第一話 図書館にて
「お前、なにしてるんだ」
険のある厭味ったらしい声が静寂の中にぽとりと落ちた。
もう一時間も読み込んでいた文字の束。名残惜しげに顔をあげる。
そこには紛れもないあいつ──香山瑶子が、いた。
レンズの向こうの気だるそうな黒い目と赤みの強い髪。手には見るからに頭の痛くなりそうな(そして、持つ腕も痛くなりそうな)、分厚い本を抱えている。よく見れば、背には『六法全書』の文字。数学教師のくせに、なぜそんなものを持っているのか検討がつかない。
いや、不良香山のことだ。もしかしたら、あれで誰かを殴りにいくのかもしれない。あれなら人の一人や二人、殺れそうだし……いや、そんなわけないのはわかってるけど。
「なにしてるって、見ればわかるでしょ。本、読んでるの。図書室ですることと言えば、本を読むことの他になにがあるってのよ」
「うちの学校じゃあ、本を読むやつの方が珍しいと思うが。お前らみたいなあほな鼻垂れがこんなところですることっていえば、コンビニ菓子でも食いながらだらだらダベって騒ぐぐらいしかないだろ」
「はあ、そうですか。残念ながら、私はご多聞に漏れてしまったようですが」
嫌みったらしく敬語で言って、わたしは目の前の本に再び目を落とした。くるりと背を向けて、邪魔しないでほしい、と全身でアピールする。
香山が「ふうん」と一言呟くのが聞こえた。わたしは知らぬ存じぬ動じませぬ、と不動の構えを決めこむ。
「可愛げがないな」
香山が踵を鳴らしながら歩み寄ってくる。わたしは無視する。
……一歩、二歩、三歩。足音が止んだ。斜め後ろに人の気配。
一瞬の後、くしゃり、という髪の音。
「もう少し素直になれよ。お前、いつも一人でいるじゃないか」
さっきとは調子の違う、柔らかな声。わたしは香山を睨みつける。
「うるさい。そんなの、人の勝手じゃない。それと、子どもあつかいしないで」
「お前なんて子どもだ。尻の青いガキじゃないか。義務教育も終えてないくせに、なに一丁前に吠えてるんだ」
くしゃくしゃと、何度も頭を撫でまわされる。
「もう! いい加減にしてってば!」
私が怒鳴ると、「おお怖い怖い」なんて言いながら、香山は笑って手を引っ込めた。こいつはわたしを猫かなにかと勘違いしているんじゃないだろうか、そんな疑問が頭によぎる。
「わかったわかった。じゃあ、私は退散するよ。せいぜいごゆるりと、お楽しみくださいませ」
香山が『六法全書』を肩に担いで部屋を出ようとするのを見届けて、わたしはため息を一つ吐く。
さあ、続きを読もう、と本に目を落とそうとしたところで、「ああ、そうそう」なんて言いながら、香山が振り返った。
「なあ、近江。お前、もう少し自信もてよ。頭良いし、なによりかわいいんだからさ」
言って、香山は廊下に消えた。カツカツカツ、という規則正しい靴音が聞こえて、しばらくするとそれも消える。わたしは今度こそ、深く深く、ため息をつく。頬にほんのりとした熱が宿っているのがわかった。
忌々しげに思いながらも、髪に残った暖かな手の感触と、耳に置き去りにされた最後の言葉は消えてはくれない。本の続きを読む気にはなれなかった。
初書き。
ノリに任せて書きます。
更新速度は筆のノリ次第。