一話 死ぬのは嫌だ!
よくある駅前のオフィス街。普段通りに行きかう人々。変わらない景色。その中の企業ビルの一角。そこの屋上に俺は居た。
慌ただしくも小走りでやってきた俺は、腕時計をチラリと見やってから煙草に火を付ける。小脇には書類の入った封筒を抱えていた。
煙草を唇と歯で支えながら、封筒の中から書類の束を取り出す。少ない休憩時間の合間にも目を通しておかないと間に合わない。
三月になったとはいえ外はまだ寒い。特に今日は風が強かった。にもかかわらず、こんな肌寒い屋上に来なければならないのは喫煙所が他にないからだ。喫煙者はどんどん追いやられている。デスクで暖をとりながら休憩できたのも、もう昔の話だ。今となっては屋上の中程にゴミ箱を兼ねたスタンド灰皿がぽつんと立っていて、そこでしか喫煙は許されない。
普段ならば俺の他にも何人か、追いやられた喫煙者がいて小話をしたりするものだが、今日はこなさなければならない仕事が多く、休憩に入る時間がだいぶ遅くなってしまったからか、俺しかいなかった。
ふと、物思いにふける。
俺はずっと一般的、だったなと思う。身長も体重も顔も服装も。人波に紛れてしまってはその存在感は微塵も感じさせないほど、一般的。標準。中の中。
ごく一般的な家庭に生まれ育ち、学生時代の成績も真ん中辺り。運動神経も並。これといって秀でたものはなかった。そんな俺が進学したのも並の大学。それを出て就職したのも平凡な企業。
要するに、ザ・凡人なのだ。俺は。
平凡に日々の仕事をこなし平凡に暮らす。生活は豊かではない、むしろ貧乏の類であったが、それも平凡の域をでない。凡人なりの忙しい日々を送っている。託された仕事を淡々とこなす。ごく一般的に。
大きなミスもなければ大した功績もない。よくある小さなミスをして、鬼上司に叱られたりする。ありふれた日常生活の中にいるのだ。
今、俺が手にしているこの書類だってそうだ。平凡な日々の一環。後の会議で必要な書類。これの内容をよく把握し、吟味し、咀嚼し、考察し、そうして当たり障りのない結果を導き出す。平凡な日々を送るために。
そのために書類に目を通す。右手の指で煙草を挟んで、左手で書類を持っていたのだが、風が紙を暴れさせていてとてもじゃないが目を通すことができなかったので仕方なく両手で支える。
文面に目を通しているうちに煙草はその長さを3分の1ほどに減らしている。それに伴って先端の灰は徐々に長さを増していった。頭を垂れた灰が風で払われ書類の表面をかすめていく。細かな灰が書類に付いた。
大事な書類なので汚れたままにはしておけない。残留した灰を片手で払う。空いた片手のついでで、一旦灰皿に煙草を置こうとした瞬間、突風が吹いた。
風はひゅうという音を立てて、俺の手中にあった紙束から一枚を抜き取りさっていってしまった。
――まずい――と思った。
この書類は後の会議で使う重要なものだ。一枚でも無くしたとなればかなり大事になる。
無くした事がバレたら――と思うと、脳裏に怒鳴りつける上司の顔が浮かぶ。その形相は想像しただけでも恐ろしく、俺を身震いさせた。結果、必死になった。
空白の一ページを取り戻すべく駆け出した。地面に這ったダクトを越え、フェンスを越え、跳躍し、やっとそれを掴んだ。と思ったら地面がなかった。ビルの外にまで飛び出してしまったのだ。
次の瞬間急降下した。
遠くにオフィス街の路肩が見える。それは恐ろしい速度で俺との距離を詰めていく。
――あそこに叩きつけられるのか――と思ったと同時に俺の意識は遠のいていった。
こうして俺、真崎悠斗は二十六年の短い人生を終えた。
――と、思ったのに。
気がつくと俺はフカフカのベッドの上にいた。
まず、生きているということに仰天した。
俺はビルの屋上から落下した。夢なんかじゃないはずだ。しかもあのビルは二十階建てだったはずだ。そこのてっぺんから落っこちた訳だから無事なはずがない。にもかかわらず、生きているだけでなく包帯でぐるぐる巻きにされてるでもなく点滴をあてがわれてるでもなかった。事実、体のどこにも痛みを感じない。
しいて言えば若干の頭痛がするくらいか。それは休日に長時間の睡眠を採ってしまった時のそれに似ていた。つまり随分と長い間寝込んでいたのだろうか。そんな些細な不調を除けば至って健康体だったのだ。
なにかおかしい。そう思った。妙だ。
まずここはどこだ。俺の記憶にこんな場所はない。
なんだこの豪華の結晶のような部屋は。
目を開けて一番に飛び込んできたのはベッドの天蓋だった。
天蓋付きのベッドなんてものは実際に見たことはない。俺はそんなブルジョアじゃない。
恐ろしく立派な天蓋を、これまた立派な白い柱が四隅から支えていて、柱には優美さを感じさせるような彫刻が施されている。
そしてこのベッドのサイズはなんだ。デカけりゃいいってもんじゃないだろうに。
六畳一間の俺のアパートの部屋だったら、このベッドだけで埋まってしまいそうなほど、デカい。三人寝てもまだ余裕がありそうだ。
奇跡的に一命を取り留めて病院のベッドの上にいる、とかではないだろう。こんなものが普通の病院にあってたまるか。
俺の体を包んでいる布団にしても。絹を思わせるそれは赤を主体に所々繊細な刺繍が金色で成されていて、かなり分厚いのに重量を感じさせないほど軽い。これは貧乏暮しの長い俺にとっては伝説の、羽毛布団というやつか。
上体を起こし、辺りを見回してみると、想像よりずっと豪華な部屋だった。
見るからに高そうな壷、存在感のある観葉植物、見事な絵画が飾られており部屋の隅には西洋風の甲冑が白い輝きを放っていて、床にはこれまたご立派な絨毯、壁は壁で大理石のようである。
その他にも扉や窓やカーテン、壁に飾られたなんだかよくわからないもの、家具の一品一品、どれをとっても高い品質を感じさせるもので、これほど贅の尽くした部屋は俺にとっては想像、妄想の中のものでしかなかった。
むしろ今のこの状況こそが夢なんではないだろうか。そう思わせるほどにこの部屋は非現実的だ。
夢か否か。確かめるべく行動を起こそうとした時、扉がギィという音を立てて開かれた。
重そうな扉を開けて入ってきたのは、目を見張るような美女だった。手にはガラス製の水差しを乗せた銀色のトレイを持っている。
俺と同い年くらいだろうか。栗色の長い髪を後ろで束ねていて、白を基調としたメイドのような格好をしている。ほっそりとしていていかにも女らしい、といった感じだ。
その端正な顔立ちは、誰に見せても美人であると言わせるだろう。
うつむきながら扉を閉めた美人さんが顔を上げると俺と目が合った。
美人さんは驚愕の表情を浮かべて手にしていたトレイを床に落とした。水差しが悲惨な音を立てて割れる。
「て……帝王様……! お目覚めになられたのでございますね……!」
そう言って美人さんは平伏する。
俺は意味がわからなかった。この部屋には俺とこの美人さんしかいない。しかも俺の目をしっかりと見据えて「帝王様」と言ったのだ。俺のことを指しているとしか思えない。
帝王様……って……俺が?