翡翠の竜
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その昔、ヴェロアとアズウェルの国境の山脈に、シルベリオンと言う名の竜が住んでいた。
彼は大変獰猛で、その上何千年も生きているものだから、頭も良い。
近隣の村人達は、シルベリオンの機嫌を損ねる事の無いように暮らしていた。
だがそれが、却って獰猛な暴君の機嫌を損ねる事になろうとは。
何千年も生きてはいるが、彼はまだ若者だ。
馬や牛をひと呑みにし 、巨大な尾で村をなぎはらい、吐き出す炎で何もかも焼き尽くしたくてうずうずしていたのだ。
いつしか、この翡翠の鱗を持つ竜は、災いをなす悪竜へと変化した。
山脈を越える旅人を
野辺で花を摘む乙女を
羊の番をする牧童を
情け容赦なく喰らった。
近隣の村人達は犠牲者が出る度に、生け贄を捧げ、彼の怒りを鎮めようとした。
だがシルベリオンの欲しているのは 生け贄などでは無かったのだ。
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ある日、洞窟で寝ていたシルベリオンは、人間の若者の声で起こされた。
牛を10頭程丸呑みして、いい気分で寝ていたシルベリオンは、なかば怒りながら洞窟から這い出ると、その声の主であろう男に、いきなり火を吐いた。
流石に、竜の火をくらって、生きている人間は居るまいと、すぐに洞窟の奥に戻ろうとすると
「噂通りだな!」
さっき聞いたのと同じ声が背後から聞こえて来るではないか。
シルベリオンはもう一度洞窟の外を見た。
先程見たままの姿で男はそこに立っていた。
「さすが希代の悪竜シルベリオン、挨拶がわりに火を吐くとは恐れ入った」
男は恐れるどころか、楽しくて仕方ないと言った風情で満面の笑みを浮かべていた。
その男は竜退治を生業としている者だった。
竜の吐く火など、難なく躱す事が出来る。
ワイバーンと言う小型の翼手竜を操り、空中戦にも果敢に挑んで来た。
シルベリオンの吐く業火や丸太のような尾を華麗に躱し、鋭い長剣で、シルベリオンに傷を負わせた。
「人間にしておくのは惜しい男よのう!名は何と言う?」
空中戦の間の問いかけにと言うより、シルベリオンが人語を話せると言う驚きで…男は暫く黙っていたが
「我が名はゲルムント!シルベリオンよ、冥土の土産に覚えておくと良い!」
と、満面の笑顔で答えた。
「ふっ…生意気な小わっぱめ…」
シルベリオンもまた、そう言いながらも楽しくて仕方なかったのだ。
ゲルムントとシルベリオンの空中戦は
近隣の村人の良い見せ物になったし、ゲルムントが現れてから、シルベリオンは人間を襲わなくなった。
特に子供達は
「今日はゲルムントがシルベリオンの鱗を三枚剥がす」
「ワイバーンが火を躱し切れずに火傷する」
などと、お祭り騒ぎで観戦していたし、村人も、シルベリオンに気兼ねなく暮らせるようになった。
この闘いは双方互角のまま何年も続いた。
そして、その何年かの間は平和だったのだ。
†
何年もたった頃、いつになくシルベリオンは闘いに身が入らず、上の空だった。
「今日は止めだ!こんなトカゲの様な竜など倒しても笑い者にされるだけだ」
とゲルムントは毒づくが、やはりシルベリオンはいつもの覇気がない。
「実は…」
シルベリオンは思い詰めた様子で話し始めた。
「私の妻が、今日あたり卵を産むのだが…なにぶん私の妻はまだ五百歳の小娘だ。きちんと産めるかどうか心配なのだ」
いつもの威厳も獰猛さも、何処に消えてしまったのか。
今のシルベリオンは悪竜などではなく、ただの心配症の父親だ。
ゲルムントはそんなシルベリオンの気持ちを察した。竜と言えども己れの妻と、生まれてくる子供を心配する気持ちは、人間となんら変わりは無い。
「それは心配だな!お前の子供ならさぞかし強い竜になるだろう、しっかり奥方と子供を守ってやるがいい」
そう、いつしかシルベリオンとゲルムントの間には友情が芽生えていたのだ。
それはいささか奇妙な、闘う事でしか確認できない友情ではあったが。
「シルベリオンに子供が産まれるんだって!」
村の子供達はすっかりシルベリオンを英雄扱いしていたので、ところかまわずそんな話をしていた。
……しかし……
シルベリオンを英雄視している者ばかりではない。
かつてあの悪竜に、家族を、恋人を、友人を喰われ未だなお悲しみと憎しみに囚われる者も少なく無かったのだ。
†
そろそろ、卵が孵った頃だろうと、ゲルムントは森で大鹿を仕留め、シルベリオンへの祝いの品とする事にした。
鹿をワイバーンにくくりつけ、シルベリオンの洞窟に赴いたが、その様子がおかしい事に気付いた。
彼は我が耳を疑った。 シルベリオンの洞窟から、何やら人の声がする。
そして、血の匂いも。
胸騒ぎを覚えながら、ゲルムントは洞窟の中に入って行った。
暗い洞窟の中には白銀のしなやかな巨体が横たわる。
傍らには大きな卵の殻。
数人の男が奇声を上げている。
その中の一人が何やら高々と掲げた
それは産まれたばかりの、竜の子供。
その亡骸だ。
シルベリオンの妻であろう白銀の竜の傷口から溢れる血を杯についで飲み干す者もいる…
シルベリオンは何処へ行ったのだろう?
きっと卵を産んだばかりの妻の肥立ちを気遣い、獲物を獲りに行ったのだろう。
その、留守を狙ってやって来たのだ。この者達は。
「お前達!何をやってるんだ!」
狂った男達の目からは、知性も理性も消え去っている。
家族の
恋人の
友人の
仇をとったその喜びか。
「シルベリオンが帰って来たらお前達ただじゃすまないぞ!早く逃げろ!」
そうだ、この惨状を見れば、シルベリオンは元の悪竜に戻ってしまう。
否、“元の”ではない。
それ以上の、地獄の王のごとき災いを、総ての生きとし生ける人間にもたらすに違いない。
ゲルムントに、男達が口々に呟いた。
「あのトカゲ野郎に、俺達が味わった苦しみを味あわせてやらねぇと気が済まなかったんだ」
「お前もそうだろう?ゲルムント」
「恋人を喰われたんだろう?」
男の一人が、子竜の亡骸をゲルムントにつきだした。
ゲルムントは、何も言わず、ただ目の前にぶらさがる、竜の子供の虚ろな目を見ていた。
暫くの沈黙の後、やおら、ゲルムントは剣を抜いた。
生まれて初めて人に剣を向ける為に。
†
男達は洞窟の入り口を出た所で、シルベリオンの吐く炎で焼き殺された。
「ふっ!少しは人の痛みが解ったか?トカゲ野郎」
焼け焦げた顔を向け、唇も溶け落ちた男が最後の力を振り絞り、シルベリオンにそう吐き捨て、絶命した。
「生憎、私は竜なのでね…人間の痛みなど到底解らん」
シルベリオンはそう言うと洞窟の中に入って行った。
既に絶命し、大量の血を流し続ける妻。
その血にまみれて小さな身体を赤に染めた我が子。
そして、胸から血を流すゲルムントが
「すまぬ……シルベリオン……私がもっと早く……」
と、それだけ言うとこと切れた。
「私とも、互角に闘えるお前が何故…人間ごときに殺られるのだ…?」
ゲルムントはもう、その問いかけに答える事もなく乾いた眼に虚空を映すのみだ。
シルベリオンは涙を流せない我が身を呪った。
何千年も生き、強さも知性も手に入れた筈の竜は、大切な者達の冷えて行く骸を見ながらこう思った。
あと、何千年生きれば涙を流せるようになれるのだろう。と。
ENDE