挨拶してくれて、嬉しかった。突然こんな世界に来て混乱してるはずなのに、ごめんね」

「あ、いや、別に……少し戸惑ってはいるけどさ」

 罪悪感からなのか、下から窺うように謝られる。啓介は落ち着かない気分で目を背け、思わず強がってしまった。

 絶賛混乱中、戻れるものならば即刻元の世界へ戻りたいのだが、これ以上その姿を女子の前で不様に晒したくはない。それに、形はどうあれ、人を喜ばすことができているというのは悪い気がしなかった。

「そうだよね、私も最初は超パニックだったもん。教えてくれる人も誰もいなかったし、何にも分からなくって」

「そうだな、お前がいてくれて助かったかも」

「本当? だったら良いなぁ!」

 杏奈は嬉しそうに両手を合わせる。普通の女の子らしい様子に、思わず顔が綻んだ。

「本当だって。もっとこっちのこと教えてくれないか?」

「良いよ、学校が終わったらね」

「良いだろ、今すぐで」

「ダメだよ、ちゃんと授業受けなきゃ」

「既に受けてねぇだろ」

 今まさに授業そっちのけで話していることを思い出したらしい杏奈は、頬を赤くした。

「じ、じゃあ今日のところは、このままこっちのこと教えてあげても良い……。街、歩いてみる?」

 こちらをちらりと横目に見る杏奈に、笑いながら頷いた。



*****



 街はいつもと変わり無かった。

 暇そうな大学生、あるいは授業をサボって制服のままぶらつく高校生。スーツ姿のビジネスマンや子連れの女性もいる。若者が多く集まる街は、平日の日中だというのに人で溢れていた。

 スクランブル交差点の信号を待ちながら、啓介は同じく信号待ちをする人だかりを見渡す。

「何も変化がないっていうか……普通だな。本当に俺達って見えてないんだよな? やっぱまだ信じらんねぇ」

「そうだね。私達のいる場所に人が重なることもないし、キャッチに捕まらないだけで、普段と変わりないはずだよ。……元々、ここでは私達はいないようなものだもの」

「何だって?」

 言っている意味が分からず隣を見下ろせば、大きな瞳が細められた。

「私達が見えていてもそうじゃなくても、この街にいる人達には関係ないでしょ。たまたま近くにいるだけの、話すらしない気にも留めない、関わりのないただの他人。そんな人、いないのと大して変わらないでしょ?」

「確かにそうかもしれないけど……寂しい考え方だな」

 何とも言えない気分で頭を掻く。杏奈はくすりと笑うと、車の流れが止まった道路に視線を投げて、小さく呟いた。

「そうだね。でも、そこが好きなの。知っている人に気付かれない方が悲しいから」

 青。見知らぬ人々の群れが、啓介達を避けて動き出す。いつも通りに。

「行こう、原田君」

「ああ……でも、どこへ行くんだ?」

 人の流れるままに、啓介達も歩き出す。

 街に行くとは言ったものの、その後の行き先については何も聞かされていない。

「デート」

「!?」

「って言いたいところだけど」

 何だよ、と内心呟く。少しどきりとしてしまった自分に舌打ちする。

「ここね、結構子どもが迷い込んでくるの」

「迷い込むって、この異世界にだよな? さっき教室で言ってたやつか」

「そう」

「大人はいないのか?」

「私が今まで見た限り、原田君が最年長。神隠しってあるじゃない? 人や町が、ある日突然いなくなっちゃうってやつ。もしかしてこの世界に来て、見えなくなってるのかもって思ってる」

 何となく不名誉な気分はさておくとして、確かに神隠しは、子どもが行方不明になる伝承が多かったように思う。子どもが来るという杏奈の証言が本当ならば、これが神隠しであると言いたくなるのも納得だ。

 と、不意に雑踏を切り裂くような泣き声が響き渡った。啓介は思わずそちらを向いたが、人の波で良く分からない。しかし杏奈ははしゃいだ声を上げた。

「すごい偶然! こんな短期間に二人目だよ! ふた月に一人も会えないのに!」

「な、何だいきなり?」

「こっちの世界に子どもが来てるの。今泣いている子がそう」

「マジで?」

 もう一度声のする方を振り向く。しかしやはり人ごみに遮られて見えなかった。

「何で分かるんだ?」

「良く見て。あんなに大きな泣き声なのに、誰もそっちを振り向かないでしょ?」

 言われてみれば、確かに誰一人として、泣き声の方向を気にした様子が無い。気づいてみれば、違和感のある光景だ。

「……それにね、私は分かるの」

「え?」

「左目、こっちの世界にいる人しか見えないんだ」

 得意気ではなく、むしろ苦笑するように、輝く宝石のような水色の瞳を軽く示す。つまり、杏奈の左目は今、啓介と子どもしか映っていないということか。

 啓介は不思議な心持ちで色の違う瞳を覗き込む。カラーコンタクトにしても変わった格好だとは思っていたのだが。それにしてもぱっちりとした大きな瞳だ。まつ毛も長い――

 杏奈は顔を少し赤らめると、距離を取るように足を早めた。

「あのっ、えっと、女の子がこの先にいるよっ」

「あ、あぁ」

 何見つめちゃってるんだ俺。逃げるように人の隙間を縫うセーラー服の後を追いながら、啓介は今更ドキドキしてきた自分に突っ込みを入れた。

 杏奈について人の波をすり抜けていくと、横断歩道を渡り切った先にあるCDショップの前に、女の子が立っていた。

 五、六歳くらいであろうか、白いブラウスにピンク色のワンピースを着た少女が、大きな声で母親を呼びながら誰にも気付かれずに泣いていた。周囲を見回すが、やはり誰も少女を気にする様子は見られない。いくらなんでも、泣いている子どもを気に留めないほど冷たい人間達ではないだろう。

 杏奈は片目ずつ目を閉じて女の子を視認した。異世界側にいる人間しか映さない、水色の瞳で確認したのだ。

 そういえば、彼女と出会った時もそんな仕草をしていたな、と啓介は思い出す。

「どうしたの? ママとはぐれたのかな?」

 杏奈が女の子の前にしゃがみ込んで問いかける。啓介はその斜め後ろから二人を見下ろした。

「あぁ、そんなに擦ったら赤くなっちゃうよ」

 懐から小さな刺繍の入ったハンカチを取り出すと、杏奈はぐしゃぐしゃになった女の子の顔をそっと拭ってやった。

「お名前は? お姉ちゃんは杏奈って言うんだよ」

 柔らかな声で微笑む杏奈に、少女も少し落ち着いたのか、しゃくり上げながらも泣くのを止めた。

「マミ……」

「マミちゃん、素敵なお名前ね。どうして泣いてるのかな?」

「ママ、どっか、いっちゃ……よ、んでも……お、おいて……」

 そこでまた泣き声を上げ始める。断片的で分かり辛くはあるが、恐らく母親に呼びかけても気付いてもらえず、自分を探す母親に置いていかれてしまったのだろう。

 泣きじゃくる女の子を杏奈は抱き寄せて頭を撫でた。手慣れたものだ。啓介は感心したように見つめる。彼ではとっくに手に負えない状況である。

「そっか。置いていかれちゃうの、悲しいよね。辛いよね。でもね、ママはマミちゃんのこと、嫌いになったわけじゃないんだよ。ただ、ちょっと今は見えなくなっちゃってるの」

「ほんと……? きら、じゃ、ない?」

「そうだよ。だから落ち着いて」

 聞き覚えのある言葉に、啓介は目を瞬かせて二人を見る。この世界に来て混乱し、喚き散らしていた時に、杏奈に同じ言葉をかけられた。

 幼児と同レベルかよ、と、羞恥と悔しさに舌打ちする。どうにか名誉を挽回しようと、啓介も長い身体を折って少女達に話しかけた。

「おい、その子の母親探すんだろ?」

「え? うん……手伝ってくれる?」

「当たり前だろ」

「ありがとう!」

 晴れた空のような笑みが向けられる。先程見つめていたせいだろうか、妙に落ち着かない気分で啓介は視線をそらし、マミと向き合った。大きな知らない男に怯えたように、マミが杏奈に擦り寄る。

「なぁ、母親はどんな格好してるんだ?」

 めげずに問いかけるが、マミは警戒したようにこちらを伺い見るだけである。

「お、教えてくれないかな~?」

 めげずに引きつった笑顔で問い掛ける。が、マミは杏奈の後ろに隠れてしまった。子どもの相手がこれ程難しいとは。がくりと肩を落とす啓介の様子に噴き出した杏奈が、笑いながら助け舟を出した。

「このお兄ちゃんも一緒に探してくれるんだって。ママがどんなお洋服だったか、教えてくれないかなぁ?」

 杏奈の背中から顔をそっと覗かせたマミは、二人の高校生を見比べると、納得したのかぽつりぽつりと話し始めた。

「ママ……しましまの服着てたよ」

「そうなんだ。どんな色だった?」

「えっとねぇ、緑とねぇ……」

 根気のいる作業だ。啓介は子ども特有のゆっくりとして要領の得ない喋りに耐え切れず、うなだれてため息を吐いた。ちらりと隣を見やると、杏奈はうんざりした風もなく、微笑みながら真剣に耳を傾け、相槌を打っている。幼稚園の先生ってこんな風だったなと、記憶の果実がすっと香る。奇妙な心持ちを覚え、一人で慌てて揉み消した。

「よしっ、じゃあ探そっか!」

「へっ?」

「もぅ、原田君聞いてた?」

「あー……わりぃ」

「全く……なんてね。慣れないと疲れちゃうよね」

 くすっと笑う杏奈に返す言葉もなく、頭を掻く。手伝おうと意気込んだものの、この有様では申し訳ない。彼女は立ち上がると、マミの小さな手を繋いだ。

「お母さん、緑と白のボーダーの服にジーンズで、髪は茶髪、長くてパーマかけてるんだって」

「探しに行くのか?」

「ううん、ここで待って探すの。下手に動くと会えないから」

 成る程、確かに動き回ってすれ違ってしまう可能性はある。

「じゃあ、俺が周りを見てくるか」

「えっ?」

「その方が効率が良いだろ?」

「そっか……えへへ、心強いね」

 ふわりとした微笑みが照れ臭く、視線が合せられない。

「お前らはここで探しててくれ」

「うん、ありがとう。気をつけてね」

 杏奈とマミに見送られて、啓介は単身見慣れた異世界の街を歩き出した。

 人の波に乗りながらセンター街を行き、坂を上り、また下る。

 歩けば歩くほど、自分が見えていないというのが幻想のように思えてくる。

 いつも通り過ぎるのだ。人々は啓介を避けて歩き、ぶつからない。知り合いもおらず、当然言葉を交わすこともない。

 『知っている人に気付かれない方が悲しい』――確かに、杏奈の言う通りだ。教室でいくら叫んでも反応がない、あの時のことを思い出すだけで寒気がする。

 この街は、啓介や杏奈がいないことを許容し、意識させない。大勢の他人に囲まれて、逆に寂しくはなかった。



*****



 人が多い辺りを重点的に探したものの、しかしマミの母親らしき女性を見つけることができなかった。

「こんなに人がいるってのに、たった一人を探すなんてできるのか……?」

頭一つ飛び出ている啓介は、人の川を巡り見ながら思わず呟いた。

元の駅前のスクランブル交差点付近に戻ると、杏奈とマミがCDショップのウィンドウの前で佇んでいた。

「どうだった?」

「ダメだな、見つからねぇ」

「そう……」

 杏奈は目を伏せる。待機組も収穫は無かったのであろうことが窺えた。

 三人で一列にガラスに寄り掛かりながら、別世界にいる人達を眺めやる。年齢も、人種も取り込むこの街は、その寛大さ故に互いに干渉しない。恐らく啓介達を取り囲む別の世界でマミを探しているのは、母親とその身内、警察くらいがせいぜいだろう。

「見つかるのか……?」

 思わず呟く。と、横から強い声が帰ってきた。

「このままにできないじゃない。こっちには警察なんていないし、私達がやらなきゃ」

「でも会えたとしても、母親は見えないんだろ?」

「きっとなんとかなる。いつもなんとかなってる」

「なんだそりゃ」

 思わず苦笑する。本当になんとかなっているのだろうが、この人だらけの街でだ、凄い強運の持ち主としか思えない。

「お母さん、見つかると良いよね」

 ふいに聞こえた、声を抑えるような言葉。それまでとは違う気配を感じ取り横を見やる。杏奈との間では、マミが懸命に動く人壁を眺めている。その頭上で、困ったような顔と出会った。

「ごめんね、本当はちょっと不安なの。調子狂っちゃうな、いつもは私だけだから『なんとかしなきゃ!』って頑張れるんだけど」

 あはは、と彼女はすぐに笑い飛ばしたが、垣間見えた弱さの残像が焼き付いて離れなかった。

 自信があるわけではないのだ、と、啓介は妙に安心してしまった。何年も、数多の人間に囲まれながらも実質たった一人で、不安でないわけがない。この世界に迷い込んだ者を助けることで、気丈に振る舞っていたのだ。啓介の胸に、もどかしい様な、何とも言えない思いが込み上げた。

「……今まで迷子の親、見つかってたんだろ? 元の世界に戻ってたんだろ? なら、今回もなんとかなる」

「うん……そうだよね」

「お前も、帰れるさ」

「えっ?」

 顔を上げた杏奈から目をそらす。何言ってるんだと、胸中で自身に突っ込みを入れた。彼女も迷子なのだと、そんな風に感じた己が何だか気恥ずかしい。

「……うん、ありがとう。原田君も……帰れるよ」

 聞こえたのは、嬉しそうな呟き。彼女の不安を少しでも和らげられただろうか。啓介の表情にも、自然と笑みが浮かんだ。

「よっし! マミスケ、こっちに来い」

「ちょっと、マミスケって……」

 杏奈が笑いながら抗議する。当の本人はぽわんと啓介を見上げた。

「マミはマミだよ。マミスケじゃないもん」

「そうだよねーマミちゃん」

「ねー」

「良いからこっち来いよ」

 そう言いながら、啓介の方がマミに近づきしゃがみ込む。

「背低くて見えないだろ? 乗っけてやる」

「低くないもん! マミ、幼稚園で後ろから六番目なんだよ」

「知るかチビっこ」

「ちーがーうー!」

「もー、何やってんの」

 杏奈が笑いながら取り成す。マミはむくれた顔をしていたが、好奇心に負けたらしく、目の前の大きな背中に近づいた。

 マミを肩車して、ゆっくりと立ち上がる。

「よっと……」

 慣れない動作でバランスを崩しながらも、一番高いところまでマミを連れて行った。

「わぁー、高ーい!」

「うぉっ、暴れんな! 落ちるぞ!」

 先程のむくれ顔が嘘のように、頭上で弾んだ声を上げる。啓介の髪の毛をぐしゃぐしゃにしながらはしゃぐマミに、やれやれとため息を吐いた。

「どうだ、良く見えるか?」

「見える! すごーい」

「なかなか様になってるよ」

「嬉しくねぇ」

 杏奈の笑いを含んだ声に微妙な表情で答える。と、不意に杏奈の色違いの瞳が見開かれた。

 不審に思った瞬間、視界の揺らぐような、眩暈にも似た奇妙な感覚が襲った。平衡感覚が失われるような景色に、ふらつく足を踏み締める。

「あっ、ママだー!」

 頭上でマミが暴れだす。目の前がくらくらし、しゃがみ込むようにして迷子を下ろすと、彼女は人の並みの中へ駆け出した。

 その姿が一瞬ぶれたと思うと、マミは道行く人の足元を驚かせながら人混みに消えた。揺らぐ世界が、目を閉じるように上下から縮んでゆっくりと消える。

「何だ、今の――」

 揺らぐ水鏡を見ているようだった。呆然と呟き杏奈を顧みる。と、彼女の青い顔に言葉を失った。長い髪が微かに震えている。手を伸ばしかけ、しかし所在無げに宙に留めた。

「おい、大丈夫か?」

「あ……うん」

 小さく頷くが、そのほっそりとした手は、先程伸ばしかけた啓介の手に留まった。若干冷たい手が震えを訴えてくる。

 一度に変化が起こり過ぎて、訳が分からない。混乱を察したのか、杏奈がうつむいたまま小さく呟いた。

「ごめんね」

「一体どうしたんだ? それに、さっきの変な景色は……?」

 まるで薄い膜を叩いたような、揺らいだ世界。その異様な光景に、具合の悪そうな杏奈に気を使う余裕も無く問うと、彼女はああ、と青い顔に微かに笑みを浮かべた。

「原田君も、見えたんだね。あれ……あの歪んだ場所から、元の世界に戻れるはず」

「元の世界に!?」

 思わず手に力が籠もり、前に乗り出す。杏奈はゆっくりと握られた手を解くと、まだ顔色が悪いままこくりと頷いた。

「マミちゃん、元の世界に帰ったでしょ?」

「えっ、マジで!?」

「皆、マミちゃんのこと振り返ってたでしょ」

「あ……そういえばそうだな」

 足元の子どもに驚く人々を思い出しながら頷く。見えているからこその、ごく当たり前の反応だ。

「原田君は残っちゃったね……やっぱり、自然には帰れないのかな」

「自然には? お前、帰る方法を知っていたのか?」

 方法自体は知らないものだとばかり思っていたのだが、杏奈の頷きでそれを否定された。啓介は眉をひそめる。

「何で教えてくれなかった?」

「今まで皆教えなくても帰ってたし……逆に、教えることで帰れなくならないかが心配で。……ううん、私のエゴなのかもしれない……ごめんなさい」

「いや、別に責めてるんじゃなくて……ってか、帰る方法知ってるんなら、お前こそ帰らないのか?」

 杏奈が元の世界に戻る方法を知らないと思い込んでいたのはそのためだ。当然の疑問をぶつけると、彼女はぽつりと呟いた。

「私、帰れないの」



 人混みの中の誰もいない世界の片隅で、杏奈は視線を落として自嘲する。

「帰りたいよ。凄く。でも、ね……」

「じゃあ何で」

「教えたら、もしかしたら原田君も帰れなくなっちゃうかも」

「逆に気になって帰れねぇよ」

 少し強めの声で言うと、杏奈は迷いながらもゆっくりと口を開いた。

「怖くて……足がすくんで、動けなくなるの」

「何がそんなに怖いんだ? あの変な場所を、ただ潜るだけじゃないのか?」

 先程のマミだって、全く気付かない程自然にそこを通って戻っていた。怖がる要素などあるとは到底思えない。

 杏奈は手を胸元できゅっと握る。

「そうだね……原田君の言う通り、多分、ただあの歪んだ場所を潜るだけのはずなんだ。でも、私は違った」

「何が?」

「目がね、痛くて」

 彼女は輝くような水色の瞳に触れる。この世界以外のものは映さないという、左目。

「あの歪み、世界と世界の境目なんだと思う。だからこそ、多分不安定なんだろうね。私、ずっと前、この世界に来たばかりの頃、歪みを潜ろうとして……一瞬躊躇ったの。『本当にここを通っても大丈夫なのかな?』って」

 確かに啓介も先程見た時は、奇妙に思い、通ろうとだなんて全く思わなかった。あのようなものが突然目の前に現れたら、足を止めてしまう自信すらある。あのような得体の知れないもの、怖いものなしの子どもくらいしか――そう、子どもしか行こうとしないだろう。

「そうしたら、急に目が痛くなって。裂け目も閉じようとして、慌ててそこから出たけど、目の痛みは続いた。焼けるように痛くて、泣いて叫んで、でも誰も助けてくれなかった……だってこの世界には、誰もいなかったから」

「病院には――」

「医者は私が見えないんだよ? どの薬が効くかなんて分からないし、それどころでもなかったし」

 その時のことを思い出してか、きゅっと表情がしかめられる。

「それで、トラウマになっちまったってことか」

 少女はこくりと頷いた。

 よく分からない痛みを、見えている誰にも助けてもらえずに一人で耐え続けるしかないというのは、どれ程の孤独と不安なのだろうか。聞いただけでも寒気のする話だ。啓介の想像も及ばないほどの体験だったのだろう、今でも杏奈の身体は小さく震えている。

「何日か経ってようやく痛みが治まったと思ったら『失明』してたしね。片目は人が映らなくなっちゃったし、原因になった歪みはそこら中で出来るしで、しばらく一人でパニックに陥ってたよ。さすがにもう歪みは見慣れたけど、人が潜るのを見たりとか、自分が潜るとかは全然ダメで……身体が竦むの」

 落ち込んだ様子で小さく息を吐く。

「でも、元の世界に戻りたいんだろ?」

「戻りたいよ……独りは、寂しいもの」

 胸元の手が、白くなるほど握り締められた。放っておけない――胸が熱くなるような衝動に、啓介は口を開いていた。

「じゃあ、一緒に帰るぞ」

 え、と杏奈が驚いた顔を上げる。

「帰るんだよ。何があっても俺がいるから……一人であの、世界の歪みを通るよりかはましだろ」

 言っているうちに恥ずかしくなり、そのままくるりと背を向けた。頬を手の甲でぐいっとこする。自分でもどうしてそんなことを言ったのかと疑問に思うが、しかしこのままにしておくことが出来なかった。

「……ありがとう。すごく嬉しい」

 背中の服の裾を軽く掴まれる感触。そして、肩甲骨の間辺りにゆっくりと感じる重み。どきりとして、思わず別の世界の人々の目を気にしてしまう。

「ごめんね。もう……ホント、弱気だなぁ」

 小さく笑う振動が伝わってくる。それはそのまま啓介の胸に小さな細波を起こした。何だこれは、と胸中で自問する。

「原田君言ったよね、この世界にはサボっても何しても咎める人はいないって。確かにそう。でもね、だから、寂しくて虚しいんだ。だから私、受験も出来なかった学校で毎日ちゃんと授業受けて、この街に来て、誤魔化してた。この世界に独りだってこと」

 授業を受けている間は見えるとか関係ないから、と小さく呟く。彼女の深い悲しみを垣間見て、かけてやる言葉も思いつかず黙り込む。

「私、そうやって諦めてた……本当は、帰りたいのに」

 ぎゅっと、背中の力が強くなる。まるで自分以外の温もりを確かめるように。

「もし……もし出来たらで良いから、一緒に帰ってくれる、かな?」

「さっきからそう言ってんだろ。帰るぞ、杏奈」

 もどかしい気持ちを振り払うように、啓介は再び身体を反転させると、眼下の長い黒髪を撫でるように軽く叩いた。

 不安げな瞳が微笑む。それを確認した啓介も自然と表情を和ませた。



*****



「かっこつけたものの……世界の歪みっていつ出来るんだ?」

 申し訳ない気持ちで頭を掻きながら問う啓介に、杏奈は呆れることもしなかった。

「うーん……ちょっと、良く見てて」

 不思議に思いながらも、指し示された、人がさざめく街を見つめる。

 何分くらいたっただろうか、変化らしいものは何もない。啓介は痺れを切らし、隣の杏奈に問おうとしたその時、

「あっ」

 人々の行き交う空間の中で、不意に空間の一部が揺らいだ。瞬きをするかのように、揺らぐ空間が広がり、閉じる。

 先程とは違いほんの一瞬だったが、間違いない。

「見えた! 歪みだ!」

 流れ星を見つけたような気分で杏奈を振り返る。彼女は安心したように息を吐いた。

「見えたんだ、良かった」

「え?」

「もしかして見えないかなって……私も一度見えてから見えるようになったけど、他の人はどうなのかは分からなかったから」

 成る程、と得心する。もしかすれば彼女の水色の目と同じように、戻り損なったことが原因である可能性も考えられたのだろう。

 それと認識してしっかりと見たからだろうか、よく見れば、確かにそれを認識できるようだ。また視界の隅で揺らいだ世界を知覚しながら、杏奈に問いかける。

「こうして見ると結構起きる現象なんだな……あれ、でも、その揺らいだところを普通に人が通ってるように見えるけど?」

「私もそれが気になって観察してみたんだけど、よく分からなくって……入ってもすぐ出て行くんだよね。偶然こっちの世界に残っちゃうこともあるのかなぁって……私達は稀なパターンなんだと思う」

「こっちから戻る時は……そうか、マミはあっちの世界の母親に会いたかったから帰れたとか?」

「そういうこと、なのかなぁ?」

 杏奈も首を捻る。彼女も完全にこの世界を把握しているわけではない。ましてや、帰ることに失敗しているのだ。しかし、それでもこちらに来たばかりの人間よりは遙かに心強い。

「あれってさ、発生タイミングとかはないのか?」

「多分だけど、『異世界の瞬間』」

「何だって?」

 意味が分からず問い返す。少女は照れるように上目遣いで啓介を見た。

「私がそう呼んでるだけなんだけど……例えば、『今日何日だっけ』とか、『ここはどこだったっけ』とか、分からなくなることって時々あるでしょ? 後は珍しい光景を見たりとか。そういう瞬間、『いつも』とは違う何かを感じた時に生まれるみたい。さっきのマミちゃんも、肩車されて見た景色に、いつもと違う世界を感じたんじゃないかな」

「あ……言われてみれば」

 啓介も思い当たる。彼も昨日の朝、日常であるはずの景色が、妙に真新しく見えたのだった。もしかしたらあの瞬間に、歪みを潜ってしまったのかもしれない。

 歪みが出来る条件がその『異世界の瞬間』であるならば、好奇心旺盛な子どもや、発生確率的に人の多いところで起こりやすい気がする。

「成る程ね……随分簡単に開いてくれるもんなんだな」

「うん。でもだからこそ、意識して出すのは難しいんじゃないかな?」

 確かにそうかも、と啓介は肩をすくめる。

「じゃあ、誰かが作った歪みを通るしかないか」

「そうだね……」

 二人はもう一度街を見やる。そんな簡単に、あの数秒間の裂け目を発見し、通れるのだろうか。それを考えれば、マミが開いたあの瞬間は最高のチャンスだったのかもしれない。

「いや……やらなきゃな」

 過ぎたことを言っても仕方がない。啓介は頭を振り、小さく呟く。

 それをやってのけなければ、元の世界には戻れないだろう。

 二人は街の片隅に佇んで、人々の流れを見つめた。世界が歪む瞬間を待ちわびて。

「あっ」

 視界で揺らぐ大気が見え、声をもらすも、少し遠いところで起きた歪みは、動く間も与えず無情に消え失せる。

 と、今度は傍で起きる。しかし杏奈の手を引いて潜る前に閉じてしまった。

「結構難しいな」

 何もなくなった空間に手を伸ばすが、何も感じない――歪みに触れて何かを感じるのかも分からないのだが。

「そうだね……開いてる長さも一定じゃないから」

「まぁ、チャンスはいくらでもあんだろ。のんびり行こうぜ」

 杏奈に、と言うよりは、自分に言い聞かせるように軽口を叩いた。

 しかし何時間経っても、いくつの裂け目を目にしても、成功することはなかった。そうこうしている間に、西陽を受けた看板が眩しい光を返し始める。

「くそ……っ、上手くいかねぇなー」

「落ち着いて。どうしても今日じゃなきゃいけないわけじゃないでしょ? それに、いつの間にか帰れているかもしれないし」

「お前とな。もし俺だけ戻ったりしたら、無理矢理にでもこっちに戻ってやる」

 怒ったような強い口調に、杏奈は嬉しさと申し訳なさとが入り混じった表情を見せる。

「本当、ごめんね」

「謝る事じゃねぇって。俺が勝手に決めたことだし」

「……ありがとう」

 杏奈のはにかんだ表情が、焦る頭を静めていく。苛立ちを息と共に軽く吐き出すと、大きく伸びをした。

「あ~ぁっ! 疲れたし、また明日にすっかぁ。とりあえず駅の方に行こうぜ」

「うん」

 啓介が何気なく差し出した手を、杏奈が恥らうように取った。

 目の前のスクランブル交差点を渡り切れば、すぐ左手が駅だ。そこは昼夜を問わず、人を吐き出し呑み込んでいく。

「やべっ、赤になる」

「危ないよ!」

 点滅する青信号に、慌てて駆け出そうとする啓介を、血相を変えた杏奈が引き止める。

「轢かれたらどうするの!」

「あ、あぁ……悪い、いつもの癖で」

「焦る必要なんかないんだから、ゆっくり行こう?」

「そうだな」

 そう、焦る必要はないのだ。微笑み合って、目の前の交差点を見やる。すぐに赤に変わった信号に、何をそんなに急ぐのか、無理矢理渡る人々と、それを脅すようにゆっくりと走り出す車。

 と、不意に視界の端に影が映る。歪みだろうかと視線を走らせれば、マミよりも小さな子どもが、おぼつかない足取りで車道に歩み出ていた。その奥には車の影。何かの冗談のような光景に、頭が真っ白になる。

「――っ!」

 しかし、考えるよりも先に、閃光のような衝動で身体が動いていた。

 既に流れ出した車道に飛び出す。落としたのであろうおもちゃを拾い、呆然と立つ子どもは迫り来る車の前に。

 啓介はその襟首をひっ引っ掴むと、人々が待つ後方に倒れこむように引き寄せた。車がブレーキ音をけたたましく響かせながら、足先を掠めていく。

「いってぇ……」

 勢いで背中と臀部を強かに打った。啓介は呻き声を上げながら上体を起こし、それから抱えた子どもに怪我がないかと――

「大丈夫ですか!?」

 大きな声に驚いて見上げれば、騒然とする人々に囲まれていた。皆が啓介を覗き込み、あるいは無機質な携帯電話の光る目を向けている。薄ら寒くすらある光景に目が回り、言葉もなく呆然と座り込む。

 と、間から誰かの名前を呼びながら、若い女性が飛び出てくる。彼女は混乱している啓介の手から奪うようにして子どもを抱き締めると、潤んだ目を上げた。

「どうもありがとうございます! 少し目を離したら、この子……助かって良かった!」

「あぁ、いや……」

 頭を掻きながら答え、はっと息を呑んで首を巡らせる。何人かと確実に目が合った。

 皆見えているのだ、啓介のことが。

「戻った、のか?」

「はい?」

「あっ、いえこっちの話です」

 反応を返した女性に慌てて手を振り、すぐに再び首を巡らせた。

 ――いない。

 息が詰まる。熱い感情の塊が胸から込み上げてきた。

「あの、お名前を……ぜひお礼をさせて下さい」

「いえっ、そーゆーの俺結構なんで! 連れとはぐれたみたいなんで失礼します!」

 早口に巻くし立てると、立ち上がって無理矢理人の輪から抜け出した。

「杏奈!?」

 呼びかけるが、先程まで傍にいた長い髪の少女はどこにもいなかった。人々の好奇の黒目にしか出会えない。

 置いてきてしまったのだ。独り、あの大勢の人に囲まれた、誰もいない世界に。一緒に帰ると約束したのに。

 血の気が失せるほどの焦燥。あれほど帰りたかった元の世界に戻ってきたというのに、ちっとも喜びを感じなかった。自分でも驚くほどの焦りを感じながら、脈打つ心臓に急かされるように素早く視線を走らせる。

 彼女は確実に傍にいるのに。しかし、どんなに探しても、あの寂しさを隠した明るい笑顔は見えない。焦りで目の前がぐるぐるする――

「あ……」

 その時、啓介は自分の周囲が微かに揺らいでいることに気が付いた。歪みと呼ぶには大きすぎる、渦巻くかのような、眩暈がするほどの歪み。

 ちくしょう、と啓介は舌打ちした。目が回っていたのは自分のせいではなく、世界そのものが歪んでいたのだ。

 大事故になりかけた非日常の事態が、そこにいた大勢の人々に『異世界の瞬間』を与えた。その結果、こんなに大きな渦を作ったのだろう。

 その渦も、事件の解決を見てとってか、終息に向かっている。

 縮小していくその渦に、啓介は迷わず飛び込んだ。

 ただ何かを急ぐように、短い距離を駆けただけ。眩しい光に包まれただとか、何かに吸い込まれただとかはなく、何も変化がない。騒然とする人々が、一人、また一人と散らばっていくだけ。

 ――だが、確実にそれまでとは違う景色であった。

「杏奈」

 長い黒髪の女子高生。蹲って泣いている迷子が一人、啓介の視界に現れた。途端に安心して、泣いている彼女を放って置けなくて、ああ、彼女が好きなんだ、と他人事のように自分の心を理解した。

 泣いている少女の前に立ち、身を屈ませる。

「杏奈」

 もう一度呼びかけると、ようやく杏奈はゆっくりと顔を上げた。

 涙に濡れた顔をぽかんと啓介に向ける。しばらくして、震える高い声を上げた。

「原田君、何でここにいるの……?」

 出会った時にも言われたな、と思わず苦笑を漏らす。

「俺がここにいちゃ悪いかよ」

「だ、だって……」

「何泣いてんだよ」

 笑い混じりに言えば、赤くなった泣き顔を隠すためか、また零れてきた涙を拭うためか、両手で顔を覆いながら反論が返ってきた。

「だって、い、一気に色んなことが起きすぎて……びっくりしたの! 誰かさんは飛び出すし! 死んじゃうかと思ったんだから……」

「心配したか?」

 顔を手で覆ったままこくこくと何度も頷く。そんな杏奈を愛おしく思いながら見つめる。

「そっか、ごめんな……。俺がいなくなって寂しかったか?」

「っ! ……バカ、自分で言うなっ」

 顔を更に赤くして片手でこちらを叩くのを、笑いながら受け流す。

「本当バカだよ、何で元に戻れたのにまたこっち来てるの」

「約束したからな。一緒に帰るって」

「バカ……バカ。私なんて……私なんか、最低なのに」

 顔を隠したままうな垂れる杏奈は、震える声を絞り出した。

「原田君が死んじゃうって思って、無事で安心して、元の世界に戻っていて……悲しくて、嫌だって、思ったの。せっかく戻れたのに……喜ぶところなのに。本当、最低」

 低く呟かれた言葉の隙間から、自己嫌悪の涙がぽたぽたと零れ落ちる。

 啓介は瞠目して少女を見つめたが、やがてふっと息を漏らした。

「最低なら、約束破った俺の方じゃん。大体、こんな所に一人でいるだなんて、誰だって嫌だろ。教室で一人で、すっげー疎外感でさ。お前に会って、本当安心したんだ。それなのに置いてけぼりされたら、俺だってふざけんなって思うぜ」

 軽く笑い飛ばした啓介を、濡れた瞳がきょとんと瞬く。

「……もう」

 涙を拭いながら呟いた薄紅の唇は、嬉しげに弧を描く。

 彼女は、こんな寂しい世界に長く留まり過ぎたのだ。

 啓介は、その小さな手と唇をそっと捕まえた。

 色の違う瞳が、泣くのも忘れてすぐ近くの顔を凝視する。

 やってしまった――啓介も自分の行動に驚きながら、さてどうするかと目線を彷徨わせ、

「……あ」

 杏奈の背後に、揺らめく世界の裂け目が開くのを見た。

「杏奈、歪みだ!」

「えっ!? ちょ、きゃあああっ!?」

 言うが早いか、啓介は事態を把握していない杏奈を抱き上げると、大きく口を開ける歪みに突撃した。



*****



 いつもより早い梅雨入りを告げる雨。そして容赦なく迫り来る期末テストの気配。どんよりとした空気が漂う学校に、爽やかな一陣の風が駆け抜けた。

 ホームルームの時間になり、いつものようにのそのそと入ってきた担任が教卓につく。

「今日は転校生を紹介します」

 瞬間、教室がどよめく。窓際の列、後ろから二番目に座る啓介は、にわかに活気づく生徒達の更に向こう側の、人影のあるドアを注視した。

 教師に呼ばれて、ドアを開けて入って来たのは、長い黒髪の小柄な少女だった。

 再びどよめく教室を、大きな黒い双眸が見渡し、こちらに止まって微笑んだ。驚きと喜びに、思わず口元が緩む。

「霧島杏奈です。よろしくお願いします」

「じゃあ霧島、奥の、原田の後ろの席を使いなさい」

 担任はこちらを指差す。杏奈はクラスメイト達の視線を浴びながら、窓際の一番奥へとゆっくり歩み寄る。

「よろしくね、原田君」

 すれ違いざま声をかけられ、啓介も笑みを含んだ視線を絡ませる。

「よろしく」

 そうして、約一ヵ月ぶりに、杏奈は啓介の後ろの席へと戻って来た。




「何だか不思議。私は皆のことを知ってるのに、皆は私のこと知らないんだよ。『もう私達の名前覚えたの?』だって!」

 放課後、束の間の夕焼け空を見せた屋上に飛び出した杏奈は、はしゃいだように手を広げた。

 彼女に呼び出された啓介も、弾んだ心持ちで屋上への扉を後ろ手に閉めた。本当はすぐにでも話したかったのだが、休み時間も、昼食の時間も、ミーハーなクラスの女子達に彼女を譲ってやったのだ。

「元気そうだな」

「元気だよ、楽しいもの!」

 心の底から溢れるような笑みが返ってきて、啓介はほっと息を吐いた。

 あの日以来、杏奈とは会っていなかった。こちらの世界に戻ってきてからがまた大変で、まず彼女は目の痛みを訴えた。慌てて医者に行って鎮痛剤をもらい、ようやく落ち着いたかと思ったら、彼女は言ったのだ。「話がややこしくなるから、しばらく会わないでいよう。落ち着いたら、絶対会いに行くから」と。

 長年行方不明状態であった彼女は、いなかった間の理由付けや親との兼ね合いなど、嫌になるほど多くの問題を抱えていた。確かに啓介がいては、余計に面倒な話になりかねなかった。

 手伝うことができないのはもどかしかったが、逆に自分は邪魔者であるという現実に頷くしかなかった。啓介は啓介で、連絡もせずに家に帰らなかったこと、学校にも行かなかったことを、親に散々責め立てられたのだった。思い出しただけでもうんざりするが、彼女はその何倍も苦労があったことだろう。

 今こうして正式にこの高校に入学したのと、彼女の晴れやかな表情から、それらも何とか収拾がついたのだろうと安心する。

「そりゃ良かった。ところで良かったのか? 女子達に放課後誘われてただろ?」

「うん、良いの。原田君に話すこといっぱいあるし……それに、聞きたいことがあって」

 内心嬉しく思いながら、何事だろうと杏奈を見返す。彼女は目の前まで近付いて来ると、少し緊張した面持ちでこちらを見上げた。

「あの時、色々ありすぎて聞けなかったんだけど……、アレは、どういう意味?」

「アレ?」

 意味が分からず眉をひそめる。杏奈の顔が赤く見えるのは夕陽のせいだろうか。こちらを睨むように、黒い双眸で見上げている少女を見つめ返し、

「……ああ、キスしたこ」

「きゃあああ」

 勢いよく口を抑えられて言葉が途切れる。愛おしさが募るあまり、気づいたらしてしまっていたわけで、啓介自身でも驚いたのだが。確かに付き合っているわけでもない相手に突然されたら怒るどころの話ではないだろう。

 杏奈はとても怒っている様子だ。嫌がられていたらしいことにショックを覚えながらも、さてどうしたものか、と冷や汗が背中を伝う。

「まさか、歪みを作るためだったとか……言うんじゃないでしょうね!」

 肯定した瞬間殴られそうな剣幕で問われ、慌てて手を振った。

「違う、そんなんじゃない! 歪みが出来たのは偶然で」

「本当に? 嘘じゃない?」

 念を押すように問われる。世界の歪みを作るためでないのなら良いとでも言うかのような――これはもしや、と、啓介は眉を吊り上げて疑いの視線を投げる杏奈を見返した。

「本当だって」

 啓介はしっかりと頷いて、そして自分の考えが正しいかを確かめるように、ゆっくり顔を近づける。その返答に満足したのか、杏奈は黒い双眸を閉じて受け入れた。

「――って、おい!?」

「え、何……あっ!」

 離れた二人のすぐ傍で、ふいに歪みが口を開いた。驚いた啓介と杏奈は身を守るように抱き合い、後退りする。

「何で歪みが……?」

 確かに、元の世界に戻って来てからも歪みは見えていたが、今はこの屋上に二人しかいないはずだ。杏奈の話では、この歪みは『いつも』とは違う何かを感じる『異世界の瞬間』に生まれるのではなかったか。

 歪みはすうっと空気に溶けて消える。

 まさか、と啓介の頭にある仮説が閃いた。

「まさか……キスって『異世界の瞬間』?」

 元の世界に戻って来る際の、杏奈の背後に現れた歪みも、考えてみればその直後の話だ。

 呟いた言葉に、啓介と杏奈はぽかんとした顔を見合わせると、

「………ぷっ」

「ふふっ、あはははっ」

 互いに噴き出し、笑い合ったのだった。


同じ世界観での別キャラのお話も考えていますが、連載ではなく短編ということで投稿しています。

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[良い点] この度はなろうコン大賞に御参加頂きまして真にありがとう御座います。 突然このような状況に陥ったらと思うと……ぞっと思いますね。 主人公には既に彼女という先住人が居ましたが、彼女の状況を思う…
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